第六章 刹那 最後の祈り



出立の日まで、刻の間隔は狭まっていった。兵糧の確保、選りすぐりの馬、手入れが込んだ武具が着々と集まった。従軍が決まった将たちには、張りつめた緊張の糸が自覚あるなしによらず仕上がっていた。夏侯惇もそのひとりである。しかし、夏侯惇は石臼を縄でくくりつけられているようなものだった。

不利な条件を負っているからだ。左眼を喪った。そのため、常人が持っているほどの視界が半分しかないばかりか、遠近感覚さえも思うように掴めない。敵が跋扈する戦場において、首を差し出している状態に等しい。

当初、片目が亡いことで頭痛がしたり吐き気を催すこともあったが、今では落ち着いている。普段の生活も難なくこなし、なにより半分の世界に慣れた。

周囲は夏侯淵と区別すべく、夏侯惇を盲夏侯と呼び苛立ちを煽った。醜い左半分が鏡に写ることを夏侯惇は嫌い、鏡を叩き割ったこともある。屋敷のほとんどの鏡が粉々になることなった。普段の静さからは想像できない姿だが、物に当たるほどの激情が、よい芽を出すことになる。焦燥が、失った左眼の代わりとして耳や他の感覚を良くさせたのだ。

それでも戦では安心とは言えない。身体に欠陥があることで自身はおろか周囲のものたちをも命の危機にさらすことになった。焦燥を抱いていた。功を焦ったのだ。このような身体でも私はやれると。この心持ちはあやまりだったと後悔した。博望波の戦いは物語っている。隻眼になってからの戦いで指揮をとった初めての敗北を味わい、夏侯惇はより注意深く、より沈着に動くようになった。曹操だけではなく諸将も隻眼の男の培われた慎重すぎる物腰、両目があるものに引けを取らぬ強さに一目置き接する。

同情なき敬意として。盲夏侯などという蔑みにも似たあだなを口にしたりなどしない。

夏侯惇は夢を見た。

目覚めは最悪だった。

夢のなかで得体の知れぬ白い生き物に出会った。白い肉塊には眼も無く、鼻も、耳もない。手足すらなく、あるものは、ぽっかり開いた孔。息をしているのか、時節ひくひくと動いた。

それは逃げた。蚯蚓にも似ている。のたうちまわり、這いつくばって行こうとするがゆるさない。夏侯惇は利き手に持った細剣で白磁の皮を突き破る。弧を描きながら、弾力と厚みのある奥から粘着質の青色の体液がほとばしった。

憎かった。どうしても憎かった。身体じゅうが鳥肌に覆われてこいつを拒む。憎い。理由はないのに、憎くてたまらない。

何度も何度も振り下ろす。体液はこれでもかというくらい、噴き出した。思考が途絶えたまま濡れるのを構わずに、刺し続ける。断末魔とも言い難い奇声を上げた。

容赦などしない。

抵抗のつもりか、激しく跳ねていた肉塊は徐々に弱くなり、動かなくなった。死んだのだ。まるで、白い蜂の巣である。

細剣から手を離し、青色にぬめった手で頬に伝う液をぬぐい取ろうとしたとき、気づいた。青だと。これは赤ではないか。

全身が黒いくらいに真っ赤に染まったままで屍と変わり果てた姿の隣に、突っ立っていた。屍のこめかみから溢れた液体が、鼻を伝い鼻先からぽたりぽたりと滴になっている。身体じゅうに無数の空洞が開いた屍。

白肉のかたちは、理嬢の姿を成している。

叫びと共に、はね起きた。寝巻きの合わせ目が乱れていたが、整えることもなく、寝台から飛び降り、卓上の水瓶に口を付けてあおる。息をつかずに飲み干し、噎せた。大量の水がおかしなところに入った。口を拭う。赤くはない。さして冷えてもいない少量の水が臓器を満たした。

卓に両肘をついて頭を掻きむしった。夢だ。あれは、夢だ。汗が全身から噴き出す。せわしない溜め息がいくつも出た。

なんてものを。

戦間近で気持ちが高ぶっているためだ。戦でのひと場面が、敵兵が、特有の感情がすり替えられただけにすぎない。夢だ。現実には存在し得ぬこと。だが、感触、感情、視覚のすべてがまざまざとすぐに思い出せる。本物のようだった。しかし、夢。たかが夢である。

部屋から回廊に出た。明け方近くのはずだが、まだ曙光も射す兆しもない。

風はないが、外気に触れたおかげで、汗が冷える。欄干に手を突いて庭を向いた。暗闇に浮かぶ緑の葉たちが、ひっそりとたたずんでおり、おいでおいでと手招いているようにも見える。手招きのままに寄ったとして、はたして、どこへいざなわれるのか。

黒のなかに、ふと灯りが淡く点った。明雪が、燭台を持ってこちらに歩いて来ていた。

「おはようございます」

「明雪か、早いな」

「ご朝食の下準備をしようと」

「ご苦労なことだ」

「まだお休みになっていらしたらよろしいですのに」

「目がさえてしまって。寝るのはいささか難しい」

「しかし、冷えます」

そして、夏侯惇の横を通り過ぎるものと思っていたが、少しの距離を保ち、立ち止まった。

「震えておりますよ」

「もう秋の暮れだからな。おまえこそ、寒いだろう」

「ちゃんと着込んでおります。元譲さまは、薄着をお止めになったほうがよろしいかと。ちゃんと暖をお取りください。それと、お部屋の炭がなくなる前に、お呼びください。炭の備蓄はたっぷりありますので」

婦人ならではの、どこか柔らかい声だった。

「しっかりした明雪がいるのは安心だ。気がついてくれるのは、うれしい」

「お褒めのことばですか」

「そのつもりだ」

「しまっておきたいと思います」

「それほどのものではないだろうに」

「旦那さまには些細なことかもしれません。でも、わたくしにとっては身にあまる光栄ですもの」

忠実な奉公人の心境に、すこしばかりの気恥ずかしさを感じた。

物憂げで冷ややかなる目元に、くっきりと陰影が宿る。ひとつしかない明かりは暗やみを増し、雪なる肌の深みを濃く彫る。

極寒の冬へと進む季節の便りが運ばれて来た気がする。それに混ざり、甲冑の音も馬の嘶きも聞けた。

「春が終わる頃には帰って来られるかな」

戦があることは、この屋敷の者なら周知の事実である。

「理嬢さまも、お元気になられているでしょう。なまめかしいくらい、このお屋敷の庭は際立ちますから」

「だといいがな」

「きっと、よろしくなります。ええ、きっと」

「気休めはいらん。医者でもないくせに、大口を叩くな」

明雪の肩が小さく弾かれ、俯いた。燭台を持った手が、震えている。

「申し訳ありません。ですが、わたくしはそんな気がしてならないのです。身に堪える冬が来て、暖かな春が来ることが良い方向に向かうと」

「もしも、か。推測の域を出ぬことだな」

「誰しも先のことはわかりませんわ。予想をめぐらすか想うか、それだけですが、わたくしでしたら存分に想います」

理嬢が回復すると想像ができなかった。春になれば、色の馥郁とした花が咲き、はしゃいでいた理嬢はもう見れないのだ。その前に、従兄上がつれて帰るのだろうから必然的に見ることはない。そして、自分には妻ができることになる。これまでとはちがう。変わるのだ。

初めての華燭の儀。同時にできる息子。これを期に、理嬢とのすべての縁は断ち切られることになる。

「だが、明雪は長く曹夫人に仕えているからな。一応、期待はしておく」

顔を上げて、凝視する明雪の眉は寄っていた。

「旦那さま?」

私の知るあれは、もういない。あれは曹夫人である。女房がいずれできる我が身。今になって、思い直した。過剰に接することなどもうない、むしろ今までのことが不自然だった。

「曹夫人も、お前を気に入っているし、私などよりもよかろう」

「なっ……………」

夏侯惇は遠くを見つめていた。どこかのあきらめと、不甲斐ないほどの気の抜けた呼吸とともに。

「私は旦那さまには及びません。理嬢さまのお近くにいらっしゃったのは、あなたさまではありませんか」

曹夫人の名を重くして言った。押し返すように言葉を返す。

「ずっと以前だ」

「理嬢さまは理嬢さまですよ?変わりはありませんでしょう。そのように突き返しなどなさらないでください。これからも、お元気になられるよう、そばにいらしてください」

「これからは、お前がそばにいてやればいい。従兄上がお迎えに来たら、そのまま付いていっても構わない」

「ほんとうに、あなたさまのお考えですか?私にはそうとは思えません」

「虚言は言わん」

「軽薄だとは感じないのですか。わたくしなんかより、理嬢さまが頼りになさっているのは旦那さまです。理嬢さまには旦那さまが必要だと考えて参りました。ずっとずっと昔から」

「戦が無事に明ければ妻を娶ることになるだろう。従兄上から課せられた役目は、終わったことになる」

私の役目は幕を閉じた。役を辞めた。止めた。妻のことは、明雪にとって初めて聞く話であった。頭を殴打されたのにも似た錯覚に陥る。

「それとこれとは関係が」

「無いとは言い切れない。私は妻を娶る。それなのに、どうして従兄上の妻に懸念などできようか。万が一に曹夫人が私を必要としているのなら、関わりなど既に無くなったと教えてやれ」

「父と娘のような。いえ、親子の間柄なのではないのですか。奥さまを迎え入れるからと言って、断ち切れるものではないはずです」

なぜこうも、この娘は追いすがってくるのだろうか。だんだんと辟易する気持ちが表にでてくる。

「むきになるな、明雪。世間一般の常識だろう。人の妾の世話をするなど、いかがわしいとしか捉えられん」

「なにがいかがわしいのです。ちがうでしょう。わたくしは、あなたさまと理嬢さまはのご関係は、清らかだと思います。本当に、本当に、結びつきを絶つのですか。理嬢さまは望んでなどいるはずありません。だって旦那さまがいらっしゃるとあんなにうれしそうなお顔をなされるのですよ。まさか、知らないなんてこと」

明雪は叫びにも近い声を出したが、夏侯惇は背を向けた。

届かなかった。

見捨てるのですか。

夏侯惇は理嬢を放逐したのである。あまりにも唐突で、身勝手に。部屋の扉を閉めたとともに、灯が消えた。

「非道すぎます。非道すぎますっ…………」

口の中で呟いていた。明雪は受け止めることができなかった。曹丞相の側室になられるための教育という関係だったけれど、あんなにも親密な関係で、それこそ父娘のようで。怪我を負えば気を配り、病気になれば付き添い看病にあたり、仲むつまじいものであった。だのに、容易く冷血な主人に成り下がった。変わってしまわれた。

おやさしい旦那さまが変わってしまった。心中は、知る由もない。どんなに辛い葛藤や苦難があったとしても明雪は震えた。寒さのためではない。







寝台に腹這いになって目を閉じると、当然のことながら暗くなった。黒を背景にして、色の区別がつかない点滅が幾千の虫としてうごめく。水紋のように波上に広がる点滅。

胸のなかに、心の臓とならぶ腫瘍があった。無理に消そうともしなければ毒薬にはならない。それでも、消そうともせず、ずるずると延ばしていれば蝕む毒になる。

たちの悪い病だ。毒と、できものは理嬢である。あんな娘なぞ引き受けねば、あんな葛藤は生まれず、おだやかに日々を送り、夏侯淵が言うとおり、妻を娶り、子を成し、愛息たちを伴い戦場に鞍を並べ進撃する時を楽しみに待つ平凡な父親として、にぎやかに息子たちの快活さに手を焼いていたかもしれないのだ。あんな娘を引き受けてしまったばかりに、私の人生はおかしくなった。また、変な男がこの屋敷に住みつき、さらに調子をおかしくさせてくる。

私は俺の持つべき幸せを奪われたのではないか。

あの日から、私の生涯は狂わされたのではないか。あれは俺の運命を狂わしたのだ。何年にもおよぶ病は、いま心を蝕んでいる。

逃げたいと思った。

断ち切れるのは遠い未来ではない。

寝返りを打つ。外は明るくなっていた。

使用人のひとりが朝食を運んできたが、一切手をつけなかった。

ただ無意味に時が過ぎる。聞こえてくるものがある。曹夫人をかしづいて、庭を散歩しているのであろう侍女たちのかん高い声がする。

冷血な主人が息を潜めているのをよいことに、咎人のように閉じ込められていた女を外界へ連れ出した。歓喜が五月の蠅のように煩わしい。当てつけか。どこかよそに行ってくれ。すくなくとも、俺の耳が届かぬ場所へ。それでも近くにあろうととがめるようなことはしなかった。俺を煩わせる元凶たる存在を視たくなかったのだ。

睡眠に逃げたが夢は見なかった。しばらく窓縁からこぼれる陽を浴びる。夢を見なかったのは、俺があれから離れたからだ。ある種の証と言えば証なのかもしれない。

まだまだ明るいが、持ち込まれていた朝食は冷えきっている。空だった腹は、冷たさに応じてにおいが強まった飯を受け入れた。

髪を整え着替えをすますと、庭に出た。女どものかしましい声は聞こえなかった。

鳥のさえずりも風の音も草木のささやきも、すべての響きは正体をくらませ不明になった。

四阿のひとつで、柱にもたれながら時の流れを感じた。とても静かな時間で、ひとの気配を感じさせない。煩わしい外界から疎外を命じられたようだ。それが、いまの夏侯惇には心地がよかった。これからはきっと狂わされることはなく、豊かな日々が待っている。願うことだ。

隣に夏侯淵が座っていたことにも気づかなかった。夏侯惇は話しかけない。従兄の姿を確認しただけで、目を瞑った。

「従兄上のところへ行ってきた」

音が入ってくる。

「何十日ぶりかの殺人鬼について教えてもらった。従兄上の妾五人が殺されて部屋はめちゃくちゃで掃除に手こずってるってさ。従兄上の眉間がめずらしく深かったよ、出陣もあるし、平然としてろっていうのは無理ってもんだよな」

「臓物五人分とは想像もしたくない」

「部屋と言っても離れだし、さっさと壊しちまったほうがいいと思うんだよな」

「従兄上に教えてさしあげろ」

「まあ、ひとり救われて六人にならなかっただけ、よしとしないと」

「ひとり?」

「よかったな、理嬢はお仲間から外れて。ここにいるんだろう?」

「言っておくが、私の屋敷に理嬢という女は居ない」

夏侯淵は切れ長の目をしばたかせたものの、黙っていた。

「預かった従兄上の側室は居る。だが、理嬢はいない」

傾く身体の夏侯惇はひどく憔悴し落ち着きが無いように見える。さらに、理嬢についてなにか大きな変化があったのも分かる。感じ取れることはそれくらいだ。

「その奥方さんはどうしているね?のんびりなさっているかい」

「女どもとそこらを歩き回っている」

煩わしいかぎりだと、夏侯惇は毒づいた。

「散歩ね」

この屋敷の門をくぐってから、やけににぎやかな華やいだ声が響いていた。

「一緒にしないのか」

「どうして」

「えっ」

「他人の奥方に付いたりはしない。歩くなら、自分の女と歩く」

「ようやく華燭に乗り気かい、それでいいよ。けれど、俺には自棄を起こしているとしか見えんがね」

「先日、淵が言ったような人並みの幸福でも味わおうと思っているのだよ」

「俺が言った幸福?」

目を瞑ったまま夏侯惇は言う。夏侯淵は周囲の音を耳にしながら逃げ口上を聞いていた。すこしばかり外れた理屈に沿った言いわけは、この従弟らしい。しかし当の本人は知らぬうちに逃げ道を見いだしているのであり、見え透いた言いわけに気づいていない。

「人間らしくなって俺はうれしいよ」

「人間らしい?なんだそれは」

「ただの比喩さ」

苛立ち。心の底では言いわけをよしをしていない。夏侯淵はすこしずつ真意を知ろうと顔色を変えぬように横目でうかがった。夏侯惇の左眼は潰れているが、いや、潰れているからこそ並みの人間にとらえることのできないものが見えていると思うからだ。実際、負傷してから夏侯惇は鋭利さを増した。近づくだけで、かまいたちの傷を負わされそうになった気に襲われたこともある。

「冗談は控えてもらおうか。機嫌があまりよくないもので」

「おやおや、なにかあったのかね」

「ことがあったのは従兄上のところだろうに」

「惨場を知りたいか?実際に見たわけじゃないし聞いた話だから、信憑性にはかける」

「愉しそうだな」

「うまれつきだよ、俺が話すとどんな暗いはなしでも、あかるく聞こえるんだと」

性格や武技をひっくるめて、対照的なのだろうと思う。夏侯淵が沈んでいる様子は見かけたことは丸きりないし、まず似合わないだろう。もし消えた蝋燭のような姿をみせるとしたら、腹を下したか気が触れたとしか考えられない。

夏侯惇は目を開けた。そして、ゆっくりと夏侯淵に向き直る。

「戦では惨劇は常。いまさら、殺しの残り香を訊いたところで、興味も起こらない。どうせ、そんなことはもう従兄上の、淵の私の耳さえにも届かんよ」

「なんでわかるよ。惇」

「勘だ。いや、希望に近いかな。ひとを殺すだの殺されるのは戦場だけでいい」

「それは同じ意見だな。血はそこだけでいい」

「だが、意のままになることは少ない。神でもない我々がいくら願おうと叶わぬ。なんとも儚いな」

消極的な発言。じっと、夏侯惇は見据えていた。どこか狂暴性を潜ませた隻眼に身じろぎそうになるが、耐えた。反らせば、それで負けを意味するような気がした。べつに、喧嘩をするでも諍いを起こしているのでもない。これからの事象を糸を張りつめているというものでもなし。意図が知れぬ。

この眼光の異常さはいったい、なんだろう。

突然、夏侯惇は異様に落ち着いた声で言った。

「私は何人殺したと思う」

「どうしてそんなこと訊く」

「いいから答えろ」

夏侯淵は考える素振りを示した。

自分と従弟は、従兄である曹操の旗揚げ時から従兄弟という間柄もあり、志しと人がらに惹かれ従った。何回も腐臭にまみれた場面に遭遇し、何人もの人間と対峙を果たす。十本の指では数えられぬほどの人間と刃を交えた。弓術が得意である自分は、どれほどの矢を射ったか。

思い出というには軽すぎるものだ。自らの手にかけた人間のことを思いやったことはすくなかった。射殺すことに慣れゆく途中で、止めたのだ。こころのどこかで戦だからと割り切っていた節もある。

指を絡めた手のひらに、汗が滲んでいる。

「数える暇なぞねえ……………」

斬った。射った。

「わかるわけないじゃないか」

「そうだ。わかるはずなどない」

夏侯惇は隻眼を夏侯淵からはずし、立ち上がった。

「私がこれまで殺してきた数など、いまになってわかるはずなどないのだ。そして、殺しという事実を否定されることもないだろうな」

「多くの犠牲をはらって、それで、みんな生きてる。俺たちだけじゃない、ぜんぶだ」

「死んだものたちは、私を怨むだろう。大事な関係者が必ずいたはずなのだから。縁者たちも、私を憎んでいるだろう」

「戦では死ぬか生きるか。殺してった奴も、覚悟してたはずだ」

無我夢中であった。気を抜いたらお仕舞い。築いてきたすべてのものが底辺をも残すことなく崩れてゆくのだ。お仕舞いは肯んじえない。だからこそ情けは必要ない。情けをかける余裕がないのは、おそらく死んだ相手たちも同じであろう。

しかし、罪にならないとは言えぬ。罪なのだ。

「気負ってるのか?」

「まさか。私は断然ふつうだ」

「おまえはひとりで抱え込むから、ときどき、心配になる」

「色恋沙汰の次はそんなことか。淵も忙しい奴だ」

「従弟どのが、かわいくてかわいくて、仕方ないのさ」

「奥方にでも言ってやるのだな。男が言われても嬉しくないぞ」

「女に対する意味合いじゃねえよ」

短めの笑いを切って、夏侯淵は夏侯惇の背を見た。毒気を少々含んで、言う。

「おまえは晴れて言ってやれよ。花嫁さんに、かわいいかわいいって。ただでさえ女の扱いに疎いんだから、練習しておけよ」

「俺にそんなのは似合わない」

「まあねえ。もしそんなことがあったら、お天道さまとお月さまがお顔を出さなくなるかもしれねえ」

「大さげな、もっと腰をひくくして言えばよかろうに」

「人間、冗談は大げさなくらいが、ちょうどいいんだ」

「冗談は好かん」

風が遠慮しがちに吹き始め、常緑種の葉がこすれあう音をうながした。夏侯惇の耳にもそれは聞こえる。近くにある大木の枝にくっついていた葉の多くは地面に落ちている。声が色が変わったわずかな葉は負けじとなんとか耐えていた。夏侯惇は夏侯淵の隣に腰をおろす。

「ところで、従兄上とはなにを話した?世間話だけではなかろう」

「ああ、もちろん。荊州にいる劉備のことなんだが、劉表は関係なく、あいつの仁徳を慕う民が思いのほか相当多いらしい。民だけじゃない、劉表の部下も」

曹操の手の内の、忍びの施しを受けたものどもによる情報であろう。足や目、耳がどれくらい潜んでいるのかは、夏侯惇、夏侯淵でも数を把握できない。それだけ曹操は用心深い人間で、聡明なのだ。

お家の問題はもちろん、人民の状況もきめ細かく調べさせる。

「荒んだ世に、あれは慈悲の神のごとく映えるのだろうな」

「俺にはいい顔を振りまく偽善者にしか思えんがね」

人間は善よりも悪が勝ると言いたげに、鼻を鳴らした。夏侯淵は実力と才能でのし上がった曹操に比べ、劉備を漢王室と姓が同じということで、名で得をしている成り上がりの軟弱者と思っているらしい。

夏侯惇は肩を軽く叩いてなだめる。

「つづきを」

「……………それでだ。従兄上としては徐州の二の舞は避けたいわけだ。俺もあんな殺戮は御免だ」

「農民を殲滅する戦ではないはずだぞ」

「望まざると巻き込まれたら、どうする?」

力のないものは力のあるものの犠牲者だ。

夏侯淵はなかで無抵抗の一般人もろとも虐殺した過去をそのまま投影していた。曹操の父曹嵩、弟曹徳、他一族のための仇討ちであった。曹操に劣らず憤怒のままに駆けた。それが極めて非人道であり、酷く評判を落としたと気づいたのは終わったあとのことである。

「いやいや、劉備が劉表に加担し、我らと一戦交えるといって民を狩り出すとは」

「なんたって、こちら側が戦力面では圧倒しているのだぜ。奴らの選択はふたつ。死守か降伏。前者ならどうしても戦力がほしいだろう?」

一般人の戦力投入。徳の劉備は反対するかもしれないが、劉表はするかもしれない。

劉備は劉表の食客である。そして互いに「劉」の姓を持ち、系譜をたどればいつかは同じ先祖に行き着く。客として主人の成すことを諫言することはできようが、止めることはできまい。親族のためと力を貸しもするだろう。

だが、あの男が民を守護するという信念を曲げるだろうか。

「……………劉表、そこまでするか?」

「あくまで、もしも、さ。ないとは言い切れない。鍛錬のされていない農民は使いものにならないが、死に兵としての価値はある」

「まるで駒だな」

「槍や剣とか握らせて兵に仕立て上げる。いまに始まったことじゃない」

「弱きが利用されるとは、なんとも心苦しい」

死に兵はそのまま、死を前提に意図的に配置された兵。先兵として陣を切るが、一番前だから奇襲のような攻撃も受けねばならないため全軍のなかで死ぬ確率はずっと高い。だいたいの場合、鍛錬をほとんどしていないものや見込みのない落ちこぼれが選ばれたりする。報酬で募ったりもするが、懐に入れている光景は見たことがない。

「我々でも、農民が武装していれば見分けはできない」

人間の数は温存したい。命を奪う罪悪の以外に、目的がある。ひとの数は国力を表し、ひとが多いほど豊かになる。敵方でも、できれば無傷の状態のまま兵力かつ人力を呑み込んでしまいたい。

減らすのではなく、増やしたい。

戦では必ず死人がでる。衝突が繰り返されるほど、山のように積み上がる。

「ああ、いけねえ。やめようぜ、こんな話」

首を振り、身体をはげしくさすった。

「あ、く、ま、での予想なんだから。悪い悪い方向へ考えるのはいかんわけではないけど、考えすぎはいかん。病は気から、暗い気からは惨事だ」

「だが、私たちのはたらきしだいで、どんなかたちにもなる。従兄上のため民のため、尽力すべきだ」

「そもそもだ。惇のせいだ」

「私の?」

「鼻から暗い方向へと持って行きやがる」

「なぜ私が」

「俺が知るか。自分で見つけろ」

「え?」

「くだらねえ比喩さ」

片目だけを細め隻眼をのぞき込む。会話の途中から引っかかっていた真意は姿の大半をひそめてしまったため、もう自分では捕らえられなくなった。他人の心理はある程度わかるが、夏侯惇は無意識に上手く隠してしまった。

直入に理嬢となにかあったのだろう?と訊けばよいのだが、触れてはいけない禁じ手に触れ、火傷をしそうで、あきらめたのだ。

夏侯惇の両肩に両手をついて立ち上がる。夏侯淵の足どりは颯爽と四阿をあとにする。夏侯惇は追った。

「帰る前に茶の一服でも」

「帰るよ」

紳士然とした口調に、夏侯惇は躊躇いを見せたが、ほんの瞬間だった。すぐ物静かな様相に戻る。言葉なく従兄を見送った。

砂埃が秋風に紛れて舞う帰路を、黙々と手綱を握って歩いた。愛馬も黙って付き従う。にぎやかで騒がしいくらいの空間を好んだりするが、たまに、世界がおのれひとり遺されたような孤独の空間も好きだった。

道に人気はあり、店屋もたたずむ。人が多いからこそ存在する無の空間がある。

そんなとき、がらにもなく思いに耽る。どんなことでもよかった。狩りに出逢う獲物、手に馴染むゆるやかな曲線を弓。今後の流れ。ときどき、人間のことも考える。歩きながら、理嬢について思いめぐらす。

理嬢を側室にと聞いたときは心底たまげた。幼い少女、しかも素性も知らない。曹操の女好きと好色を十分承知している夏侯淵だが、性癖を疑った。さらに、夏侯惇に教育を施させるため預けさせたというから苦笑しざるを得ない。重ねて、妻妾さえも迎えず、女を近寄らせない男のもとに置くなど。少女が哀れで仕方がないばかりか、押しつけられた夏侯惇に同情した。

記憶をなくしていた少女は、身体と精神が釣り合わない大きな赤子同然だと思っていた。清廉なあいつでも、こればかりはさっさと突き放し、屋敷の女たちに食事から学問、作法、嗜みすべてを任せる。名目上の教育係は離れた場所で、眺めているのだろうと。

いくらかして訪ねてみると、自分の思惑はみごとにばらばらにされた。耳を片方だけ塞ぎたくなる箏音がする。とんでもない音は、夏侯惇のものではないだろう。

書斎に通されると、書きものをしていた夏侯惇は、夏侯淵を椅子に座らせた。

少女の詮索をしたいと現れていたのか、一瞥しただけで、席を外す。

茶と菓子を運んできた小間使いに、いろいろと尋ねることもできたが本人からの口のほうが面白いと我慢した。箏曲が止む。やはり娘っ子のか。夏侯惇が芸を仕込んでいるのだろうな。

小間使いとの入れ替わりで入ってきたのは夏侯惇である。陰に隠れている少女は、背を押されて俯きながら不器用な礼をした。夏侯惇がなにか注意をしようとしたが、さがっていいと言うと、ぱたぱたと戻っていった。

夏侯惇は夏侯淵のどうでもよい問いに答えていく。

素性はなにかしら知れたか?

いいや、さっぱり。

食べ物に好き嫌いは?

あまり、ない。

読み書きはできるのか?

ゆっくり教えている。

おまえが?

そうだよ。

へえ。ほかにわかったことは?

貴人出身ではないな。あの身のこなしは。

大人しい子だな?

客人の手前しおらしくしていたが、じつは奔放でな。昨日、腕に大きな切り傷をつくった。

子守は大変か?

苦には感じていない。

名前はなんだっけ?

理。従兄上はそれに、嬢とつけ加えた。

なかなかにご執心だねえ、従兄上は?

執心、というのかね。

あの娘っこには、話してやったのか?

側室にと?まさか、まだ話すわけなかろう。

箏曲が響く。

下手だな?

だろう。けど、あれでも巧くはなったんだ。

夏侯惇は夏侯惇の顔だった。夏侯淵は、子どもと接するのなら、おやごころという本能で誰しもが親兄弟のようになると思っていたから、それらを漂わせない夏侯惇をふしぎに感じた。

側室へと預けられた少女だからなのか、故意なのか、まだおやごころに目覚めていないだけなのか。

それから、観察という名の訪問を度々した。ついでに、時々、あやしのつもりで遊び相手を。

男児ばかりが父親に託され、女児は母親につくため、少女の成長は見ていてたのしい。しかし、箏の腕だけはあがるどころか退化しているように思えて苦笑した。あそこまで下手でいるのもめずらしい。

会うごとに、やんちゃの影が薄まり、見事に、従順で貞潔な淑女になる。女はこんなふうに成長するのかと思った。

理嬢の肌は白く、頬が淡く桃色に色づいている。とくにとはないけれど、吸い込まれそうな茶色の瞳が印象的だった。美人というわけではないが、逆にそれが好感的で、なんともいえぬ愛らしさに包まれている。長い髪は細く、揺れるたびにさざなみが聞こえるようだ。

外で、夏侯惇の後ろをしずしず歩いているのを何度か見かけたこともある。理嬢は侍女だと周囲に話していたが、納得したものはいるかどうか。

ふたりは親子には映らなかった。父とする瞳が、子とする瞳がかち合わない、ずれた感覚。

正体が不明の情けが絡み合っている。俺だけではないはずだ。この違和感を感じる奴。

恋情かと感じたのに、探ろうとしてもぐりこむほど、恋情とは離れた、ずれていながら親子のものとなる。

異常で、怪奇。

家まではさほどない路上で、おいと言葉を投げられた。耳にしたことのある声に振り返った。

たくさんの人が行き交うなかに、そいつはいた。埋もれるように。

いままで思い出し考え巡らした娘の理嬢。しかし。

理嬢の顔であるのはたしかだが、根がちがう。あの少女に備わっていた、ほのやかさはない。華美があった。小柄ではない、長身である。

皮を被った鬼か。そうだ。いいや、曹操からおかしな男の話題が。理嬢と同じ顔をした男がいると。そいつは、夏侯惇のそばに居着いている。

これが?

曹操は言った。そやつは……………という名で、我の首を狙っていた。首のここに刀を突きつけおってな。……………は、獣の皮を被った人間よ。だが、興味はそそられる。

面妖ですな。私も一度会ってみたいですね。

その際は気をつけたほうがよいぞ。やつは、……………は、どこぞくるっておる。

茶色の瞳で夏侯淵を見つめ、かたちのよい唇を上品にひく。流麗に、ごきげんようとつぶやいた。声。

男は、肩をぶつけながら、まっすぐ夏侯淵に近づいてくる。長い髪が波の靡いていた。

名は、なんといったのか。……………は獣の皮をかぶった人よ。と、曹操は言ったが。

名は。

ごきげんよう。かたちのよい唇は下卑た色をひく。勇猛と言われる将、夏侯淵は怖気をふるう。

こんなにも醜い人間がいるのだろうか。安眠を誘われる美しさと、嘔吐を催す醜悪さが混在している。

ごきげんよう。……………

そいつは言葉を連ねた。
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