第六章 刹那 最後の祈り
四
いつ、だったでしょうか。
わたし、戦はひとを殺すものだと言いました。
戦にであったことはないけれど、夏侯惇さまも孟徳さまも子桓さまも出陣されるから、ひとを殺めたことがあるのでしょう。きっと、姜維も、これから経験するのでしょうね。
今でも強く思うことですが、戦があっても、あなたがたがいるから、わたしたち民衆は安穏に暮らせています。
ひとを殺め、傷つけるのはわるいこと。
あなたがたは、だれもが知っています。
戦では、だれもが好き好んで人を殺しているわけじゃありません、戦びとが悪いということではありません。生きるために仕方ないもの。仕方がないから心を痛めながら、傷つきながら戦っている。愛するひとたちを守りたいから、気持ちと気持ちがぶつかり合って戦が起きてしまうんです。矛盾しているのですね。どうしても守りたいものがあるから、贖罪の気持ちを以て殺しを犯さなければならない。そのことを知っているから、あなたは強いのだと思います。奪う、奪われる、殺す、殺されるなんて、単純なものじゃないから。上手く言えないけど、ほんとうの戦は意志と意志との大きなぶつかり合いです。相手だけじゃなく、自分さえ殺して殺して、なにがなんでも理想のために勝利を得ようとする。勝たないと、命が、言葉にできないたくさんのものが喪われるのだから。
かなしいことですね。
だから、わたしの知っている強い方々は、凄絶なまでに孤独で気高い。哀しさをいやというくらい知っていて、そんな叫喚に身を投じたあなたたちは、善であるにちがいありません。すくなくとも、わたしのなかでは。
これから言うことは、全部がわたしの素直な気持ちです。
……………ねえ、夏侯惇さま。
わたし、わかっています。
わたしには守りたいものがいたわけじゃない人殺しが潜んでいることを。
それにあなたがたのような精神なんてありません。みだらな快楽のような醜いかたまり。完全なる悪にひとしい。
でも、それはわたしです。
覚えてはないけど、殺してしまった。
覚えていない、それは言い逃れにはなりません。許されることでもありません。
身体の奥で、夢のようにそのときのことが映し出される。ちがうと、言ってくれてありがとうございました。嬉しかったです。あなたが言ってくれた瞬間だけでも、呪縛から解放されたんだもの。ありがとう。
わたしです。
いろんなひとたちの四肢だけでは飽き足らず、猫も犬も切り刻んだ。そして、夏侯惇さまも襲いました。……………冷静に考えてみれば、理路に繋げると誰にでもわかるはず。全部、理だもの。
わたしの腕が、だれかに引っかかれたり千切られたようになっていたのは、首を絞めるわたしの腕に爪を立てからです。
爪の先が黒く乾いたように汚れていたのは、それはわたしがはらわたの血肉を引き裂いたからです。
だれかわからない柔らかくて固い肉片がくっついていたのは、それはわたしが殺したからです。
わたし、最初からわかっていたんです。見ていない、気づいていない振りをしていただけなんです。
悪い子です。
……………理しかいないの。人殺し、犯人は、わたししかいない。夏侯惇さまも、ほんとうはわかっていたのでしょう?夏侯惇さま。あなたは、もっとはやく知っていたはずですよ。鋭くて、そのきれいな黒い瞳が、罪を見逃すはずないもの。血まみれの着物を着たわたしを抱いてくれたのは孟徳さまではありません。孟徳さまなら、着物の血の意味を咎めるはずですから。
知らないふうに振るまってくれていただけなのですよね。それなのに、傷つかないように護ってくれて。かばってくださって、ありがとうございます、そして、ごめんなさい。
でも、夏侯惇さまが死ななくてよかった。わたしのなかの理じゃない理が、大切な夏侯惇さまを殺さなくて、ほんとによかった。ひどいことをしてしまって。ゆるしてください。そんな、ゆるせなんて罷り通ることないのでしょうけれど、言わせてください。
夏侯惇さまが、生きててよかった。ほんとうに、よかった。
……………ごめんなさい。
ごめんなさい、夏侯惇さま。苦しかったですよね?怖かったですよね?憎かったですよね?ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
夏侯惇さま。大切な夏侯惇さま。
きっと、夏侯惇さまの命をわたしの手が奪っていたら、わたしは耐えられなくて生きる屍として狂っていたと思います。夏侯惇さまが生きている、この事実に安心している自分がいます。たくさんのひとを殺したくせに、たったひとりのあなたが生きているその事実だけが、わたしを正気につなぎとめています。
わたし、夏侯惇さまのことが好きです。
あなたが、大切です。とても、とても。
この気持ちは、どんな意味を含むものなのでしょう。
わからない。
人の気持ちなんて、朝霧みたいに、ふわふわしてて掴めないものだけど、ほんとうにそうですね。
わたしは人間だから、人間のはずだから掴めない。
あのね、夏侯惇さま。
おぼえてますか?わたしは、よく想い出すんですよ。
幼いわたしは、赤ちゃんのように夜に泣いて、夏侯惇さまを困らせていました。あなたの裾を握り締めて引いて、いっしょにいてとすがりました。宥めたりしてどうにか説得してくれたけれど、頑固なわたしに譲渡して、根負けして、夏侯惇さまは、いまのように添い寝をしてくれましたね。とくん、とくんって心臓の音が鳴っていました。すごく、ほっとしました。
こわかったんです。おばけがでてきて、食べられちゃうんじゃないかって。暗いのがこわかったの、また、ひとりぼっちになっちゃったんだって。
わけがわからないうちに、たぶんいた、おかあさんにおとうさん、おにいちゃん、おねえちゃん、おとうと、いもうとたちがどっかにいっちゃって、夜の草原を当てもなく歩くことになっちゃうんだって。寒かったのです。すごく寒かったの。震えました。こごえたのは夜風だけじゃありませんでした。
孟徳さまに拾われて夏侯惇さまに預けられて、ひとりじゃなくなったのにどうしようもなく、おそろしかった。
だから、朝陽に照らされたきれいな黒曜の瞳に守ってもらいたかった。
こわいこわいってむせび泣くわたしの背を、夏侯惇さまは大きな手のひらで撫でてくださいました。だいじょうぶだって、言ってくれました。お歌を歌って、おとぎばなしを話してくれた。ちゃんと、寝れるように。寝たあとも朝までずっとそばにいてくれた。あったかい胸が、腕が、いつまでもあたたかかった気持ち良かったこと、好きだったこと、しあわせいっぱいだったこと覚えています。あなたと過ごせた時間は、人生で一番のしあわせだった。記憶がなくなっちゃったわたしの、一番すてきな思い出。たぶん、もう、ない。こんな。
あなたにとっては、ほんの些細なことかもしれないけれど、わたしにとって、その優しさがどんなに心強く安心できたことか。
一番、大切でした。
夏侯惇さまは優しいですね。
とってもとってもとってもとっても優しいですね。長い間、あなたに育てられたから、あなたのそばに居れたから、あなたの優しさをすごく知っています。きっと、どこのだれよりも。あなたの情けが、この身体のすみずみに染み込んでいるのです。
夏侯惇さまはすごく優しいですね。
だのに、殺してほしいだなんて懇願するわたしって、なんて残酷なのでしょう。でもね、わたしのためだけじゃないんですよ、夏侯惇さまのためでもあるんですよ。わたしが、また、いつあなたを殺そうとするか。
そんなの、嫌。
わたしは認めない。ぜったいに、嫌。
殺しなんかしたくない。耐えられない。
だのに、殺しました……………。残酷に……………。
だから、だから、死にたいって思うの。生きていれば、そのぶんだけ夏侯惇さまもが、夏侯惇さまだけじゃない、みんな、危ない目に遭うかもしれません。わたしの近しいひとたちが、人殺しのわたしがいるせいで、わたしが傷つけて死んでしまうかもしれない。いやです、いやです、そんなのいやです。もう、だれも傷つけたり殺したくない……………。
わたしを殺してください。
わたしに罰をお与えください。
死んでしまいたい。できるなら、大好きなあなたの手で殺してほしい。あなたの手で死んでしまいたい。
……………すみません、わたしのわがままです、ごめんなさい。でも、お願いです。
どうか、わたしの命をあなたの手で。
夏侯惇さまに辛い思いをしてもらいたくない。
わたしが犯した過ちで苦しむのは、わたしじゃなくて夏侯惇さまでしょう?
夏侯惇さまはやっぱり優しいから、まっ白すぎますから、夏侯惇さまの優しさは並みの優しさとはちがう。すべてのものに、愛しさと慈しみを捧げるんです。誰にでも、食料にされる牛や豚にでさえも。
ひとの苦しみを知らず知らずのうちに背負ってしまうのですね。
苦しまないでください。いつか、苦しんで、苦しんであなたが無くなってしまう気がする。
おねがいです。わたしのせいで、苦しまないでください。
自分のためのしあわせを追い求めてください。しあわせになってください。自分よりも他人を思いやる夏侯惇さまこそ、まわりはあなたのしあわせを願うのですよ。
あなたの人生の大半を、奪ってしまってごめんなさい。
ねえ、夏侯惇さま。
愛ってなんでしょう。ひとを好きになること、想うこと、大切にすること。
愛ってなんでしょう。
ひとりに限ることではないですよね。好きって、いうのと同じもの。
なら、好きってなんでしょう。
真髄をさぐるってとても難しい、答えがわからないです。わたし、頭が悪いから。
きっと。
単純なことが、たまらなくいとおしい感情が、好き、なのでしょう。お庭の花々や、白玉の耳飾りや、流れゆく雲に滔々ととした空、さわさわと風にはためかせられる草木。ひとだけじゃなくても、好きという愛がたくさんある。
べつに、特別であることは必要ありません。
好きって、愛って、とてもすてきなことです。
それなのにね、なんでこんなに、くるしいことなのでしょう。すばらしいことなのに、くるしくて、つらい。胸のこのへんがきゅうってして、恐いくらい身体が震える。これが愛なのでしょう。愛、好きだからこそ酷なものなのでしょうか。
愛だから苦しいのでしょうか?
苦しいから、愛なのでしょうか?
いとおしくてたまらない気持ちが、つもりつもって抑制できなくなる。愛は隠しておかないで、伝えなくちゃいけないものだと思います。
もし、許されるのなら、あなたを愛していると言いたい。好きだと力いっぱい叫びたい。想いが晴れるように。伝えるために。
この愛は、どんな愛なのかわたしにはよくわかりません。でも、なにもかもすべてを含んだきもちです。
大好きな夏侯惇さま。
わたしは、夏侯惇さまを愛しています。
夏侯惇さまが居る世界を愛しています。
嘘じゃありません。きれいごとだと、幻想だと、きっとみんなが笑います。
でも、許してください。
夏侯惇さま、大好きです。
だって、親切に接してくれた。なんの価値もない、ただの孤児に対して、いっぱい幸せをくれた。愛が存在するからこそ、あたたかい、尊いことをしてくれた。生きさせてくれた。愛に応えてくれるものは愛しかありません。
感謝を愛以外のほかになにで返すというのでしょう?
ないですよね?
だいすきです。
だから愛します。
こんなわたしでもだれかを愛することだけは、きっとだれかが許してくれるはず。だから、わたしは愛します。せいいっぱい、愛しますから。愛してるから、きえたい。護るために。愛してるからなの。きらいだから、嫌だから死にたいんじゃないの。
わたしが大好きを壊さないために。
わたしが愛するひとの血を欲しないために。
苦しむのはもう、おしまいです。あなたもわたしも。……………だけど、やっぱり、こわい。半分死にたくて、半分生きたくて、ずっと、ちかくにいたい。ごめんなさい、こんなに弱くって。死ってどんなものかしら。せめて、あなたのくれたしあわせのように、せめて安らかであってほしい。眠りに落ちてゆくような、おだやかであってほしい。暗い草原では、ありませんように。
あの、夏侯惇さま。
わたしを愛してくれますか?
愛してほしいです。あなたのもつ大きな愛のなかの、少しを分けてほしい。少しでいいから欲しいんです。包んでください。
こんなわたしは穢れていますか?
夏侯惇さまはきっと、そんなことはないと、苦手な微笑みをこぼしながら言ってくれると自惚れるわたしは、どうしようもないおばかさんですね。言うでしょう?馬鹿な子ほど、かわいいものだって。ちがいますか。でも、ばかだからこそ、考え方がときどき、はっとしたりするもののはずです。
だから、信じます。
だから、わたしは頑張って想います。
信じること、想うことがわたしのしなくてはならないことだから。
わたしは、夏侯惇さまが大好きです。
理という意識が穢れたわたしに蝕まれないあいだ、あなたを想います。すこしでもながくその時間が保つように、理をつなぎとめます。いなくなるぎりぎりまで、止めたりはしません。
どんなことになっても、どんなふうになっても、想うことならできます。
誓います。
わたしね、一度あなたのことも含めて全部忘れようとしたことがありました。そのときのわたしは、辛くて辛くて、なんでこんなふうになっちゃったんだろうって絶望していました。だから、楽しかった日のことずっと思い出していたのですけど、余計に辛くなったの。だって、手にできないものですよ。思い出せるだけで、なんにもならない。でも忘れられなかった。
忘れてはいけなかった。忘れるのは、すべてを否定して侮辱してしまう、かなしいおこないだったから。
もう、そんなことしません。
夏侯惇さま、大好きです。
夏侯惇さま、愛しています。
あなたのためにできる、せいいっぱい。だいすき。
それで、どうか、忘れないで。
理がどんなに血に濡れ汚れても、人を殺したとしても、すべて失ったとしても、幼いころの理は愛しました。いまの理は、あなたを愛していました。これからの理も、あなたを想いつづけます。うそじゃあ、ありません。ほんとうです。
夏侯惇さま。わらって。
あなただけは、忘れないで。
どうか、わすれないでください。
ほんとうの理は、夏侯惇さまをこころから愛していました。
夏侯惇さま、ありがとう、ありがとう。
理はあなたを愛していました。こころの底から、想っています。
夏侯惇さま、忘れないでね。
忘れないでください、夏侯惇さま。
ほんとうのわたしを、あなたを愛した理がいたこと、あなたが育てた孤児のこどもがいたこと。わたしの記憶はあなたから始まり、この世のすべてはあなたの手により、その目で、口で、仕草で創り出されました。世界はあなたから教えてもらった。あなたはわたしの世界そのもの。
わたしのしあわせは、綺麗な宝石を貰ったり、着物に囲まれたり、美味しいお菓子を食べることじゃありません。あなたにあえたことです。
あなたにあえてしあわせだと想えることが、ほんとうにしあわせです。
夏侯惇さまを、理は愛しています。
もっと気が利いたことをいえれば良いのに。できなくてごめんなさい。愛、としか言えません。愛ってなんでしょう。愛ってどんな言葉を積めば表現できるのでしょう。みつからないんです。愛、でしかあらわせない。もどかしくてはがゆい。
ごめんなさい、夏侯惇さま。
いまね、胸のここがすごく痛いの。ひとつひとつ、ちゃんとしなきゃって思うのですけれど、だめみたいです。目の前がなぜか霞んでいます。めまいでしょうか、涙でしょうか。
痛い、苦しい。心臓を鷲掴みされているみたい。息がしにくい。身体じゅうのあちこちが痛くてたまらないのです。足にも力が入りません。
もう聞こえないかもしれないけど、さいごまで言います。
言うから、すこしだけ待ってください、夏侯惇さま。
どこにもいかないで、わたしの言葉を聞いてください。
だって、この機会を逃したら、もう会えない気がするの。お話しさえもすることができない声ももう届かない、そんな予感がします。
妄言じゃない。夢でもない。……………もう、会えない気がしてならないのです。会えなくなるまえに、あなたにわたしの気持ちを伝えたい。あなたのなかにわたしの気持ちが、声が、長く残るように。
まって。
いかないで。
まってくださいっ……………いかないで。いかないで……………
理はずっと大好きです。
理嬢はずっと愛しています。
夏侯惇さま、ほほえんで。
わたし、あなたのうれしそうにする顔が好きです。
理はずっとずっと想っています。
夏侯惇さま、だいすき。
夏侯惇さまが大好き。夏侯惇さまの姿があると安心します。
理嬢は、理はむかしも、いまも、これからもずっとずっとずっと想っています。
……………忘れないで、わすれないで。
……………いかないで、夏侯惇さま……………ひとりぼっちにしないで……………
おねがいだから、ずっとわすれないで。
わすれないで、わすれないで、わすれないで。
ごめんなさい……………ごめんね……………
……………こころのそこから……………だいすきです…………
わたし……………しあわせでした……………
……………夏侯惇さま……………
……………どこにいるの……………?……………
いつ、だったでしょうか。
わたし、戦はひとを殺すものだと言いました。
戦にであったことはないけれど、夏侯惇さまも孟徳さまも子桓さまも出陣されるから、ひとを殺めたことがあるのでしょう。きっと、姜維も、これから経験するのでしょうね。
今でも強く思うことですが、戦があっても、あなたがたがいるから、わたしたち民衆は安穏に暮らせています。
ひとを殺め、傷つけるのはわるいこと。
あなたがたは、だれもが知っています。
戦では、だれもが好き好んで人を殺しているわけじゃありません、戦びとが悪いということではありません。生きるために仕方ないもの。仕方がないから心を痛めながら、傷つきながら戦っている。愛するひとたちを守りたいから、気持ちと気持ちがぶつかり合って戦が起きてしまうんです。矛盾しているのですね。どうしても守りたいものがあるから、贖罪の気持ちを以て殺しを犯さなければならない。そのことを知っているから、あなたは強いのだと思います。奪う、奪われる、殺す、殺されるなんて、単純なものじゃないから。上手く言えないけど、ほんとうの戦は意志と意志との大きなぶつかり合いです。相手だけじゃなく、自分さえ殺して殺して、なにがなんでも理想のために勝利を得ようとする。勝たないと、命が、言葉にできないたくさんのものが喪われるのだから。
かなしいことですね。
だから、わたしの知っている強い方々は、凄絶なまでに孤独で気高い。哀しさをいやというくらい知っていて、そんな叫喚に身を投じたあなたたちは、善であるにちがいありません。すくなくとも、わたしのなかでは。
これから言うことは、全部がわたしの素直な気持ちです。
……………ねえ、夏侯惇さま。
わたし、わかっています。
わたしには守りたいものがいたわけじゃない人殺しが潜んでいることを。
それにあなたがたのような精神なんてありません。みだらな快楽のような醜いかたまり。完全なる悪にひとしい。
でも、それはわたしです。
覚えてはないけど、殺してしまった。
覚えていない、それは言い逃れにはなりません。許されることでもありません。
身体の奥で、夢のようにそのときのことが映し出される。ちがうと、言ってくれてありがとうございました。嬉しかったです。あなたが言ってくれた瞬間だけでも、呪縛から解放されたんだもの。ありがとう。
わたしです。
いろんなひとたちの四肢だけでは飽き足らず、猫も犬も切り刻んだ。そして、夏侯惇さまも襲いました。……………冷静に考えてみれば、理路に繋げると誰にでもわかるはず。全部、理だもの。
わたしの腕が、だれかに引っかかれたり千切られたようになっていたのは、首を絞めるわたしの腕に爪を立てからです。
爪の先が黒く乾いたように汚れていたのは、それはわたしがはらわたの血肉を引き裂いたからです。
だれかわからない柔らかくて固い肉片がくっついていたのは、それはわたしが殺したからです。
わたし、最初からわかっていたんです。見ていない、気づいていない振りをしていただけなんです。
悪い子です。
……………理しかいないの。人殺し、犯人は、わたししかいない。夏侯惇さまも、ほんとうはわかっていたのでしょう?夏侯惇さま。あなたは、もっとはやく知っていたはずですよ。鋭くて、そのきれいな黒い瞳が、罪を見逃すはずないもの。血まみれの着物を着たわたしを抱いてくれたのは孟徳さまではありません。孟徳さまなら、着物の血の意味を咎めるはずですから。
知らないふうに振るまってくれていただけなのですよね。それなのに、傷つかないように護ってくれて。かばってくださって、ありがとうございます、そして、ごめんなさい。
でも、夏侯惇さまが死ななくてよかった。わたしのなかの理じゃない理が、大切な夏侯惇さまを殺さなくて、ほんとによかった。ひどいことをしてしまって。ゆるしてください。そんな、ゆるせなんて罷り通ることないのでしょうけれど、言わせてください。
夏侯惇さまが、生きててよかった。ほんとうに、よかった。
……………ごめんなさい。
ごめんなさい、夏侯惇さま。苦しかったですよね?怖かったですよね?憎かったですよね?ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
夏侯惇さま。大切な夏侯惇さま。
きっと、夏侯惇さまの命をわたしの手が奪っていたら、わたしは耐えられなくて生きる屍として狂っていたと思います。夏侯惇さまが生きている、この事実に安心している自分がいます。たくさんのひとを殺したくせに、たったひとりのあなたが生きているその事実だけが、わたしを正気につなぎとめています。
わたし、夏侯惇さまのことが好きです。
あなたが、大切です。とても、とても。
この気持ちは、どんな意味を含むものなのでしょう。
わからない。
人の気持ちなんて、朝霧みたいに、ふわふわしてて掴めないものだけど、ほんとうにそうですね。
わたしは人間だから、人間のはずだから掴めない。
あのね、夏侯惇さま。
おぼえてますか?わたしは、よく想い出すんですよ。
幼いわたしは、赤ちゃんのように夜に泣いて、夏侯惇さまを困らせていました。あなたの裾を握り締めて引いて、いっしょにいてとすがりました。宥めたりしてどうにか説得してくれたけれど、頑固なわたしに譲渡して、根負けして、夏侯惇さまは、いまのように添い寝をしてくれましたね。とくん、とくんって心臓の音が鳴っていました。すごく、ほっとしました。
こわかったんです。おばけがでてきて、食べられちゃうんじゃないかって。暗いのがこわかったの、また、ひとりぼっちになっちゃったんだって。
わけがわからないうちに、たぶんいた、おかあさんにおとうさん、おにいちゃん、おねえちゃん、おとうと、いもうとたちがどっかにいっちゃって、夜の草原を当てもなく歩くことになっちゃうんだって。寒かったのです。すごく寒かったの。震えました。こごえたのは夜風だけじゃありませんでした。
孟徳さまに拾われて夏侯惇さまに預けられて、ひとりじゃなくなったのにどうしようもなく、おそろしかった。
だから、朝陽に照らされたきれいな黒曜の瞳に守ってもらいたかった。
こわいこわいってむせび泣くわたしの背を、夏侯惇さまは大きな手のひらで撫でてくださいました。だいじょうぶだって、言ってくれました。お歌を歌って、おとぎばなしを話してくれた。ちゃんと、寝れるように。寝たあとも朝までずっとそばにいてくれた。あったかい胸が、腕が、いつまでもあたたかかった気持ち良かったこと、好きだったこと、しあわせいっぱいだったこと覚えています。あなたと過ごせた時間は、人生で一番のしあわせだった。記憶がなくなっちゃったわたしの、一番すてきな思い出。たぶん、もう、ない。こんな。
あなたにとっては、ほんの些細なことかもしれないけれど、わたしにとって、その優しさがどんなに心強く安心できたことか。
一番、大切でした。
夏侯惇さまは優しいですね。
とってもとってもとってもとっても優しいですね。長い間、あなたに育てられたから、あなたのそばに居れたから、あなたの優しさをすごく知っています。きっと、どこのだれよりも。あなたの情けが、この身体のすみずみに染み込んでいるのです。
夏侯惇さまはすごく優しいですね。
だのに、殺してほしいだなんて懇願するわたしって、なんて残酷なのでしょう。でもね、わたしのためだけじゃないんですよ、夏侯惇さまのためでもあるんですよ。わたしが、また、いつあなたを殺そうとするか。
そんなの、嫌。
わたしは認めない。ぜったいに、嫌。
殺しなんかしたくない。耐えられない。
だのに、殺しました……………。残酷に……………。
だから、だから、死にたいって思うの。生きていれば、そのぶんだけ夏侯惇さまもが、夏侯惇さまだけじゃない、みんな、危ない目に遭うかもしれません。わたしの近しいひとたちが、人殺しのわたしがいるせいで、わたしが傷つけて死んでしまうかもしれない。いやです、いやです、そんなのいやです。もう、だれも傷つけたり殺したくない……………。
わたしを殺してください。
わたしに罰をお与えください。
死んでしまいたい。できるなら、大好きなあなたの手で殺してほしい。あなたの手で死んでしまいたい。
……………すみません、わたしのわがままです、ごめんなさい。でも、お願いです。
どうか、わたしの命をあなたの手で。
夏侯惇さまに辛い思いをしてもらいたくない。
わたしが犯した過ちで苦しむのは、わたしじゃなくて夏侯惇さまでしょう?
夏侯惇さまはやっぱり優しいから、まっ白すぎますから、夏侯惇さまの優しさは並みの優しさとはちがう。すべてのものに、愛しさと慈しみを捧げるんです。誰にでも、食料にされる牛や豚にでさえも。
ひとの苦しみを知らず知らずのうちに背負ってしまうのですね。
苦しまないでください。いつか、苦しんで、苦しんであなたが無くなってしまう気がする。
おねがいです。わたしのせいで、苦しまないでください。
自分のためのしあわせを追い求めてください。しあわせになってください。自分よりも他人を思いやる夏侯惇さまこそ、まわりはあなたのしあわせを願うのですよ。
あなたの人生の大半を、奪ってしまってごめんなさい。
ねえ、夏侯惇さま。
愛ってなんでしょう。ひとを好きになること、想うこと、大切にすること。
愛ってなんでしょう。
ひとりに限ることではないですよね。好きって、いうのと同じもの。
なら、好きってなんでしょう。
真髄をさぐるってとても難しい、答えがわからないです。わたし、頭が悪いから。
きっと。
単純なことが、たまらなくいとおしい感情が、好き、なのでしょう。お庭の花々や、白玉の耳飾りや、流れゆく雲に滔々ととした空、さわさわと風にはためかせられる草木。ひとだけじゃなくても、好きという愛がたくさんある。
べつに、特別であることは必要ありません。
好きって、愛って、とてもすてきなことです。
それなのにね、なんでこんなに、くるしいことなのでしょう。すばらしいことなのに、くるしくて、つらい。胸のこのへんがきゅうってして、恐いくらい身体が震える。これが愛なのでしょう。愛、好きだからこそ酷なものなのでしょうか。
愛だから苦しいのでしょうか?
苦しいから、愛なのでしょうか?
いとおしくてたまらない気持ちが、つもりつもって抑制できなくなる。愛は隠しておかないで、伝えなくちゃいけないものだと思います。
もし、許されるのなら、あなたを愛していると言いたい。好きだと力いっぱい叫びたい。想いが晴れるように。伝えるために。
この愛は、どんな愛なのかわたしにはよくわかりません。でも、なにもかもすべてを含んだきもちです。
大好きな夏侯惇さま。
わたしは、夏侯惇さまを愛しています。
夏侯惇さまが居る世界を愛しています。
嘘じゃありません。きれいごとだと、幻想だと、きっとみんなが笑います。
でも、許してください。
夏侯惇さま、大好きです。
だって、親切に接してくれた。なんの価値もない、ただの孤児に対して、いっぱい幸せをくれた。愛が存在するからこそ、あたたかい、尊いことをしてくれた。生きさせてくれた。愛に応えてくれるものは愛しかありません。
感謝を愛以外のほかになにで返すというのでしょう?
ないですよね?
だいすきです。
だから愛します。
こんなわたしでもだれかを愛することだけは、きっとだれかが許してくれるはず。だから、わたしは愛します。せいいっぱい、愛しますから。愛してるから、きえたい。護るために。愛してるからなの。きらいだから、嫌だから死にたいんじゃないの。
わたしが大好きを壊さないために。
わたしが愛するひとの血を欲しないために。
苦しむのはもう、おしまいです。あなたもわたしも。……………だけど、やっぱり、こわい。半分死にたくて、半分生きたくて、ずっと、ちかくにいたい。ごめんなさい、こんなに弱くって。死ってどんなものかしら。せめて、あなたのくれたしあわせのように、せめて安らかであってほしい。眠りに落ちてゆくような、おだやかであってほしい。暗い草原では、ありませんように。
あの、夏侯惇さま。
わたしを愛してくれますか?
愛してほしいです。あなたのもつ大きな愛のなかの、少しを分けてほしい。少しでいいから欲しいんです。包んでください。
こんなわたしは穢れていますか?
夏侯惇さまはきっと、そんなことはないと、苦手な微笑みをこぼしながら言ってくれると自惚れるわたしは、どうしようもないおばかさんですね。言うでしょう?馬鹿な子ほど、かわいいものだって。ちがいますか。でも、ばかだからこそ、考え方がときどき、はっとしたりするもののはずです。
だから、信じます。
だから、わたしは頑張って想います。
信じること、想うことがわたしのしなくてはならないことだから。
わたしは、夏侯惇さまが大好きです。
理という意識が穢れたわたしに蝕まれないあいだ、あなたを想います。すこしでもながくその時間が保つように、理をつなぎとめます。いなくなるぎりぎりまで、止めたりはしません。
どんなことになっても、どんなふうになっても、想うことならできます。
誓います。
わたしね、一度あなたのことも含めて全部忘れようとしたことがありました。そのときのわたしは、辛くて辛くて、なんでこんなふうになっちゃったんだろうって絶望していました。だから、楽しかった日のことずっと思い出していたのですけど、余計に辛くなったの。だって、手にできないものですよ。思い出せるだけで、なんにもならない。でも忘れられなかった。
忘れてはいけなかった。忘れるのは、すべてを否定して侮辱してしまう、かなしいおこないだったから。
もう、そんなことしません。
夏侯惇さま、大好きです。
夏侯惇さま、愛しています。
あなたのためにできる、せいいっぱい。だいすき。
それで、どうか、忘れないで。
理がどんなに血に濡れ汚れても、人を殺したとしても、すべて失ったとしても、幼いころの理は愛しました。いまの理は、あなたを愛していました。これからの理も、あなたを想いつづけます。うそじゃあ、ありません。ほんとうです。
夏侯惇さま。わらって。
あなただけは、忘れないで。
どうか、わすれないでください。
ほんとうの理は、夏侯惇さまをこころから愛していました。
夏侯惇さま、ありがとう、ありがとう。
理はあなたを愛していました。こころの底から、想っています。
夏侯惇さま、忘れないでね。
忘れないでください、夏侯惇さま。
ほんとうのわたしを、あなたを愛した理がいたこと、あなたが育てた孤児のこどもがいたこと。わたしの記憶はあなたから始まり、この世のすべてはあなたの手により、その目で、口で、仕草で創り出されました。世界はあなたから教えてもらった。あなたはわたしの世界そのもの。
わたしのしあわせは、綺麗な宝石を貰ったり、着物に囲まれたり、美味しいお菓子を食べることじゃありません。あなたにあえたことです。
あなたにあえてしあわせだと想えることが、ほんとうにしあわせです。
夏侯惇さまを、理は愛しています。
もっと気が利いたことをいえれば良いのに。できなくてごめんなさい。愛、としか言えません。愛ってなんでしょう。愛ってどんな言葉を積めば表現できるのでしょう。みつからないんです。愛、でしかあらわせない。もどかしくてはがゆい。
ごめんなさい、夏侯惇さま。
いまね、胸のここがすごく痛いの。ひとつひとつ、ちゃんとしなきゃって思うのですけれど、だめみたいです。目の前がなぜか霞んでいます。めまいでしょうか、涙でしょうか。
痛い、苦しい。心臓を鷲掴みされているみたい。息がしにくい。身体じゅうのあちこちが痛くてたまらないのです。足にも力が入りません。
もう聞こえないかもしれないけど、さいごまで言います。
言うから、すこしだけ待ってください、夏侯惇さま。
どこにもいかないで、わたしの言葉を聞いてください。
だって、この機会を逃したら、もう会えない気がするの。お話しさえもすることができない声ももう届かない、そんな予感がします。
妄言じゃない。夢でもない。……………もう、会えない気がしてならないのです。会えなくなるまえに、あなたにわたしの気持ちを伝えたい。あなたのなかにわたしの気持ちが、声が、長く残るように。
まって。
いかないで。
まってくださいっ……………いかないで。いかないで……………
理はずっと大好きです。
理嬢はずっと愛しています。
夏侯惇さま、ほほえんで。
わたし、あなたのうれしそうにする顔が好きです。
理はずっとずっと想っています。
夏侯惇さま、だいすき。
夏侯惇さまが大好き。夏侯惇さまの姿があると安心します。
理嬢は、理はむかしも、いまも、これからもずっとずっとずっと想っています。
……………忘れないで、わすれないで。
……………いかないで、夏侯惇さま……………ひとりぼっちにしないで……………
おねがいだから、ずっとわすれないで。
わすれないで、わすれないで、わすれないで。
ごめんなさい……………ごめんね……………
……………こころのそこから……………だいすきです…………
わたし……………しあわせでした……………
……………夏侯惇さま……………
……………どこにいるの……………?……………