第六章 刹那 最後の祈り



半月が経った。長かったような短かったような日数だった。

人間、当初は慣れぬ仕業であっても時間と労力をかければ知らずのうちに順応するものだから、不思議である。手順が分かれば、そのとき行うべき対処も自ずと知れる。生きるなかでの流れとして受け止める。縁談がまとまり、半ば不本意に妻を娶ることも。理嬢をもう一度世話することも。

夏侯惇の屋敷はそれなりに広い。理嬢と、侍女、使用人たちがいても、住むには十二分すぎた。庭も広く四季にふさわしい花と植物が謳う。

夏には、蓮が群れる。その池のすぐそば、木々がうっそうとするなかに、ひっそりと小さな四阿だったものがあった。

四本の柱に囲まれ、薄い慢幕が壁の役割をはたしたのはかつての話。ひとときを優雅に過ごすものでもなく、牢と言うのがもっともかもしれない。壁は石を積み、隙間を粘土で固められ改修された。出入り口の扉もあり、閂がついてある。

ずっと以前に、夏侯惇も口伝でしか聞いたことがない前世代の誰かが、悪事を働いた使用人を入れるために造り、躾を兼ねて幼児も閉じ込めたりもしたそうだ。今では、そのようなことに使い道などないから、もっぱら物置としていた。

理嬢が居る。

そこに入れろと命じたのは、紛れもない夏侯惇である。

理嬢の周辺の世話を任されていた女たちは、眉を逆立たせた。季節は晩秋。あんな冷たく狭い場所に、理嬢さまを閉じ込めるのかと叱責された。凍えて死んでしまうと。

夏侯惇は鬼ではない。狭いなかに、寝台を、何枚もの帳を、桃の香水に香炉を、火鉢を、花瓶に生けた花をと、目で楽しめるであろう華やかさをと、できるだけの配慮を施した。それでも、侍女たちには突然変貌した冷血な主人と見えていることだろう。悪いことではない。事情を知らぬものたちを、咎めることなどできない。事情を知ったうえでの決断を下した夏侯惇はわかっている。

理嬢が殺した。

恐れていたことが起こってしまった。

目覚めたら襲いかかってくると身構えていたが、違った。ただ、めちゃくちゃに暴れる。涙を流し、震え、なにかに恐怖するかのようにうなされて叫ぶ。瞳も茶色いままで、正気を失い無我夢中に、こないで、さわらないでと顔を知っているものであっても視界に入ると壁と壁がつながった隅をもとめ、頭を抱えうずくまった。いや、いやと拒絶を口にしながら身体に爪を立て掻き毟り、いくつもの赤い線を引いた。また、たすけて、ゆるしてと壁を勢いよく掻きしだいたため、何枚か爪が剥がれた。この状態の理嬢は、だれかが触れようものなら、それこそ断末魔がごとく絶叫しながら手を振り回し、足を藻掻いて暴れた。尋常ではない力だった。細い腕が、まるで別の生き物のようにうねり躍る。

他者の肉を怖がっているようだった。

最初の日、侍女たちだけでは押さえきれず、夏侯惇の加勢を要し、どうにか押さえ込んだ。発作的な錯乱は理嬢自身への危険を予想させた。そのうち、取り返しのつかない傷を自らに負わせるかもしれない。手荒なまねだと蔑まされるが、四六時中、理嬢の両手と両足は合わせられ、綿を入れた布をそれぞれ巻いて痛いほど固く帯びでくくりつけられた。これで、自分と侍女ひとりの手で事足りる。

すべて、夏侯惇が決めたことだった。

仲間うちで決めたことか、夏侯惇とともに世話をするのは理嬢よりすこし年下の明雪という名の娘だった。

「理嬢さまのご昼食のお時間です」

食事は日に三度運ぶ。明雪が膳を持ち、開いている扉の脇にひっそりと立っていた。

「行こう」

書きものをしていた筆が置かれる。

夏侯惇の後を、しずしずと明雪はついてくる。明雪は物静かな女だった。目元はひややかで、線が細い。表情はあまり変わることはなく、名にあるように、雪のごとき冷たさが常に漂っている。

閂をはずし、扉越しに呼びかける。返事がなければ、眠っている証拠だ。夏侯惇がなるべく音を立てないように中に入った。

高窓からの日の光が、寝台を包み、ちょっとこぼれたきらめきが、猫のように身体を丸めて眠る理嬢に注がれていた。

夏侯惇は呼吸を静め、気配を消して近づき、寝台に膝をついて娘の身体を抱えた。口を塞ぐ。揺らす。起きた理嬢はくぐもった声に喉を震わせて、暴れた。痙攣のように錯乱する。固い頭が顔に当たることも、膝が腹へ入ることも、つながった両手が胸を打ち、首筋や腕に肘を当てられることにも慣れた。この方法が、一番手っ取り早いからだ。

この間、自分がどんな表情をしているのかは分からない。自分がわかることはふたつある。ひとつは、唇を噛み、歯を喰いしばっている。ひとつは、目を瞑っている。けたたましく騒ぐ娘を腕に抱き、気の遠くなるような時間をひたすらにじっとしている。声はかけない。理嬢。落ち着いてみせろ。

明雪は膳を持った状態で、棒のように立っていた。夏侯惇の背を、淡々と見つめている。なにを考えているか、思っているかも知らぬ。ただ、じっとしている。

食事が冷めかけたころ、理嬢は息が抜けていくように身体をゆるませる。徐々に落ち着きを見せ、ようやく静かになった。

口に当てた手を離し、向きを合わせる。ぼうとして、虚空を眼がたゆたっている。まるで、夏侯惇も明雪もこの場に居ないように。理嬢、と声をかけると反応を示した。

「夏侯惇さま……………」

「昼食の時間だ」

「ちょうしょく……………」

抑揚がほぼない言い方。夏侯惇の言葉の意味も、理解していないようだ。

「明雪」

「かしこまりました」

「めいせつさん……………」

「おはようございます。理嬢さま」

明雪と入れ替わる。理嬢の背に枕をあてがってやり、上半身を楽なように安定させる。明雪が、さじで食事を理嬢の口へ運ぶ。規則的な食事はこうして進む。粥と、野菜を塩で炒めたものが昼食の内容だった。昼食のみならず食事はいつも質素なものだった。もっと栄養がある肉や魚が使われていないのは、理嬢が口にできなくなっていたためだ。においがあるだけでも、拒絶を示す。ろくに胃のなかに入っていないのにもかかわらず、吐き出してしまう。

だれが見ても、痩せた。表情も乏しい。

毎回の食事を作るのは明雪だが、あれこれと工夫をしているのはたしかだ。夏侯惇でも、その努力をうかがえることができた。

「お口にあいますか?」

「おいしい」

こういうとき、明雪はひどく嬉しそうに微笑む。冷たさが溶けて、暖になる。食事の光景を見守りながら、ひとくちでも多く腹に収めてくれればいいと思った。

粥が口のすみからはみだしたまま、理嬢は雲が流れるくらいゆっくり咀嚼をした。明雪が裾で拭ってやる。

「おかゆが、ちがうね」

「気づかれましたか?といた卵と混ぜてみたのですよ」

「へえ……………」

「お気に召しましたか?」

「うん」

かすかな生気をたたえた眼が、量を多く残す卵粥を映す。大きな進展だった。

「もっと召し上がれ」

「……………いらない」

「あらあ、ではもうひとくち」

「ほんとうに、おなかいっぱい。めいせつさんのごはん、きらいなわけじゃないの」

咲きかけていた花が、あえなくしぼんでしまった。明雪は粥の椀をさげ、野菜の皿を理嬢の前に差し出した。あっさりと、塩だけで味付けしている。

「お野菜を炒めたものはいかがです?」

理嬢は首を横にゆるゆると振り、立てかけてある背もたれの枕を横にした。そして、布団のなかへと潜ってしまう。

「ごちそうさまでした」

「今度は甘みのあるものにいたしましょうね」

「はちみつをつかうの?」

「ええ。砂糖も入れましょうか?」

「あまあい」

「たのしみにしていてくださいましね」

にこにこと笑う理嬢に頭を下げ、明雪は一度出て行った。狭い空間にふたりきりになると、言葉を交わす。一方的で短すぎる会話ではあるが。

「もうすこし食わねば、身体が保たぬぞ」

寝台に腰掛け、理嬢の長い髪を梳く。眠たげな目を瞬き、頷いた。

「たべてるよ」

理嬢はやつれた。もとより白かった肌はより白く、透き通るかのようで、隈が不気味に浮き出ている。目に力はない。横になり、寝る姿でさえ、危篤の老婆のごときの危うい状態に思える。理嬢はなにも望まなかった。望むことを示さず、事柄を申さず、戻ってきたあの日から、一日の大半を眠り、ごくわずかな時を夢現として過ごす。

曹操の奥殿で、起こったことを知る術はない。だが、理嬢の爪には肉片が挟まっていた。人を殺したという強固たる事実が、明らかとなった瞬間であった。ひとまず、曹操が殺されずに済んだという安堵があり、すぐ頭を鉄棒で殴られた衝撃が身体を貫いた。呆然とする夏侯惇に曹操は理嬢を押しつけ、言葉を残し去って言った。掃除をするためだという、掃除にはどのような意味が含まれているか、知っていても認めたくない。あれ以来、音沙汰なかった。

「夏侯惇さま?」

理嬢が夏侯惇をのぞきこむように声をかけた。

「はい」

「どうして……………わたし、ここにいるの?」

理嬢の記憶に欠けている部分があるようだった。何故、夏侯邸にいるのか、いまだに把握できずにいる。さあな。夏侯惇は聞かれるたびに濁していた。はじめてではない。

「いつ、かえってきたの?」

首をちょっとかしげた。

「ふしぎですねえ」

「ああ、わからんこともあるものだな」

「ずっと、もうとくさまのおうちにいたのに。しかんさまも、たまにあそびにきてね、ぶらんこをして、おにごっこをしたんだけど、しかんさまは、あしがはやいからつかまらない」

「今度は私も一緒につかまえてやろうか?」

「だめ。夏侯惇さまは、ずうっとはやいんだもの。しかんさまが、ないちゃう」

より過去の出来事と最近の事実が入り交じっている記憶。

「あっ……………あのねえ」

「うん?」

「もうとくさまが、ねこをくれたの。ちいちゃくて、かわいいの」

「そんなに可愛いのか」

「しろいねこなの」

「名前は、つけてやったか?」

「ゆりって、いうの」

以前、曹操の話に出てきた子猫のことだろう。理嬢は、猫がいるように手のひらのうえの虚空を撫でるような動きをした。

記憶の欠けた理嬢は、ひどく幼くもなった。

「見てみたいな。会えるかな」

「どこかにかくれちゃった」

「きっと、見つかる」

「りのこと、きらいになっちゃったのかなあ」

しゅんとする理嬢は、弱々しく手もとを揺らめかせた。

「おまえは、いい子だ。嫌いになったのではない。ただ、散歩がしたくなったのだと思う」

「りは、わるいこじゃない?」

「悪い子ではない」

「りはわるいこなんかじゃない」

「悪い子、ではない」

空気が一線を引いたように、しんとした。

「水をお持ちしました」

扉の前で待機をしていたであろう明雪が、水を湛えた桶を持って入ってくる。いつも、間と間を紡ぐ言の葉がなくなると、頃合いを見計らって敷居をまたぐ。明雪にとって、待つ時間は神経をさらに張り巡らしておかねばならぬ疲労であるにちがいない。

「お身体を拭きましょうね」

「さっぱりするね」

理嬢は、自分から這い出そうとする。手をかして布団をはぎ、ふたたび上半身を起き上がらせてやった。

「では、あとのことは、明雪」

夏侯惇は言った。明雪は桶のなかから手拭いを取り出して絞っていた。

「はい、おまかせを」

外へ一歩、踏み出したとき、声が流れ引き止めた。

「夏侯惇さま」

振り向くと、理嬢の両手足の拘束が解かれている途中であった。茶色の瞳が潤んでいる。

「どうした?」

「まえに、夏侯惇さまにもらった、みみかざり、なくしちゃったの」

「耳飾り?」

「あの、しろい、きれいなの」

「あれか」

ときおり、揺れる髪の隙間からのぞく小さなきらめきを思い出した。

「ごめんね、ごめんなさい。ちゃんと、あったの。でも、なくなってて」

ぼろぼろと涙を零して、何度も謝罪の言葉を口にしている。

「気にしなくていい。新しいものを買って来よう」

「いや」

理嬢は頷かなかった。

書斎の戸を引いて目に入ったのは、雀(シャン)が書簡の山積みになった机に臥せているところだった。無断で部屋に入っていたこの男に、夏侯惇は戸を強く閉めることで嫌悪を露わにした。当の雀は飄々としていて、ここの主人が戻ってきたことにも無頓着だった。頭をもたげただけで、すぐさま臥せてしまう。

「貴様に礼儀というものはないのか」

「礼儀とは、遠慮でしょうか?それはなんぞや?」

「勝手に部屋に入るな」

「だいじょうぶ。あちこちをいじくるような、野暮なまねはしてねえよ」

「そんなもの、問題ではない」

「ならいいじゃない」

「よくないから言っているのだ」

雀の両脇に腕を入れて無理矢理引き立たせて放る。強引だなと、呑気な長い声を出しながら、よろめいたふりをしていた。こんな馬鹿馬鹿しい男が理嬢の弟だということ、ただでさえ癪に障る。さらに、理嬢を彷彿とさせる顔をしているこいつを見ることに、筆舌し難い不愉快さが生まれた。

「苛立ちは健康に悪いよ」

雀は欠伸をしながら、身体の節々を伸ばしている。

「誰のせいだと思っているんだ」

「俺のせいでしょ。このぶんじゃ、疲れてるのも俺のせいだって言われそう。かわいそうな雀」

「疲れてなどいない」

「そりゃあ、よかったですね」

「だが、私の機嫌が優れん大抵の原因は貴様だ」

「やっぱり、俺のせいになるんじゃないの」

「ふん」

板床に腰をおろして、手でなにかをまさぐっている。夏侯惇に興味はないようだ。

相手にせぬなら、さっさとでてゆけと夏侯惇は息を吐いた。身体が怠い。これを疲れというに、ほかないだろう。頭の奥が鈍い痛みを伴い、四肢を動かすのが億劫だ。それでも、横になり休息をする気にはなれなかった。無理でも身体を動かしていないと、ひとつのことに気を取られ深く考えてしまいそうになる。

文字を連ねることは、夏侯惇の気を晴らす手段であったが、雀(シャン)がいる書斎で行う気にはなれなかった。

雀はまだ居座っている。

おもむろに、机に手を這わす。庭の四阿で時間を潰すために書簡をいくつか持って勉学に励むなり考えたが、机上の有様が変わっていることに気づいた。ない。

竹簡や書簡の山に隠れたりでもしたかと、いくつも取り上げては床に落としてしまった。おかげで机は硯と筆を残し、すべて取り払われた状態になった。しかし、どこにもない。

もしや。あとはこいつしかいない。

「雀」

「ん?」

「ここにあったものをどうした」

白玉の耳飾りがなくなっていた。

以前、夏侯惇が理嬢に与えた唯一の装飾品。露店で買ったものだったと思う。雨と雷のあの日、気を失っていながらも右手だけ固く握り締めていた。指をひとつひとつ開かせた掌のなかに、桃色に色づく雫に濡れた白玉が光っていた。理嬢は無くしたのではない。夏侯惇が預かっているだけだった。それがない。

「これさあ、綺麗だねえ」

「耳飾りか」

「うん」

ちょうだい。にっこりしている。

首から上が、熱くなった。見えないが、白玉が雀の手のなかに確かにある。

「駄目だ」

「俺、意外にこういうのが好きなんだよねえ。可愛い」

「返せ」

「夏侯惇が持ってたって、どうせ付けないだろ?」

「いいから、返せ」

「いやだよ。こんなに綺麗なもの」

「いい加減にしろ、はやく返せ」

白玉が、きらりと光る。摘むようにして見せつけてきた。

「夏侯惇には似合わない」

靴音を上げながら、雀に近づく。雀は悪戯っぽく口の隅を吊り上げ、掴まんとする腕を予期していたように横に跳び逃れ、そのまま体当たりするように窓をから出て行った。

貴様。

地を這う声が口から発せられた。

夏侯惇はその悪猿を追う。回廊を走り回り、庭にでた。雀(シャン)が甲高い声と舌を出し、こちらを挑発してくる。猿が、がきになった。あれはどうしようもなく飢えたがきだ。自分を見てほしい、見て、見て、もっと見て、かまってと駄々をこねる。理嬢にも、やはりこんな傾向があったかもしれない。怪我をして、叱っても怪我をつくってくるのは、これだったか。

なにを前のことを。

あの娘にもっと、花に水をそそぐように接すればよかったとでも、私は思っているのか?後悔している?自責の念にさいなまれている?雀で償おうとしている?あんなもの、あんな安物なぞ、さっさとくれてやればいい。

私が遣らずとも、従兄上から多くの装飾品をいただいているだろう。私が意固地にも雀を追う必要はない。律儀に取り戻すこともすることはない。

なくしたことにしてしまい、新しく、価値のあるものを買ってきてしまえば済む。難しいことではなかろうに。

きれい……………。

理嬢は目を丸くさせながら、白玉を陽に照らしていた。

ありがとうございます。理嬢の愛らしい笑み。

とおい日にあったことが、そよ風のごとく、まとわりつく。

うれしいです。ずっと、大事にします。

悪猿を見失った。

走りが遅くなり、足が芝生をゆっくり踏む。息が浅い。身体が重い。喉に潤いがなくなった。肩を上下し、身体の内側に空気を取り込もうとするが、容易ではない。拒んでいるかのようだ。乾いた口内を、空気がこすれるたびに痛みが伴う。

否応無しに、たちくらむ。

膝を折ると、首に雀の腕が後ろからまとわりつき、覆い被さった状態でそのまま前に倒れた。芝が顔に軽く刺さる。文句を言うことも、はねのけることもしようとはしなかった。

芯が抜けたように動かない。息をするたびに、胸が激しく動くのみだ。

「疲れてるね。こころも、からだも」

葉ずれ、草ずれの音がする。混じって、雀が耳もとで囁いた。

「ちゃんと休めよ」

返事をせずにいると、夏侯惇の肩に首をかけ、すぐ横に顔を置いた。

生温かい息が、耳にかかる。

端から見れば、とんでもない光景だろうが、気にしなかった。猿が乗っているだけだと、夏侯惇は考えていた。人間さまを手玉に取ったずる賢い猿がじゃれついているだけだ。

「夏侯惇」

雀は深く艶のある笑みを刻んだ。

「いいにおい」

夏侯惇が何も言わぬことをいいことに、この男の身体に残る懐かしく、かつ官能的とも感じる甘い香りを吸う。自身にも移るように、四肢を重ねる。冷たい空気から衣装で隔てた温もりは存外気持ちいい。

「夏侯惇から、いいにおいがする」

「そうか」

「なにか、香でも使ってるの?見かけによらずお洒落だねえ、おまえ」

しばらく手や頬で夏侯惇の衣を撫でまわした後に、雀は問うた。

「耳飾り、返してほしい?」

「もう好きにしろ、そんな安物」

「安物でも、とてもいいものだと思うよ」

「私のものではない」

「じゃあ、なんで買ったのだよ」

「……………気まぐれだ」

「気まぐれで買えるものかな」

いつになく、すべてを見透かしているかのような口振りだった。手のなかで白玉を転がしまがら、雀は体重をかけて香りを堪能している。

理嬢は、ひどくよろこんでいた。

露店が居並ぶ道を、人々の肩をかわしながら歩いた。ふと、目に付いた装飾の店。所狭しに並べられたまばゆい飾りのなかから、何気なく手にした。買って帰り、娘に与える。よろこぶかどうかとは考えなかった。ただ、買って行ってやろうかという、気まぐれそのものだった。

高価なものではない。

「……………もしも、女がもらったら喜ぶと思うか?」

「気位の高い貴族の女なら、ちょっと。いや、満足しないかもね」

悩む素振りもなく軽い声音で連ねる。

「きれいだけどさ、そんなに高価なものじゃないでしょ」

「女はそんなものか」

あの嬉々とした姿は、芝居だったか。いや、あれは嘘のつけぬ性分だ。

夏侯惇が緑の芝生のみを見ていると、上から、雀が夢見る心地で、言った。

「でも、好きな奴から貰ったのなら、どんな安物でも心の底から喜ぶと思う。単純に、うれしいだろうさ」

頭に手が置かれ、五本の指が髪を絡み頭皮を這う。くすぐったいが、ふわりふわりとした浮遊感が感覚を麻痺させる。

「たとえば?」

「理とか」

うなじに強く顔を押し当てて話すため、よく聞き取れなかったが、ひとりの名だけは、はっきりと聞こえた。のしかかっているものが、男なのか女なのか、覚束なくなってきた。身体だけではなく、思考のほうも麻痺して働かない。

「理嬢が……………」

「俺は理じゃないから、断言できないけど。たぶん、理はそういう女だよ。どんなに貴重なものだろうが、意味がなけりゃ喜んだりしない。高いだけじゃ、だめなんだよ」

「ほう」

「気持ちがなくちゃね。気持ちがあっても、自分のこころに適うのでなくちゃ。つまりは、難題と言うわけだな」

視界の遠くに、高い空が広がる。雀が夏侯惇の肩をむんずと掴んで仰向けにさせたのだった。

青の色彩に、ぼやける白、鋭い白。遙か彼方では風が吹いているらしく、白が泳いでいた。ひだまりの明るさに、目を閉じる。開けていられない。私には強すぎる。

閉じていても、輝く赤が世界を染めた。

どうして赤いのだろう。眠るときは黒いのに。

暗くなる。

右の目元を指先で軽く撫でられる。こそばゆさに瞼を開けさせられた。よく知った顔が近くに見えた。相手の長い髪が、頬に、首筋に垂れる。こそばゆい。払うのではなく、指先で摘んで退けた。

数度、目を瞬かす。呼応して雀も目を瞬かした。

例を上げるのなら、緑のなか奥にそっと咲いた、しら百合だろうか。乙女のような柔らかな笑みを湛え、少々音程のずれた聞き慣れない歌を口ずさみながら、夏侯惇の黒髪をいじる。

「真っ黒。真っ黒な髪」

指に絡ませ、撫で、引っ張り、輪っかにしながら遊ぶ。あでやかな歌姫やなまめかしい舞姫から、きよらかな少女まで。この男はありとあらゆる表情と態度、そして雰囲気を作る。

雀(シャン)の指の爪が剥がれているのが見えた。

雀の瞳を見た。吸い込まれそうな、大きな茶色の目。引き寄せられるように、夏侯惇はびっしりと生えた長い睫毛に触れようとする。

太陽の光を浴びた。顔を背ける。雀が、緩やかに上下する胸に頭を置いて、くつろぎながら、謡うように言った。

「俺は理じゃないよ」

理嬢にするように、撫でようとしていた手が、止まった。腕は離れ、芝生の上に転がる。

「そうだったな」

「顔も声も同じでも」

「理じゃないな」

「俺は、雀……………」

「おまえは、しゃん、だ」

「夏侯惇に育てられた理の弟」

「しゃん、だ」

白玉が小さく光り、手に握らされた。
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