第三章 混迷 同じ顔をした男



半月近くが経った。

姜維は、庭の手入れをする気にもならなかった。惰性で庭の手入れをしている。こんなことはいけないと叱咤するけれど、身体は心を如実に表している。そして、休憩の時間の大半を理嬢の部屋がかろうじて見える場所に腰を下ろして、そこで暗い眼をしてぼんやり過ごしていた。それを見ていた夏侯惇は、何日かはそっとしておいてやろうと、考えている。

ほぼ連日欠かさずに来てくれていた曹丕も、薬を渡してくれるように頼んだ日から、来ていない。直感的に、渡せなかったか、受け取ってもらえなかったかのどちらかだということを、姜維は感じていた。

このような体たらく、許されるものではないとわかっている。でも、身体を動かすのは億劫だ。夏侯惇の温情にも、申し訳ない。

眼をつぶると、理嬢が鮮やかによみがえる。いなくなってから、自分がどれほど理嬢に想いを寄せているか知った。

姜維の髪は、お星さまのようにきらきらね。そう褒めてくれたのが嬉しかった。

はじめは、年上のひとへのただの憧れだった。それが、いつしか恋慕というものへと変化し、今に至る。

遊びのお相手をするときは、いつもふたりきりで、あの声も、ほほえみも、眼差しも、いつもいつも自分だけに向けられているものと錯覚したことさえある。

ずっと、このような時が続くものばかりと思っていた。側室のための教育をされていると知ったのは、自分が夏侯惇の屋敷で過ごすようになり随分経ってからだったが、その時はよくわからなかった。事情を聞かされても、この状況が変わることはない、側室になっても自分は楽しく過ごせると思っていた。幼さゆえのおろかな無邪気さだった。

理嬢は庭の花を見ると、いつも笑っていた。喜んでくれていた。

花が好きなのだと。綺麗なのだと。それらを手入れするのは自分。花を愛でることは自分を愛でてくれることだと錯覚してひとり酔ったこともある。

喜んでくれるのが、とても嬉しかった。

自分は、本当に植物が好きで手入れをしていたのか。喜ぶ理嬢の姿が見たいがために、手入れをしていたのか。

いずれにせよ、喜んでくれるひとがいない今、姜維にとって、もう庭の手入れなど、どうでもよい気持ちになっていた。それでも、植物は好きだ。薬草になるものは手入れをするかもしれない。自分は、またしてもこうして不義理を重ねるのか。こんな自身が嫌いになってくる。

眼をとじた。

理嬢がいる。こっちを向いて、ほほえんでいた。

「理嬢さま」

ちょっと目を細めて、ほほえんでいた。

呼びかけると、答えたくれた。

なあに、姜維。

「お慕いしております」

眼をあける。

自分勝手な幻想を視ることが多くなった。ほんとうに自分はどうしようもない馬鹿だ。勝手な想像で満たされるものなんてありはしないのに。空しさだけが増すだけだというのに。そもそも、理嬢をこんなふうに利用しようとする自分が汚らわしいところまで落ちたかと嫌悪してしまう。

空を仰ぐと、青い色が空を覆い白い雲が浮かんで漂っていた。太陽は高い。もうすぐ昼時だった。それでも黒い。暗い眼に黒く映る。

情けない。我ながらなんとも気味が悪い。

姜維はその重い腰を上げて、その場に立ったまま理嬢の部屋を見つめる。眺めているだけで、もしかしたら。姜維、と呼びながら扉を開けて出てきてくれるかもしれない。いなくなっても、どうしても、出てきてくれるような感覚がある。

部屋に向かって呼びかけようと、無論、返す言葉などない。未練がましい自分に呆れ、自嘲気味に頭をなでた。

いいかげんにしろ。

自然と庭の方へと足を運んでいた。庭の手入れをする気になれないと言っても、与えられた仕事はこなさねばならないし、やはり気になるものだった。長年、染みついた責務は易々とはがれるものではない。

花の状態が。枯れてはいないか。雑草はどうか。気になる。

籠を片手に歩を進めていた姜維だったが、足並みが突如乱れた。

重さがあるものが地面に落ちて、草がなにかと擦れる音がした。姜維は身を硬くする。なにかが落ちた?そして、なにが横切った?風が吹き、草と草とが擦れる音ではない。動くものと、草が擦れたのだ。夏侯邸では犬など猫は飼っていないはずだ。侍女やほかの使用人、そして夏侯惇も屋敷のなかであろうから、その人々ではないはずだ。

自分が知らない、なにかがいる。

なんだろう。

やはり、迷い込んだ猫?いや、猫なら鳴いて威嚇してくるものではないか?

業の都で有名なひとろごしの話は、もちろん知っている。その覚えが、姜維の警戒を高めた。ひとごろしが昼間から凶行に及ぶとは考え難いものの、このお屋敷が狙われないという確たるものはない。もしかしたら、ということだって十分に有り得る。

また、草となにかが大きく擦れる。誰だろうか。なんだろうか。

たしかな気配が、向こうにあった。

正門ではなく、庭の一角から音がするのだから不審なものにはちがいない。道に迷っただなんてそんなのは嘘だ。だって、正門から屋敷の入り口の道筋ははっきりしている。やはり、不届きものだ。対応するなら、早いほうがいい。怪しいものならば、確認したすぐに夏侯惇へ報告しなくてはいけない。ここには武器になるようなものはないから、はやく、すぐに。

音を立てないように、近づいて、気配を感じる先を目に捉えた。

息を呑んだ。

「理嬢さまっ」

叫ぶと、名を呼んだものがこちらに気づく。

それは理嬢ではなかった。曇りもない白衣をまとった、理嬢の顔が寸分違わずに重なった長身の男だった。髪型さえも同じであった。このようなことがあるのかと、姜維は腰を抜かし、地面に座り込み、男を見つめる。

理嬢に見える男の顔は、頬が腫れ、目の下は蒼く痣ができ、口の隅には血が滲んでいた。まるで、乱暴されたかのような傷のようだった。色が変わる顔だと思った。理嬢の顔であるのにはちがいないのだけれど、くるくるとその顔の印象が変わる。理嬢だったものが、いまは化粧を施したような艶あるものに映った。

男は、唇にあざけるような笑みを浮かべ、姜維に言った。

「坊や」

「ええっ……………」

声も、似ている。いや、そっくりだ。しかし、よく聞けば男の声であるが、理嬢を知っているものに対しては混乱させるには十分だった。顔かたちも同様にである。男の骨格をしているものの、どうしても理嬢に見えてしまう。

寄ってきた。

「坊や。静かにしていて」

「あ、あ……………げ、げ、元譲さま……………」

「坊や、ちょっと」

妖怪か、化け物か。姜維の頭のなかは混乱し、なにものも受けつけようとしない。

「怖がらないでよ。べつに危害を加えようとしているわけじゃあないから」

「……………」

「怖がらないでって。ああ、もう、弱ったな……………勝手にお邪魔したのがいけなかったなあ。どうしようかなあ。ねえ」

男はひとりごとを呟いて自分と会話を重ねつつ、改めてこちらに向き直った。膝を折りしゃがみ込むと、ずいっと顔をのぞきこんでくる。

美しいと思ってしまった。理嬢の顔であるはずなのに、その印象は大きく変わった。

「まあ、いいか。ねえ、坊や。俺の顔に見覚えがあるの?」

「……………」

「覚えているんなら、教えてほしいんだよ。ねえねえ、お願い」

男は姜維ににじり寄り、さらに顔を近づけてくる。

「坊や。俺の話、聞こえてる?」

「姜維っ」

夏侯惇が駆けつけてきた。理嬢、と叫ぶ声は夏侯惇の居室まで聞こえ、よもやと思ったのだ。男は夏侯惇に振り向いた。

「……………理?」

夏侯惇も姜維と同じように驚いた。一瞬、時が止まる。

「ああ、ここはおまえの屋敷か」

言いながら立ち上がって、面倒そうに頤を仰いだ。

「おまえは……………」

だれだ。

「もう忘れちまったか?街で遭ったろう。そうだ、しがない旅人だよ」

あの奇妙な人間。人を小馬鹿にしたような笑み。なくなっていたはずの形が、塵から形を作り出してゆく。思い出したぞ。貴様か。夏侯惇の眼の色が変わる。手が腰の細剣に触れた。

「ひさしぶりだな」

男が目元に笑いをたたえる。立ち上がり、細剣を指さした。

「物騒ごとは嫌いなんだが」

「……………何の用だ。なんでここにいる」

理嬢の顔をした男は、印象的な他人をあざける笑みを、口元にふかく刻む。

「ここの庭はたいしたものでね。つい塀を越えて失礼したよ」

「ふざけるな」

「ほんとうのことなのだけど。木の葉のつけかたがみずみずしくてきれいなもんだからさあ」

「私の屋敷に勝手に上がり込んだ理由がそれだとは、にわかには信じられん」

「信じてもらえないかあ」

「動くな」

「動くな?」

男は、これ見よがしに大股で夏侯惇に近づいた。

「どうだ。牢にでもぶち込む?できるかなあ?」

「……………要件を言え。場合によっては咎めないでいてやる」

「要件ね。実はあるんだよ。この顔と同じ子に会いたいんだよね」

「おまえと同じ顔だと?」

夏侯惇は、男の顔を睨みつける。夏侯惇の頭のなかも、混乱していた。理嬢の顔をしたこの男は何者だ。兄か。いや、それでは似すぎている。そして、この声の響きといったら。

「お前は何者だ」

「ただのしがない旅人だよ」

「理の兄か、親類のものか?」

理、と口にすると、不意に男の表情は光がついたように明るくなった。まるで、理嬢がこの場で、ほほえんだようだった。その笑顔に、ふたりは混乱を増長させられる。

「そうか、そうなのか。あんたは、理を知っているのか?」

「……………来い。話をしよう」

「牢にぶち込む気だろ?その手にゃ乗らないよ」

楽しんでいる。たとえぶち込まれても抜け出してやるとおどけて見せた。

「まあ、まあ。自分が入って見事に脱出して、てめえの鼻を明かしてやるのも楽しいだろうけどね」

「約束しよう、捕らえん。理嬢について聞くだけだ」

「ふふっ。わかった。またね、坊や」

夏侯惇は男の手首を掴み、居室へと連れて行く。

姜維はただ呆然とその場にたたずんでいた。知れずに、涙が頬をつたい、土のなかへ溶け込む。





男を書斎へ押し入れる。動揺が手に焦りとして荒々しく扉を閉めさせた。一呼吸整えてから、男に向き合った。間違いなどなかった。理嬢の顔をした男が、部屋の中を探るように歩き回っている。

「お前は何者だ」

「この前も、さっきも言っただろう?ただのしがない旅人だよ」

男はつぶやいて、勧めていないのにもかかわらず椅子に腰掛けた。笑いを絶やさぬままに、夏侯惇を舐め回すように見定めている。

「物忘れでもしたかい。答えはひとつしかないからさあ」

「質問を変える。お前の目的は」

「俺と同じ顔をしたものを見つけだすこと。つまり、理を捜している」

「やけに素直に吐いてくれるではないか」

「ここは、素直になっていたほうが得でしょ」

「得だと」

「目的の対象を知っているやつを粗末に扱うわけがないでしょ。理を知っている人間を、おまえ以外に知らない。現状が現状なら、簡単に態度は変わるよ」

男は背にもたれ、悠然としている。緊張の類はなかった。対照的に、夏侯惇は硬直したように静かな威圧を男に向けていた。こちらの意に返さず、男は柔和な表情で床につけた足先を跳ねさせている。

「ふふっ、嬉しいなあ。やっと見つかった。これなら、あの日に聞いとくべきだったんだ。そうしたら、もっと早く見つかったのに。ほら早く、理のことを教えて」

期待をきらめかせ、目を瞬かせて見上げてきた。

「……………私の部下を殺したのは、おまえか?」

丸くきらめいた目は、冷たいほど一気に細まった、そして、遅れて口を開いた。

「ああ、あの俺の後ろをずっとつけていた男?」

そうだけど。さも屑を投げ捨てるように呟いた。人を、虫同然にこいつは斬るのかと、夏侯惇は感じた。いつもの冷静さを忘れ、腰から下げていた細剣を抜き放つ。男が刀を抜き放ったのは、ほぼ同時だった。座ったままの態勢を崩さぬまま、突き放たれた切っ先を受け止められた。ふたつの刃の衝撃が冷たい音となって部屋じゅうに響き渡り、やがては消えてゆく。

夏侯惇はその素晴らしい機敏さに内心感嘆するとともに、背に汗が流れた。

おい、と地を這う声がこちらを咎めてきた。

「怒ったのか?無理もないことだ。が、今度、俺に舐めたまねをしたら同じように、てめえを殺してやるからな」

男は刀を大きく薙いで、細剣を退けさせた。

「二度目はねえぞ、ふざけんな」

刀が鞘に納められた。夏侯惇は黙っていた。

「顔を見たとたん、俺に斬りかかってきがったんだぞ。こっちに、殺す理由は十分にあった」

あの者は、理嬢を知っていたのか。この男の顔を見て、気が動転でもしたのだろうか。無理もないと夏侯惇は思った。そして、自分の浅はかな行動が、人ひとりを死に追いやったのではないかと胸が詰まる。

夏侯惇の結ばれた唇に、男は吐き捨てた。

「自分が殺したとでも思っているのか?それは違う。すべては、あいつの判断が、身を滅ぼしたんだよ」

「上に立つものは……………下の命さえも握るものだ」

「神さまとかでもねえくせに。それを傲慢と言うのさ」

「上に立ったこともないような奴に、言われる筋合いはない」

「ふん、上に立ったことがないから、外から見た純粋な意見を申して差し上げたままだろうがよ。まあ、あんたはそれでいいんじゃないの」

鼻を鳴らして笑ってきた。この男といると調子を乱される。まるで、自分の意識が奴の手中にあるかのようだ。目を逸らし、乱れる心を落ち着かせるよう努めた。

「まあ、とりあえずは仲良くしよう。俺は泥棒でも強盗でもないんだよ」

「勝手に忍び込んできた口でなにを言うのか」

「それを言っては弁解の余地もないけど、俺がやったしくじりと言えば、坊やを驚かせたくらいじゃないか?うん、そうだ。びっくりさせたことは謝ろう」

おどけた調子で手を鳴らした。

「俺の名は雀(シャン)だ。あんたは、確か、夏侯惇だったよな?夏侯惇、と呼ばせてもらうが、いいか?」

勝手にしろと言いながら、雀と名乗るこの男をじっくり眺めた。本当に、理嬢の顔をしていた。理嬢の顔がそっくりに重なっている。だが、ちがうとも思えた。角度か雰囲気か、明確なちがいが存在している。色彩を自在に操れるというのだろうか、理嬢を下地にしてはいるものの、受ける印象がころころと変わるのだ。今まで美しいとは思わなかった感情を、この男には抱いた。

「貴様は、理嬢とどんな関係にある」

「……………理嬢?それが、ここでの理の呼び名なのか?そういえば、さっきもそう呼んでいたな」

「そうだ。だが、私は理とも呼んでいる」

「使い分けをしてるわけか。めんどくさいな、人間は。……………なら、俺のことも理と呼べよ」

「軽口を叩くなよ、若造」

「怒るな、怒るな。えっと、あんたは、そう、夏侯惇、字は元譲。合ってる?」

「なぜ私の名を知っている」

「そりゃあ、あの時だよ。誰だあいつって、市場の人間に聞いてみたんだ。覚えててよかった。黒い髪に黒い目、印象に残るでしょ」

緯名を勝手に使われたことに不快感はあったが、字で呼ばれるのも嫌だったので、あえて咎めないことにしてやった。

「さあて、質問に答えようね。簡単にいえば、兄弟みたいなものだ」

「やはり、兄か」

「いや、ちがうね」

雀は両手を軽くあげて、間違いという仕草をした。口元に浮かばせていた笑みを消し、よどみなく立ち上がる。

「正確には、弟だ」

「馬鹿な」

理嬢と同じ顔はしているものの、明らかに雀のほうが年長である。俺を馬鹿にしているのか、と言いかけたものの、口を噤んだ。嘘だと確信めいたものは、夏侯惇の身体を探しても見つからない。どこか信じざるを得なかった。

「次は俺の番だ。おまえは理とどんな関係にある?まさか、婚姻している間柄ではないよな?」

「……………私は、理の教育係だ」

「教育係?」

「私が育てた」

「それなら話は早い。謹んで教育係どのにお聞きするよ。理はどこにいる?」

「ここには、もういない」

「なら、どこにいる?俺は何年も歩き回ったんだ」

「…………とある方の側室として、奥へ召された」

「側室……………」

顎に指をすべらせ、考える仕草をした。雀が、なにを考えているかは分からなかったが、身体のなかに潜んでいた混乱は、安堵にも似た感覚になっていた。

「だれの側室ってやつになったんだ?」

「教えてなんになる」

「会いに行く」

事なげもなく答えが返ってきた。

「会いに行くだと」

「じゃあ、おまえに頼んだら会えるのか?」

「わからん」

「そっか。じゃあ、また探せばいいや。自分でなんとかする。貴重な情報を、ありがとう」

夏侯惇の横を通り過ぎ、真っ直ぐ扉へと歩を進めた。それを、雀の腕を掴み、制止した。

「触るんじゃねえよ」

「どこへ行く」

「どこでもいいだろうが」

「もしや、乗り込む気ではないだろうな」

「悪いか?俺はどうしても、理に会いたいんだ。そのためなら、人を殺すことも、躊躇しない」

「許さんぞ。そのようなことをしてみろ。私が、その首を討ち取ってやる」

雀は夏侯惇の腕をはねのけ、顔を歪ませた。叫びに近い声で威嚇をする。

「黙れっ、会いたいんだ。会いたいんだ。邪魔をするなっ」

「たかが女ひとりに、人の命を奪うなと言っているだけだ。暴に走るな。少し頭をひねれば分かるだろう」

「自分は考えているような口振りだな」

「考え、などない」

本当のことだ。ただ、諫めるだけの言葉だけしかなかったが、雀は、反発をしなかった。

「少し、頭を冷やせ。私がお前と理が会えるかどうか、考えるだけ考えてやる」

「おまえを信じろと?」

「信じてみろ」

沈黙のなか、雀は夏侯惇を見据えていた。夏侯惇も、じっと見据える。緊張を解いたかのように、雀の肩はわずかに緩んだ。小さく頷く。

「ついてこい」

連れて行った場所は、理嬢の部屋だった。当分のあいだ好きにしろと告げると、雀はゆっくりと部屋へ足を踏み入れる。その横顔は、どこか安らいだような、柔らかなものだった。

「理のにおいがする」

「その顔の傷はどうする」

雀を慮り、つい訊ねてしまったのは、この男に理嬢そのものを重ねてしまったためかもしれない。雀は首を横に振った。そして、苦しげに呟いた。憂いのこもった声が、優しく耳をくすぐる。

「このままでいい。……………理と、同じだから」

「なんだと?」

「見れば分かる話だ。この部屋、有り難く使わせてもらう」

引き止めて、言葉の真意を突き止めようとはしなかった。頭のどこかで無駄だという声が響いている。

音もなく扉が閉じた。

「元譲さま、よろしいですか」

庭先から、ことのなりゆきを静かに伺っていた姜維が遠慮がちに尋ねてきた。

「あのかたは、ここにお住みになるのですか?」

正直に言えば、迷っていた。べつに、追い払うこともできたのだが。人を殺すこともできると言われてしまっては、どうしようもない。正体の分からぬ恐怖を、雀は夏侯惇に植え付けていた。あの男の言葉に偽りなど存在しない。夏侯惇は直感していた。決して、顔かたちや声に惑わされたのではない。

足枷が必要だと考えたのだ。

雀の機敏さや刀の腕は本物であろう。気を一瞬でも抜いていれば、自分の首が転がっていてもおかしくなかったはずだ。いまは、様子を見る。ゆっくりと見るための足枷が必要だ。雀の目的が理嬢ならば、足枷をつけるための手段はなくもない。

「しばらくは、置いておくことにした」

「さようですか……………」

「姜維」

「はい」

「あの男は理嬢ではない。顔かたちが似ている男だ。理ではない。いいな?」

「分かりました」

名を教え、居室へ戻る。理嬢ではない。理ではない。何度も何度も、言い聞かせる。頭では解っていても、理嬢と意識する身体が、生きている。

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