第一章 躍動 起こり始めるひとごろし




屋敷へ帰るとすぐに侍女の頭目格が顔を出した。うやうやしく帰りを迎えてくれる。流れるような動きで頭を垂れた。

「旦那さま、お帰りなさいませ」

「理嬢は帰っているか?」

「はい。それが」

表情はしょうしょうしかめられていた。言葉に濁りと躊躇いが含まれていた。

「おひとりで。輿車にもお乗りにならず、供のひとりもつけずお帰りになられました」

「またか」

「はじめに理嬢さまがお帰りになって、後から空の輿が、戻ってきました」

夏侯惇は舌打ちをした。よくもまあふらふらと。容易に想像できるところが、まさしくと納得してしまいそうになる。理嬢はこちらが頭をひねってしまいたくなる方向に奔放な面がある。いや、軽率なのだ。

漢の丞相曹操の側室になる身なのだと自覚を持たせるため、外出をするのならば輿に乗れとあれほど言っているのだが、またしても約束を反故にしたようだ。仮にも貴人のひとりとなるのだ、深窓にはいるのならば、おとなしく慎みを持った淑女でならなければならない。

どこに出しても恥ずかしくない、そして従兄上に恥をかかせない女性になるよう養育してきたつもりなのだが、あの娘はこちらが気を向くとあるまじきことをする。

「部屋にいるな?」

「お部屋に籠っておられます。気分が優れぬのかお聞きしましたら、誰も入ってこないでほしいと人払いをされてしまって」

わたくしたち侍女の誰ひとりとして近づけようともせずに。と付け足す。

「なるほど。だれも近づいていないわけか」

「はい。あまり良いお顔の色ではなかったので、どうしたものかと。みな心配しております」

すでに夏侯邸において曹操の側室もしくという扱いを受けている。あの娘が「入ってくるな」と語気を荒々しく言ったと思えないが、侍女連中は律儀に言いつけを守っているようだ。

「私が行こう。案じる必要はない、先ほどまで調子が悪い様子はなかった」

「さようでございますか。ああ、それと、夏侯妙才さまから書状が届いております」

夏侯惇はそうかと言葉を返しただけで侍女を残したままその場を去った。

向かうのは理嬢の部屋に近づいていくと、花の匂いが漂ってくる。桃の花だろう。

香を焚いているのかどうか詳しくは知らないが、きつくはないちょうど良い匂いに、ふと眠気を誘われる。桃の香りは理嬢がもっとも好む香りだった。そして、きつく叱ったときなど、よく焚いていることを夏侯惇は知っている。動揺を紛らわすためなのかどうか定かではないが、言い換えれば、なにかあったときのための落ち着く方法なのだ。

なにかがあったときのための。

なにかをしでかしたときのための、とも言い換えることが出来る。心当たりがありすぎている。

「理」

戸を叩くが返答はない。二、三度繰り返すが無論のこと返答はない。

何度目かのため息をつき、無断で戸を開いて部屋のなかへ足を運んだ。

部屋は外よりも強い桃の香りで満たされていた。あまやかな香りの波が夏侯惇を迎えた。

娘は寝台の上で着物を寝着に換えもせず、うつぶせになって布団に顔を埋めていた。近づくとかすかな息づかいを感じた。眠っている。桃の香りで落ち着いて、行き過ぎて眠りに襲われたのだろうか。それとも眠りに逃げたのだろうか。わからなくもない。しかし、夏侯惇はおのれのやるべきことを変えるつもりは毛頭なかった。

手を伸ばして肩を揺する。反応はなく起きない。

頭を撫でる。さわり心地の良い長い髪が指にまとわりついた。

しかし、起きない。

よほど深く眠っているのだろう。ほんのすこし、起こすのを止めてしまおうかと躊躇った。無理に起こす必要もないのかもしれない。髪の柔らかさが妙にしっとりと指になじむ。起きてからでもいいかと思う気持ち振り払うように、より強く肩を揺すってやった。

「理」

名を発する。

「理嬢」

僅かに厳しくこめた声と指。ようやく反応したのか、理嬢は言葉とは言い難い、うなるような声で応答し、気だるそうに頭を上げた。おぼろげな瞳でこちらを見る。

ふたたび瞼が閉じようとするのでほおを軽く叩いて、意識をつないだ。

「待ちなさい」

閉じかけた瞳が薄いながらも開くと夏侯惇は理嬢の耳たぶを揉むと、身を捩った。

「なにをしている」

「……………眠っていました」

「見ればわかる」

「お昼寝ですよ……………」

くすくす。眠りをさまたげたのが夏侯惇だと確認すると、春風に揺れる花のように、笑った。くすくす、くすくすと。幼さにため息が出る。

「まったく」

まだ夢心地なのか答える声はまだ宙を飛んでいる。くすくす。

「起きろ」

「はあい……………」

覚醒しきらない頭を回転させず、言われるままに身を起こす理嬢は命令される人形か犬のようだ。そんな理嬢にあきれながら目尻を強く揉んでやる。ここちよいのか、やらわかく表情がふやけた。幼い。

「明るい時間から寝るやつがいるか」

「明るいときに寝るから、お昼寝と呼ぶのですよ」

「そうだがな……………」

屁理屈かそれは。夏侯惇が頬をかるくつまんでやると、理嬢はくすぐったそうに肩をはねさせる。あどけなさすぎるようすが、愛らしかった。しかし、夏侯惇がここにいるのは昼寝を起こしにきたためではない。説教をするためだった。

ほだされる気持ちを引き締め、夏侯惇は鋭い瞳で目の前の娘を見据えた。理嬢のくちびるから、すこし笑みが薄まる。

意図した低い声音が理嬢の耳に入っていく。

「また輿を使わなかったようだな」

「えっと……………」

「私にあと何回、口を酸っぱくさせればいいのだ?」

「今度から、ちゃんと気をつけます」

慌てて失態をもみ消すように手を羽ばたかせた。これも何度目の言いわけだろうか。

「今度とは何度目だろうか」

「次は、ちゃんと。でも、歩いたほうが早いのですもの」

「おまえの言いたいことはわかるが、それでもだ」

「今度は、ちゃんと守ります」

「本当、だな?」

「はい。はい、かならず守ります」

「よく聞け、おまえが勝手をすることで輿を待機させていた者にも申し訳ないことになる」

「乗らないと声はかけましたけども…………」

「声をかけたからいいわけではない。側室にとって輿車を使わんのはみっともないことだ。漢帝国の丞相の側室がやすやすと顔を晒すものではない。自覚しろ」

「……………」

側室と言った途端、理嬢の顔は強張ってしまった。

なにかある。そう思った。自分についた嘘。ごまかし。なにがあった。

嘘をつけぬくせに、嘘をつくとはよほどのことなのだろう。

今度は逃げぬように手首をつかむ。驚いたのか、一瞬こちらを凝視したあと目を泳がせる。少しばかり反発されたが、すぐにあきらめ力を抜いた。

「逃げるな」

本題はここからである。

「……………はい」

「先ほど従兄上がお前に対して嫁ぎ先の話をしたかどうか聞いた。すると、従兄上はしてはいない、と言う。何故、私に嘘をついた」

「……………」

なんでもない。目をそらす。夏侯惇の鋭い瞳が痛い。

幼い頃、いたずらをして叱られたときのことを思い出す。隠そうとしたことで目の当たりにした、夏侯惇の冷たい怒り。夏侯惇が嘘を嫌いな誠実なこころを持っていることを理嬢は思いだして後悔した。

「嫁ぎ先だ?そんな馬鹿馬鹿しい嘘に私が騙されるとでも思ったか」

「ちがいますっ」

理嬢は弾かれるように顔をあげ、夏侯惇を見つめた。逆に見つめ返されると、すごすごとうつむいて、ふたたびちいさく、ちがいます、ちがいます……………と呟いた。

「嘘の理由はあえて聞かない。そして、真実を追究する気は毛頭ない。言いたくないのなら言わなくていい」

「……………ごめんなさい……………」

か細い声だった。

謝っても理由は話そうとはしないようだ。こういうところが頑固なのはよく知っている。問いに問い詰めれば口を開くだろうが、尋問する時と場合ではない。

「だが嘘はつくな」

「夏侯惇さま」

「いいな?言いたいことがあるのならば、言え。嘘はよくない」

「わたしは嘘のつける人間ですから……………自分を守るくらいなら、簡単に嘘をつくから……………」

「側室になってからの話しだ。それでも私にだけは、いかようなことがあっても嘘はつくな。いいな。嘘を言われるより、真実を言われたほうがいい」

「……………はい……………」

「兄か父のように育ててきた私が辛いのだ」

「ごめんなさい……………」

消え入りそうにつぶやくすがたは、なんとも頼りなかった。

ようやくにして夏侯惇は理嬢の手首を離す。痛めさせてはいないかと少しだけ優しく撫でてやった。

「痛かったか?」

「いいえ、痛くないです。夏侯惇さま」

いつもどおりの声音。ふと、曹操の言ったことが思い出される。さきほどから足を絡められるにも似た感覚があった。

私と理嬢のふたりを従兄上が想うことは、なんだろうか。

「理」

「はい?」

この娘を見て何を感じる。愛しさか。恋しさか。兄か父として世話をしてきた以上のものがあるのかどうか。見つめる。瞳は、薄い茶色。

「夏侯惇さま?どうしました?あ、わたし、変な顔をしていました?寝起きですから。すぐに正せなくて」

「いや、ただ」

まっさらな孤児。これは従兄上のもの。

「ただ?」

会ったときの心情をそのままに。

「……………なんでもない」

何も感じなかった。

「従兄上が。今宵、お前と過ごしたいそうだ」

理嬢は目をしきりに瞬き、夏侯惇から焦点を外した。夏侯惇に見えないように握りしめた手のひら。唇がおののき、生唾を下そうと何度も喉が引っかかる。

「孟徳さまが?」

無論、夏侯惇はとらえていた。だが、気付いていないふりをした。

「夜が更ける時刻に連れてゆく。それまで休んでいろ。湯浴みと化粧をさせる者も呼ぶから従うように」

「あの、夏侯惇さま、あの」

「なんだ」

意外にも重く冷たさを帯びた声に理嬢にはなにも言うことができなかった。くちびるがとじられたままのを確かめると、夏侯惇は桃の香りがする部屋から出て行った。

残された部屋には、瞳から涙をこぼし震えるひとりの小娘がいた。どうして最後の言葉は重く冷たかったのか、と。

やはりまだ怒っていたのだろうか。お輿に乗らないのはそんなにわるいことですか?ちがう、お輿のことじゃない。いつもの夏侯惇の振る舞いであり、理嬢のとらえかたの問題であった。

わかっている。夏侯惇さまはもう怒っていない。それでも、やさしい言葉をかけてもらいたかった。手を離してほしくなかった。

叱られているばかりであっても、ずっと握っていて欲しかったと願っている自分がいる。

自分はいったいなにをしたかったのだろう。夏侯惇さまがだいきらいな嘘を平然と言ってのけた自分が、どうしようもなく汚いものに感じられた。やり場のない感情が頭の先から指の先からじわじわ胸に集まって、気持ちをたかぶらせる。涙は粒になりながら、顔の輪郭を伝い落ち、着物に軽い染みをつくった。あとからあとから、ぼろぼろと落ちていく。

「言いたくないのなら、言いたくないのなら……………」

理嬢は自分の内側にある透明なよどみを口にすることができなかった。そのかたまりを、ひとつひとつ文字にして言葉として伝えられれば、どんなにいいか。決められた道に沿いつづけなければいけないわが身を、理嬢は知っている。それは、良いことであるはずだ。夏侯惇だって、「良いこと」だと思っているはずだ。

わたしがいままで夏侯惇さまから知らされた世界はそのためだけにあるはずだった。

「嘘は…………嘘は…………夏侯惇さま、だけには……………」

潤う瞳には太陽が傾くにつれて暗くなる部屋が奈落の入り口のように映っていた。
2/4ページ
スキ