第六章 刹那 最後の祈り
三
香を焚き、染み込ませた布を嗅ぐのが曹操は好きだった。曹丕、曹彰、曹植、曹熊四兄弟の実母にして曹操の現正妻である卞美安は布を差し出す。
「あなた。もっと平等に側室の方々らを愛されてはいかがですか?」
歌妓の出でありながら賎しさなき上品な佇まい。肌は白く清潔で、髪は黒く若々しい。けばけばしい豪華を嫌い、清貧を重んじる夫人の着飾るものはひとつの簪と、耳飾り、それほど上質でもない絹の衣である。
「我としては差もなく接しているわけだが」
「操さまがそう思っておいででも、方々はそう思っていないものもいるようです」
曹操は香りを楽しむふりをしながら、美安の言葉を待った。
美安も、言葉の文を考慮していた。美安は自分を含めた妻妾たちについて、夫に訴えるようなことは控えてきた。曹操の肩には並みならぬ多くが載っているのを承知している。まだ名のちいさかったころから、そばへと侍り、行き詰まりながら辛酸を掻き分け舐める姿。見守ることしか出来ずに。だから、妻として癒やしてさしあげるべきだと、ずっと心していた。
たかが女で気を煩わせてはならない。
曹操も、その手の話題に知恵をひねることは好んではいない。
香りが染みだし、周囲に漂う。
「幾つになろうと、女ごころというものは、わからん」
「わたくしも、ひとさまの、とくに同性の気持ちは苦手です」
「得手とせんものを、我が知ろうとするのは無駄なことだ」
布を離すと、ひらりとたれ落ちる。桃の花びらが自然の成り行きに沿い、散るのに似ていた。卞美安の膝に頭をおいた。
美安の指が曹操の髪を何重にも絡ませながら、こめかみを撫ぜ、摩擦を加える。固まっている筋肉がほぐされて頭を軽くする。生来の頭痛持ちである曹操にとっては欠かせないことだ。催促するでもなく揉んでくれる卞美安。長年の意志疎通の賜物である。
この妻の膝は、羽枕だった。すこし、理嬢と似ているのかもしれない。顔立ちや雰囲気はまるで異なる。しかし、卞のものだ。
「美安」
「なんでしょう。あなた」
「そなたに、ねたみはあるか」
「もちろんあります。女がつくくらいですから」
嫉妬。ふたつの文字に、女が存在する。そして、疾風のごとく速く、石のごとく揺らぐことはない。おんなならば、誰しも持つのだろうか。
「そなたに嫉妬は似つかわしくないな」
「操さまが思うだけ。わたくしはずっと、華やかな汚泥のなかに身を投じていた女ですよ?あなたが、側室として引き揚げてくださった」
それでも、卞美安はきよらかだった。側室として召したときは、歌妓の出であると前正室の丁濤からは蔑まれていた。気位の高い女で名門の出だった。あいだに子を成すことはなかったが、さらに前々正室の劉婉との子、長男で嫡子曹昂、次男曹鑠、長女曹純姫を実子以上に育てていた。曹昂が死んだ際、曹操が殺したと怒って里に帰りそのまま離縁してしまった。すぐに卞が新しいの正室に迎えられたが、側室のころと変わらずに丁濤に尽くしつづけている。曹操が遠出をするたびにこっそり会いに行っているのを知っているが、知らぬふりをしていた。ちなみに、丁濤の妹は曹操の従弟である夏侯淵の正妻である。
分を律儀に守る女だ。
「いまは、ちがうのか」
「ええ。でも、むかしにくらべれば、ましなほう」
ころころと、つぼみのように笑った。紅をさしていないのに赤い唇が、きれいな弧を帯びる。身を起こして、かぶりついた。
指先が曹操の頬に吸いつく。長く、くちづけをして、曹操は美しい白肌をちょっと紅潮させた正妻の顔を見つめた。
「あなたのお心が、わたくしに向いていると想うと、ほっとします」
「たまらなく向いておるよ」
「やっぱり、いつでも嫉妬はするわね。正室にしてくださっても、あなたの子どもを四人も生んでも」
「側女たちとは、ちがう。我にはそう映る」
「変わらないものですか。ほかの女のかたがたと、いっしょ」
「美安は美しい。そして賢い。おのれの良きところも悪いところも、把握しているではないか」
「自分のものだけ」
「我のこともよく知っているはずだ。ふたりの正妻より、あまたの側室のなかで一番と思う」
「ほんとかしら」
「嘘を言ったところで、なんにもなるまい」
「わたくしの朗君は切れ者の曹丞相。聡いひとの真偽は察せないのです」
「へりくだるな。思うままに言ってみろ」
「まあ」
「男と女の関係は何度も頭を痛ませた。我の頭痛と変わらず、治まったり激しくこじれたり。隠そうとするのがいかんのだろうな」
「包んで隠したりしなければ、人の世を生きることはできませんわ」
「開けっぴろげにもせねばならんだろう。なあ、美安。たまには本音で言い争ってはみぬか」
特別に。曹操は丞相という仮面を脱いで、無邪気に笑った。豪快でときどき突拍子もない行動に出る若さが、まだまだ溢れている。いつぶりかしら。卞はつられるままに、汚れのない、ずっとまえの少女に戻っていく。
「ほんと?」
「うん。どうぞ」
卞美安は言った。いたずらっぽく曹操の頬を軽く叩きながら。
「今宵はどなたのお部屋に行かれますの?」
曹操は妻の頬をついばみながら、言った。
「美安のところがいい」
「このうそつき。花嫁泥棒は、お口が達者だから美味いことばっかりおっしゃる」
「幾多の男どもを魅了した歌妓のくせに、泥棒を笑うな」
「でも花嫁さんは盗めなかったのでしょ?まったくのどじね」
「どじなのは、袁のせがれさ。茨で足をけがして動けんとぬかしおって。我が居たからこそ捕まらなかった。逃げ足の速さには自信があってな」
「ここに花嫁泥棒がいると叫んだのでしょう?」
「おかげでやつも、逃げ切れたのよ。名門の出だから、泥棒と汚名を着せられるのが癪らしくてな。まさに死に物狂いの形相だったわ」
過去の悪戯話を久々に思い返し、あの頃の袁紹の間の抜けた顔にひとしきり腹を抱えて笑った。
「答えなさい。操が一番好きなかたは、だれ」
花嫁を奪い損ね鞭を持った花婿どもからは逃れられても、わたくしの問いからは逃れられないと意味を込め、やんわりと曹操の耳をつねった。
曹操はじっと卞美安を見据える。その瞳から爛漫さは消えていなかった。
「美安」
正妻の我が名を呼ばれ、恥じらいながら恋を謳歌する乙女の笑みをたたえる。胸から甘い泡沫がはちきれるのと同じくして、この身体の奥のもっと深くを針で刺された気がした。
吐息をつき、きっと夫が予想を、あるいは期待しているであろう言葉を返す。それは、本音でもあった。
「うれしいわ」
差し出された手のひらに手のひらを重ね、いざなわれた。
「ほんとうに、うれしい」
肌をかさね、身体をかさね、あまつさえ息をもかさね得る。たったひとりの曹操が、この歌妓だけのものになる。
しかし、虚しさが産まれた。睦みの途中で不意に訪れる不安。この瞬時、夫は妻を抱いているが、べつのまったくの、だれかを望んでいる気がする。しかし、だれかに気持ちをむけていることは、いまに始まったことではない。だが、今夜は新しく召されたとある妾のことが甦るのだ。それは、特殊な経歴を持っていた。噂でしかないけれども。自分の息子と同じくらいの歳の娘を、いつぞや軍事演習をしていた場所で見つけ、部下のだれか、夏侯氏に預けたという。そして、幼い少女は、ただ曹操の女になるための教育を与えられたと。
しばしば、夫の腹心のひとりが行儀見習いだか侍女だかを連れて、息子と遊ばせていたことがあったが。もしや、あの子が。まさか。
だが、噂にすぎなかった。どこまでが本当かはわからない。
新しい妾の顔は見たことがない。挨拶をしにくるものだと礼儀のなっていないことだと思ったが、不敬には寛容なところが卞にはあった。柳眉を逆立て説くのは大人気ない。自分を忌むのであればそれでもよいと。また、曹操の計らいで、曹操のみが使用する四阿近くにわざわざ離れに居をしつらえられていたのもあり、対処を図りかねていたのもある。
そして、すぐに知ったことがある。自分の侍女が仕入れた話。曹操がその妾に暴力をふるいながら寵愛している。これもまた噂も同じことで、捨て置いていると、つぎはほかの側女たち数人が徒党を組み、新参者の妾の侍女を買収して、さまざまな嫌がらせを模索していた。そして最近、関係があるか定かではないが、曹操が使用人を数人、斬り殺す騒動があった。
哀れと秩序の乱れを感じ、奥と家の運営を管理する正妻としてなにかしらの手をこうじようと考えた矢先、殺人鬼が徒党を組んだ女たちを惨殺した。虐げていた妾の離れ部屋でだ。なんとも皮肉なことか。
市外、宮殿に現れた殺人者が、このお屋敷に現れた。
ほかの女たちとは交流を持たない新しい妾は、首には帯が絡まり、血肉にまみれ、半裸で気を失っていたという。部屋ももちろん、肉片だらけだった。
部屋の調度品もほとんどが、壊れていた。それらは殺人鬼の手ではない。いままで、やつは人を原型の留めぬまで引き裂く以外のことは興味を示さなかった。
死ぬ寸前まで、徒党の側室らが陰湿な行為に及んでいたことは明白だった。美安のみならず、だれもが口には出さずひそかに思っていた。側室は殺人者に助けられた奇妙なかたちになる。
生き残った側室は実家に帰されたと聞いた。
曹操の手でじきじきに送られたあの存在が、ひどく。
卞美安は、瞼を閉じた。
いま、わたくしを愛している操は、いまはわたくしだけを愛している。わたくしだけの操。ほかのだれかをだなんて。懸命に、自分を写す曹操を描いた。
嫉み、妬みを自嘲しつつ、曹操を楽しませていた布を手探りで求め、握る。束ねられていた曹操の髪がばさりと垂れて、香りと交ざる。
「ごきげんよう、夏侯惇」
不機嫌そうな重低音だった。
夏侯惇は両腕で持ちきれないほどの竹簡を足元や両脇に積み、四阿で一本一本丁寧に読んでいる最中だった。進軍にも学問の師を同行させるほど勉学熱心なため、邪魔をされるのを嫌う。黒曜の瞳は文字だけを映している。
「おまえ、俺に隠してることがあるだろ」
ちょうど一本の竹簡の文字列が途切れ、くるくると丸めた。このつづきの巻はどこか。足元の竹簡から見つけると、手際よく紐を解いて文字を追う。
「無視か。おまえらしくないじゃないか」
「苛ついている貴様に関わると、ろくなことがないもんでな」
「夏侯惇のせいさ。おい、隠すな、正直に言え」
「貴様に、なにを隠蔽をする」
「なにを?決まってるだろうが。分からねえのか」
「分からぬゆえに聞いたのだ」
「華燭、するんだってな?」
「だれに聞いた?」
「この家の女どもじゃない。あいつらは俺を恐がってるみたいだからな」
「……………淵か」
「おう。夏侯淵からな」
余計なことをと内心舌打ちをする。教えて損をすることはないが、教える気も毛頭なかった。ただ、雀(シャン)耳にはいると厄介なことになるだろうと、なんとなく予想はしていた。
「それで?私が貴様に言わなかっただけのことが、何故貴様を苛立たせるのだ」
「華燭って、女をもらうんだろ?」
「妻と言え」
「所詮、てめえは男か」
唾を吐きかける物言いに、夏侯惇は顔を上げ雀と合わせた。雀の唇が毒を含んで歪んでいる。
「知らない女をもらって、抱くんだな。いやらしいな、あさましいやつだったんだな」
「……………幸せを欲して、なにが悪い」
「悪いさ。女を抱くのが幸せってか」
「女と契るため闇雲に娶るわけではない。子をなして家を繁栄させる。世間一般で行われていることを知りながら、言い放つとは。呆れるほどの雑言だな」
「お生憎さま。この国の婚礼行事についてお勉強が足りなかったみたい。幸せってなんだよ。どうせ抱くんだろ、がきをつくって家を繁栄させるって幸せなのか?そのために理を不幸せにするんだ」
「曹夫人のことか。夫人は従兄上の側室として、満ち足りた生活をしているだろうよ。関係なきことではないか」
「ああ?」
「漢帝国の丞相に見初められたことは、このご時世では幸運であるほかないだろう」
夏侯惇の手にある竹簡を奪い取り、四阿の外に投げ捨て、襟をつかみあげた。
「しらばっくれるなよ」
瞳が茶色から紅くなろうと薄くだが色づいてきている。
「曹夫人?誰だそいつ」
「さきほど、雀が名を口にしていた婦人だが」
高尚にして子難しい書物を読むように、夏侯惇は眉のひとつも動かさず淡々としていた。それが、余計に雀の火種となるも、戸惑いも大きくする。襟から手がすべり落ち、後方へ二、三歩退く。
「理を、おまえは……………言うな。曹夫人だとか言うな」
「どうして」
「理は、おまえが育てたんだろ」
「曹丞相の側室となられる以前の話だ。他人の妻に誠意をあらわしただけのこと。あたりまえだ」
「もし、理が苦しんでいても助けないのか」
「すでに縁は切れたからな」
「……………俺が理をひところしと言ったとき、鶏の餌にしてやるって殴ったよな。あれはなんだ。縁がなかったらあんなことしないだろ?殴れよ。理はひところしだ。理は人殺しだ。おい、殴れ、殴ってみやがれ」
夏侯惇は四阿を出て捨てられた竹簡を拾う。芝の細い草屑がわずかに付いていた。ふたりは、欄干を挟んで向き合った。雀は眉間にしわを刻み歯を剥き出しにして睨みつけている。両手で竹簡の束を投げつけ始めた。声もない悲鳴をことごとく打ち落として突き返す。雀の顔に当たった。いよいよ目を逆立たせ欄干を踏み越え、夏侯惇に躍り喰ってかかる。
まるで猿のようだ。
行き過ぎた怒りは相手を害する。肩に十本の指を食い込ませ地面に叩き倒した。夏侯惇は遠くを見て貼り付けた表情を崩さない。白い指がなめらかに首にまとわりて、絡む。
「なんで理を消す」
「私はなにもしていない」
「しらじらしいにもほどがあるな。自覚がないふりか。なら、てめえの頭は空っぽの病気だ」
「曹夫人を名で呼ばぬのが不服か」
「言うなっ。理だ」
爪が肉に立つ。夏侯惇がすこし仰け反った。
「理を虐げて楽しいか」
「虐げてなどおらぬだろう」
「そうだな、前の夏侯惇は護っていたね。だが貴様は」
「私は私だ。雀、世間知らずのようだから、教えておいてやるか。世話をした娘は私の娘ではなく、従兄上の妻にさせるための教育を任せられただけなのだ。年の頃合いもよく側女として召し上げられた女。いくら長い年月を共に過ごそうと他人の女。縁も切れたも同然だ。ゆえに、敬称し、敬うのが礼儀だろうが」
「俺の眼は節穴なの?俺の鼻と耳も餓鬼の掘った落とし穴なのかな?知っているぞ、理が此処に連れられてきている。閉じ込めている」
「閉じ込める、か。寒かろうな、あそこは」
「だと思ったら、女どもと散歩していたよ」
「いい機会だぞ、焦がれていた姉君に顔を見せてやれ。ちょうど散歩の時間か」
どくどくと脈打つ動きが速くなった。薄い皮を突き破り、肉をえぐるほど強く力が籠められる。紅と変貌を遂げた目の色は、白目の部分も充血する。
雀ははじめから、見ていたのか。私が夫人をあの冷たい石の箱へ入れて、つい最近まで世話をし、見放した過程を。
言いたいこと言うがいい。したいことを好きなだけすればいい。決めたことを、覆してなるものか。あとちょっとで、望んだかたちになる。きっと。悪夢から逃れたい。
明雪が言った。見捨てるのですか。そのときは揺らぐことはなかった。夏侯淵は、深く追求しなかったが、感覚で気づいたかもしれない。それでも、揺れなかった。揺れるのが、肯んじえなかった。しかし、悶々と煮える渦がどろどろと滲むのは。場に溜まったままでなくなることがなくて、重しをかけてくる。
雀は寸分違わずに曹夫人の顔をしていた。雰囲気は異なるものの、まだ、錯覚してしまうほどだ。
「……………そろそろ、苦しくなってきた」
「苦しめ。こんなもんじゃねえぞ、足りない。理が、受ける苦しみはな」
言いながら、締めの手を徐々に強めた。
「夏侯惇はいいやつだと思ってたよ。人間はろくでもないやつ、ばっかりなのにおまえは、めずらしくやさしい。理を大切に、大切にしてくれたらしい。それなのに、しっぺ返しをしやがって」
「見くびるなよ」
眼が紅から茶へと色素が引いてゆく。昂奮が鎮まったのではない。頭が冴えてきているだけだ。証拠として喉に当てられたそれは、弱まらない。
「私は善人ではない」
美しい獣は口に、嘲笑か不可解なものが咲いていた。
「やさしかったよ。やさしかった。とても、ね。この世のだれよりも、やさしくていいやつだって、逢ったときから思ってた。俺は、ほんとに嬉しかった」
雀の愛する曹夫人を庇護し、理嬢のために、普段なら見せぬ怒りをあらわにし、自分をこの屋敷に置いてくれた。はじめは、曹操を殺すだのなんだのと喚いたため、監視のつもりだったはずだ。雀も、理嬢を知りたくて求める上での鍵と居着いた。それが、いつのまにか客に、屋敷のひとりになっていたと。
ひとり、想像を巡らしていただけでも、唯一、ひととして意識し夏侯惇に心を許し始めていた。
はじめて緊張を解ける相手。貴重な存在に、会うことなどないと思いつつ、会えたらどんなに幸せなのだろうと理嬢と同じくらい描いた。
夏侯惇の手が、雀の首にあてがわれ柔らかく力を込める。
「勝手な妄想だ。俺は」
つづきを言い掛けて、夏侯惇は口ごもった。
雀の恨みの意味を考え探しながら。弟だからなのか。姉を狂気じみた思慕ゆえなのか。姉弟のつながりは、ひとを異常に駆り立てるのだろうか。もっと、枠を越える気持ちと実があるのでは。
「理は俺にとって、この世の誰よりも大切なひとだ。夏侯惇、理はおまえの、なんだよ?」
曹夫人。
これからを願って思っていたことを、雀の言葉をつなげるように言った。私はもう縁を断つ。すると、雀の白い指は首からするりと抜けた。表情はなく眼を半分伏せて夏侯惇に焦点を合わせる。唇を動かし、口のなかでつぶやいていた。
「護ってくれないのか、見捨てたのか。俺ができないことを、簡単に……………」
黙っているのが癪に障るらしく、声の高低が揺らぎ始めた。
「言ってよ。大切だって、見捨ててないって。理はおまえのだろ。なんで黙ったままだよ」
言葉返ってくることはなく、自然が産む音が無意味に流れた。
腹から押し出しながら、雀が低く小さい引き笑いを拍をとり身体全体で見せる。不気味に徐々に大きくなっていく。
「教えてやる。理に逢いたかった理由を教えてやる」
今さら、そんなものどうでもよかった。
「ぶち殺すためさ」
立ち上がって、腹を抱えて嗤った。空を仰いで、舞うように木々に取り巻き、理由を大声で連呼した。殺すためだ。
冷え切った感情をぶちまけるたびに、体温を追い出し奥底から触れれば凍傷では済まされぬ冷気が蓄積するのだった。
「理由の理由を教える義理はないよな?俺は理のもの。理は俺のもの。曹操でも夏侯惇のものでもじゃないんだ。夏侯惇、おまえが憎いよ。理がおまえのものになっていたら、俺はこんな思いをしなくてよかったのになっ。理は殺される、俺が殺すんだっ」
なにをいっている。意図が知れなかった。逢うために、何年も旅をしていたのではなかったのか。そのあいだ、数多のかたちを手に掛けていたのではなかったのか。口にだけ粘着質な彩りを塗りたくり指差し後ろに退いていく。
「ひどいよ、夏侯惇。おまえは俺が一番したいことをできるのに、俺を傷つけてそんなに愉しいかい。理が死ぬのがそんなにいいのか。俺は全部間違えてた」
おそらく、雀のみが知る葛藤。
その姿はあまりにも不安定。酔っ払いに似ていたが、狂気と凶気が乱立する。雀の言う理由を駆り立てているのを感じる。見境を失ったものはそれほど恐ろしいものではない。隙をみて力でねじ伏せてしまえばいいことだ。しかし、理性を保っているものは別で、留めているほど手のつけようがないばかりか、より狂暴なのだ。目の前にいる男は、いかれたように見えて理性を潜ませるのが巧みだ。
「理の苦しみをおまえがわかればよかった。理がおまえと、もっとべつの出逢いをしてればよかった。おまえが夏侯惇で夏侯惇がおまえでなけりゃよかったのだっ。理が俺で俺が理で理なんて最初からいなけりゃよかった」
香を焚き、染み込ませた布を嗅ぐのが曹操は好きだった。曹丕、曹彰、曹植、曹熊四兄弟の実母にして曹操の現正妻である卞美安は布を差し出す。
「あなた。もっと平等に側室の方々らを愛されてはいかがですか?」
歌妓の出でありながら賎しさなき上品な佇まい。肌は白く清潔で、髪は黒く若々しい。けばけばしい豪華を嫌い、清貧を重んじる夫人の着飾るものはひとつの簪と、耳飾り、それほど上質でもない絹の衣である。
「我としては差もなく接しているわけだが」
「操さまがそう思っておいででも、方々はそう思っていないものもいるようです」
曹操は香りを楽しむふりをしながら、美安の言葉を待った。
美安も、言葉の文を考慮していた。美安は自分を含めた妻妾たちについて、夫に訴えるようなことは控えてきた。曹操の肩には並みならぬ多くが載っているのを承知している。まだ名のちいさかったころから、そばへと侍り、行き詰まりながら辛酸を掻き分け舐める姿。見守ることしか出来ずに。だから、妻として癒やしてさしあげるべきだと、ずっと心していた。
たかが女で気を煩わせてはならない。
曹操も、その手の話題に知恵をひねることは好んではいない。
香りが染みだし、周囲に漂う。
「幾つになろうと、女ごころというものは、わからん」
「わたくしも、ひとさまの、とくに同性の気持ちは苦手です」
「得手とせんものを、我が知ろうとするのは無駄なことだ」
布を離すと、ひらりとたれ落ちる。桃の花びらが自然の成り行きに沿い、散るのに似ていた。卞美安の膝に頭をおいた。
美安の指が曹操の髪を何重にも絡ませながら、こめかみを撫ぜ、摩擦を加える。固まっている筋肉がほぐされて頭を軽くする。生来の頭痛持ちである曹操にとっては欠かせないことだ。催促するでもなく揉んでくれる卞美安。長年の意志疎通の賜物である。
この妻の膝は、羽枕だった。すこし、理嬢と似ているのかもしれない。顔立ちや雰囲気はまるで異なる。しかし、卞のものだ。
「美安」
「なんでしょう。あなた」
「そなたに、ねたみはあるか」
「もちろんあります。女がつくくらいですから」
嫉妬。ふたつの文字に、女が存在する。そして、疾風のごとく速く、石のごとく揺らぐことはない。おんなならば、誰しも持つのだろうか。
「そなたに嫉妬は似つかわしくないな」
「操さまが思うだけ。わたくしはずっと、華やかな汚泥のなかに身を投じていた女ですよ?あなたが、側室として引き揚げてくださった」
それでも、卞美安はきよらかだった。側室として召したときは、歌妓の出であると前正室の丁濤からは蔑まれていた。気位の高い女で名門の出だった。あいだに子を成すことはなかったが、さらに前々正室の劉婉との子、長男で嫡子曹昂、次男曹鑠、長女曹純姫を実子以上に育てていた。曹昂が死んだ際、曹操が殺したと怒って里に帰りそのまま離縁してしまった。すぐに卞が新しいの正室に迎えられたが、側室のころと変わらずに丁濤に尽くしつづけている。曹操が遠出をするたびにこっそり会いに行っているのを知っているが、知らぬふりをしていた。ちなみに、丁濤の妹は曹操の従弟である夏侯淵の正妻である。
分を律儀に守る女だ。
「いまは、ちがうのか」
「ええ。でも、むかしにくらべれば、ましなほう」
ころころと、つぼみのように笑った。紅をさしていないのに赤い唇が、きれいな弧を帯びる。身を起こして、かぶりついた。
指先が曹操の頬に吸いつく。長く、くちづけをして、曹操は美しい白肌をちょっと紅潮させた正妻の顔を見つめた。
「あなたのお心が、わたくしに向いていると想うと、ほっとします」
「たまらなく向いておるよ」
「やっぱり、いつでも嫉妬はするわね。正室にしてくださっても、あなたの子どもを四人も生んでも」
「側女たちとは、ちがう。我にはそう映る」
「変わらないものですか。ほかの女のかたがたと、いっしょ」
「美安は美しい。そして賢い。おのれの良きところも悪いところも、把握しているではないか」
「自分のものだけ」
「我のこともよく知っているはずだ。ふたりの正妻より、あまたの側室のなかで一番と思う」
「ほんとかしら」
「嘘を言ったところで、なんにもなるまい」
「わたくしの朗君は切れ者の曹丞相。聡いひとの真偽は察せないのです」
「へりくだるな。思うままに言ってみろ」
「まあ」
「男と女の関係は何度も頭を痛ませた。我の頭痛と変わらず、治まったり激しくこじれたり。隠そうとするのがいかんのだろうな」
「包んで隠したりしなければ、人の世を生きることはできませんわ」
「開けっぴろげにもせねばならんだろう。なあ、美安。たまには本音で言い争ってはみぬか」
特別に。曹操は丞相という仮面を脱いで、無邪気に笑った。豪快でときどき突拍子もない行動に出る若さが、まだまだ溢れている。いつぶりかしら。卞はつられるままに、汚れのない、ずっとまえの少女に戻っていく。
「ほんと?」
「うん。どうぞ」
卞美安は言った。いたずらっぽく曹操の頬を軽く叩きながら。
「今宵はどなたのお部屋に行かれますの?」
曹操は妻の頬をついばみながら、言った。
「美安のところがいい」
「このうそつき。花嫁泥棒は、お口が達者だから美味いことばっかりおっしゃる」
「幾多の男どもを魅了した歌妓のくせに、泥棒を笑うな」
「でも花嫁さんは盗めなかったのでしょ?まったくのどじね」
「どじなのは、袁のせがれさ。茨で足をけがして動けんとぬかしおって。我が居たからこそ捕まらなかった。逃げ足の速さには自信があってな」
「ここに花嫁泥棒がいると叫んだのでしょう?」
「おかげでやつも、逃げ切れたのよ。名門の出だから、泥棒と汚名を着せられるのが癪らしくてな。まさに死に物狂いの形相だったわ」
過去の悪戯話を久々に思い返し、あの頃の袁紹の間の抜けた顔にひとしきり腹を抱えて笑った。
「答えなさい。操が一番好きなかたは、だれ」
花嫁を奪い損ね鞭を持った花婿どもからは逃れられても、わたくしの問いからは逃れられないと意味を込め、やんわりと曹操の耳をつねった。
曹操はじっと卞美安を見据える。その瞳から爛漫さは消えていなかった。
「美安」
正妻の我が名を呼ばれ、恥じらいながら恋を謳歌する乙女の笑みをたたえる。胸から甘い泡沫がはちきれるのと同じくして、この身体の奥のもっと深くを針で刺された気がした。
吐息をつき、きっと夫が予想を、あるいは期待しているであろう言葉を返す。それは、本音でもあった。
「うれしいわ」
差し出された手のひらに手のひらを重ね、いざなわれた。
「ほんとうに、うれしい」
肌をかさね、身体をかさね、あまつさえ息をもかさね得る。たったひとりの曹操が、この歌妓だけのものになる。
しかし、虚しさが産まれた。睦みの途中で不意に訪れる不安。この瞬時、夫は妻を抱いているが、べつのまったくの、だれかを望んでいる気がする。しかし、だれかに気持ちをむけていることは、いまに始まったことではない。だが、今夜は新しく召されたとある妾のことが甦るのだ。それは、特殊な経歴を持っていた。噂でしかないけれども。自分の息子と同じくらいの歳の娘を、いつぞや軍事演習をしていた場所で見つけ、部下のだれか、夏侯氏に預けたという。そして、幼い少女は、ただ曹操の女になるための教育を与えられたと。
しばしば、夫の腹心のひとりが行儀見習いだか侍女だかを連れて、息子と遊ばせていたことがあったが。もしや、あの子が。まさか。
だが、噂にすぎなかった。どこまでが本当かはわからない。
新しい妾の顔は見たことがない。挨拶をしにくるものだと礼儀のなっていないことだと思ったが、不敬には寛容なところが卞にはあった。柳眉を逆立て説くのは大人気ない。自分を忌むのであればそれでもよいと。また、曹操の計らいで、曹操のみが使用する四阿近くにわざわざ離れに居をしつらえられていたのもあり、対処を図りかねていたのもある。
そして、すぐに知ったことがある。自分の侍女が仕入れた話。曹操がその妾に暴力をふるいながら寵愛している。これもまた噂も同じことで、捨て置いていると、つぎはほかの側女たち数人が徒党を組み、新参者の妾の侍女を買収して、さまざまな嫌がらせを模索していた。そして最近、関係があるか定かではないが、曹操が使用人を数人、斬り殺す騒動があった。
哀れと秩序の乱れを感じ、奥と家の運営を管理する正妻としてなにかしらの手をこうじようと考えた矢先、殺人鬼が徒党を組んだ女たちを惨殺した。虐げていた妾の離れ部屋でだ。なんとも皮肉なことか。
市外、宮殿に現れた殺人者が、このお屋敷に現れた。
ほかの女たちとは交流を持たない新しい妾は、首には帯が絡まり、血肉にまみれ、半裸で気を失っていたという。部屋ももちろん、肉片だらけだった。
部屋の調度品もほとんどが、壊れていた。それらは殺人鬼の手ではない。いままで、やつは人を原型の留めぬまで引き裂く以外のことは興味を示さなかった。
死ぬ寸前まで、徒党の側室らが陰湿な行為に及んでいたことは明白だった。美安のみならず、だれもが口には出さずひそかに思っていた。側室は殺人者に助けられた奇妙なかたちになる。
生き残った側室は実家に帰されたと聞いた。
曹操の手でじきじきに送られたあの存在が、ひどく。
卞美安は、瞼を閉じた。
いま、わたくしを愛している操は、いまはわたくしだけを愛している。わたくしだけの操。ほかのだれかをだなんて。懸命に、自分を写す曹操を描いた。
嫉み、妬みを自嘲しつつ、曹操を楽しませていた布を手探りで求め、握る。束ねられていた曹操の髪がばさりと垂れて、香りと交ざる。
「ごきげんよう、夏侯惇」
不機嫌そうな重低音だった。
夏侯惇は両腕で持ちきれないほどの竹簡を足元や両脇に積み、四阿で一本一本丁寧に読んでいる最中だった。進軍にも学問の師を同行させるほど勉学熱心なため、邪魔をされるのを嫌う。黒曜の瞳は文字だけを映している。
「おまえ、俺に隠してることがあるだろ」
ちょうど一本の竹簡の文字列が途切れ、くるくると丸めた。このつづきの巻はどこか。足元の竹簡から見つけると、手際よく紐を解いて文字を追う。
「無視か。おまえらしくないじゃないか」
「苛ついている貴様に関わると、ろくなことがないもんでな」
「夏侯惇のせいさ。おい、隠すな、正直に言え」
「貴様に、なにを隠蔽をする」
「なにを?決まってるだろうが。分からねえのか」
「分からぬゆえに聞いたのだ」
「華燭、するんだってな?」
「だれに聞いた?」
「この家の女どもじゃない。あいつらは俺を恐がってるみたいだからな」
「……………淵か」
「おう。夏侯淵からな」
余計なことをと内心舌打ちをする。教えて損をすることはないが、教える気も毛頭なかった。ただ、雀(シャン)耳にはいると厄介なことになるだろうと、なんとなく予想はしていた。
「それで?私が貴様に言わなかっただけのことが、何故貴様を苛立たせるのだ」
「華燭って、女をもらうんだろ?」
「妻と言え」
「所詮、てめえは男か」
唾を吐きかける物言いに、夏侯惇は顔を上げ雀と合わせた。雀の唇が毒を含んで歪んでいる。
「知らない女をもらって、抱くんだな。いやらしいな、あさましいやつだったんだな」
「……………幸せを欲して、なにが悪い」
「悪いさ。女を抱くのが幸せってか」
「女と契るため闇雲に娶るわけではない。子をなして家を繁栄させる。世間一般で行われていることを知りながら、言い放つとは。呆れるほどの雑言だな」
「お生憎さま。この国の婚礼行事についてお勉強が足りなかったみたい。幸せってなんだよ。どうせ抱くんだろ、がきをつくって家を繁栄させるって幸せなのか?そのために理を不幸せにするんだ」
「曹夫人のことか。夫人は従兄上の側室として、満ち足りた生活をしているだろうよ。関係なきことではないか」
「ああ?」
「漢帝国の丞相に見初められたことは、このご時世では幸運であるほかないだろう」
夏侯惇の手にある竹簡を奪い取り、四阿の外に投げ捨て、襟をつかみあげた。
「しらばっくれるなよ」
瞳が茶色から紅くなろうと薄くだが色づいてきている。
「曹夫人?誰だそいつ」
「さきほど、雀が名を口にしていた婦人だが」
高尚にして子難しい書物を読むように、夏侯惇は眉のひとつも動かさず淡々としていた。それが、余計に雀の火種となるも、戸惑いも大きくする。襟から手がすべり落ち、後方へ二、三歩退く。
「理を、おまえは……………言うな。曹夫人だとか言うな」
「どうして」
「理は、おまえが育てたんだろ」
「曹丞相の側室となられる以前の話だ。他人の妻に誠意をあらわしただけのこと。あたりまえだ」
「もし、理が苦しんでいても助けないのか」
「すでに縁は切れたからな」
「……………俺が理をひところしと言ったとき、鶏の餌にしてやるって殴ったよな。あれはなんだ。縁がなかったらあんなことしないだろ?殴れよ。理はひところしだ。理は人殺しだ。おい、殴れ、殴ってみやがれ」
夏侯惇は四阿を出て捨てられた竹簡を拾う。芝の細い草屑がわずかに付いていた。ふたりは、欄干を挟んで向き合った。雀は眉間にしわを刻み歯を剥き出しにして睨みつけている。両手で竹簡の束を投げつけ始めた。声もない悲鳴をことごとく打ち落として突き返す。雀の顔に当たった。いよいよ目を逆立たせ欄干を踏み越え、夏侯惇に躍り喰ってかかる。
まるで猿のようだ。
行き過ぎた怒りは相手を害する。肩に十本の指を食い込ませ地面に叩き倒した。夏侯惇は遠くを見て貼り付けた表情を崩さない。白い指がなめらかに首にまとわりて、絡む。
「なんで理を消す」
「私はなにもしていない」
「しらじらしいにもほどがあるな。自覚がないふりか。なら、てめえの頭は空っぽの病気だ」
「曹夫人を名で呼ばぬのが不服か」
「言うなっ。理だ」
爪が肉に立つ。夏侯惇がすこし仰け反った。
「理を虐げて楽しいか」
「虐げてなどおらぬだろう」
「そうだな、前の夏侯惇は護っていたね。だが貴様は」
「私は私だ。雀、世間知らずのようだから、教えておいてやるか。世話をした娘は私の娘ではなく、従兄上の妻にさせるための教育を任せられただけなのだ。年の頃合いもよく側女として召し上げられた女。いくら長い年月を共に過ごそうと他人の女。縁も切れたも同然だ。ゆえに、敬称し、敬うのが礼儀だろうが」
「俺の眼は節穴なの?俺の鼻と耳も餓鬼の掘った落とし穴なのかな?知っているぞ、理が此処に連れられてきている。閉じ込めている」
「閉じ込める、か。寒かろうな、あそこは」
「だと思ったら、女どもと散歩していたよ」
「いい機会だぞ、焦がれていた姉君に顔を見せてやれ。ちょうど散歩の時間か」
どくどくと脈打つ動きが速くなった。薄い皮を突き破り、肉をえぐるほど強く力が籠められる。紅と変貌を遂げた目の色は、白目の部分も充血する。
雀ははじめから、見ていたのか。私が夫人をあの冷たい石の箱へ入れて、つい最近まで世話をし、見放した過程を。
言いたいこと言うがいい。したいことを好きなだけすればいい。決めたことを、覆してなるものか。あとちょっとで、望んだかたちになる。きっと。悪夢から逃れたい。
明雪が言った。見捨てるのですか。そのときは揺らぐことはなかった。夏侯淵は、深く追求しなかったが、感覚で気づいたかもしれない。それでも、揺れなかった。揺れるのが、肯んじえなかった。しかし、悶々と煮える渦がどろどろと滲むのは。場に溜まったままでなくなることがなくて、重しをかけてくる。
雀は寸分違わずに曹夫人の顔をしていた。雰囲気は異なるものの、まだ、錯覚してしまうほどだ。
「……………そろそろ、苦しくなってきた」
「苦しめ。こんなもんじゃねえぞ、足りない。理が、受ける苦しみはな」
言いながら、締めの手を徐々に強めた。
「夏侯惇はいいやつだと思ってたよ。人間はろくでもないやつ、ばっかりなのにおまえは、めずらしくやさしい。理を大切に、大切にしてくれたらしい。それなのに、しっぺ返しをしやがって」
「見くびるなよ」
眼が紅から茶へと色素が引いてゆく。昂奮が鎮まったのではない。頭が冴えてきているだけだ。証拠として喉に当てられたそれは、弱まらない。
「私は善人ではない」
美しい獣は口に、嘲笑か不可解なものが咲いていた。
「やさしかったよ。やさしかった。とても、ね。この世のだれよりも、やさしくていいやつだって、逢ったときから思ってた。俺は、ほんとに嬉しかった」
雀の愛する曹夫人を庇護し、理嬢のために、普段なら見せぬ怒りをあらわにし、自分をこの屋敷に置いてくれた。はじめは、曹操を殺すだのなんだのと喚いたため、監視のつもりだったはずだ。雀も、理嬢を知りたくて求める上での鍵と居着いた。それが、いつのまにか客に、屋敷のひとりになっていたと。
ひとり、想像を巡らしていただけでも、唯一、ひととして意識し夏侯惇に心を許し始めていた。
はじめて緊張を解ける相手。貴重な存在に、会うことなどないと思いつつ、会えたらどんなに幸せなのだろうと理嬢と同じくらい描いた。
夏侯惇の手が、雀の首にあてがわれ柔らかく力を込める。
「勝手な妄想だ。俺は」
つづきを言い掛けて、夏侯惇は口ごもった。
雀の恨みの意味を考え探しながら。弟だからなのか。姉を狂気じみた思慕ゆえなのか。姉弟のつながりは、ひとを異常に駆り立てるのだろうか。もっと、枠を越える気持ちと実があるのでは。
「理は俺にとって、この世の誰よりも大切なひとだ。夏侯惇、理はおまえの、なんだよ?」
曹夫人。
これからを願って思っていたことを、雀の言葉をつなげるように言った。私はもう縁を断つ。すると、雀の白い指は首からするりと抜けた。表情はなく眼を半分伏せて夏侯惇に焦点を合わせる。唇を動かし、口のなかでつぶやいていた。
「護ってくれないのか、見捨てたのか。俺ができないことを、簡単に……………」
黙っているのが癪に障るらしく、声の高低が揺らぎ始めた。
「言ってよ。大切だって、見捨ててないって。理はおまえのだろ。なんで黙ったままだよ」
言葉返ってくることはなく、自然が産む音が無意味に流れた。
腹から押し出しながら、雀が低く小さい引き笑いを拍をとり身体全体で見せる。不気味に徐々に大きくなっていく。
「教えてやる。理に逢いたかった理由を教えてやる」
今さら、そんなものどうでもよかった。
「ぶち殺すためさ」
立ち上がって、腹を抱えて嗤った。空を仰いで、舞うように木々に取り巻き、理由を大声で連呼した。殺すためだ。
冷え切った感情をぶちまけるたびに、体温を追い出し奥底から触れれば凍傷では済まされぬ冷気が蓄積するのだった。
「理由の理由を教える義理はないよな?俺は理のもの。理は俺のもの。曹操でも夏侯惇のものでもじゃないんだ。夏侯惇、おまえが憎いよ。理がおまえのものになっていたら、俺はこんな思いをしなくてよかったのになっ。理は殺される、俺が殺すんだっ」
なにをいっている。意図が知れなかった。逢うために、何年も旅をしていたのではなかったのか。そのあいだ、数多のかたちを手に掛けていたのではなかったのか。口にだけ粘着質な彩りを塗りたくり指差し後ろに退いていく。
「ひどいよ、夏侯惇。おまえは俺が一番したいことをできるのに、俺を傷つけてそんなに愉しいかい。理が死ぬのがそんなにいいのか。俺は全部間違えてた」
おそらく、雀のみが知る葛藤。
その姿はあまりにも不安定。酔っ払いに似ていたが、狂気と凶気が乱立する。雀の言う理由を駆り立てているのを感じる。見境を失ったものはそれほど恐ろしいものではない。隙をみて力でねじ伏せてしまえばいいことだ。しかし、理性を保っているものは別で、留めているほど手のつけようがないばかりか、より狂暴なのだ。目の前にいる男は、いかれたように見えて理性を潜ませるのが巧みだ。
「理の苦しみをおまえがわかればよかった。理がおまえと、もっとべつの出逢いをしてればよかった。おまえが夏侯惇で夏侯惇がおまえでなけりゃよかったのだっ。理が俺で俺が理で理なんて最初からいなけりゃよかった」