第九章 邂逅 深淵の蒼



揺れる。

両足を甲板につけてまっすぐ立っているつもりだが、からだは波の浮き沈みにあわせて、ゆうらりゆうらりと揺れている。

長江の赤壁に、曹操は軍艦を並べ、対する孫のものどもも軍艦を並べ、睨み合いが今もなおつづいている。

空は快晴で、薄い青が澄み切り渡っているのだ。その下で聞こえるのは、波のざわめきという、嵐の前の静けさとでもいうのか、穏やかだった。

水の香りを含んだ風が、楼船の甲板先に立つ男ふたりを撫でて流れてゆく。張遼文遠と、雀(シャン)である。

「張将軍、水面の馬はいかがですか?」

「水面の馬?」

「船のことです。この南の地で、北の馬に代わるのは、船しかありません」

張遼は、遠く前方にある孫の水軍から、雀に目を向けながら言った。

「戦に注文をつけるのは、いささか気が引けますが、生きている馬が一番ですな」

「なら、陸から連れてくればいいですね。甲板の上で乗れば、問題は解決いたします」

「雀(シャン)殿はご冗談がお好きのようで」

「ええ、ええ。そりゃあ、もう、大好きで仕方がありませんよ。だが、かく言うあなたも、相当の物好きですよね」

「はて?そうですかな」

「ああ、張将軍。夏侯将軍から預けられたお荷物に丁寧な言葉遣いは無用ですよ」

「癖です。どうぞお気に召されるな。貴殿こそ、砕けた言葉でよい」

この男は、めずらしい人間だ、と雀は思った。肝が据わっているというのか。ちょっとだけ張遼のことは知っていた。こっそりと幕間から軍議を覗いたとき、そして長坂波で遠巻きにじっとしていたなかに居たのを覚えている。騎馬が得意な将軍だったはずだ。たしか、曹操の精鋭騎馬隊である虎豹騎隊隊長の曹純と互いの矜持をぶつけ合っていた。

雀が血の海で夏侯惇を抱えていた記憶は、張遼にとって鮮明だろう。ほとんどの兵たちは、雀を敬遠している。だいたいの人間にとって、この雀という美しい男は、あでやかさを持った得体が不明の化け物でしかなかった。しかし、それが抗いがたい魅力でもあり、引かれているのもたしかだった。しかしながら、張遼は敬遠する人間が持つ張った空気を感じさせない。

「では、敬愛をこめて文遠と呼ばせていただきますけれど、よろしいですかね?」

「ふふ。夏侯元譲殿のように、おまえ、でもいいですが」

「まあ、ともあれ、文遠」

「はい」

「俺が恐くはないのかい」

「恐怖はありませんね。雀殿に、なぜ恐怖する必要があるのか」

「曹丞相に従うやつらは、みんな恐がっている。解っちゃいるけどね。長坂での、ほら。血まみれの俺を見ていた輩はもちろん、そいつの知り合いも口伝えで聞いて、ふくれあがった妄想といっしょに、勝手よく、俺のこと化け物だって言ってるし」

「その恐さとやらを、ちゃかすようにおっしゃいますな」

張遼は、しっかりと雀に視線を向けた。鷹の上嘴を逆さにしたような鋭い目尻は、赤みがかかっている。左目の下に泣きぼくろがあった。雀は首をかしげる。胸の中で小気味いい音を立てながら気持ちが高揚してくるのがわかった。

「私は、雀(シャン)殿をずっと以前から存じていた」

「そうなの」

夏侯惇だろうか。いや、夏侯惇の性格からして他人にあれこれ話すようなまねはしないだろう。雀が夏侯惇とひとりの生あるどうしとしてうちとけたのは、ついこのあいだのことなのだ。

「夏侯妙才殿に、一度、お話しいただいたのだよ」

「ああ、そういうことね」

夏侯淵。字は妙才。弓矢の名手で、的の中心を矢で囲んださらに中心に射る。性格は、陽気で明快なあの男だ。夏侯惇の従兄だ。

雀は、一度だけ夏侯淵に会ったことがある。ほんのわずかな立ち話ではあったものの、なかなか楽しい人柄で好印象だった。夏侯惇とはまさに表裏一体といった具合だ。

「どんなこと言ってたの?」

「妙才殿曰く、男子とは思えぬ華があると」

「で、感想は?」

「聞いていた以上の華です」

「恥ずかしいなあ。舌がかゆくならないか、文遠」

「雀殿は、たしかに美しい容貌をお持ちだ。私は雅びをたしなむほうではないのだが、あなたには、まるで寂寥の夜に月の光をたたえる湖面の趣を感じます。月は、張りつめた弓の弦、三日月」

「ああ、もう。止してよ」

饒舌な張遼の肩をたたいて、減らない口を閉じさせた。この男はこんな人間だったのか。外見の印象とはだいぶかけ離れていて、しょうしょう戸惑った。軍議では虎豹騎の隊長と一触即発の状態であったし、それを見るぶんでは、矜持ゆえに他人との協調が不得意な堅物だとも思っていた。もしや、これが文遠の素なのだろうか。

「文遠は、意外に話し好きなんだね」

「もちろん。ひとと話すのは好きですよ」

「お堅い印象を持たれない?想像していたのとずいぶん離れているから、拍子抜けしちゃった」

「私はどうにも、勘違いされやすいようですな」

「文遠は黙っていると、怒っているみたいだからだよ」

「なんと。口数はたしかに少ないほうですが」

「いいんじゃないかな?面白くて。話すと楽しいし」

歌うようになめらかな音をのばして、雀はうなづいた。

「長坂前の軍議で、虎豹騎の隊長と厳しい雰囲気になっていたでしょ?だから、びっくりしちゃった」

「おや、あの場に雀殿はいらっしゃらなかったはずだが?」

「俺は耳ざといんだ」

「軍議と平素は別物です。勝敗の一端を担う自負ゆえ、冷徹を務めなければいけません」

雀はにんまりと笑った。

「文遠。なにかお話をしてよ」

「話ですか」

「せっかく、こうしてお近づきになれたんだ。文遠の話をもっと聞きたいな」

首を伸ばしてのぞきこんでくる雀の瞳が、水面が光るようにきらきらと瞬いている。好奇心に気圧された張遼は苦笑した。

「私の話だと、なにをすればよいのやら。決して興が弾むとは思えませんが」

「いいんだよ。面白いも面白くもないよ。俺は、文遠のお話を聞きたいだけなんだよ」

「しかし、なんとも考えつきませんが」

「じゃあ、飛将について聞きたいな」

呂布奉先。狼、そして飛将と呼ばれた男について、名前のほか一面の人柄を除いてなにも知らない。

張遼は苦笑していた表情のまま、眉をちょっと動かした。雀の悪戯めいた表情に呆れながら、ためらいつつ、雀の耳までしか聞こえない大きさで呟いた。

「なかなかに、評判はよくありません」

父親と目されるひとを、つぎつぎに殺したのだ。この国のひとびとは、孝に重きを置く。雀が出会ったどこのひとびとよりも、その重さに対する感情は抜きん出ていた。

「天界のものたちは、縫い目のないならめかな衣装を羽織るといいます。そのように縫い目もなく、糸もなく、裏も表もない無邪気な方でした」

戦場で馬を巧みに操り駆け生きてきた鋭い瞳が、ゆっくり優雅に羽ばたく鳥みたいに、やわらかくなっていた。

周囲を見渡せば、甲板には雀と張遼がいる。その後方に副官、部下の数名が後ろに控えていた。いささか距離があったので、堂々と呂布の名を口に出してもいいのではないかと雀は思ったが言わなかった。

「強かったんでしょ?」

「ええ。とても。剛腕の持ち主でした。剣や戟を振るえば、虚空でさえをも断ってしまうほどの勢い、そして重さがありました。その時の衝撃は耳とこの身に残っています。もっとも記憶にあるのは、弓です」

「弓?」

「かなり弦を強く張っておられましてね。あの方の弓を十分に扱えるものは、おりませんでした」

「文遠でも?」

「私でもです」

張遼は遠く対岸に向けて目を細めた。孫の船が並んでいる。

「風や波の条件が合えば、穿つ矢は、あちらに届いたかもしれませんな」

張遼の横顔に、雀(シャン)はさびしさや、かなしみを感じた。懐かしさと言うよりも悲哀が先んじているのだろう。軽い気持ちで、話してとねだったものの申し訳なかったと思ったが敢えて言わなかった。

もともと張遼は曹操と敵対する関係だった。つまるところ、降将であった。いま、張遼を敵だった男と目する者はいない。そして、呂布の名を出すことで謀反の心ありと疑われることもあるまい。しかし、かつての主君の話題を口にするのは躊躇うものがあった。距離はあるものの、部下たちの耳には入れたくない。

「おしゃべりがすぎましたね」

「ううん、もっと話してくれていいけども、もういいよ。ここでは話しづらかったでしょ。ごめんね」

「いいえ。なにも関係のないあなただからこそ、話せましたからね」

「もっと、あるんでしょう。足りないくらいに」

「語り尽くすには、ここでは勿体無い」

「じゃあ、また今度、お話して」

「うれしいことです」

「ゆっくり、腰を落ち着けてね」

揚子江は広く、水は透明とはほど遠いものの、黄河より澄んでいる。その上に軍艦を並べて対峙するこの民族は、軍人と言えど荒ぶるなかに華をにおわせた。どの民族よりも不可思議で優雅である。あらゆる土地を歩いた雀は、なぜか最近、あらゆる民族によるあらゆる闘争と比較し、想起する。

水上での戦を体験するのは初めてで、興味深いものだ。いったい、どのようなものになるのか。突撃か、それとも拮抗をつくったままか、壮大たる自然を背に争いが開かれるとき、人間はなにを考えるのか。馬術においては最高の腕前である張遼は、どんな戦術を駆使し、軍師は策を弄するのか。

俺は、俺ができることをするだけ。生き延びるだけ。

ねえ、夏侯惇。俺が帰ってきたら、おかえりって言ってくれる?

よし、行ってこい。

物語の恋人たちみたいな気分になる、交わした口約束。甘い気分に酔いしれながら、待っていてくれる存在がいるという初めての喜びを味わった。想いを回帰すれば、ひとりでに口すみが上がってしまう。

江陵で夏侯惇が待ってくれている。

あのね、あのね。夏侯惇、俺、みる夢が変わったんだ。なにも殺さなくなった。あのね、帰ったら教えてあげよう。

だれに不審に思われてもかまわない。それほどに、雀の胸の内は実りの盛りを迎えていた。

「桃の夭夭たる、灼灼たる其の華……………」

詩経の一句、桃夭を適当な調子で細く長く歌った。張遼の側近たちが驚いてしまうほどの大声であった。桃夭は、花嫁を桃にたとえた嫁入りするかわいい娘への讃辞を送った詩である。

「孫の周郎、周瑜公瑾は音曲に優れている色男なんだって。夜風に乗って聞こえてくるのは、たぶん周瑜の音色なんだろうね」

「はて。聞こえますか」

「ちょっとだけ、なんとなく」

「波風の音ではないのですか?」

「そうかもしれない。でも、俺には聞こえる」

しばし、会話が途切れた。風が吹いている。波が立っている。鳥が低い位置で飛んでいる。

「文遠、つぎは俺の話を聞いてもらっていいかな。ふしぎに思っていることがあるんだ」

話したい、いや、言ってみたいことがあった。きっと咎められる。それを覚悟で雀(シャン)は、話しかけた。

「ふしぎ?」

「そう。俺たちは曹の旗を掲げて、対する周らは孫の旗を掲げる。ちがった旗のもとで、こうして戦をしているわけだけど、旗を取り去ってしまって会えたら、きっと仲良くできると思うんだ。旗というものさえなかったら、人間なにものにも囚われないで、溶けあうもんなんだぜ」

「雀殿。お言葉ではありますが、戦場でそのようにやさしい考えをお持ちになられるな。隙を生む原因になる」

張遼の眉が寄り、目元は鋭くしかめれる。やっぱりだと、雀はうすく笑った。

「……………うん。忠告をありがとう。以後、気をつけよう」

「あなたが、なぜそんなことをおっしゃるのか図りかねる。理想ではあるでしょうが、現実はこうなのです」

「そうよね。こうだものね」

視界に、こちらとあちらのあいだを行き来する小回りの利く船が数隻入ってきた。間喋を忍ばせ、偽りの投降をし、情報を手に入れようとする魂胆はどちらも同じだ。いまでは見慣れたものである。

あちらもこちらも同じことをしているのは、それほど打つ手がないということだろう。しかし、この膠着状態では身体がいいかげん鈍ってしまう。

「飽きないねえ。情報たって、いまさらなにを持っていくんだか」

欄干に肘をついて、小船から軍艦にのぼる使者らを見つめながら、ひとりごちた。互いの頭の良い軍師らが読む狙いは、いまだに分からない。軍師は、凡人がどうでもよいと見なす事象から活路を見いだす。頭をしぼる行為は苦手だ。それは、雀(シャン)が人外であることに由来する。思考という活動をせき止め、本能のままに自分のだけのための戦いをしてきた。

だから、雀にとってこの膠着状態は非常にもどかしく、じれったくてたまらないのだ。かと言って、単身乗り込んで軍勲をあげようとも、それでは夏侯惇が脅威を囲っていると周囲から嫌疑がかかるともなきにしもあらずだ。そして、殺戮人形という、雀がもっとも忌むべき存在を知らしめてしまう。だれかの便利な道具としての生まれた意味や目論見が露見するのは考えすぎだろうが、最愛の理にも、疑心の目がかけられる可能性だって有り得る。

ただでさえ、雀は特異なのだ。目立って波を荒げるのは危険だ。じっとしているのが一番良いのだが、やはり退屈であるのには変わりないのだ。

前哨戦はこちら側の敗北だった。

北方育ちの曹軍は慣れない気候と水上戦で滅入った兵が次々と出てきた。体調を悪くし、船酔いで倒れるのだ。なんとか持ちこたえているものも多いが、無理をしているのは明らかだ。従っている兵たちが全員いつ倒れてもおかしくない。

衛生を管理する部隊から、不調をきたした者たちを収容する一角から病が発症したとの報せが届いたと聞く。まだ食い止めてはいるらしいが、いつまで保つだろう。

しかしである。戦力的には圧倒して、曹操が勝っている。持久戦でこのまま長引かせれば、将兵たちもいずれは風土に順応しこちらから先手を打つこともできる。いま一番の懸念は、あちらが間喋以外にどんな手を先手でしかけてくるかだ。

「孫権もよく重い腰を上げたよね」

「主戦論を説いた周瑜と、劉備のもとにいる諸葛亮の声かけによるものでしょう」

「しょかつりょう?」

初めて聞く名前に、雀は張遼に顔を向けた。

「劉備の軍師です。荊州で投降した者の話によりますと、上背がある、神仙の風情を含んだ頭のよく切れる男だと」

「なるほど。劉備に重宝されているわけか」

空を舞う鳥の鳴き声だけが響くなかで、雀に新しいいたずらでも思いついたような無邪気な笑みが宿っていた。人差し指を赤い唇に寄せて、茶色の瞳を大きくまたたかせる。張遼は、ここが戦場であることをうっかり忘れそうになった。

「なあ、この戦が終わったら宴会ってすると思う?」

「はい?」

「いや、絶対するよね。きっと何日もつづくに決まってる。そうしたら、俺、歌って踊って盛り上げてあげるよ、文遠にも付き合ってもらおうかな。覚悟しててよ」

雀(シャン)は、だれもが弾かれたように振り返るほどの大きな声で、ときに声の調を変え、身ぶり手ぶりにつっかえることなく一気に言った。

「急にどうされた」

「先のことを考えて、楽しくなろうぜ。良い目標ができたら、士気があがるだろ?で、宴会の話に戻るんだけど」

雀殿。

張遼は小さく諫めたが、気にも止めずに雀はつづける。

「もちろん、お酒はたくさんあるから問題ないとして。料理が気になるよね。肉がいいなあ、俺。牛が食いたい。煮てもいいし、焼いてもいいし。文遠はどうやって食べたい?甘いものも食べたいな、お菓子は用意してくれるかな」

水面のきらめきが、せわしなくまたたく。雀は、まぶしそうに目を細めた。

「考えるだけでも楽しいね」

「雀殿は事態を明るく祭りのようにするばかりです」

張遼は腕を組みなおした。声が、やや低くなっている。

「褒め言葉だね?」

「少し呆れているのですよ」

「明るいほうが、楽しいでしょ?」

「おっしゃることはわかりますが、いまは賛同しかねますよ」

「いまは、か」

太陽が天の真上に位置し、容赦なく照らす。季節は冬だった。今ごろ北の大地は身も心も凍てつく寒さと氷と雪にとざされていることだろう。だが、あたたかいこの場所では、雪は降りつむどころか、その兆しさえも見せない。たしかに、寒いといえば寒いのだろうが、北の冷気を知っていれば苦にはならない。南の大地は暑い。

北と南では、言葉も生活の仕方も地域に大きな差がある。しかし、ひとつの大きな大陸であるはずなのに、不思議にも相対するひとびとは民族は同じなのである。

望郷にも似た想いが、にじみでてくる。はやく、北に帰りたい。はやく、会いたい。

はやく、おわっちまえばいいのに。雀はつぶやいて、ふたたび張遼を慌てさせる。

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