第四章 愚者 男の記憶



母子の幻を雀(シャン)は見ていた。

長年、手元に置いてきた刀の刀身を見つめれば過ごしてきた日々が芥のように降りてくる。それだけだ。

刃を鞘へとおさめた。

外套を羽織り、刀を腰から下げて部屋を出る。微量の風が吹いていた。昼過ぎではあるけれど、雲が多くて太陽をさえぎるため、ぼんやり薄暗い。

庭へおりた。庭には、手のひらにすっぽり納められるほどの大きさの純白の白い花々が、ところどころちりばめられたように、ひっそりと緑の陰に隠れるように咲いていた。うちひとつを指先で、突いてみる。指の腹に、生き物の皮とは異なるあたたかさが伝わってきた。指の強さによって大きく小さく振れ動いた。

あの母子は、十日間ほど歩きつづけて見つけた小さな村にゆだねた。あの村の住人たちが善人かはたまた悪人かは、あずかり知らぬことである。運が良ければ、よかったねと言うし、運が悪ければ、よくなかったねとだけ言うしかない。自分の持っていた銭を、すべて渡してやったのは親切ではない。ただ、なんとなく、だ。母親の儀礼ぶった態度と実態のない哀愁が漂うつくり笑い、娘の父親が教えてくれたという他愛のない思い出話を最後に別れた。それからどうなったかは、知らない。しかし、知ろうとも思わない。

また、会おうね、お兄さん。

また?二度めなどない。

お兄さん、ありがとう。

ありがとう?いわれる筋合いなどない。俺の気まぐれだから。

花をひとつだけ捥ぎ取り、手のひらで、握り潰した。冷たさとべとつきがひろがる。

唯一、知っていることは、あのひとたちが死のうが、生きていようが自分には寸分も関係のないということだった。

開いた手から、潰されて平たくなった花の残骸が落ちた。はらり、はらりと優雅なものではない。死んだ身体が、力を亡くして落ちるものと同じだった。

死んで骸となれば、人も花も変わりはない。

花を潰すこと、ちょっと楽しい。可愛いと思わないでもない花、もうひとつ潰してしまおうか選んでいると、声をかけられた。

「あまり、いい趣味とは言えんな」

振り返る。夏侯惇が立っていた。

「夏侯惇」

夏侯惇が雀の足元に散った花のひとかけらを、ひとつ摘み上げる。しおれてたゆんだ花びらが、手のひらの上に物言わず横たわっていた。

ずいと突き出された手のひらと主を、雀は唇を尖らせて交互に見つめた。

「なによ」

「この花を一輪咲かせるために、どれだけの労力を費やすと思っている」

「わかるわけないじゃない」

「この庭に咲いている花には世話する者がいたんだ。その努力を無碍にするんじゃない」

「あの坊やのことか……………。でも、もうこれからは、こいつらは勝手に咲くな」

金髪の、まだあどけなさが残る少年。先日、曹操の息子に付いて屋敷から出て行った。名前は、なんだったろう。

「はいはい、ごめんねえ」

「あやまったところで、花が元通りになるとでも思っているのか?」

「……………怒ってるのかよ」

「当たり前だろう」

「おかしなやつっ」

雀は夏侯惇から目をそらした。後ろめたさではない。長々と説教をされるだろうという推測から、先に拒否を示しただけにすぎない。

「たかが花だろう。どうして、そんなふうに怒るわけよ」

「理由は、いま言ったばかりだが」

「おまえ、そういう表情をよくするんだねえ。俺がおまえの従者を殺したって知ったときも、曹操の兵どもを気絶させてやっただけのときも、いま、花を握りつぶしたときでさえもさ」

夏侯惇は、なにも言わなかった。

「心が優しいんだ。俺とはちがう」

雀は盛大にため息を吐いてから、夏侯惇の周囲をゆっくりと歩きながらつづけた。

「おまえの、夏侯惇の優しさは並みの優しさとはちがう。すべてのものに、愛しさと慈しみを捧げるんだね。誰にでも、食料にされる牛や豚にでさえもな。だが、所詮は人間だ。そんな感情が長続きするはずがない」

「どうやってそんな思考になるのか、甚だ疑問であるが」

「謙虚だねえ。褒めているんだから、素直に喜べばいいのに」

「やめろ」

「いいじゃねえか。もっと聞けよ。俺はな、おまえみたいに優しくなんかねえんだよ。人間を斬ることに躊躇も抵抗もないんだ。俺は娯楽のために殺したことだってある」

「止めろと言ったろう」

「自分のことは自分では解らないものさ。顔に似合わず、ずいぶんと繊細だよ、おまえ。俺にはそんな繊細さはないね。慈愛って言うんだろうね。俺にそんなものがあって、そんなものを捧げるとしたら、理だけだよ」

「いいかげんにしろ。よくもまあ、だらだらと喋ってくれるな」

「悪いねえ、こういう性分なんだ。でも、夏侯惇は俺のようなことはしないだろう?俺は楽しいんだ」

鼻を鳴らすと、雀は愉快そうに喉を鳴らした。理嬢によく似た顔をした男は、まだ花を指で突いている。あきらかに散らす目的で及んでいる無邪気な姿が、不気味だった。奇行にも感じる。これに慣れることはまずないだろうなと思った。

「俺にとって、殺すってのは、こんなにも簡単なのことなんだよ」

「ふざけた物言いは慎め、若造。生殺与奪を軽々しく、しかも嬉々と口に出すな」

「若造ねえ。これでも年齢は夏侯惇とさほど変わらないかもよ」

「俺をなめているのか。年齢が大差ないのは絶対にない。理の弟だろうが」

「一定の敬意は払ってるっての。こんな減らず口で悪うございましたね」

反省の色をまったく表さない雀に、夏侯惇は短くため息をつき、言った。

「……………お前に用があるのだが」

「どんな?誰かを暗殺しろってかあ?」

「私が頼むとでも?」

花を突いていた指が止まる。

「そりゃそうだね。おまえが依頼するわけねえかあ」

夏侯惇は雀を一瞥し、踵を返した。

「来い」

雀は素直に夏侯惇のあとをついて行く。どうせ暇だったのだ。暇つぶしになるだろうという期待をした。

着いたのは、花も草木もない、土だけの寂しい庭の一角だった。そこで、夏侯惇は雀に向き直ると剣を抜いた。その切っ先を雀へ向ける。

「ええ?俺を処刑するつもり」

「やるならば既にしている」

「だよな」

「貴様の本当の実力を知りたい」

本心だった。一閃で相手を殺すほどの腕。武術をたしなむもののひとりとして、強者の力を知りたかった。

「俺の実力?」

狐に化かされたように、きょとんと、雀は目を丸くした。

「そうだ」

雀は口をつり上げて、嘲笑した。馬鹿か、と。

「一回、首に突きつけてやった気がするけど。死にたいのか?俺が本気を出したら、死ぬぞ」

「貴様は言ったな。私にもう二度と、刃を向けるようなことはしない、と。それはつまり、私を殺しはしないととっていいのだろう?」

「だから、夏侯惇は死ぬ心配がないと?」

「そうだ」

「おひとよし、それか、阿呆」

吐き捨てながらも、雀は刀を抜いた。相手をしてほしいのなら要望に応えてやろう。減るものではないからだ。刀身が陽光に反射した。意外に光は真っ直ぐで純粋だった。

「力を加減したって、まちがってやっちゃいましたってことはあり得るんだよ」

「やってみねばわからん」

「……………本気で、俺と戦りあいたいのか?」

「無論だ」

二人の男は、構える。

「正直、本気の俺とやりあうというのは、腕にかなりの自信があるか、かなり馬鹿だけだぞ。お勧めしないな」

「どちらにとってもらっても、かまわん」

「命は大事にしなくちゃ」

けらけらと刃先を左右に揺らす。夏侯惇の瞳はぶれなかった。

「御託はいい。貴様は、やり合いたくないのか。やりたいのか」

「はい、やめましょう。なんて言わないよ……………加減はするが、どうか死なないでくれよ」

「これでも将と言われているんだがな。心配しなくていい。私は簡単には死なん」

「よしよし、信じてあげようね」

「もともと、貴様の本気を目にしたことがない。ゆえに恐怖さえも持ってない」

苦笑にも嘲笑にも似た笑みが、ふたたび、くっきりと雀の口元に刻まれる。

沈黙が流れた。

自然の音だけが、縹渺と流れていくだけだった。

雀が色素の薄い茶色の目を、ゆっくりと閉じた。そして、勢いよく紅い目を開眼したと同時に夏侯惇に斬りかかる。静寂が破られた瞬間だった。その唇に笑みはなく、きつく締められている。

直線に放たれた一閃を、夏侯惇は自らの剣で止めた。鋭い音が、周囲に広がる。衝撃。ずしりと重い一撃。

刃と刃が互いにせめぎ合い、小さく高い音を小刻みに、絶えなく鳴らしつづける。夏侯惇の握る手に力が一段とこもった。雀の刃を横に払う。左に消えた。潰れた左眼から刀の切っ先が狙っている。想定内である。夏侯惇は顔を反らしながら身体をひねり打ち落とした。

「悪くねえな」

「左眼の負荷は承知している。気を遣わないわけがないだろう」

「まあ、そうだよなあ、盲夏侯」

ひさびさに忌み嫌っているあだ名を耳にして、夏侯惇は些かに苛ついた。

雀が後ろに跳びずさる。夏侯惇はそのまま追いかけて胸をめがけ、剣を突き出した。しかし、突き出した剣先に対象は居らず。その横に、身体をかわした対象は大きく刃を振り上げていた。

認識するのが早いか、雀の腕は振り下ろされる。

夏侯惇は、突きの体制から防御への切り換えが間に合わず、身体を横に転がらせて避けた。肩を起点に背中をひねらせて、素早く立ち上がり構え直した。

いない。

夏侯惇の頭に、戸惑いの間ができる。しかし、長くはつづかない。殺気。背後。

気づいたときには、奴の鋭い刃が首の正面間近に迫っていた。夏侯惇は後ろから包み込まれるような状態にいた。刃を、首の正面で食い止める。足が震える。息が上がった。

再び、刃が唸り始めた。

押し返そうとするが、支えるはずの足が、がくがくと脈動していた。

これで、終わりか?やっぱり、あっけなかったな。

背後から漂う殺気が、そう言っていた。その殺気はいやらしく淫靡に、おぞましいほどに夏侯惇に舐めついてくる。首を、滑らかな絹糸で締め上げられるようだ。

いや、まだだ。振り払うように、歯を食いしばった。

力を緩めると同時に、前を向いたまま片足で雀の腹を蹴り上げた。不意をつかれた雀は後ろへ勢いよく傾き、縛りが解かれた。

「てめえ……………」

渾身の力で腹を蹴られた衝撃で咳き込む雀の隙を、夏侯惇は見逃すことなく、斬りかかった。雀も大したもので、すぐさま斬撃を受けとめる。雀の紅い瞳が一瞬、理をまざまざと思い出させた。

あの暗闇。

あのもやのかかる薄明かりのなかで浮き出た娘。真っ赤になっていた。

馬乗りになり、首を絞めて殺そうとしてきた。認識がふやけてくる。

理と戦っている。そんなこと、有り得ないのに。

打ちあう刃。

右へとゆけば、雀の刀がすこし遅れ止めて、左へゆけば、雀は持ち替えて止める。慌ただしさのない流れのある動きは見事なものだった。

黒曜と紅色の瞳が刀を挟んで交錯し合う。

「足癖が悪いんだな。汚いことをするじゃねえか」

「命の取り合いで、きれいごとは言ってられないからな。貴様もそうだろう」

「そうね。俺もさ。でも、いまのは意外だった」

不意に、男たちは唇のすみを歪めた。

もがいてもがいて生を掴み取る。恥をなんだという。卑怯をなんだという。

紅い瞳の男は、夏侯惇の刃を弾く。雀がすこし揺らいだ身体に襲いかかるが、放った一撃は不安定な態勢でありながらも打ちさえぎられた。

黒い瞳の男が、受け止めた刃をはねのける。そのまま、容赦のない突きを繰り出す。顔を狙った。顔はそらされたが、髪が、滴りが幾分か舞った。

白い肌に、赤い糸がまとわりついていた。

その時だった。刀で斬撃を受けながら、紅い瞳が大きく見開かれ、夏侯惇を見据える。血の瞳に映ったものは、くっきりと憎悪。唇に歯を立てている。

冷たい音。初めて受けた刃以上に重い斬撃が、夏侯惇の突きを止めた。短い静寂が、不意に来る。

時が、静を求めた。

そして、不意に破られる。

獣じみた、叫喚。

女の高く上擦った叫喚を空間に轟かせた。上げながら、食らいついてくる。

先ほどとは明らかに異なる、速さ、強さ。降りかかる刀を受け止めながらも、刃は夏侯惇の身体を喰らう。肩、腕、腹を喰われる。赤い血が、雫となりて地面に散っていた。

雀の刃を打ち止め、夏侯惇は斜め横へと導く。雀は身体を反転させて、息つくまもなく、刀を振り落とした。

ずしりと重い威圧は、化け物じみた力だと思った。受け止めるたびに夏侯惇の握る手に幾分かの痺れが走る。続く斬撃に感覚がどんどん奪われて、ついには剣が打ち飛ばされた。

しまった。

無防備となった夏侯惇の腹真正面に、勢いよく刀の柄がめり込む。

「よりによって、よくも顔を傷つけやがって」

地面に倒れ込む。腹への衝撃は内臓や胃を揺さぶった。内のしたから湧き上がるものがある。口を押さえたが、制止を効かずにそれは出た。少しばかりの喉に痛い液体とともに、内容物が地面に転がる。びくり、びくりと腹が痙攣した。

抉り突かれるような苦しさに、地に爪を立てた。身体を動かして疲労したものとは違う重み。

離れた剣は宙に、何度も弧を描き、地に突き刺さっていた。

「これでわかったか、俺の実力だ」

怒鳴りつける言葉とともに、剣が目の前に投げられた。がしゃんと音を立てて膝元に転がった剣を手に取って、杖のようにして身体をかたむけさせ立ち上がる。

「まだやるのか?物好きなやつ」

「ぬかせ」

夏侯惇は咥内に残った物を吐き捨てた。

「なにが」

「感情に揺り動かされて、出したような力だ。俺が知りたいのは、雀の本当の力だ」

「……………はあ?」

「理性もない激情のままの行動が、実力だと?」

「理性のない?激情?見下すか、てめえ」

息を整えながら、夏侯惇は構えなおした。

「本当の実力を、教えろ。雀」

「後悔させてやろうか、夏侯惇」

憎悪に満ちた瞳で、見つめてくる。しかし、それは夏侯惇へではない。雀自身、自らに向けられていた。いったい、何故。理嬢と同じ顔をした男の、憎悪の根底に、哀切がある。

「後悔はしない」

「吠えていろ」

「後悔は」

雀が刀を向けて迫る。息を呑むほどに、鋭く速い。勘にも近い感覚で受け止めた。

幾たびも冷たい刃の音は鳴り止まない。

打ち合いながら、夏侯惇も雀も互いにさぐり合う。卑怯は承知。どんな手段を使っても、ねじ伏せようとする。

ふたつの刃は弾いて、双方わずかに退いた。

途端、雀は牙を剥き出す。

一直線に降ろされる刃は、夏侯惇の顔を喰らおうとしていた。剣を横にして進撃を止める。紅い紅い瞳が、近い。

また、理嬢。

「ほんとうに、理と同じ顔をしているのだな……………」

呟かれた声はやわらかかった。

「呑気を言う余裕があるのか」

「あかい」

今にでも、肉を裂き、骨を断つような牙が、耳に唸りを上げる。

「特に、瞳だ」

聞こえてはいない。

自分に襲いかかってきた理嬢の瞳と同じ。そのもの。どこか、穏やかな気持ちにさせられる。場違いだとは知っている。口元に、ほほえみが宿った。ふざけるな、とでも言うように、雀は刀を握りなおし、退いてからふたたび夏侯惇に斬りかかる。

「俺を甘くみるな」

「私は過小に評価をしていないぞ」

貴様が強いことはわかっている。

刃がより強く打ち合う。金か、赤の火が散った。そのたびに、紅い瞳が黒い瞳に焼きつく。

おまえに、なにがわかる。

雀が、そういった気がした。

わかる?なんのことだ。貴様のことか、それとも理のことか。

雀は腕の立つ男ということくらい知っている。理のことなら、理解しているつもりだ。好きなもの、嫌いなもの、癖、似合う色。あとは、なんだろう。胸のなかで呟く。私はあと理嬢のこまかな表情を知っている。

よろこび、怒り、かなしみ、たのしさ、戸惑い、不安。……………あとは。

紅い瞳が、炎のように燃えあがった。おまえに、なにがわかる。おまえに、理のなにがわかる。おまえなんかにとでも言うように。

すくなくとも、雀よりは知っている。長いあいだ、世話を任されたからだ。

この歳月は短いのか?それとも長いのか?俺にとっては長い。私にとっては短いな。

「最後だ」

打ちあいが、雀の刀が大きく薙ぎはらったことで終わった。夏侯惇は、渾身の力で脳天をめがけ振り下ろした。ころすつもりはなかった。峰打ちを狙ったものだ。しかしそれは空振った。雀の姿が消えたのだ。

「あっ……………」

動きを止めた夏侯惇の頭蓋に、鈍い音が突いた。衝撃が脳天から響き、指の先、足の先までめぐり到達する。鈍足な濁流が押し寄せた。ゆっくりと、景色がゆがんで遮断された。




見慣れた天蓋。寝室の寝台の上だった。

ゆっくり起き上がると、頭や身体の各部が鈍く疼く。視界が柔らかく歪んだ。思わず一度目を閉じてから開くと、いささか回復したらしく、景色が定まっている。

額をしめつける感覚に、白い包帯が巻かれていた。丁寧に手当をされているようだ。

「……………」

「目が覚めた?」

「雀(シャン)」

「動かないで」

小さな器を持った雀が部屋の扉近くにいた。椅子を足で小突き、ゆっくり移動させながら、こちらに向かってきている。寝台の横まで来ると、それに座った。

「痛いよね。気分は、どう?」

夏侯惇に穏やかな表情で聞いてきた。あまやかな雰囲気の印象を持った。

「起き上がるなんて、さすがだけど。急な動きはしないでね。頭をやったから」

「おまえが、手当をしてくれたのか?」

「うん。手慣れたものだろ?これも飲め」

差し出された器を、夏侯惇はまじまじと見た。口に入れていいものなのか。中には、どす黒い緑の液体がある。

雀は小さく、困ったように笑った。

「安心しろ。ただの刀傷にいい薬だ。あの坊やのおかげかな、いろんな薬草があって、探すのに苦労しなかった」

「たしかに、姜維は薬学によく通じていた。薬茶を淹れてくれることもあったな」

「ふうん」

「この薬は雀が作ったのか?」

「当たり前だ。薬草さえあれば、他にもいろいろ調合できるぞ。毒から良薬までな」

「ほう」

「すごいだろ」

「これに毒を入れ込んであるまいな」

「毒と良薬は紙一重だ。いまの夏侯惇にそれは良薬で、毒じゃない」

「所詮、医者の真似事だか」

「生きていくための医術の心得だ。真似じゃない」

器を受け取り、唇をつけて飲む。舌の上に広がる苦い味に顔をしかめた。苦い薬をのどの奥に押し込めながら、自分はどうして寝台の上にいるのかと考えた。雀と刀を交え、斬られ、紅い瞳、後ろからの衝撃。

「水、持ってくればよかったかなあ」

背後から頭を斬られたのか。無意識に、指が頭に触れていた。雀が、慌てて口を開いた。

「頭は、斬りつけてはいないよ。刃じゃないほうで、思いっきり、殴りつけただけだ」

「殴ったのか」

「それで、気絶したんだよ。悪かった。もしかしたら斬ったよりたちが悪いかも」

「いや、謝ることはない。私が望んだ結果だ。たちが悪くとも、殺さぬように手心を加えたと信じておく」

「なら、気が楽だよ。まだ、寝ていたほうがいい。思いっきり頭を殴ったからな」

目を細めた。先ほどの獣のような恐ろしさが微塵もない。

「謝るのは、私のほうだ。顔を傷つけて申し訳なかった」

「これのことか?」

笑っていた顔が、少し憂いだ。視線が斜め下に泳いでいる。血の止まった頬の傷を優しく指先で撫でていた。浅かったから、意識しているであろう高めの声色で、大丈夫だと雀は言った。

「気にしなくていい」

「お前は、強いな」

捕らえることのできなかった速さ。一撃、一撃が重い斬撃。見た目のしなやかさに反しての攻めを、夏侯惇は思い出す。

「言っただろう。俺が本気を出したら死ぬぞって」

「私以外のものでも、太刀打ちできるものは少なかろうな」

「かな?」

「腕力もあり、機敏だ、すべて……………。お前の力を見たときもそうだが、刃を交えたときは、まるで人外のものを相手にしている気分だった」

だんだん、人を相手にしている気がしなくなった。打ち合う度に、人間の皮が乖離していくような。

雀は、乾いた咳を短く発した。落ち着きなく、椅子から立ち上がり、周囲を歩き回りながら夏侯惇へ言葉を向ける。

「化けもの、だって言いたいのか?」

「ただ、強いと言いたいだけだ」

「お褒めの言葉、ってわけか?だが、化けものとは心外だよ」

「気を悪くしたのなら、謝る」

「分かったぞ。戦りあっているときはそれほど気にも止めなかったが、俺の目のことを言っているんだな」

「あかい?」

歩きまわっていた足が、突然制止した。動揺しているのは明らかだった。しかし、夏侯惇に訝しむ様子はなかった。理嬢に襲われた際、同じ色の眼をしていた。瓜二つの色を持つ雀。共通の証し。血族なのだと思うくらいだった。

「あれは、興奮するとなるんだ」

「……………なにかを、恐れている?」

「俺が?なにを?なにについて恐れる必要がある。生まれつきだ。癖」

そう言いながらも、右手が震えていた。震える手を、夏侯惇に見られはしないだろうか。拳を作り、爪が食い込むほど力を入れ、必死に動揺を、狼狽を隠していた。

恐れるものなど、ありはしないと。

「雀、お前の紅い瞳は今回が初めてではないぞ。従兄上に斬りかかったときも、赤くしていたろう」

「あれも、ずいぶん興奮していたからな」

そうだったと言い繕うように早口で言い、何度も小さく頷いた。

「はじめてじゃなかったね」

「それに、お前が初めてではない。理も、紅くしていた」

「理がっ」

弾かれた声だ。

理が。

理が。

理が。

「理が何をしたっ?」

襲いかかる勢いで夏侯惇の肩を捕らえ、掴む。激しく、理、という名を呼びながら揺らした。夏侯惇は、揺らす雀を止めようと肘を掴み返した。

「やめろ、気分が、悪くなる」

揺れが頭の痛みに触れる。胸にも気持ち悪さが伝わっているようで、また胃の中身が逆流しかけた。

こちらの意思して、雀は支えが抜けたように取り乱していた。

「理が、理が、理が紅い?理がなにをしたっ?」

「なにを?」

「理が、どうして目を紅くするんだ。教えてくれ、教えてくれっ」

「……………おまえと、同じ理由だろうが……………?」

しまった、と夏侯惇は口を塞ぐ。理嬢のことを話すべきではなかった。口にすべきではなかった。誰にも話すまいと誓っていたくせに。

「おい、理が紅いって。いつそんなこと」

「べつに……………関係ないだろう」

気の緩みだった。俺はなんという馬鹿なことをしでかしたのだ。情けなさに、あきれた。

「どうしてはぐらかす?教えてくれ、夏侯惇」

雀が、何故ここまで取り乱すのかは皆目見当がつかなかった。理嬢が紅い瞳をしていただけのことではないか。何故、雀はそれを気にするのだろうか。

しかし、いくら問い詰められようと話す気はなかった。理が、人を殺したことを。どうして言えるのだろうか。いや、ちがう。理嬢ではない。殺しは理嬢の意志ではない。絶対にちがう。

「頼む。頼む。理の眼が紅かったって、どういうことだ?」

「おまえに、話しておくようなことではない。姉弟だからおかしなことはあるまい」

「さっさと教えろ」

「私から教えることはなにもない」

「隠してんじゃねえよ。嘘をつくなよっ。紅くなってたんだろう?理の、眼が」

「紅くなっていたことは本当だ。だが」

「……………だが?」

「それだけだ。それ以外、ない」

「……………」

「離せ」

唇を噛みしめ、眉間に深く皺を刻んだ雀がいた。黙ったまま、肩を掴む雀の手を弾き強引に退かせる。雀は、言葉を発しなかった。ただ、力をなくしてうなだれているだけであった。

「紅い眼。話すことは、話した」

「嘘つくな」

「本当だ」

「なにが本当なんだっ」

「私の言っているすべてだ」

「嘘だろっ」

「なにっ?」

力強く顔を上げ、雀は言い切った。ためらいながらも口に出さねばならないと、のどの奥を痛め引きずりながら。

「……………理が、ひとを、殺したんだろうっ……………」

頬を拳で殴りつけたのは夏侯惇だった。鈍い音が、部屋じゅうに響きわたった。後方にのけぞる雀の襟首を握り引き戻し、夏侯惇は冷静さを失った。雀が苦しそうに呻いても、襟をより強く握り締めるだけだった。

「嘘をついているのは貴様のほうだ、雀っ。嘘吐きめ、そんなことをいうなっ」

雀は涙をためて、黒曜の眼を見つめている。その瞳に、激昂する自身を眺めながら、夏侯惇はつづけた。

「理が、あの理が?殺しただと。刃物を握ったこともない手で、ひとを殺めるなど、できるわけがないだろうがっ」

そのとおりだ。理嬢は一度も刃物をあの白い手で握ったことがないのだ。夏侯惇も握らせはしなかった。料理に使用する包丁の一本も触らせなかった。優しすぎる手が、人を殺すことなど、ましてや傷つけることなど有り得たりはしないのだ。

「ふざけるな、ふざけるなよ、雀。ひどく下劣な冗談か、本気か?どちらにせよ貴様は理嬢を犯した」

弟を名乗る男は、反論もせず涙を溢れさせていた。頬をわずかに膨らませ、唇を結んでいる。なにを泣く。どうして悲しむ。おのれの口からでた「人殺し」という言葉への軽薄さにか。それとも、頬への痛みか。いずれにせよ、夏侯惇には涙の意味が理解できなかった。

「理が、殺しをするわけがない。決して、あるはずがい。理と会ったことも、過ごしたこともないくせに、あいつがどんな娘か知らんくせになにも知らんくせに……………おまえは、おまえは……………」

自分が見た、血に染まる理嬢は、夏侯惇の知っている理嬢ではなかった。自分を殺そうとした理嬢は、理嬢ではなかった。

考えるまもなく、ただただ怒りと否定が連なって言葉が紡がれる。感情のままのそれは、夏侯惇も不思議に思った。こうしているときでさえ、溢れてくる。

雀は、理嬢によく似ていた。だが、今はまったく似ていない。無礼を働くどこかの若造にしか見えない。

「弟だと?笑わせるな、たわけめが。理嬢は痛みの知る人間だ。血も命を奪うけがれにも犯されていない娘だ。俺たちと同じにするな。図に乗るなよ。弟だと抜かして愚弄するんじゃないっ」

理嬢ではない、なにか。あれが理嬢だと、俺は認めない。どうしたらと、こわいと透明な恐怖に震える娘が、枝を折るがごとく簡単に手折ることのできそうな娘が、なぜだれかを害し殺めることができようか。あんな惨劇を生み出したものが、自身にすがるものか。手を血に染めたなど、認めない。あの理嬢は、夏侯惇が知る理嬢そのものであるからだ。

「今度、そんなことを言ったら、許さんからな。貴様の首を掻き切って、禽獣どもの餌にしてやる」

床に叩きつけるように襟を離す。床に倒れ込んだ雀を尻目に、夏侯惇は扉を乱暴に開けて、部屋を出た。まだ、自分の胸のなかで抑えきらぬ激情に業を煮やした。

大声を聞いた使用人たちは、顔を蒼くしている。

雀は床へ背をつき、殴られた頬を撫でていた。滞りなくしたたる涙は、床に染みを作り出していた。
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