第七章 破戒 暗翳の闇



意識がはっきりしないで、霞むのは、刻が経つにつれ重くなった。それを、となりの男のひとは肩を抱いて歩調を合わせ進んでくれる。男のひとの名は知っていた。かけがえのない、わたしのたいせつなひと。わたしを護ると言ってくれたひと、わたしのだいすきな、かのひと。

男は頭から外套を被っていた。土や砂にまみれているが、覗く黒髪は星なき夜空を切り取ったようにつややかだ。肌も白磁のように清潔だった。

ここはどこなのだろう。周囲にはひとがたくさんいる。赤ん坊から老人までが荷物を車に乗せ牛や馬を引いて気の痩せた表情をしていた。それらに当てられたか、どうしてか身体がざわついてきた。

見上げれば、そのひとは口もとをひいて、にっこりと微笑んでくれる。

ねえ、ここはどこなのですか。この問いには答えてくれなかった。

ここはどこなのですか。朦朧は増していくばかりで、息苦しい。男の指が突き立て肩に抉りこんできた。

にわかに騒がしい。鎧に身を包み、槍や剣を携え武装した兵たちがなにかを叫んで、もうもうと砂煙を巻き上げる。群衆にどよめきの波が渡る。後方をよく注意しまた口々になにかを唱えている。

あっちになにがあるの。

振り向いて見てみようとしたとき、群衆が雷のごとく押し寄せた。爪を立てられていた手が離れ、背中を叩いて、男は揉まれて行ってしまう。唇だけ三日月のような弧を描いていた。

地面を揺るがすほどの音がする。馬がこっちをめがけて突進していた。太陽に刃がぎらぎらと光が鈍く反射せしめいて眼を刺した。眩暈がした。どこからともなく女の悲鳴、男の怒号、赤ん坊の喚きが入り交じり始める。

人間の波に揉まれてゆくなか、自分を含んだ我々は襲われているのだと思った。暑い。苦しい。身体は混乱する物体たちに揉まれて次々にぶつかった。こんなところにいてはいけない。いつ転んで踏みつぶされてしまうのだろう、死を恐れ、はぐれたたいせつな男を捜したくて、無理矢理に波を掻き分けた。押され引かれつつ息浅く、やっとの思いで抜け出る。

暑い。被っていた外套を剥ぐようにして脱いだ。喉が掠れるのは、浮いた砂埃をたっぷり吸い込んだからだった。水。水が飲みたい。

動物も通ったりしないような、ほうぼうと乾き伸びた草が群生するなかに飛び込む。体勢を崩して何度か斜面を転がった。鈍い痛みが骨に震動した。

膝の肌下で青く血が溜まり、黒い血が中心から、ぷくりと出ている。

痛みをこらえ、耐えながら上半身だけ起こすと後ろで、いろんな叫びが否が応でも、よく木霊しているのがうかがえた。馬が数え切れないくらい何頭も何頭も潤いのない粉塵を巻き上げ走り、人を踏み倒している叫喚。

馬の蹄がひとの骨を砕く音が聞こえてくる気がして、思わず耳をふさいだ。

そればかりか、ひとがひとを奪っていた。

声だけではなく冷たい耳に痛みを及ぼす音が限りなく大きくなっている。

恐い。しゃがんで頭を抱えた。小さい震えがどんどん早くなり勢いづいて大きくなった。

この感覚、どこかで。どこかでわたしはこれに似た光景を見聞きし、場に居合わせた気がした。振り返らば、凄惨と記憶とが頭のなかを穿つにちがいなかった。

あのひとは、どこに行ったのかしら。探さなくちゃ。どこにいるの?無事でいて。

痛い。髪を勢いよく引かれ、かすんだ視界が空を映した。一度も見たことのない男がのしかかっていた。男はふたり、みっつ、よっつ、いつつ、たくさん。腹に拳を当てられる。手首を掴まれて地面にこすり付けられた。痛い。だれ。

胸をまさぐられる。

頭が出来た物事に追いつかなかったが、すぐに状況は把握した。

なぐさみものにするつもりだ。あのまま人の群れのなかでおとなしくしていればよかった。吐き気と後悔がこみ上げてくる。

きもちわるい、いや。

気が立った男どもの理性は薄く獣に近い本能に埋め尽くされていた。鎧を纏っていないのだから、兵ではあるまい。おそらく、当陽から歩き疲弊した民たちだ。

曹の旗を携えた兵たちを見て、驚愕し戸惑い殺されると恐怖し、理性を失ってしまったものどもでもある。

身をよじるも、逃げられない。たすけて。皮が厚く固い手が頬もろとも握り、口をふさぎ覆っていた。

いや、やめて。視界が歪むのは恐怖に追い立てられる涙のせいか。ばたつく足も抑えられた。むせかえる体臭の饐えたにおい。

夏侯惇さま。

助けて、夏侯惇さま。

護ってください。おねがいです、たすけてください。

ごめんなさい。助けを乞うばかりの、わたしで。

無駄な足掻きをするたびに、末期の楽しみと男たちは下卑た悦びを滲ませ虐げる心情をくすぶらした。着物の裾をめくり、じかに手を這わせていく。

理嬢は、まぶたをきつく閉じて、念じた。きっと夏侯惇さまが来てくれる。どくどくと胸のなかの鐘が早く鳴るのを聞く。蛆虫が全身を這い回るような感触に、喉を震わせて懸命に唸り呼んだ。

夏侯惇さま、夏侯惇さま、夏侯惇さま。たすけて。

たすけてください。

幾たび、助けを乞うただろう。すがりつき頼っただろう。謝りながらも、いつも救ってくれる姿に安堵したのだろう。

夏侯惇さま……………夏侯惇さま、夏侯惇さま……………

理嬢の意識は大きく折り曲げられた世界ののちに訪れた影に呑み込まれた。そして、理嬢は地に足を付けて立っていた、手に千切り取った手首をつかんで。なにがあったか把握できないとでもいうように、時が止まっている。

理嬢は手首を放り投げて持ち主に返したが、持ち主は腰砕けで、せっかく返してもらった手首を蹴っている。理嬢はそれを無造作に踏み潰し、男たちに近づいた。

無表情だった唇が歪んで刻まれた。赤い果実のように煌々とした瞳を輝かせ、慌てふためく男どもの首を、大木を切り倒すにも似た音を響かせながら捥ぎ取り、ただの肉塊とする。

鳥のようにひらりひらりと軽く跳ねながら下郎どもへ向かうたびに、そこらじゅうが激しく赤く染まった。

すべてを無惨な亡骸にしただけでは飽き足らず、横たわる胴体から腸を引きずり出す。粘着質な音を上げながら鮮やかな臓物を散らした。どんどん出てくる臓物が、理嬢は楽しくてしかたがない。豊かに臓物が実っている。ひとつも残らず引き抜くと、あっというまに興味をなくして、地面に打ち捨てた。

高ぶりは抑制できず、頂点を知らず高まってゆく。肉の大地を踏みしめ、握りつぶした肉を草土に吸わせる。手は滴る赤に染まり、崩れた衣装から垣間見える肌にも彩りを加えていった。

細切れに崩れていく肉体は泥のようになった。

ひとつ遺らず相手を完全なる支配下に置いた恍惚に歓喜し、両足で血泥の上を力強く踏みしめる。跳ねたそれは、真っ赤な牡丹の花が咲いたように身体を汚した。手と口の周辺にべとつくそれを咀嚼し、また吸いつく。食欲にも似た殺戮の衝動のままに、理嬢だったものは歩き出した。

理嬢という意識はもはや存在などしていなかった。夏侯惇が知らない雀のみぞ知る、理嬢の側面、それは、人間であって人間ではないものに相当する醜さ。知性も獣というにはおこがましい、ただ飽くなき血肉への渇望を溢れさせる戮者であった。





与えられたのは、抵抗するものは生かしておくな、だった。

猛追撃を開始した曹操率いる五千の精鋭騎兵隊は、一昼夜に三百里(約百三十キロ)もの行程を駈け抜けた。

夏侯惇は補給路を一任され後方を指揮していたが、遅れをとるまいと曹操が出発した数刻後には進軍を開始した。おかげで、曹操との間はそんなに広がってはいないはずだ。夏侯惇の軍は騎兵のほか歩兵もいて、先発よりもはるかに数は多い。無理に駆けさせもしたが、士気は保たれている。

あえて頻繁に一定の時期に休息をとるのは、夏侯惇の部下に対する気配りだった。

長坂波の近くまで来ていることは地図をたどれば知れた。

冬の季節といえど、荊州の地は調子に合わなかった。空気はときに乾いていたり、ひどく湿りを含み蒸し暑く汗はじっとりと流れた。着物が肌と密に張りつくので、不快が増し、より疲労が感じられる。夏侯惇は表に出さないようにしているが、兵のなかには堪えているものも多く、不調を訴える声が上がっていた。そのなかでも、雀(シャン)は開けっぴろげに胸板を大きく曝し、ぶつぶつと口汚い文句を言っていた。

夏侯惇配下の韓浩が見かね、雀に注意したものの逆に罵倒された。夏侯惇に進言したが、夏侯惇も雀の気性をいやというほど身にしみて解っているために、気にせず捨ておけとしか言えなかった。はい、そうですかと承諾するやつではない。また、できるだけ関わりたくないというのもある。

韓浩は謹直な従者で、夏侯惇に仕えている年数はとても長い。小柄で痩躯であるものの、毅然とした佇まいの男である。口数が少なく、浮かぶ感情も乏しいのは夏侯惇によく似通っている。雀のような飄々とした軽薄そうな男は苦手らしいが、それは夏侯惇や姜維と同じく雀の容姿に驚愕を持たざるを得なかったのも要因としてあるだろう。

関わりたくないと思う夏侯惇の心情とは裏腹に、雀は夏侯惇のそばを片時も離れなくなった。話しかけるのでも、いつものようにからかうのでもなく、ただじっとひっついているだけであったが、ときどき、口のなかで聞き取れぬ独り言を短く呟いている。

闇夜の夕暮れの刻限。簡素にしつらえた天幕で休息をとっている夏侯惇の肩に、雀は顔を埋めて言った。

「血のにおいがする」

唐突だったが、夏侯惇はなにも答えなかった。

いくら水を浴びても拭えきれないものくらいある。

このように長年戦場に出ているのだから、こびりついているのは当然のように思えた。においは、おまえのものだろうと言おうかは迷った。

「桃のかおりがしていたはずなのに、血のにおいがどんどん強くなってる」

いまだに、新しい血は一滴も付着していない。

「……………それは、私のことを言っているのか?」

「うん」

雀は自分にしか見えないものを見ているようだった。だが、夏侯惇にはそれは意味のない行為でしかなかった。白い指が、背中を滑らす。すがるように頬を肩にこすりつけてくる。

「桃の香り。俺、好きだったのに」

「私に桃のにおいなどするものか。勘違いだ」

「夏侯惇のにおいではないのはわかる。だけど、するんだよ」

「理解しにくいな」

「でしょうねえ。あ、また消えていく」

「桃がか」

「くさい。とてもくさい。野犬が人間を喰い殺すときのにおいみたいだ。生臭い唾液と生臭い血液が混ざったみたいなやつだ」

「私は人など喰わんぞ」

「あれは喰うもんじゃないよ。毒並みに美味しくないから」

「は?」

外は静かだった。物音ひとつ聞こえず、ひとの気配も薄い。それくらい貴重な休憩を癒やしに費やしている。

黒い瞳が見開き、眉間に皺が寄って雀(シャン)を凝視した。

雀は久々に夏侯惇へ、とびきり幸福の笑みを贈った。背にあった指を移動し、黒髪に封じられた左眼をなぞろうとした。

「触るな」

顔をそむけ身体を突き飛ばした。

「おどろいた?」

なににおどろいたというのだ。ひとの味をしめた告白か、眼を、いや、傷痕に触れられることにか。

「射られたときは痛かった?眼、食べたんでしょ?」

「だれがそんなことを言った」

「噂というのはね、勝手に尾ひれが育って、勝手に泳いでいくんだよ」

「……………」

「で、食べちゃったの?」

「私は鬼だと言うのか」

自分のものであっても眼など食ってはいない。

あれは飛将呂布との戦の最中だった。騎乗し指揮を執っていると、押し付けられるように身体が宙に浮いた。落馬した。突然訪れた、はんぶんの闇夜。はんぶんの朝に映ったのは、矢だった。眼を射られたのがわかった。刺さった矢を引き抜こうとしたとき、音と感触で嫌な予感がした。勢いで抜いてしまったら、おおいに後悔することになる。指揮権を韓浩に委ね、後退を余儀なくされた。

後方の陣中で施術がなされた。鏃の先は目元の骨に当たってから、左眼を侵していた。鏃を取り出すために、肉を切り開かれる。傷は縫われた。頭のなかを火箸で搔きまわされるような熱に呻いた。だが、痛みを超えるような憤怒もまたあった。奪われた。隙をつくったせいだ。おのれ。指揮官であるこの俺が、後退してしまった。この夏侯元譲が。憤怒に身を任せ、次の日すぐに指揮を執った。曹操や韓浩が止めにかかったものの、この男は気丈にも騎乗し戦場に立った。

「残念。食べてたら、鬼になれたのに」

「貴様はどうなのだ。鬼か?」

「さて、はて。どうかなあ」

冗談とも受けられる口調。事実を見せ隠し、動揺するのを楽しんでいるふうだった。一歩、近づくと夏侯惇はさがった。

「嘘か本当かわかる?ねえ、夏侯惇」

「私は、おまえではない。だから知らん」

「予想くらい立てられるでしょうよ。言ってみて」

「知らない。鬼になれたなら、なにか良いことがあるのか」

「深意はないよ。ただ、ひとを食べるのは、特別なことじゃない。飢えに苦しんだりする地域では生きるためにひとがひとを口にする。力のあるものを喰うことで、その力を獲ようとする儀式的習わしもある」

「なにが言いたい」

「言ったでしょ?深意はないって」

雀が近づいてくる。この雀は、杯から溢れるほどいっぱいに気味が悪かった。なにがどうとではなく、本能的に警戒せねばならない気がしてたまらなかった。

「左眼、触っていい?」

「断る」

「なんで。窪んでいるのがいやなの?」

左眼はまぶたの皮で閉ざされている。眼球が正常であれば膨らんでいるが、削れているから窪んでいた。

「他人に見せたくないだけだ」

「じゃあ、眼帯をすればいいじゃない」

縫合している傷痕は、見て快いものではなかった。それに、真新しい無残に射抜かれた傷痕を治療してもらったとき一度鏡に映されただけで、醜い姿を映す鏡に嫌悪してからずっと、おのれの顔は見ていない。鏡への憎悪は見つければ地に叩き割るほどで、見かねた曹操が夏侯惇に叩き割られる前に宮廷じゅうの鏡を捨ててやるほどだった。

眼が不具と思われるのが嫌で、それを知らせる眼帯をするのが肯んじえなった。髪で隠しておけば初めて会ったものは、すぐ眼が不自由だと気づきにくい。それに、なにより自分の気を紛らわせられる。

「見せたくないなら、触っては良いのか」

「断ると言っている」

「そう」

もっと距離を離そうとしたが、すでに背後は荷物が積み重なった荷物の壁だった。雀がすぐ近くに立っている。

「そうなの」

茶色の瞳が吸い込まれそうにきれいだった。日の光に照らされれば、美しさは増すはずだ。峻拒が溶かされ虜になってしまいそうだった。

瞳に小さく自分の姿が映っていた。

脳裏にふと現れたのは、この美しい青年が白魚のごとく細い指を、左の空洞に入れ掻き回しているようすだった。そうして、飽いたらば首に噛みつき喉を潤す猟奇な児戯が。

額から、脂汗と冷や汗がじっとりと湧いた。落ちずに留まる汗は空気に冷やされる。

ためらわず指が伸びてきた。わずかに夏侯惇が引きつり動いた。

冷え切った両頬に、雀の両手がふわりと添えられる。

「南のほうも夜は寒いんだ。気をつけて」

「……………」

「ねえ、夏侯惇。俺がこわい?」

頷いた。

「どうしてなのか、理由があったら教えて欲しいな」

「……………なぜ、理と同じく容姿に声音をしている」

「弟だからでは納得できないか」

「似すぎている……………たがわない姿かたちは、なぜだ」

答えずに、首を横に振った。

「雰囲気くらいは異なるだろう?」

「ちがう。似ている、似ていないの話ではない。おまえはおかしい。おまえに理がいる。だが、それはまがいものだ。理の顔を下地に、本来のおまえが好き勝手動いている」

するり。不意に、なだらかに力が抜けていった。膝が砕け傾倒するのを待っていたのか、雀が肉の感触をたしかめ抱きしめた。

「おまえに、うつくしいと感じる私がいる」

「夏侯惇でもそんなこと、思うんだ」

雀の内にいろいろな貌が潜んでいた。少女のように無邪気に笑うところから、歌妓のような媚びや妖艶をただよわせる。虐殺者の血を厭がらない貌までも所有しており、どれが本物なのかとらえられない。いま、こうしているときの雀は優美な母親の貌をしている。

この男は浮世離れ常とし、とらえられない。

理嬢と雀を重ねることはしなくなっていた。無意識に重なってしまうのも。雀は雀で、理嬢は理嬢なのだ。

雀をこわいと思うのは、雀を知らないからだ。脅威を感じ取っていたが、もっと奥にある狂気に接していない。敵を殺すなら、まずその敵を知る必要がある。夏侯惇は檻に囚われている気がしてきた。

この絶美の青年は、長きものあいだ、定めた安住を決めず、異郷の言語を耳にし時には操り歩きつづけ、賊が跋扈する危険な状況に身を委ね、つねに牙を研いでの生活をしていたのだ。

夏侯惇も戦場を何度も体験し出陣したが、毎日の生活に血雨が降るのが当たり前だったことはなかった。

理嬢の弟。そのほか、具体的な事実はどこにある。

「ちょっと痩せたね。このへんの肉が無くなっちゃってる」

肩のしたあたりをなでながら、雀はちいさく笑った。くすくすと泡が消えるように。

「食事も睡眠もきちんととってよね」

「おまえこそ頬が幾分こけた。とやかく言う前に自身を改めるんだな」

「俺は食が細いから問題はないんだ。夏侯惇はいい歳なんだからあ」

「口うるさい」

「一応、部下としてねえ」

そうなどとは微塵にも考えてなどいないくせに。食が細いのも大嘘だ。引き剥がそうと胸を押したが、以上の力で拒絶を示す。

「雀」

「もう少し、待って」

口から息を吸いこみ吐くと、声が哀しげに切なくなっていた。

「さっき、血のにおいは、夏侯惇からのだって言ったけど、俺のかもしれない。でもやっぱり夏侯惇のだ」

「私ので、雀の?」

「なんかね。そんな気がしたの」

徐々に声が掠れ、ふたたび夏侯惇の肩に顔を埋めた。いじけに似た呻きをあげている。不思議に思って身をよじるも、表情はうかがえなかった。

「雀?」

「……………夏侯惇」

「なんだ」

「蒲公英と蓮華の花はね、熱冷ましになるよ。三七草の葉のしぼり汁は血止めになるし、毒がある虫の解毒にもいいし、日焼けにも効くんだよ」

「ほう」

「覚えていたら、ぜひとも作ってみてよ。あ、不器用だから無理かな?」

医学の知識に精通し、薬は大抵造れると豪語していたのを思い出した。妄言だろうとあしらっていたが、ほんとうだったらしい。これで、また雀が遠ざかった。

「南は暑い。北育ちのやつらにとって、我慢はしにくい。病気になるやつもいるだろうから。南での戦は慣れてない」

「従兄上や、我々はそれくらい想定している。わざわざ玄武湖まで造って船団の軍事演習を頻繁に行った」

「……………」

頤を上げ、黒い瞳をまっすぐに見つめ、唇をかすかにふるえさせた。

「……………夏侯惇、あのう……………」

言葉を述べ伸ばしたが、腹のなかに塞いだ。凍えた唇が紅い。

「雀?」

「……………ごめんね。ほんとうに、ごめんね……………」

「雀?なにを言って」

「もしも、夏侯惇の左目の痕に触れるのをゆるされるとしたら、それはきっと……………なのにね」

惜しむように、いま一度抱きしめる感触をつぶさに感じた。息が詰まりそうになるくらいの強さだった。そして、天幕を飛び出した。

その場に座り込んだ夏侯惇は、ただ呆然としていた。幕が左右に揺れ、馬の嘶きと短い声、咎める声が隙間から聞こえた。韓浩が慌てるあまり、礼儀を忘れ、入ってきた。おそらく、雀が拝借したのは夏侯惇の馬にちがいなかった。

雀の懺悔を含んだ言葉の意味が、さっぱりわからない。でも、あんなに辛そうで怯えたふうの姿は初めてだった。なにを、こわがったのだろう。

戦に?命が惜しかった?そんなわけはない。嬉々と血を浴び、兵を屠るようなやつが、いまさら戦禍なんぞにたじろがない。では、なぜ。

なぜ?

まだ、肩には夏侯惇のものではないぬくもりが宿っている。
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