第七章 破戒 暗翳の闇



土埃が舞い、煙が目の前を曇らせる。地響きの鳴りは何千馬もの蹄。

頭から黄砂さながらの砂嵐を被り、鼻腔、眼腔から容赦なく入るが、気にする猶予はなかった。

戦。それが、いまこのときだった。

劉表を、そして劉備を討ち荊州の地とさきの安泰を得るために曹操は百万の大軍を率いた。実際は八十万の軍勢だったが、あえて百万と称したのは敵の気を揺らしてやる策のひとつだった。

曹操が南を征討するその時点で、荊州では後継ぎの内輪揉めが起きていた。色惚けした老人劉表が、若く美しい後妻にそそのかされ、長男をおざなりにして後妻との息子を後継者に立てようとしたのが発端であった。そのようなことをしている場合かと、荊州の人々は思っただろう。内部で争っているあいだに、百万近い軍勢が押し寄せて来ている。

人と人との結びつきは、案外脆いものだ。完全強固なる忠誠を誓う臣下は、一縷よりも細く、絶えやすいものである。完全なつながりなどないとも断言できた。

官渡に敗れた袁紹の原因は、嫡子を跡継ぎにさせず内で抗争があったことにもよる。

対立は疑心を生じさせる。それは建物にも似ているかもしれない。一見頑丈な城に見えても、柱や土台が朽ちかけていれば見かけ倒しの紛い物、強靱な部隊を所有すれどまとめあげる主たちが争えば一気に統制の力などなくなった烏合の衆。

百万にも近い軍勢に抗う術など無く。

争いの渦中にいた劉表の長男劉綺は賢明だった。命の危機を察した気配によるところが多かろうが、早々と身を引いて劉備のもとへ行った。

荊州に進入したそののち、劉表はこの世を去る。

幸運が突如舞い込んだ劉表の次子劉綜は、すぐ奈落の不幸に落とされた。大軍が攻め寄せていたのだ。頼りない長の部下たちは愛想尽かし、兄に続いて劉備へ付いた。内部の収拾をすることもできぬまま、全面降伏の書簡を書き上げ、その旨が曹操へと届けられるのは、間もない出来事だった。

曹操の進軍を知らぬ劉備はそれまで襄陽の北にある樊に駐屯していたが、ついに進撃の牙がすぐそばまで忍んでいたのに気づかなかった。

そして、慌てて撤退を開始した。

夜営の陣を張る。もうひとりの英雄の動向を、情報収集をしてきた部下の報告で知った。

曹操は諸将を集め軍議を開いた。それは、劉備玄徳が襄陽を出て当陽を通過したという言葉から始まった。

「劉備は身内のみならず、劉綜の臣下、民たちをも引き連れているそうな」

「となれば、劉備の進軍具合は速いとは言えますまい」

張遼。字は文遠。

「およそ、一万や二万の民衆ではありませんでしょう。殿、数字はどれほどのものですか」

「我も一時疑ったが、民の数は十万。救いを求めたもの、ひとり残らず引き連れたのだろうな」

人間十万。途方もない多さによって長い列ができあがっていると理解できる。しかし、報告された数は人間の数だけにすぎず、歩む民が手ぶらで安息の地を目指すわけがない。家畜の牛馬、家財を乗せた荷車も含めば、十万は軽く超える。報告された数より、実際はその倍と考えた方がよい。

自由に身動きとれないのは必至だ。

旅や戦に慣れぬ者が大半を占めるために思った通りの距離を進むのは困難だが、それらの者のために休息を入れ、民に合わせてさえもいると曹操は思った。

主として冷徹に成れぬ劉備の弱みであり、他を想う柔軟さに豪胆なあの関羽、張飛が惹かれるほどの強さ。

劉備は脅威だ。

主君になくてはならぬものを持っていないくせに、主君として成り立っている。自分にないものがある。

民に慕われているのに劉表の後継ぎ闘争に介入し、荊州の利権を奪ってしまわなかったのは、やはり優しさにあるのだろう。恩があるからと、機会をみすみす逃した。

「当陽で軍勢を分け、関羽が船団を指揮しているようです」

荀攸は、静かに言った。

「水路を使いましたか。では、陸路にして先行しているのが劉備、張飛の主力隊なのですね」

張遼が呟き、于禁は目を細めた。

「主力といえど、ほとんど将で兵士はほんのとるに足らん少数だが、水路を使っている策が気になるところです」

于禁が広げた地図を指でなぞる。すると、曹操が、船団の行方を口にした。

「江陵」

心もとなげに点いている一本の灯が、幕の隙間からの風に吹かれて揺れた。橙色が、諸将の顔を色づけて変えた。

江陵の城は堅牢な上に、軍需物資が豊富に蓄えられていた。簡単に手折れるものどもだが、武器を取り籠城でもされればこちらの兵力は多大な損害を被るだろう。せっかく、一兵も損じることなく劉綜を降伏させ、手に入れた軍を合わせて、もとから率いた数よりも増えたのだ。兵力は温存しておきたい。

いずれは江東の孫家と一戦を交えるであろう。そのとき、不慣れな水上戦となるはずだ。長期にわたった戦になることは容易に想像でき、兵糧や軍需品を補給する拠点が必要だ。どうしても江陵を奪われたくなかった。

「今さら水の上を進む関羽を追ったとしても、追いつけまい。ならば、陸路を行く劉備を確実に捕らえる」

おそろしく低く落ち着いた曹操の声が、諸将の身体に響いた。

関羽が江陵を占拠していたとしても、劉備をこちら側で確保しておけば義に篤いあの男は白旗を掲げざる得まい。そうさせるためには、劉備の生がなくてはならないが。

「捕らえるのだ。手狂っても、殺さずに」

これは好機かもしれない。

関羽の最大の弱みは劉備の存在ただひとつ。その弱みを虜としてしまえば、刃を我に向けるなどできない。うまいこと劉備を軍門に降らせられれば、 必然と関羽を自分の手に収められる。

関羽を気に入っている曹操は、ひとりほくそ笑んだ。己の幸運を望むように描いてみるものだが、事実、ことがうまく運ぶことは少ない。それでも、うまくいった場合を想像する。

「殿、追撃を、わたくしたち虎豹騎に一任ください」

手を挙げ、身を乗り出して曹純子和が歯切れよい口調で名乗り出た。

「わたくしの隊は殿が御自ら選んだ精鋭ばかりの騎兵隊。刻を争う戦ならば、虎豹騎こそ、殿のお望みを果たせるでしょう」

「曹子和殿。それはあまりにも早計ではありませんか?殿の虎豹騎が選りすぐりの部隊であるのは充分存じているが、騎兵を率いるのは、あなただけではない」

「文遠殿」

張遼が自信満々の曹純子和に待ったをかける。曹純はあからさまに眉を寄らせたが、曹操の手前、兄である曹仁の制止もあり、唇を軽く噛む程度でとどまった。

「張文遠、我ら騎兵隊こそお務め果たせましょうぞ」

騎兵隊を指揮する張遼も夏侯惇に口を出しすぎだと手で肩を押さえられた。だが、張遼は言い過ぎだとは思っていなかった。

張遼は、馬術と騎兵術に天性の才を持っている。また、曹操に仕える以前は飛将と恐れられた呂布に従っていた。呂布のもとでさらに研かれた能力は、今や極致とも言ってよい。曹純も、曹操や部隊の配下たちから称賛をいただくほど騎馬統率の能力に長け、管理と把握にも優れた逸材であった。

互いが互いに引けを捕らぬという自負があるため、自然と衝突し合う。

見慣れたと言えばそうだが、この場では好ましくないものだった。于禁は胸を張った姿勢そのままに、目を糸のように細め成り行きを伺っている。

仲間内で諍いを起こすは、勝利を諦めたも同じこと。本来出せる力も出せなくなる。

張遼と曹純は、ほんの瞬く間、噛みつくのような視線を絡めてから互いに顔を背けた。夏侯惇と曹仁は曹操の顔色を窺う。南征において初めの勝利はこちらの絶対的勝利だったが、まだ闘いの最中だ。もっと力を入れ討ち果たすべき相手は多い。遠くの遠くを見据える曹操は刻が過ぎるたびに始終、神経を尖らせている。弊害か、感情がいつどこで、どんなふうに爆ぜるかわからなかった。

机を叩き、椅子を蹴り飛ばしたり、怒鳴るのはまだ軽いほうだ。悪くて隣にいる人間を殴る。過去に二、三回斬りつけたことがある。

それをにおわせる様子を捉えられればいいのだが、長年の従兄弟たちもいつまでもわからない。

「策もない戦になるぞ、次は」

曹操が地図上に長い指を這わせた。

「力押しに強引な動きは、結果を思わしくせぬものと我は知っている。だが、時にはかえって良いこともある。夜明けとともに追撃するぞ。虎豹騎が先陣を切れ、そして我と張遼、曹仁、夏侯淵、于禁が続く。他は歩兵を指揮し江陵へ向かうように」

曹純と張遼の諍いなぞ気にもせず、曹操は命令を下す。

「曹純。劉備を捕らえ人質にせよ。ほかは無視していい」

「お任せくださいませ」

曹純は誇らしげに合掌し、頬を上気させる。目は燦々と輝いていた。

虎豹騎と曹操率いる部隊の五千が追撃の要となり、指名された将たちと属する兵は慌ただしく天幕をたたみ、出撃の準備をし始めた。

軍議を解散し、後詰めの補給管理を任された夏侯惇が自分の天幕へ入ると、見計らったように雀(シャン)が入ってきた。

「はずされちゃったね」

「不服か?」

幕舎の近くで聞き耳を立てていたらしい。

「べつに。ただ残念なだけさ。兵糧とか、守備に専念してのんびりするより、相手を追い詰めるほうが俺の性格に似合っていると思って」

「劉備を攻めるのは、従兄上が選抜した五百騎の騎兵隊と古参の将兵たちだ」

聞いてたから大丈夫、と雀は言った。

「夏侯惇だって昔から居たろ」

「私が加わっても足手纏いになるだけだからな」

「また、お得意の御謙遜ですか、夏侯将軍」

雀は夏侯惇の首筋に刃先を滑らした。夏侯惇は眉を少しも動かさない。

「まさか、勝手に前線部隊について行きたいと言うのではなかろうな、雀」

「できたらそうしたいよ。忍び込んじゃおうかな?あんなに群れてちゃ、ひとりやふたりくらい減っても増えても気づかれないだろうなあ」

「私の軍を離れるは逃亡と見なし、軍律違反で即斬首だ」

「物騒だね、夏侯惇。戦で興奮してるからって、気を荒げないでくれる?」

「貴様、なにをしているか、解っているのか」

にんまりと含んで、刀を鞘に収めた。そして、夏侯惇の黒髪で戯れる。

「俺はいつもと変わりないよ」

「たちが悪い。さっさと自分の巣に戻れ」

「そう邪険に扱わないで、退屈だから来たわけじゃない。話があるから来たんだ」

「は?くだらん話だ」

「決めつけないで。まだ言ってない」

簡単にしつらえられた寝台に我が物顔で腰をかけた。

「おまえにとって、理はなに?死んだら悲しむ?」

進撃部隊に入れてほしいとか、そんな内容だと予測していたが、持ち込まれた話は大きくかけ離れていた。

以前、同じような問いに最初は消極的な返答をした。

そのあと、足掻いて出した答えが見つかった。

「教えたりはしない。貴様が考えればいい」

「勿体ぶるな。減るもんではあるまいし」

「理をすぐ潰せるとほざいた輩に、教えるやつがいるとでも安易に考えているのか」

「なら、前といっしょで関係ないと?」

雀に対しての不信はどうやっても拭えないところまで達していた。実の姉を殺すと宣言した非情さと未知数の素姓。あからさまに避けたりはしないものの、こちらから近付いて関わることは絶対にしないと決めている。常に、それ相応の威圧を投げつけているつもりなのだが、雀は自分が口にした言葉をきれいに忘れたかのように付きまとってくる。

「理は、いま近くにいないだろ。殺しをしたって分からないから、理が死ぬ心配はない」

「俺が貴様を信用していない意味だと理解するんだな。できんのなら、水でもかぶって、お気楽な頭を冷やせ」

「ははあ。まだ俺が嫌いなわけか。根暗なやつ」

「根暗で結構だ。おまえは嫌いだ。出ていけ」

雀は溜め息気を吐きながら立ち上がる。そのまま夏侯惇の横を早足で通り過ぎて、天幕を出て行った。

ひとりだけになると、外套を脱いで寝台の上に腹這いになった。

照らしていた灯火は消えて、布越しに青白い月明かりと篝火の赤い明かりが薄く幕内を淡くさせる。

身体を反転させ、額に手を当てた。眠れない。少しでも心身を休め、万全の状態にしておくべきだと頭では理解しているのだが、身体はどうしてか逆らっているようだ。

身体のなにかが足りないのか。

ふと、思い立って寝台の隅に置いておいた箏を掴み上げ、膝に載せた。弦を一本ずつ鳴らし、ゆるんだものを丁寧に張る。

十本の指は淀みなく曲を奏で始めた。

豊かな音は、虚空を彩り、透明を色つけていく。咲かれる牡丹が夜露に濡れ、あでやかに乱れる姿、白馬が野を駆け緑の原を風が梳く図。黄色の水ではなく、新芽のように青青とした流麗。美しいものだけなら、いくらでも浮かぶ。自然を謳う曲は幾らでも知っている。何度も何度も弾き慣れた音曲を次々に奏でた。

雀は理嬢の顔をしていた。こころが不安定になり、幼くなった無邪気に笑う表情がふたつ重ね合ったように見えた。顔のよく似た姉弟のちがいは、性格はもちろん、纏う気にあった。

理嬢は穏やかに柔らかい。人を警戒せず、何にでも近づいて許容してしまう危なさがあるが、雀はこの世に存在するすべてを威嚇している。自分が気に入ったものしか認めないのだ。子どもじみた我が儘な部分がある。獣に近く、人の下に侍ることも、上に臨むのも嫌う。雀は雀であることに強いこだわりを持っているようにも見えた。

さらに、理嬢に固執していた。ふたりの過去にあった真実は当てもつかない。理嬢の奥底を深く知っているのは、おそらく、夏侯惇ではない。雀だ。昔あった出来事を聞き出し受け止める勇気は、まだ、なかった。不甲斐ないと思うも、いつかは共有できたらと思わないわけでもなかった。

理嬢の弟は艶美に美しかった。毒が混ざった草の卑しさの交わった美。そのなかに、理嬢が埋もれていた。面影ではない、そのもの、まるで芯であるかのようにだ。

声の奥にも、声の芯にも理嬢が埋もれている。かこうとん、名を呼ばれるだけでも、どちらが目の前に居るのかよく錯覚してしまうのだ。

寝酒の代用に箏を扱う指は、やがて即興を巻き起こす。

なだらかな響きから突然激しく盛り上がった。

「歌い手と舞い手の役者が居らぬのが残念だな」

「耳障りでしたか」

ひとつ重く弾いた。

「そなたの箏は久しぶりだな。聴こえたので、ちょっと、愛でよう」

「従兄上が、わざわざお越しくださるほどのものではありません」

「いやいや、腕は鈍っていないようだが?」

曹操がいた。

「我はそなたの鳴らす音が好きだ。淹れる茶も。以前、理嬢に茶を作らせてみた。なかなかに美味であった」

「箏は弾かせてやりましたか?理は、楽器だけはどうも上達が見込めませんでね。あれをたとえるなら、花瓶が割れた音です」

「言い過ぎではないか?」

「手の施しようがない不得意なのですから、仕方ありません」

「我の妻でも、お世辞は言えんか」

「ええ。従兄上の奥方だとしても、私にとって、いつまでも育てた娘のまま」

曹操は胡床に座った。

「夜明けに進軍を開始するのでしょう。お休みになられては?」

「夏侯惇こそ、起きている」

「眠れぬために、弦と戯れていました。ご安心を、足や手を煩わすまねはいたしません」

「胸がざわつくのよ。落ち着きがない」

「高ぶっていらっしゃるのですね。張遼と純が喧嘩寸前までしたからですか?」

「いや。あんなのは、いつものことだ。互いに騎兵同士、仲良くすればいいいのにな」

「純には従兄上自慢の精鋭部隊を率いる自負、張遼には呂布譲りの統率力がありますからね。普遍的だと言えますか」

調律を合わせる。

「戦場に楽器を持参するのは、なんとも風流よな」

「従兄上こそ、歌詠みをなさったり舞を嗜んだりと結構な趣ではありませんか」

「孫権の配下、美周郎と呼ばれる美丈夫も音曲を好むらしいぞ」

「周瑜、公瑾ですか」

孫権の兄、孫策と義兄弟の契りを結んでいた男だ。孫策が暗殺された後は、狼狽える孫権に主君への敬意を払い、支えた。

軍事面、外界政策の知略に秀で、内界政策を司る張昭と絶妙な頭脳の連携を図っている。このふたりのうち、どちらかが折れれば均衡を保てはしない。

ひとりが内外括らず、二手に分かれているのは、一方が苦手とする分野なのだからだろう。

おそらく、軍事を務める周瑜が居なければ劉表、劉備を討つのに刻を有する荊州攻略で幕を閉じたかもしれない。

「なかなか頭の切れる男らしい。孫家の軍事面はやつに一役買われている」

「周郎は楽器を戦の合間にでも鳴らして、士気を鼓舞しようとしているのでしょうか」

「優雅だ。我々の本陣まで聴こゆるかな。夏侯惇、そなたもしてみては?」

「よしておきましょう」

箏の高く細い音が、長く響いた。

切ないほど余韻を引いて、ぷつりと途絶える。

「おおよそ、ならぬ想起をしてしまいそうですから」

戦において命取りになる行為。かすかに、唇がゆるんでいた。

「ならぬ?」

探るように曹操は目を細め、言った。

「どんなもの?」

「なんでしょう。ひとそれぞれ異なりましょうな」

「おまえは?」

「残念ながら、そのときにならないと分かりませぬ」

「してしまいそうだと、言ったではないか」

「はい。ですが、局面でなにを想うかは知れません。従兄上は、なにを想いかえしますか」

わざと、はぐらかしているのではない。本当に、いくらめぐらしても見当つかない。遠く離れたひとか、苦楽を共にしてきた身内。すでに世を去った友、親類。生者であるとも人間だとも限らない。

「そなたと寸分も変わりない」

「やはり従兄上も、分かりませんか」

「夏侯惇、疑ってもよいか」

曹操が言いたいことは、すぐ察せた。

夏侯惇は、従兄の妻へある種の情を傾けてはいる。恋慕ではないにしろ、同じものだと従兄は考えるだろう。欲しいか。再度尋ねられれば、ただただ、父か兄として。答えは決めている。それ以上でもそれ以下でもない、ただ大切な護りたい存在。

「どうぞ」

「預けた日、過ちは犯してなかろうな」

「もちろん。従兄上の懸念が当てはまる不道徳は」

曹操は立ち上がって夏侯惇に歩み寄った。

見下ろす。

「父と娘ですのに、いかがわしい行為をするとお思いですか」

隻眼の将の顔は柔らかだった。嘘をついているか否か見破る力は備えてあった。偽りを申してなどいなかったが、なにか、は起きていたと確信に近いものはあった。男と女の俗っぽい交わりではなく、もっと神聖かつ高尚に値する「なにか」。

秘密が、理嬢と夏侯惇を結んでいる。

秘密?問い詰めてやろうか。

ふいに、背に剣を無数に突き立てられ首に喉輪を嵌められた気分になった。喉の奥が、熱く泡打つ。自分には、手の届かないものに感じる。自分の入る隙間はないのか。しかし、触れても入ってもいけない気もある。

殴ってやろうか。腕を振り上げた。やり場のない疑念。口惜しいんだ。僻んでいるんだ。この拳をぶつけたら肯定したことになる。

従弟の頬を触れるくらいの強さで、軽くつついてやった。

「なにをなされます」

夏侯惇は、ふっと唇のすみを上げた。このように、笑う男であったろうか。

「理嬢は、元気か?」

「春がくるのを楽しみにしていましたよ」

「影は落としていないか、いつもと変わらず笑っているか」

死体と内臓の凄惨劇が理嬢に影響を及ぼしていないかという配慮。夏侯惇は心を込めて言った。それは、曹操への気持ちを鎮めさせるための落ち着かせるものだったが、かえって波を慌たださせる。いかんともしがたい、込み上げてくる感情があった。

「春には花が咲きます。喜ぶでしょう」

言葉には尽くせない淡い愛情があった。

「大丈夫です。食事もきちんと喰っています。日向で散歩もしていますし、悪い夢も見たりしていません」

「何故、断言できる」

ひとつの黒い瞳に映っているのは、理嬢であるような口振りだった。我には、理ではない、お前が見える。

「理嬢はほのぼのとした娘だから、それとなく」

「ふとした気持ちで言い切れるのか」

「決めつける、いや、期待と言うほうが的確ですかな。ずっとすこやかであればいい、期待です」

「父親だからか?期待するのは」

「まさか。従兄上もでしょう」

教育を任せた男のほうが、深く知っているのは当然だ。でも。適わないなどとは思わない。適わないはずなどない。想う重み。我は、想える。多くの妻妾が居るか無いかの問題なのか?もし、理嬢が、もっとよい待遇を望むなら叶えてやってもいい。操は、夏侯惇よりも温かく包める自信がある。泣きやませることだって、できた。

けれど、理嬢は望まぬ女だった。思い返せば、なにかを強請られたことはいっさいない。単なる押し付けになってしまう。たったの自己の満足になる。

欠けた部分が精神に、身体に点在して曹操の肉を指先や足から細やかに刻み散らしてゆく。無邪気な殺意、自覚のない刃が貫いて首を狙う。

首を直接狙ってくるのならまだいい。口も出せないくらい苦しめる。凌遅の刑。錆まみれの刃物で、身体を微塵に裂いて。血がどくどくと滝のように溢れ、小さく深い傷が数多く刻まれる。

「忘れていました」

なにを。

「妻を娶るのですよ。従兄上へ報告せずにいました。もしや、淵から聞いていましたか」

「いや」

「無事、還られるのであれば初めて見る女房が居るのですから、おかしなもんです」

「やっとか。夏侯淵はよく働いてくれた」

「しつこく、手土産もなしに家に通われるのは迷惑ですのでね」

「邪険に扱うなよ。夏侯淵は好意で通って、そなたを気にかけていたのだ」

曹操に刺さった刃が抜かれ、千切れた手足が縫合される。胸に疼いていたざわめきが、鎮まっていた。

消えていたはずの感情が湧き起こる前に、泡となって行方を眩ます。

「ご安心ください、従兄上」

善意。婚姻の成立につき曹操を心配させない安心か。または、婚姻をしたため、理嬢と疑う余地などない安心か。

「早く、帰りたくなった」

口のなかで呟いたからか、聞こえなかったようだ。ふたたび、夏侯惇が曲を奏で始めた。物悲しい音。天幕の狭隘でよく響く。

暁の雲はたなびく。夜明けが迫っている。
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