第一章 躍動 起こり始めるひとごろし




ひとごろしが出るらしい。





曹操のお膝元である都、業ではそれが今一番の話題であった。

ひとごろしは女も男も動物も関係なく狙うという。けっして、殺人自体がめずらしいわけではない。金銭を狙ったもの、言い争いが発展した結果など、よくあることではあった。だが、件のひとごろしが業の都で話題をさらうのには、理由があった。ひとごろしが好むその残忍な殺し方だ。

鋭利な刃でその身体が散々いたぶられている。力任せに引き抜いたように身体がばらばらになっている。えぐられたように内臓が出ている、中身を探されたように引っ張り出されている。裂いたようにちぎれている。枝を振り回したように散った肉体のかけら。猛獣の遊び道具にされたような残忍な殺し方にあった。

人間の形を保っていない、血まみれ、そんな遺体が、誰か判別さえも困難なそれが、明朝になると都のどこかで転がっていた。はじめのそれは、猫だった。なんてむごいんだろう。そう思っただけで、だれもさほど気には留めなかった。つぎは、犬。そして、人間。人間が異様に殺されてやっと、みんな青ざめはじめた。

誰かは気づいてしまった。遺体は朝になればのさばる犬や猫そして鳥たちについばまれているのが常であったが、その身体にはあきらかに獣ではない揃えられた歯形がついていることを。小腹を満たすために歯を立てた果物に立てた、歯の形とそっくりであるということに。

なぜ、ひとごろしが起こるのかはだれにもわからない。二日や三日つづけて起きることもあるが、ぱたりと止んで、ひとびとに忘れ去られた日に出てくることもあった。

ひとごろしは、自由に闊歩していた。だれにもすがたを見せることなく、見られることもなく好き勝手に生き物を殺しまわっている。見たとしても、曙光に臓物を晒すことになる。ひとびとの間ではさまざまな憶測を呼び、まるでおとぎばなしのように手を変えて品を変えて、ひとごろしの実態に肉付けをしていった。

犯人は誰だ。あいつか。そいつか。それともあいつか。いろいろな憶測が飛び交わっていた。猥談にも似た、いやらしい話をするように、宮中でも話題をさらう。

くだらぬ。夏侯惇はそう思っていた。

ひとごろしの件については夏侯惇も頭を悩ませていた。治安を守るのも曹操配下の我々の役目である。見回りの兵の数を増やし、夜まで出歩くことを控えるよう達しを流布し、考えがおよぶかぎりのことはしてきたつもりである。それなのに、ひとごろしのしっぽはすこしも掴めない。証拠をなにも残さないのである。どのような得物を使ったのか、それすらもわからない。置き土産と言えば、やはり犠牲者だったものひとつ。我々の策を馬鹿にするがごとく、ひとごろしは凶行を繰り返す。たいへんに不愉快であった。

民たちが面白おかしくひとごろしについて語るのも、またひどく不愉快であった。

戦に出ぬものたちにも残酷な面がある。人間は誰でもそうなのかと思う。ひとごろしの特性をなぜ娯楽にするのだろうか。だが、彼らは知っているはずなのだ。私利と私欲のみを貪る為政者が都を焼き、弱きものをなぶるおぞましいすがたを。それなのに、彼らは死を楽しむ節がある。わけがわからない。結局、面白がっていられるのは自分が犠牲者の立場にまだいないからだ。無知とは嘆かわしい事象だ。

いくつもの戦場をおのれの身体で知った夏侯惇は舌打ちした。戦場に出てみろ。人が人を殺すのは当たり前だ。上げた首級を自分の手柄にせんと仲間を殺すのも当たり前だ。それらを見てみろ。きさまら、笑えなくなるぞ。










「ひとごろし、ですか?」

青々とした田畑を楼閣の上から眺めながら、何をいきなりとでも言うようにとなりの影はそう答えた。その声の調子はどこか楽しんでいるような、とぼけているような、どこか不明瞭であった。おそらく、この話題が口にされるとは思ってもいなかっただからだろう。

夏侯惇としては、屋敷内に籠りがちな理嬢への市井の情報を教えるつもりだった。屋敷の者が買い出しなどで仕入れてくる噂話を耳にしているだろうが、誇張されたものではなく正しいものを聞かせてやりたかった。屋敷のなかで交わすには少々憚れる類のものだろうから、敢えてだった。

楼閣の背は高い。目の前に広がる田畑よりも遠くから眺めば他の建物よりも突き抜けているように映え、間近で見上げれば青空へ届くように圧倒する。

「今月に入って、昨夜、死者が五人になった」

隻眼の男、夏侯惇はその静かに流れるように淡々と言葉を紡ぐ。夏侯惇の隣にいる、理嬢は口もとにかすかな微笑をたたえて聞いていた。

「まだ捕まらないのですか?」

「犯人の手がかりが見つかれば苦労はせん」

「ごもっともです」

「お前の心配はしていない。が、用心に越したことは無い」

「夜に出歩かなければ、大丈夫ですよね?」

そういうことだ、とは口には出さずに夏侯惇は目を伏せる。

もともと口の数の極端に少ない性格である、夏侯惇がよくする仕草だ。それははじめて会う人間にとっては首をひねるようなものだが、長い間、夏侯惇の手によって育てられた理嬢には見慣れたものであり、あたりまえの様子だった。

「特別なことがない限り、夜はお外にお出かけなんてしませんから」

ひとごろしが家屋に押し入るなんてことはないが、懸念はある。と言おうとして、夏侯惇は止めた。

上に見える空は広く、風が早い。青を泳いでいく白が過ぎてゆく。

「夏侯惇さまこそ、気をつけてくださいね」

強いひとにこういうことを言ってよいのか、無礼、非礼ではないのかと思いながらも理嬢は言った。

返答は帰ってこないだろうと思いつつ微笑む。思ったとおり返ってこなかった。しかし、夏侯惇は自分の言葉を受け止めてくれている。その証拠に、夏侯惇はひとつの瞳でこちらを見つめてくれた。

日の光が黒い影をつくりだす。まっすぐに伸びる影は、ときどきくっついた。

ふたりのあいだに血のつながりは一滴も無かった。

いまからさかのぼること十年ほどまえの出来事である。ひょんなことから、理嬢は天涯孤独の孤児として曹操に拾われた。

曹操に拾われたのち、理嬢は夏侯惇のもとで育てられるようになった。曹操が夏侯惇に理嬢を預け、教育係を命じたのだった。

理嬢は、曹操の側室になる身だった。身元が定かではない理嬢を側室にしようとした曹操の心のうちはわからないが、夏侯惇はただ誠実にその命を受けたのだった。

仰せのままに教育を施してきた夏侯惇には理嬢に対して兄か父親に似た情が芽生えていた。

「理」

「はい」

「また前に従兄上に呼ばれたな」

「え?」

「従兄上は、なんとおっしゃっていた?」

夏侯惇は曹操を従兄上と呼ぶ。従兄弟同士である。

不意に出した言葉に理嬢はその身体を一瞬、強張らせた。

「なんと?」

「先日、奥殿に召し抱えるには十分な時期であると申し上げた。おまえにもじきじきにおはなしがあると思っていたのだが」

理嬢の喉から吐き出された声には、息を飲み吐く音が混ざっていた。

「おはなしは、ありました。あの、嫁ぎ先のことを」

「嫁ぎ先?」

そろそろ正式な側室という話はどこへいった?言葉を夏侯惇はためらった。

最近、曹操の理嬢への呼び出しが多いのはいったいなんのためか。幼少から側室のためと育てられてきたのは理嬢ももちろん知っているはずである。今まで、この事実について嫌がるそぶりは見せなかった。それなのに、嫁ぎ先の話のためという理由はあまりにもおかしい。

さらに、曹操の理嬢への接し方を見ても、気が変わったなどはありえないはずだ。

どこか迷い気のある理嬢の口調にどこか不信を覚えずにはいられなかった。落ち着かないその口調に眉がひそむ。理嬢が明確な意思を持って虚言を口にしたのだ。夏侯惇は切れ長の目を細めた。

「はいっ」

理嬢は喉に小骨がひっかかった声を出して、固い笑顔をつくっていた。へたくそだと呆れた。

「そうか」

「はい」

「ほんとうなのか?」

改める機会を与えるつもりで、問うた。

「……………」

「理」

「……………、わたし、失礼します。さきに帰っていますね」

「理っ」

逃げるようにこの場を離れようとする理嬢を引き止めるため腕を掴む。理嬢は身を竦ませた。

震えて顔をゆがめた理嬢を見て、咄嗟に手の力をゆるめた。理嬢は掴まれた手をを躊躇いながらも振り払い、振り返ることもなくその場を足早に走って行ってしまった。かんかんかん、石段をける音が遠くなっていく。

腕に傷でもつけたのか、そう気遣ってやれなかった自分に後悔をした。こういうときだけ自分の性分に嫌気が差した。










曹操は丞相府にて机と面向かい片手で公務の竹簡を広げていた。

「おお、夏侯惇」

影にまぎれるように居室に入り、立っている従弟である夏侯惇に曹操は呼びかけた。

「今日は府内の勤務から外れていたろう。どうした?用件を言え」

「公務のほうがお忙しそうですので」

「構わん、一区切りついた」

しかし、竹簡が気になっている。従兄へのわずらわしさをできるだけ避けたい夏侯惇の意図を汲んだ従兄は、竹簡を丸めて山になっている上へ積んだ。

「さあ、話してみろ。できれば面倒ごとは御免こうむりたいが」

「……………理のことです」

夏侯惇はいつものように落ち着いた声で言う。

「理嬢?」

一拍おいて聞き返した。

曹操の声のなかに関係の無いことだと言いたげな音を含まれていたのを知る。確かに自分は理嬢と曹操の間に首を突っ込む,理由は無い。何があったとしても、曹操が理嬢を殺したとしても。崩れぬ曹操と夏侯惇の壁がそこにある。

「なにかしでかしたか」

「いいえ、問題になることは、少しも」

「では、よいだろう」

「ひとつ気になることがありまして」

「はて?」

「理嬢を側室にする御意思に変わりはありませんか」

「なんだ、そなた。理嬢を我に取られるのがいやなのか?理嬢が欲しいのか?」

挑発に笑うかのごとく曹操は艶に満ちた唇から言葉を発した。声は夏侯惇の耳にじん,と響く。従兄上の口発せられる、この言葉は悪い冗談なのだ。手に取るように分かった。つまらぬ戯れ言だ。

「お戯れを」

「まことに?」

「理嬢は従兄上のもの。他人のものを奪おうとするほど、未熟ではありません」

「当たり前だ。おまえがそんな輩ではないことは知っているが。理嬢以外ならば我の妻妾どもから選んでもかまわないが、どうだ?」

夏侯惇は鋭く咳払いをした。この手の話は嫌いの部類に入っている。曹操も承知で引っかけてくるものだから、なおのことたちが悪い。

「理嬢が従兄上に嫁ぎ先の話で呼ばれたと言っていたため、確かめに来ただけのことです。こんなこと、と言って申し訳ありませんが、従兄上のお気持ちを確認できてよかった」

「ほう……………理嬢が…………」

その話、詳しく聞かせろと言いながら曹操は立ち上がる。夏侯惇の元へ足を運んだ。沈んだくすぶりが宿っている。あの娘の言葉は思いがけず、それなりに曹操の心をおおいにゆさぶったようだ。

「我は嫁ぎ先など。もちかけた覚えはない」

理嬢のあれは嘘だった。あたりまえのことだったが、訊ねずにはいられなかったのだった。

「そなたの言うたとおり、理は我のものよ」

獲物を狩る。戦での鋭い瞳を曹操はむき出しにした。

「ええ、そのとおりです」

夏侯惇は恐怖を覚えたが、それよりも理嬢への謎が問われていた。

何のための嘘だ。側室となるのが嫌なのか。そう思考を巡らすとも知らない。自分のことではないのだ。事実は理嬢の胸のなかにある。

「理嬢はあなたのもの」

他人の考えることは、特に女の考えることは予想もつかず疎い。

「今一度、聞こう。理が欲しくはないのか」

父か兄としてならば。夏侯惇は一点の曇りのない言葉で答える。自分の心には、理嬢に対する俗世の男女の、愛の言葉など決してないのだ、と。ただ、育てた情があるのだと。

女になぞ縁もなく。女に執着心がない。理嬢も妹か娘のようにしか見えていない。あったとしても、曹操が自分のものだと明言している。そんなものに手を出す気などさらさら湧くはずなどない。

自分の底に、特別な愛や恋の感情が理嬢に対し向けられているのを曹操は察知でもしたのか。しかし、それは勘違いというものだ。そして、たしかめなければいけないほどものものなのか。

くつくつと曹操は笑う。

「そなたの嘘は、我でも見破れぬからなあ」

「……………」

「なあ?」

その言葉に夏侯惇は答えなかった。ただ、否と。心のなかで思う。嘘ではない。

自分の従兄である曹操は男から見ても人の心を翻弄する艶を持っていると感じていた。人をひきつけて離さない、生まれながらに持った才能である。

身体からはげしくあふれだす強い波によって、精神の弱い男は細事や小言などを言うことなどできない。女であれば曹操の持った妖しい魅力に簡単に墜ちてしまうことだろう。おそらく理嬢もそうだ。曹操の魅力をいとおしく感じ曹操しか見えなくなるに決まっている。

「私をからかうのは止めてください」

常に他人を掌中に収めているような男、それが曹操であった。

「理は、いまは?」

「屋敷へ帰ったはずです」

「帰った?」

「こちらに赴く前に、楼閣を散策しておりました」

「ふうん」

なまめかしい笑みをたたえていた口元を、さらに妖しく歪ませる。また,長い指で顎を撫でながら何かを考えているようだった。

「今宵、我の相手をさせてやる。我の屋敷に来させろ」

「化粧など、湯浴みはいかがなさいますか」

「夏侯惇にまかせよう」

「……………御意に」

怒りを含んでいるのか、それとも楽しんでいるのか、蠱惑の雰囲気をそのままに、曹操は言葉を連ねた。それに夏侯惇は従う。

あとには舐め回すような曹操の視線だけを感じた。

疑っておられる。「理嬢は、あなたのもの」私の言葉が嘘か真かと従兄上は疑っておられるのだ。なんともまあ、猜疑心の強き御方であるか。




理嬢は、表向きを夏侯惇付きの侍女ということになっていた。血縁者でもなんでもない、荒野で拾った素性もわからぬ娘を屋敷に置き、曹操の側室になるための教育を円滑にほどこすためのこの方便は自然であろう。外に向けて侍女と言っておけば、曹操が夏侯惇の屋敷の女を気に入ったから側室に迎え入れたという筋道を作りやすい。

名ばかりの侍女は、それこそ最高の待遇を受けた。物資的な恩恵のほかにも教養についても言わずもがなだ。独自に上質な部屋を与えられ、装飾された調度品が備えられている。曹操からも華やかな着物や、装飾品を贈られている。だが、理嬢は決してそれらの美しさにほほえみを向けることはしなかったのを、近くで見てきた夏侯惇は知っていた。

一度、聞いたことがある。気に入らないのか。従兄上がせっかく四方八方と手を尽くし、お前のために用意したものなのに。理嬢は言った。もちろん嬉しいです。だけど、いいんです。いらないんです。お気持ちだけで、わたしはじゅうぶんです。困ったように目を丸くさせてから、悲しそうに手にとっていた。首をすこし傾げ、こちらに微笑みを向けてきた。

なぜ喜ばないのか。高価と見れば女は、いや、人はよろこぶものではなかっただろうか。そのうち、この娘はなにをすれば喜ぶのかという興味が湧いた。それだけのことだった。

大して興味を示さないのは、元はたいそうな家柄の娘だからと思ったが、それはちがうようだ。貴族の位などではない。

思い返せば、理嬢はずいぶんおかしい子どもだった。今ではかなりましになったものの、出会った当時の歳で知っているはず物事を知らない部分が見られた。歩き方や座り方さえもぎこちない身のこなしをしていた。食べることに関しても、食い物を口まで運び、咀嚼し飲みこむことを教えてやらねばならなかった。なにをどうしたらいいのかさっぱりわからないふうであった。繕っているものではない、なにをどうすればいいのかわからない、まったくの無知であったのだ。赤子のように。
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