第七章 破戒 暗翳の闇



遠慮がちに灯された小さな松明。曹操の軍から遠く離れ、夜の暗がりに身を隠す十万の人々。月が高い位置を示していたのは、ずいぶん前のことで、いまは西の山脈へ沈もうとしている。のち、東から陽を差して夜の終わりを告げる合図の曙光が覗くのだ。

劉備率いる軍の将のひとり趙雲子竜と、策略を練る役をつかさどる諸葛亮孔明が声を潜め、話をしていた。

趙雲の愛馬白龍が淋しげな嘶きをする。

「孔明さま、追っ手が着く前に、江陵へと逃れるわけにはゆきませんか」

「十中八九、曹操はあたくしたち目掛け猛攻を仕掛けるでしょう。おそらく選んだ騎馬隊で」

この瞬間にも墨を塗りたくられたかのような黒い奥から、殺気立った騎兵隊が、有無をいわさず突撃してくるのではないか。趙雲は背筋が冷や汗に塗れるのを感じた。

十万もの民を江陵まで導くのは、無理があります。あまりにも数が膨らみすぎている。と、諸葛亮は口のなかで本音を零す。それは、だれもが思っていることだ。趙雲も張飛も、糜竺や劉備、民さえも。どこかで、この鈍い進軍は追いつかれるのだと。当陽を出て一日にたったの三里(約四キロ)しか進んでいないのだ。

長坂波が近かった。

船団を率いて江陵を目指すのは関羽ではなく、劉備でよかった。劉備は主君なのだ。戦は大将が死ぬれば終わる。だが、大将は民とともに江陵へ行くと言い切った。自殺行為。十万の民たちは、我々が数騎で誘導し、曹操の尖兵に一矢報いて死ねばいい。非戦闘員には手出しはせんだろうから。せめて、騎兵とともに陸路を辿り先駆けてくださいという懇願にも、頑なに応じなかった。

駆け引きや根回しなどない心を保ちつづけていた。

官僚に囲まれ金銀、玉の宝石をちりばめた席へ座るより、力も権力もない人々のそばへ寄り添う。劉備玄徳は、そんな人間だった。漢帝国の血を引く噂があったが、まさに人民の命の重さを身ひとつで支える、歴代の明君の集まりなのだと思う。

帝は天の子。天帝に選ばれた御子なのだ。

「夢だけは見ないでくださいね」

「えっ」

心の内を、盗み見された気がした。

「あの曹操が徐州で、なにをしたか知らぬわけではないでしょう」

なんだ、曹操のことか。趙雲は安堵する。このひとの眼は、いつも見えないものをひとりだけ見ているように鋭いから、すこし怖い。

徐州の大虐殺の際、諸葛亮はそこに家族と住んでいた。悠々自適に畑を耕して、それなりに幸福でもあったところに、川をせき止めるほど大勢死んだ。家族や親戚はどこへ行ったかわからなくなった。

兄弟の所在は突き止めた。しかし、父や母はいくら時間が過ぎようとわからない。死んだのだろうか、だが、父母の身体が水をせき止めていたなどとは考えたくもない。

「孔明さま」

「あいつは無抵抗の農民を殺し尽くしました。兵隊の格好なんてしていなかったのに」

殺戮せよ。と命令したのは陶謙だと思っていた。だけれどそうではなく、曹操という男だった。しかし、どちらも恨めしかった。陶謙がもっと部下にしつけをしていれば、曹操がもっと冷静な性格で、いや、曹操の父が荷物なんか持っていなければ、起こらなかったかもしれないのに。陶謙の部下が曹操の父親を殺したから、怒って報復にでた、その代償はとんでもない数に膨れ上がっていた。

「徐州の惨状は親を亡くした激情によるものです。私たちは、曹操の身内に害を与えてなんていませんよ」

「甘いですわね、趙雲殿」

「ひとの子ですよ。もう、良心とか、他人に対する思いやりはあるはずです」

「あら。親ひとりのために百万も殺すのが思いやりと言いたいの。いい?曹操は能臣でも姦雄なんかではないわ。ただの殺人狂ね」

「ただ、私は」

趙雲は語尾を強く、荒げた。ほんの瞬く間、諸葛亮の顔は刺すように実際の年齢より高く見えさせた。そして、すぐに目元はゆるまって人を食うように唇が左右に引かれた。

「あなたはまだ世間知らずねえ。いえ、けがれしらずかしら」

「孔明さま、このような場でなじらないでもらえますか」

「純粋だといっているのよ。なじっているつもりはありゃしませんわ」

諸葛亮はいつから着ているのか定かではない薄く黒ずんだ着物の裾で、口もとを隠した。趙雲は訝しんでうなだれる。

「あなたに頼みたい用事があったのですが、きっとやりたくないとおっしゃるだろうから、頼みませんわ」

「聞いてみないと、そんなの分かりっこないですよ」

「そうねえ、もうすこし経ってから言うことにしようかしらね」

「腹が減りましたか、喉が渇きましたか?」

「まさか、あたくしがそんなつまらないことを頼むわけないじゃないの。自分でするわ」

「では、なんです」

「言ったでしょ。頼みたいそのとき、頼みますわよ」

「気になります。そのときだなんて、どうせせわしくて言うにも言えませんよ」

諸葛亮は地面にじかに身体を横たえて欠伸をする。空が淡い色を帯びている。

「趙雲殿」

「なにごとです?」

「馬車から子を放り出す親がいるとしたら、あなたはその親をどう思いますか」

「ひどい親ですね」

「趙雲殿」

「はい」

「あたしは我が君が中山靖王劉勝の末裔、漢王室に列するだなんて、にわかに信じちゃいませんけどね。むかしのむかし、太祖劉邦は鬼神項羽の追撃から逃れるため我が子ふたりを捨てたのです。乗っている馬車を軽くしようとね」

「もしや、あなたは曹操が目前まで迫れば、同じことを殿に薦めるべきと策を弄しているわけではありませんよね」

寝床にする地はひんやりと冷えて、諸葛亮の熱を背から、趙雲の場合は足の先から奪っていった。どちらも、口を閉ざした。諸葛亮は目も閉じてしまい、趙雲はおのれに不安を流すだけ流し眠ってしまった、気ままな御仁を見た。

劉備がその才に惚れ込み是非とも私とともに歩んでもらいたいと望んだ師。いまでも劉備は諸葛亮を先生と敬っており、諸葛亮は我が君と慕っている。この先生は、冷徹だった。荊州の地が、銭の流通、交通の発達が優れていることを見抜き、天を取るのならば必要であると説いた。恩のある劉表一族を除け者にし、荊州を手中に収める旨を進言したのに対し、劉備は恩義ゆえに首を横に振った。

きっと、こんどは、祖先にならった受け入れられるはずのない策を考えていたのだ。愛するご家族たちを見捨てろなんてことを劉備がするはずもない。

趙雲はこのかたとは仲がよろしくなることはないかもしれない、そう思った。いや、このように頭の鋭い人物とは全般的に溶け合いがたいのだろう。鼾が聞こえてきた。

火が木を焼き尽くして煙のみを立て始めていた。土をかけて消す。

李四象が足おと静かに近づいてきた。趙雲の従者は努めて自然な朗らかさを浮かべていた。劉備と行動をともにするものたちは、だれもが例外なく一様に、顔や衣そこらじゅう汗と土の固まりにまみれている。李四象の側頭部の高い位置でまとめた髪も痛んで根元はほつれていた。

「お風邪をお召しになりますよ、子竜さま」

「それほど寒くはないよ。きみこそ身体には気をつけてくれたまえ」

「いまのさっきまで寝ていたので、もう元気ですよ。あなたはまだ一睡もしていないでしょう」

「季華」

季華は李四象の字である。字で呼ばれると、丁寧な口調を改め砕けた物言いに変じた。

主従のかたちをとるのは、公の前だけで本来は友人同士の間柄だった。劉備に仕える以前、公孫讃に仕えていたころに気が合い、李四象が趙雲についていくようになっていた。

「眠っていないが、もう夜が明ける」

「だいじょうぶだよ、子竜さん。殿は曙光が差してすぐに出立しようとは言わない」

「我慢しているわけではなくて、気が乗らないんだ。だから、起きている」

李家の四番目の子である李四象は首を横に振りながら、天を仰いだ。趙雲もつられてみる。上は、桃と紫の淡い色をした雲がたなびいていた。嗚呼、とため息をもらして季華が言った。

「紫雲だよ。いいことがあるようだ」

「光の関係でそう映るだけじゃないか。どうして雲が紫なだけで良いことがあるなんて言えるんだい」

「さあ?又聞きになるが、あれに乗って神さまがやってくるんだと。昔、ははさまが、教えてくれた」

迷信めいた話をするともに、曹操の追撃をかわせられようかと聞いてみようとしたが結局は口を噤んだ。李四象は神に願をかける男ではなかった。趙雲も同じだ。きっと、戦禍に脅かされているひとびとは、すべて一緒だろう。天帝は我々を曹操という名の鬼から救ってくださらない。

みんな、どこかで神を殺している。しかし、李四象はまたどこかで死なせた神を信じようとしていた。もし諸葛亮が起きていたら、李四象も甘いと評するかもしれない。

「諸葛孔明さまは、なにか策を練っておられた?」

「曹操は騎兵で追いかけてくるだろうという見立てと、おそらく江陵に着くまでには追いつかれるだろうと」

策略を打つ手はない。ただの予想だった。

「間違いないな。ぼくが曹操だったら騎兵隊を使って、そうする」

「私もだな」

「人が多すぎるのも、こちらに不利がある。十万すべて軍勢だったら、心配することはないが、力のない民衆ばかりさ。ぼくたちは全員合わせて二十騎程度。勝ち目がない」

「がむしゃらにでも進むしかないんだ」

止まって云々と議論を展開するよりも、そのときできる最善の方法を試すべきだった。先を見据えず、眼前のことを着々とこなすは、とあるところから見ればあまりにも無謀とされるだろうが、信念強固たる趙雲の姿勢は好ましく思われていた。

李四象はひとり眼に力をたたえる男の横顔をみながら、地べたに腰を下ろした。

「向こうみずさはきみの魅力でもあるけれど、ときには計画を積んでみたらどうかな?」

「計画だって?」

「どちらが駆けるか盾になるか。駆けるのは子竜さんのほうがいいな、きみは馬を扱うのが巧みだ。ぼくはせいぜい足止めくらいにしかなれない」

「不吉なことは言うもんじゃない、季華」

呆れたように、李四象は趙雲の膝裏をつねった。

「きみね、いちいち真面目に受け応えをしすぎると早死にするから、やめなよ。どうして冗談だといただけないものかな。それに、こんな軽口を叩いているやつほど、長生きするんだ」

甘夫人と糜夫人、息子の阿斗君と娘ふたりの劉備の家族の護衛は、趙雲と李四象が担っていた。

「冗談を言うくらい、いいでしょうよ」

「まあ、ね。力を入れすぎていたかな」

「そうそう。ゆるくね」

指の間接と身体の節々を鳴らして伸ばした。傍らの季華は、ひとりごち凪がれるように口にしていた。

「たまに、どうしてひとは争うのかなとね、考えるんだ」

趙雲は黙ったまま耳を傾けていた。

「ぼくは子竜さんのように武技に長じてるわけでも、軍師さまのように頭も良くない。殿や、張飛殿みたいに勇気だってない。弱いからそう思うんだろうかな」

「強くないから、と言うのかい?」

「うん。きみは血を見てもこわがったりしないだろう?ぼくはこわいんだ。敵でも味方でも、死ぬのは嫌だと思う。ぼくを殺そうとする敵だけど、嫌なんだ」

「阿呆を言うな。私だって血はこわい。ひとが死んでゆくようすも、嫌いだ。戦だといえばそれまでで、仕方のないことだ。けれどな、選んだ道だ」

選んだ。李四象は、はかなげに首をゆるゆる縦に振った。一日中、陽に照らされ健康的に灼けていたが、青く冷めていた。

いくら死を憂おうと、死が横たわるのを選んだのは、おのれだった。

劉備は民に平安をもたらすため、兵を挙げた。私利私欲ではない、その志しに惹かれた。しかし追撃せしめる敵、曹操も劉備も同じこの天下の民だ。民のためなのに、民は血を血で洗う。流血なき安らぎを求めるばかりに、血を流すという矛盾が喉をつっかえさせる。

「むなしいなあ」

「うん」

扱うのは二本の剣だった。それらで動く肉を突いて刺し、払い倒した。この手で奪ったひとたちが、自分の顔をどう思ったか。鬼であるに決まっている。

一度一度、あまり覚えておらず夢中で滅ぼすことばかりだった。いまさら命を壊した相手を思い出してもどうしようもなく、なにもすることもできない。じっと、膝を抱え罪の意識を以て思考する。

「季華が思うのは、弱いからではないさ」

「強くもないよ」

「だったら、強さってなんだろう」

答えはない。趙雲は思った。だが、相手をねじ伏せる武力は、強さではあるものの、強さではないだろう。

さきほど諸葛亮が教えてくれた、父親が我が子を投げ捨てる話を思い出した。父親はいくつもの臣の頂点に君臨する主君である。死んだら、そこですべてが終わり負ければ多くの家人たちが飢えることになる。

命が惜しかった、または主たる自覚を持っていたからか、子を捨てたのだ。これも、ある種の強さなのだろうか。我が子の命に比ぶれば臣民の命のほうがはるかに重いとでも。

子どもたちはどうなったのだろう。

「ところで季華。きみは、その、太祖劉邦が項羽の追撃から逃げようと御子を馬車から投げた話を知っている?」

「ああ、知っているとも。その御子たちは馬車の先導に助けられたはずだよ」

「助けられたって」

「あまりにも不憫でね。二回も助けてくれたんだよ」

「二回?ということは、つまり、劉邦は二回も捨てたのか」

そうだな、と。李四象はまるで自分がやったかのように申し訳なさそうに言った。そして、かばうようにこう付け加えた。

「だけど、ときには非情にでもなる必要があるんだ」

「私は、殿にはずっと温厚な方であってほしいよ」

「ぼくもそれがいい」

乱世。いつまでも、穏やかではいられない。趙雲は、胸のある部分が閉ざされているような息苦しさを負った。劉備は劉邦にならったりはしないというのは甘い幻想だ。

大平を望み、ときとして鬼の皮を被ることもある。だが、劉備はどこまでも柔和でいて明るく静かな光、日月な存在であるのが好ましい。もしも劉備が子を見捨ててしまう状況下に陥ったそのときは、馬車の先導になろうと趙雲は思った。

「子竜さん。やっぱり、寝たら?行軍中に落馬したら大変だ」

「気にしなくていいよ、眠れないんだ。ほんとうに」

「なら、いいけど。落馬しないって約束できるかい」

「それは無理だ。流れ矢に当たったら、さすが落ちるかもしれない」

「縁起でもないね。だったら、せめて横になってよ。すこしは休まるから、寝れるときに寝ておかないと身体が悲鳴を上げて辛くなるよ」
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