第四章 愚者 男の記憶




理嬢は白い猫に夢中だった。

曹操がくれた猫である。白い毛なみで、瞳が月のように黄色い猫。猫の名を、色の白さからとって、百合と名づけた。

理嬢は百合がとても好きになっていた。世話をしたり遊んでいると、つい時間を忘れてしまう。そして笑っていられることが多くなっていた。

百合もあっというまに理嬢に懐いたようで、よく甘えてくる。抱き上げると、顔の傷を舐めてきた。さすがに傷を刺激されると痛みはあるが、気分はおだやかであった。

「貴姫さま、殿がいらっしゃいました」

侍女が曹操の来訪を伝える。新しい呼び方にも慣れてしまった。

「百合、孟徳さまがいらっしゃいましたよ」

すこしずつ、曹操への恐怖が薄らいできた気がする。夜な夜な繰り返された手荒い行為は、百合をくれたのを境に無くなった。

「お茶とお菓子のご用意をしないといけませんね」

まるで子どもに語りかけるように呟いた言葉とともに、膝の上の百合が動きを止め、跳ねながら扉のほうへ走って行った。その先に、曹操が笑みを浮かべて立っていた。百合が足に爪を立てて戯れようとしている。

「あっ、百合、だめだめ」

衣装に爪が絡んでしまう前に、曹操は百合の首を掴み、手のひらへ載せた。しかし、撫でられる前に百合は器用に飛び降りて、その足元で床に背中を擦り付け始めた。

「つれないではないか」

「申し訳ありません。まだ、ちゃんとしつけていなくて」

百合を抱き上げながら、理嬢は何度も頭を下げた。曹操は理嬢の顎に指をすべらせ、それを止めさせる。

「猫は気ままなものだ。しつけようとて、思いのままになるものではない。気にするな」

理嬢を抱きしめ、唇に指で触れてからゆっくり口づけた。曹操の手が頬に触れてから唇がはなれる。この行為にも、いつしか慣れてしまった。挨拶のようなものだ。

「この傷はどうした?」

明らかに自分がつけたものではないと、曹操は首を傾げた。頬に傷がふたつあった。片方は浅くはあるものの切ったようなものと、もうひとつは殴られたように腫れているもの。

理嬢も首を傾げた。

「やっぱり、傷になっていますよね。よく、わからないのです。お昼寝をしていて、あの子が、百合がじゃれてつけたんだと思います。でも、わたしが、寝ぼけて自分でつけてしまったのかもしれません」

「そうか。深くはないし、そのうち治ろう」

実は、おなかも痛い。孟徳さまに殴られたときと似ている。でも、これもきっと、お昼寝中に百合がわたしのおなかの上で跳び跳ねたせいだと思う。

「子猫と言えども獣ゆえな。やはり躾は必要やもしれん」

「遊びたい盛りの仔ですから」

「寝首をかかれては困るでな」

「乱暴な子ではありませんから、たぶん、寝首は心配ないと」

こうしている今も、百合は理嬢の胸から這いだそうと小さい爪を立てて肩のほうへ登ろうとしている。身体を動かしたくてたまらないようだ。抱きとめようとする手をかいくぐり、白き仔は飛び跳ねて部屋のなかを走りはじめた。理嬢は噴き出して笑った。

「活力の塊は、想像を越えるものだ」

両の頬にある傷の上を啄むように口づけたあと、曹操は先に理嬢に席を勧めた。

「お茶をご用意していません」

「それよりも話したいことがある」

「お茶は、よろしいのですか?」

「うむ、さあ、座れ」

椅子に腰をおろした理嬢の膝に、百合が飛びのった。手で包むと、満足そうに丸くなった。

「あの、今日は、ずいぶん早いお越しですね」

まだ陽は高かった。

「いや、また夜に来るよ。話があって来たまでのこと。話が終われば一度退席しよう」

「どのようなお話でしょうか?」

「甄優を知っておろう」

「はい、子桓さまの奥さまですね」

春の水辺に咲く花と、言わずと知れた評判の深窓の美女である。もともとは曹操の旧友である袁紹の息子、袁煕の妻であった。袁紹の死後、袁家に攻め入った際に曹丕が見初めたのだ。

夏侯惇から、曹丕が妻を娶ったという話をされたことがある。

「その甄優がな、お前に会いたいそうだ」

「わたしに?どうしてですか?」

「我もよく知らん。そなたと話がしたいと」

「まあ」

いったい、とくに接点のない自分となにを話そうというのだろうか。べつに不安はないのだが、一種の心細さと、会ったことのないひとに会ってみたいという未知への好奇心があった。知らないひととのおしゃべりというものに、知らない彩りを知れるような心躍るものもある。

「どうしましょう」

「我は、そなたの意向に任せる。気が乗らぬなら断るがいい」

「いえ。甄優さまと、わたしもお会いしてみたいです」

柔らかくほほえんだ理嬢。そこには取り繕いの様子はなかった。いまの理嬢に、曹孟徳への恐怖はない。自分に向けられている恐怖がない。

曹操は満足していた。退屈だろう、と猫を贈ったのがよかったのだ。特に考えがあったわけではない。だが、成功にはちがいなかった。与えてからというものの、よく自然な笑いをこぼすようになったのだ。笑顔を見るたびに、込み上げる感情があたたかいものになって溢れた。それは、力で押さえつける安堵さとはまた異なっていた。こちらのほうがはるかに好ましい自覚もある。

息子の嫁から文が届いたのは数日前だった。義父の側室に会いたいなど、とんだ素っ頓狂なことがあったものだ。だが、おおよその察しはついている。息子の子桓が、姉と慕う目の前にいるこの女のことを心配だとでも話したのだろう。そこで、嫁が助け船を出したと言うわけだ。でなければ、嫁が広い意味では義母にあたる側室に興味が湧くとは思えない。

甄優は、子桓の文や言伝をひそかに携えた使者にすぎないのだろう。忍ばせた内容は気になるものの、たいしたものではなかろう。息子にとって、理嬢は姉以上の存在ではない。だから、気遣いは本物であるとしてやろう。屋敷の奥殿に近づくような行いはここ最近していないようであるし、なにより今は気分がいいのだから、今回は多少の暗躍に素知らぬ振りをしてやるつもりだった。

「ならば、かように答えておこう。日にちは追って決める」

「よろしくおねがいします、孟徳さま」

転がるような鳴き声を発しながら卓の上に這い出そうとする猫がいた。主が両手でそれを制している。

「猫、百合という名にしたのだったな。そいつは気に入ったか?」

「はい。すごくかわいくて、かわいくてしかたありません。すごいのですよ、鼠を捕ってくることもあります」

「理に褒めてもらいたいのだ。撫でてやるがよい」

「はい。撫でてあげると嬉しいみたいです」

「だから、そいつはそなたに気をゆるしている」

「よく甘えてきますよ。たまに、わがままなところもありますけれど」

「猫はそんなものだ。自由に甘え、生き、活動する。人間に忠誠を誓う犬のようなものではないにしろ、主人には、それなりの誠意を示す」

「だと、いいのですけれど。わたしのおなかの上で跳ねるいたずらもするみたいですから」

ちょっと目を細め、かすかな笑みをたたえる。明るさが衰えることはなかった。

「それは悪い仔だな。やはり、寝首をかかれるやもしれぬ」

窓からの陽光がさしのべて、理嬢の茶色の瞳を鮮やかに際立たせる。息を呑んだ。美しかった。衝動に近いかたちで、曹操は理嬢を抱きしめた。

腕のなかで、驚いて身をすくめる理嬢がいる。その姿も、ひどく好ましく思う。ようやくつかまえることができたような気がする。やっと手のなかに収めることができた。内から湧きでてくるなにかが、高まりを維持したまま鎮まっていく。

背に理嬢の手がある。腕に包まれた。こみ上げるなにかが、曹操の想いがより一層大きく膨らんだ。

日が暮れてから、理嬢はいつもと同じように湯に誘導されて寝着に着替えさせられた。これもいつもの日常になった。慣れてしまった。ただ、異なるのは自分のこころの持ちようだった。

いまの自分に、曹操に対する恐怖はほとんどない。楽しく会話をすることだってできる。

寝台に腰かけ、膝の上で船をこぐ百合の背を撫でながら考えていた。猫をくれたから、孟徳さまは変わったのか。どんなきっかけで、変わったか、わたしにわかろうはずもないけれども。

たぶん、わたしのきもちは、変わっていない。

孟徳さまに対する情は、夏侯惇さまに感じる情と同じようなものか。ふと考える。父か母、姉か兄に持つであろう信用、頼ることできる情に近いと思っている節がある。だけれど、孟徳さまは、わたしに側室としての感情をそそいでくれている。

悩む気持ちがあって、困惑している気持ちがあった。こんな気持ちはいだいてはいけないことを知っているのに。

わたしが拾われて育てられたのは、運がよかったから。そして、与えられた環境は曹孟徳さまの側室になるためだった。わたしがいま生きている意味も、生かされている意味も、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

わたしは、孟徳さまの側室のひとりとして、日々感謝し、御恩に報いなければならない。

「理」

「孟徳さま」

いつの間にか、曹操が部屋を訪れていた。

慌てて、百合を膝からどかした。百合は眠ったままだった。

「申し訳ありません、気づかないなんて」

「どうした?ぼう、として」

「あの、甄優さまに、失礼のないようにと思うと……………どうしても考えてしまって」

嘘だが、詰めるように考えごとをしていたのは本当だ。

「気楽にやればいい。考えすぎは、よくないぞ」

理嬢の手をひく。ひきながら、欄干へと足を進ませる。

「孟徳さま?」

「たまには、月でも見ながら酒を飲まぬか?」

「お月見ですか。今夜は、風がすこしあるようです」

「少々冷えるが、酒を飲めば暖かくはなるだろう」

「かしこまりました。ご用意いたしますから、どうぞ、先に月をご覧になっていてください」

「いや、我も手伝うとしよう」

手をつないだまま、豪勢な料理とともにある酒瓶と杯をひとつの盆に器用にまとめて、片手で取りあげた。理嬢はなにも持たずに、手を引かれるままだった。

外は薄ら寒く、存外に月明かりで明るい。

理嬢は酒を勧め、曹操は酒を喉へ流してゆく。

「そなたも飲め」

酒瓶を引きはがすようにして、なみなみと注いだ杯を差し出す。水面に、小さな月が顔をのぞかせ、揺れている。

「えっ、でも」

「酒は、初めてか」

「はい。ですので、飲めるかどうか」

「飲まねばわからぬよ」

手が伸びて引き寄せられる。曹操の胸に、もたれかかった。なまぬるさにまぎれる冷たい空気のなかで触れるからだのあたたかさは、心地よかった。頭の上から、曹操の声がする。

「飲んでみろ」

唇に杯が当てられる。ひとくち、酒を口のなかに含み飲んでみる。柔らかい味が、後味として広がる。飲めない、というわけではなかった。心なしか、ほんのりと身体の芯が暖かくなった気がする。

「どうだ?」

「お酒って、辛いものばかりだと思っていました。でも、意外に甘くて、おいしいですね」

「いろいろとあるのさな。理、次は最高に辛いものを飲むか」

「きっと飲めません」

「無理やりに飲ませてやるわ」

「やめてください」

軽い冗談に笑いあう。理嬢に杯を手渡して、様子を見つめた。息を大きく吸ってから、酒をゆっくりと飲み干す。曹操はまた、なみなみと注いだ。目を丸くして、杯と曹操を交互に見つめる。

「飲め」

「でも、いつもわたしがお酌を」

「今宵はその逆でもよかろう」

いたずらごころが湧いたのだ。

「では、いただきます」

飲み干す。頭が軽く揺れた。酒がそそがれる。飲み干す。そそがれる。

曹操は酒を飲み、酔っていく理嬢を楽しそうに見つめていた。目を何度も、瞬いている。眠気と戦っているのだろうと思っていた。理嬢の杯を床に置き、頬に指先で触れた。身体が暖まっているため、温かい。眠たげな目で見上げる仕草が、愛らしい。抱きしめる。

「孟徳さま、お酌を、いたします」

返事の代わりに締めつけるように強く抱く。背に、理嬢の腕を感じる。寒ささえも、好い。

「孟徳さま?」

ささやく吐息のような声。聞こえぬわけがないが、あえて、耳を持たなかっただけのこと。

「お酒は召し上がられませんか?でしたら、お食事をおもちしますが」

理。理。口に出すことも、しなかっただけのこと。呼ばれる音がよい。

「理」

かすれるような声で、呼んでみた。

「月を見よ。理」

金色に輝く月が、雲の裂け目からぼんやりとした光がある。月の周りに浮かぶ彩色の輪。月輪の美しさにも、理嬢は呟いた。きれいですね、と。

「百合も、あの月みたいな瞳をしているのですよ」

「そなたの瞳も、同じだ」

「わたしも?」

色素の薄い茶色の瞳。光が当たると、より際立つ。それで見つめられると、吸い込まれそうになる。まるで、神秘の光をもつ月のように。

噛みつくように口づけ貪った。腕に抱く女の身体が、強ばった。

深く、深く唇を重ねた。若干の恐れを示すように、背にそえられた手が握りしめられる。

まだ、きよらかである理嬢。白を黒に染め冒すことはたやすいが、黒を白に染め清めることはできない。まだ抱きたくない。曹操はいつもとどまっていた。理嬢には、白であって欲しい。だが、貪り喰う唇は欲深かった。吸い、歯さえも立てる。目を薄く開けると、眉間に皺を寄せて応える理嬢がいた。口づけたまま、石張りの床に押し倒す。

ひんやりと冷たい感触に、理嬢の背が震えた。

「理」

「はい」

「我の名を呼べ」

「……………はい、孟徳さま」

頬を赤らめさせている。目を伏せたまぶたに、頬に、首に、優しく口づける。髪を撫で、肌を感じる。

理嬢の身体は、強張るばかりだった。

愛している。という身体じゅうがむず痒くなりそうな言葉を、己に向けられるそれを聞いてみたいと思った。いつか、言ってみてくれるだろうか。だが、理嬢は言わないだろうという直感にも似たものもある。まだ、表面の恐怖が殺がれただけなのだ。笑ってくれることは増えたが、まだ、まだ時をかける必要があるのか。まちどおしく、じれったい。

もしや、愛しているという視線は自分にではなく、自分ではない誰かに向けられているのではないか。頭をよぎるのは、夏侯惇だ。以前、幻を視たときのことを思い出せば、確信に近いものが衝く。しかし、夏侯惇の情は親愛の情だ。恋情ではない。夏侯惇はそう言ったではないか。あの男が、嘘を言うものか。ほんとうに、嘘を言わぬ?言わぬはずがないと誰が決めつけた。我は、奴に言ったはずだ、そなたの嘘は見破れぬと。

嘘を言わぬ人間がどこにいる。乱れた世のなかで、嘘を言わず人間がどこにいる。ならば、理を暴のままに打ち据えて言わせてみようか。我をどう想う?と。いや、いけない。それはいけない。また、おびえられるのは好ましくない。

前に、理は答えを出したではないか。我の側室となることが嬉しいか。がくがくと、首を縦に振って。我は、嘘を言うなと、言ったではないか。しかし、しかし、あのときは。

「冷えるな、飲みなおそうか」

直に視たくない記憶がよみがえり、思考を反らして言葉で方向を変えることにした。。

「はい」


抱き起こされ、身体を離される。理嬢は、たどたどしく酒を杯にそそぎ、曹操に手渡した。それを飲まず、理嬢に押し付けた。

「飲め」

「飲んでしまったら、もう眠ってしまいそうです」

「飲め、そして寝ろ」

でも。お酌さえも満足に果たしていないのに。無礼になるのではないか。そんなこと、許されていいのだろうか。返答に困り果ててみるも、杯はすでに手のなかにある。

「わたし、お酒のお相手も、満足にできていませんのに」

「ふん。そんなことどうでもいい」

杯をひったくり、ぐい、と一気に酒を自身の口のなかに押し込んだ。

この女の返事は、たいてい「はい」だ。もう少し、我が儘になれ。封じ伏せることはない。

また、唇を合わせられる。曹操の口から酒が流れてきた。手で曹操の胸元もとを握り締め、酒を舌で止めるが、唇は離れない。おそらく、飲み込むまで離れないだろう。しかたなく、おそるおそる喉に通してゆく。

すべて飲み干した。やってくる頭の揺らぎは、目の前をぐらりひしゃげさせた。意思と反して身体は横になることを望んでいる。

「もうしわけありません」

身体を離されれば、すぐにでも倒れ意識を手放してしまいそうだ。それを察したのか、曹操は理嬢の頭を支え、包み込むように胸へといざなった。

「寝てよいぞ」

返事はなかった。

人肌の心地よさに包まれ、あっというまに眠りについていた。かすかに、寝息が聞こえた。

そなたも、猫のようなもの。

出始めた夜風が、雲を運ぶ。月が、嘲笑うかのように光を落とした。あのように狂った行為を毎夜繰り返しての突然の豹変。嘲笑されるのは当たり前だ。だが、気に食わない。理嬢の頬の輪郭を、指でなぞった。

甘い衝動とともに、ほんのり桃色に染まった頬に軽く歯を立てた。できるだけ、優しく。

このまま、削げとるように、噛み千切ってしまいたい。もう少し力を込めれば、食い込み、肉と血が滴りゆくだろう。食ってしまえばいいか。いっそのこと、理を殺して肉を喰らうてしまおうか。そうしたら、腹で溶けて我が肉体の一部になる。理のこころが誰かに向いているというのなら、想うことのできぬよう物言わぬ肉塊として自分の腹のなかに閉じこめてしまえばいいか。激しくなりつつ高ぶりを、なんとか抑える。

理嬢の着物の合わせ目をずらし、右肩を露わにさせる。白い肌の上には治りかけの傷があった。自分が噛みつき、つくられた傷。舌を這わせた。鉄の味が広がった気がする。後悔はない。

きっと、傷は跡として長く残るだろう。もしかしたら一生消えることはないかもしれない。我の印、証。

安らかに眠る理嬢の顔を見つめ、抱き上げる。

にやつく月を憎らしげに睨みつけ、部屋へと戻った。




東の空、白い山肌にかすかな五色をたずさえて、太陽が出る予兆が現れた。鄴の都の空に紫雲がたなびき始めた頃、熱いとも言える、あたたかな感で目を覚ました。

熱は、なんだろう。日の光りか、布団のぬくもりか。

薄い明るさに目が慣れ、まばたきをする。身を起こそうとしたが、起きあがれない。

身体にかかる重さ。ふと視線を動かせば、曹操の顔。固く抱きしめられたまま、理嬢は眠りについていたのだ。熱は曹操の体温だった。ああ、なんだか。妙に恥ずかしさを覚えた。

規則正しい寝息を立てている。息が、顔に当たるのを感じた。孟徳さま、と声をかけるのを理嬢は止めて、曹操の腕に身を任せ、まじまじと寝顔を見つめた。

そういえば、こんなふうな孟徳さまにお会いするのは初めてのことかもしれない。

まるで赤ちゃんみたい。つい、そう思ってしまった。

ゆるんだ眉に、やわらかな目じりをしている。

まるで無垢な赤ん坊ように無防備な顔をしていた。起きているときとはまるで別人であるそれに、理嬢はほほえんだ。

やさしい。

やさしい、寝顔。

こんなに、やさしいお顔をされるなんて。

孟徳さま。

小さくつぶやき、理嬢は背へ指を回して撫でてみる。広い背中は、壮年の男のものだ。女のものとはちがうし、やはり赤ん坊のようにか弱くもない。

自分に抱きつく腕が、なにかを探し当てるように、もぐもぐと掻き動いた。

「お目覚めですか?」

起こしてしまったと思ったのだが、曹操の意識はなかった。無意識のうちであったのだ。赤ん坊が母を求めて、一生懸命に手を伸ばす情景が浮かぶ。

「ごゆっくり、おやすみなさい」

霞のようにつぶやいた。

ふと、夜に考えていた問いのつづきが、胸の内で始まった。孟徳さまもわたしにとって特別な御方。こうして生きていることに感謝し、日々御恩に報いらなければいけない御方。それは、夏侯惇さまへの気持ちとはまたすこし異なるものであるには、ちがいない。夏侯惇さまへのきもちは、家族のようなものであるのだから。

問うてみる。

わたしに、問うてみる。

わたしは、どんなふうに孟徳さまを、想っているのかな。特別な御方の、その先の答えはどんなものなのだろう。側室のわたしからは、夫ということになるけれども、どちらかといえばわたしはお仕えしている侍女の心もちに近いような気がしていますが。

ここまで考えたところで思考がまどろみ、二度目の眠りに落ち着いた。


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