第四章 愚者 男の記憶




頬に、ざらりとした感触が広がり、曹操は目を勢いよく開けた。反射的に手で払うと、小さな獣の首を鷲掴みにして捕まえていた。どうやら、この獣の仕業のようだったらしい。半身を起こし、そいつと視線を合わせた。

「そなたか」

いたずらっこめ。

白い獣、百合は鳴きながら、金色の瞳で曹操を見つめていた。まるで、はやく起きて我輩と遊ぶのだ、いつまでも寝ているのは無礼なのだというような目つきだ。

こいつのご主人さまは、自分の腕のなかで丸くなって夢で遊んでいた。

鳴く。

あそぶのだ、あそぶのだ、待ちくたびれたのだと連呼している百合に、曹操は悪戯を成功させた子どもの笑みを浮かべた。安らかなひとときを邪魔された仕返しに、百合を宙に浮かせたままの状態を保ったまま笑って言いつけてやった。

「悪いなあ、百合よ。まだお遊びのお時間ではないのだ」

二回鳴いた。返しの言葉だろうか。

「ひとりで遊んでいるがよい」

割り込んでくるなよ。枕元へ下ろしてやると、反発するかのごとく小さく鳴きながら理嬢にじゃれて、顔を舐めようと飛びついた。

「こら」

また、百合は首を捕まれ宙に引き上げられる。抵抗として四本の脚をばたばたと、せわしなく動かし、だだをこねた。はなすのだ、はなすのだ。不敬なのだ、ちくしょう。

「そなたの主人も、遊ぶ時間ではないのだよ」

悲しいかな。小さい身に相応の小さき抵抗は曹操には届かなかった。無駄だと知ると、ひときわ大きな声で鳴いた。

「気の利かない阿呆だな、百合は。せっかく気持ちよう寝ている。邪魔をするでないぞ」

曹操を映す金色の瞳。嘲笑する月を思い出させた。

「心配なぞするな。もう理に手を上げるようなことはせぬよ」

そう、きっと。

はなすのだ。とでも言わんばかりに大きく三度ばかり鳴いた。いたずら心がまた湧いてしまい、左右に大きく振ってやると、ひときわ甲高い声を上げる。耳につく。

「うるさいぞ、百合」

曹操は手を放した。

「静かにせよ」

苦もなく見事に着地した猫は、悔しげに先細りする伸びた鳴き声を残し、寝台から飛び降りた。行くあてのなく部屋のなかを、うろうろと歩いたり、やつあたりのように寝台の四方に掛けられた薄布に爪を立てたりし始めた。

ふてくされる猫の主は、まだ、夢のなかだ。丸くなっている。

身を沈ませて理嬢を抱き直す。布団を肩まで引っ張ってやると、身をよじり、すり寄ってくる。むずがる赤子をなだめるように、曹操は理嬢の背をさすった。

外から、かすかに鳥のさえずりが聞こえ始めている。朝だ。窓から薄い陽光が射し込んでいた。どこかの隙間から、風が入り込んでいるようだった。肌の火照りには、ちょうどいい。

すっかり目が覚めてしまった。暇を持て余し、いたずらに理嬢の頬や睫毛を指先で、強く弱くつついた。こそばゆい微かな感覚がある。

くすぐったかったのか、理嬢が百合の細長い鳴き声のように呻きながら身をよじり、身体の節を小さく伸ばし始めた。徐々に意識が戻ってくる。こちらを認めて、理嬢はやわらかな声で名を呼んだ。

「孟徳さま、おはようございます」

「起こしてしまったか」

「いいえ、むしろ、わたしが起こしてしまったのかと」

「どうして?」

「さっきまで、起きていていたのです」

「二度寝をしたのだな」

「はい。眠ってしまって」

理嬢は重たげなまぶたをこすりながら、ゆるゆると首を振り、答えた。こする手を止めさせて、耳元でつぶやいた。

「よい。眠っていろ。我は今日、政庁に赴かねばならなくてな。そろそろ行く」

「あらあ、もう、そんなお時間でしたか」

「いや、まだ早い。寝ておれ、酒が抜けてないだろう?」

「お着替えがありますでしょう?」

「寝ておれ」

身支度のお手伝いをします、と身を起こそうとするのを制止し、曹操は首を横に振る。

「自分でやれることは自分でやるものよ」

着替えから靴を履くまでの動作を、他人にまかせる位の高い輩は五万といる。昔は顎で人を使い、押しつけていたのだが、そんな驕りが徐々に精神をあさましく腐敗させると知ると、できることは自分でしなければと考えるようになった。

「はい。わかりました」

「では酒が抜けるまで、ゆるりとしておれよ」

「三度寝になってしまいます」

「たまには、よかろうよ。では、な」

「いってらっしゃいませ、孟徳さま」

「ああ」

「お気をつけて」

曹操は理嬢の指先に唇を落とし、掌に軽く押した。

じゃれあうような触れあい。もう少しこの時に身を任せていたかったが、今日一日の予定を思いだし、名残惜しく身を持ち上げた。うつつに見上げている理嬢の頬、治りかけているふたつの傷痕の上に口づけを落として、髪をひと撫でしてから寝台を降りた。逆に、百合はまっていましたと言わんばかりに飛び乗り、甘えた鳴き声で主人に戯れを要求している。

「おはよう、百合。はやいのね」

まったく、空気の読めぬ猫だ。やはり躾が必要だと、曹操はため息をついた。





丞相府の回廊。そこには夏侯惇もいた。

「ご機嫌が麗しいようですね、従兄上」

「そうか?」

ふたりは並んで歩いていた。夏侯惇は曹操に話しかけた。

たしかに、機嫌はいい。夏侯惇が理嬢を腕に抱くという、嫉妬に包まれるような幻を視たのはいつのことだったか。思い出すことはなく。ふたりの間にあった軋轢も、いつの間にか、なくなっていた。

「……………理嬢に、変わった様子は……………ございますか?」

目を伏せながら、淡々と語る。曹操は艶のある笑みをこぼし、夏侯惇の表情を観察した。

「この前、猫を贈ってやった。とても喜んでおってな、ずいぶん可愛がっている」

「猫、ですか?」

ひとつしか残されていない眼をまたたいた。従兄上がそのようなことをなさるのか。意外だと、内心思った。装飾品や衣装はよく贈られていたが、生き物を贈ったというのは、はじめてだった。

「ああ。白い子猫で、よくなついておったわ。百合と言うのだ」

「従兄上が名づけて?」

「まさか。理が名付け親よ」

「そうですか。息災ならば、よいのです」

「なにか言いたげだな。言いたいことがあるのなら言え」

「いいえ、特には。いえ、ただ」

「ただ?」

「私の屋敷に、理嬢が使っていた装飾品や衣装がありまして」

夏侯惇は言った。

「あれらは、もともと従兄上が贈られたものですし、もちろん、いま不自由などしていないでしょうが。気に入っているものもあるでしょうし、お届けしてもよろしいでしょうか」

「かまわん。持って来い」

すでに、侍女らに命じて理嬢の荷物は適当にまとめさせてある。娘の好きな色など好んでいる品はよくわからないからだ。

「では、また後日に」

夏侯惇は足の歩みを緩めた。おそらく、安堵ゆえだ。理嬢の奇行は起きていない。曹操の言動や様子から、どうやら穏やかに過ごしているらしい。そして、理嬢に対する暴力もないようで、さらに肩の力が抜けた。だが、いつまでその平穏がつづくのかと考えると、やはり不安が重くなってしまう。

結局のところ、どちらに転んでも胸の内に秘めた心労は絶えないのであった。

「あの男、どうしている?」

「あの男?」

「理と同じ顔の、あの優男よ」

理嬢のことで思い出した。理嬢と同じ容姿をし、理嬢を返せと斬りかかってきた、あの奇妙な男。

まあ、似ていると言っても一瞬のことで、理嬢を下地にした小奇麗でどこか狂った色を宿すさまが美しいと感じる珍妙な男。

「一日中、部屋に引きこもって居座っています」

夏侯惇は、恨みがましく部屋の調度品の陰に隠れうずくまる雀(シャン)を思い出す。今朝方も、部屋を訪れた自分を、蛆虫を噛んだような顔で出迎えた。

「名は、なんと言ったかな」

「雀(シャン)、でございまする」

「雀、というのか奴は。そやつは何者だった?」

「理嬢の弟だと申しておりました」

「弟だ?兄ではないのか」

少々驚いた。どうしても雀のほうが年上のように思える。

「私も、どうしても雀が、年長としか見えません。あやつの狂言かと思いましたが」

「が?」

「嘘だとも思えませんで。それでも、疑いは晴れません」

「理に縁のあるには違いなかろうがな」

「嘘とまことが妙に混じっているようなやつです」

「理の兄であろうが、弟であろうが気にはせん。肝心なのは、能があるかどうかだ。使えそうか?雀は」

「……………はい。先日、手合わせをしましたが……………まんまと後ろを取られました」

きっと、従兄上が気に入る力の持ち主でありましょう。

「負けたか、夏侯惇」

「ええ、清々しく」


夏侯惇は後ろ頭に手を添えた。清々しく、と口では言いつつも、内心は苦々しく思っている。先日の手合せを思い出すと、殴られた部分が重くなる気がする。書斎に雀が手がけた苦い薬が一日に二回、飯の後に置かれていた。飲まないと戸をがんがんと叩く嫌がらせをされるので、我慢して飲んでいた。今朝も飲まされた。思い出すと、唾液が干上がる感覚を伴って口が渇いた。

有能な人材を好む曹操は、愉快そうに頷いた。優れていれば、どんな過去、性質、素性だろうが関係ない。見栄えなどは気にしない。

大切なのは、中身が詰まっているかないかだ。一見、美味そうな果実だが、喰ってみなければ味の良し悪しは判らないもの。ある種の寛容さ美意識が、曹操の人を惹きつける魅力でもあった。

陽が雲に遮られ、薄暗くなる。眼を潰す輝きは消え、雲越しに白玉が浮かんだ。

含み笑いをする曹操の瞳と、隻眼の細めた眼がかち合った。もの言いたげな。なにを言いたいかは、この細めた方から、なんとなく分かる。幼少の頃からのつきあいで、旗揚げからずっと従ってきた従弟だ。

「話題を変える。ひさかたぶりの軍議だが、夏侯惇の意は」

「南を討つべし」

曹操は黙っていた。含んでいた笑みは失せる。

「この平定された河北には、もう敵がおりません。そして、従兄上は司徒、司空、大尉の三公不在の上で丞相の地位に就かれました。北の基盤を固めた今こそ、南方勢力を攻める好機かと」

「それが、おまえの意か」

「はい」

「たしかに、動くべき時はきたが、西についての見解は?」

西。西に居をかまえている涼州の馬騰と韓遂は内紛を引き起こしている。

「内輪もめをしている輩が、我らの南征を気にとめる余裕はないかと思われますが」

「気にとめぬ、とは安易な考えだ。間違いよ。正しくは、気にとめても動けぬのさ。小競り合いの相手を牽制することに手一杯でな」

「小物というのに、変わりはないということですか」

涼州の騒乱については、前々から情報が入っていた。憂いなくこれ幸いにと、南を攻めることができると思案しており、見越していた。

南を攻めるならば、水上戦は免れぬからだ。南の諸々の勢力は、南の地でも力あるもの中央に据えて頼るはずだ。頼れるものは、江東の虎の遺児くらいだろう。そして、そこには大河があり、孫の者どもは水上での戦いを得意としている。

下準備のひとつで、玄武湖という湖を造り、水軍の訓練を命じていた。相手の武器に応じた武器を身に着けるために。

「まさに、好機」

文字の通りである。どちらかを攻めれば、攻めぬほうから征されることはない。背に気をつける心配がないのだ。

南征。

軍議の結果は目に見えている。出席する主要の諸将、軍師らも異議は唱えぬだろう。

陽、射す。

痛みのあるまばゆさと、空が手のなかに届きそうだった。

開けた扉の向こうで、曹操の到着を皆が待っていた。立ち上がり、礼をとる将、軍師たちに声をかけた。





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