第三章 混迷 同じ顔をした男
理嬢は、桃の香を焚いて部屋を満たしていた。これで、夏侯邸のことを思い出そうとしているのだ。側室に加えられてから、毎晩ずっと曹操はやってくる。暴力を毎晩、与えられている。
昨晩も同じだった。そのおかげで、理嬢の左右の目の下、腕、腹など、いたるところに痣ができ、口のすみからはまだ血がのぞいていて、頬は腫れている。
とにかく、身体じゅうが痛い。傷だらけなのだ。噛みつかれた肩の傷も、まだ治っていない。
曹操はやってくると有無を言わさずに、床に押さえつけ、馬乗りになって殴り、蹴るのだ。意識を飛ばし、目が醒めると寝台の上に自分はいる。新しい傷に気がつく。そして、痛みと恐怖で涙がでる。その繰り返し。
なにをしようか、という気持ちも失せていた。
夏侯惇の屋敷が恋しくなる。ずっと、夏侯惇や屋敷のみんなの顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。楽しかった日々がとても恋しく辛いのだ。もう戻れない。そう思うと、また涙がでる。恋しくなるたびに、ばらばらにされた花びらを見つめるのだった。
陶器の器に貯めた水の上で、赤い花びらたちが浮かんでいる。一枚一枚拾い集め、再び水にいけたつもりだった。寝台近くの卓の上に置いてある小さな容器を、曹操は二度もひっくり返そうとはしなかった。だが、花びらの腐食は日ごと進行している。すべての花びらが完全に腐ってしまったら、もう捨てるしかないのだ。一枚それぞれ腐食の進行は異なった。日に一枚、二枚三枚と色あせた花びらを捨てるたびに、夏侯惇の屋敷とのつながりがゆっくり消え失せてしまう感覚におののいてしまう。また、自然と視界がこぼれた。
楽しいことなど、この世界には何もない。楽しいことがあると思った自分を、愚かなことを考えたなと、改めて実感した。
窓を小さくたたく音が聞こえた。
誰だろうと思っても、窓まで歩きその正体を確認したいとは思わなかった。だれもここに訪問しようとはしない。きっと、風が強く吹いたのか、小鳥がくちばしで突いているのだ。
小さい音はだんだんと大きくなった。
「姐々(チエチエ)、姐々」
控えめな曹丕の声が、窓が揺れた後に追ってきた。
「子桓さま」
窓にかかる御簾をひらき、そっと外をうかがってみる。その先には、身をひくくして首を伸ばしている曹丕の姿があった。
「お待ちください」
相手に聞こえるだけの声で応答した。だれにも気づかれないようにという警戒と、この傷ついた顔を見せてはならないという配慮である。急いで薄手の布をかぶり、床を這うようにして欄干へと出た。
「なにか、ご用でしょうか?」
訊ねると、曹丕は意気揚々に草の入った小袋を差し出した。
「姜維から頼まれた物を、届けに参りました」
理嬢は不意に顔を上げた。傷だらけの顔を見たため、え、と曹丕は声を詰まらせた。
「姐々、そのお顔は……………」
理嬢は慌てて手で顔を覆い隠して俯いた。なんでもありません、と二回つぶやいた。それから、転んだだけだ、と言った。嘘だった。
「でも、そんな」
父が姐々に手を上げたのですか。という言葉を、曹丕は飲み込む。怒りが、ひしひしと腹から浮き出るのがよく分かった。元気づけるとは言葉が違うかもしれないが、改めて小袋を差し出す。喜んでくれるだろうと。
「姜維からですよ、ほら」
理嬢は首を横に振る。そして、制するように片手を上げて言った。
「いいのです。もう、いいのです。でも、姜維のお見舞いはとても嬉しいです。だけど、姜維に返してくたさい」
「受け取ってもくださいませぬか?」
「子桓さま……………その……………」
すぐに返事は出さなかった。もし、この小袋が見つかれば曹操は気分を害すだろうし痛みもさらに受けることになる、そして、曹丕になんらかの迷惑がかかるかもしれなかった。
「姐々」
「ごめんなさい。……………でも、誤解はしないでください、子桓さま。姜維には、わたしがとても喜んでいたと、伝えてください」
「ええっ?」
「子桓さまも、もういらっしゃらないほうがいいですよ。あらぬ噂がたったら、それこそ、子桓さまの顔にも、名誉にも泥が塗られてしまいます」
「弟が、弟が姉のもとを訪れるのに、不都合なことでもありましょうか?」
「ちがいます、わたしは、孟徳さまの」
「私はあなたの弟です。たとえ、あなたが父上の側室だとしても」
「もう、昔とは……………」
「姐々」
「……………わたしはっ、わたしは、あなたのお姉さまではありませんからっ」
厳しい口調でそれだけを言い残し、部屋に戻っていってしまった。
「姐々……………」
理嬢のあんなに厳しい声は初めてだった。少しの間、時間が止まる。姐々、と呼ぶことは自分のひとりよがりだったのか。いや、ひとりよがりではないと思うのは、自分だけなのかもしれない。ただ自分が一方的に理嬢を「姉」と呼んでいるにすぎない。
だが、曹丕子桓の姐々は、姐々だ。ひとりよがりだと思われても関係などない。姉だと思うな、そのようなことは無理だった。
幼少の頃の記憶に基づいた感情を変えることはできない。夏に咲くと定められている花を、冬に咲かせることができるのか。できはしない。それと同じことだ。
これからも、曹丕は理嬢を姉と呼ぶことを、止めたりはしないだろう。
小袋を欄干の隅に置き、その場を去ることにした。もしかしたら、気持ちが変わってくれるかもしれない。その時に有ると無いとでは感情に大きな差ができるだろう。姉に、後悔という念を抱いてはほしくなかった。いつでもいい、理嬢が受け取ってくれることを望んだ。
理嬢は、大声を上げて泣いていた。
自分のしたことに、後悔の思いが募る。悔やんでも、悔やみきれない。曹丕に会えたことは、嬉しかった。姜維の小袋を持ってきてくれたことに対しては、もっと嬉しかった。しかし、厳しい口調と言葉で、追い払った。曹丕はもう訪れてくれるはずなどない。当たり前だと思った。
わたしは自分で繋がりを断ち切ってしまったのだ。
理嬢は泣いた。もうどうでもいい。この泣き声だって笑われる。もう、好きなだけ笑えばいい。そして、大いにあることないこと噂をすればいい。もう、どうでもいい。感情が赴くままに、ただ泣いた。
夜になると、侍女たちが入ってきて料理を並べる。ここでは、自分は厄介者だった。馬鹿にされている。理嬢は直感していた。
侍女たちは自分の方をみようともしない。なにかを伝えるにしても、目をそらして伝える。そのくせ、傷にはただならぬ視線を向けてくる。
湯浴みの手伝いも、侍女たちがしてくれている。顔の傷はもちろんのこと、身体じゅうの傷をすべて見られている。傷のひとつひとつに、嘲笑と好奇が注がれているのを知っている。見ないで。と言おうとも、できなかった。
楽しいことなど、この世界には、ひとつとして、存在などしない。
侍女たちが、部屋から出ていく。
曹操が、入ってきた。
床に平伏する。
「顔を上げよ」
ゆっくりと顔を上げると、自分の前で両膝をつき、曹操は初日のように微笑んでいた。
長い指が理嬢の顎に触れ、穏やかなくちづけが与えられる。長いくちづけのあとで、また、手をあげられるのではないのかと、自然と身体が強張った。息も浅くなってきてしまう。
唇が離れると、曹操は口を開いた。
「さぞ、痛かっただろうに」
優しく、優しく、目の下の痣や頬、口のすみの傷を撫でる。
「痛かっただろうに」
撫でつづけ、手を掬って理嬢を立たせる。寝巻の帯をゆるめ合わせ目をずらし、身体の傷を眺めてからまた正しく着物を整える。哀れみを浮かべる瞳のなかに、どこか楽しんでいる色があったのを、理嬢は見逃さなかった。
いまからまた殴られると、伸びてきた手に肩を震わせた。
ふたたび、曹操はくちづけただけだった。次は、瞬くくらいの短さ。唇が離れる間際、口の隅の血を舌で少しだけ触れられた。
曹操は流れるように抱き上げ、寝台へ腰を下ろさせた。その動作は、ひとつひとつが穏やかで優しいものだった。それでも、理嬢の緊張は解けない。
「理」
「はい」
「我が、そなたを拾ったときのことを、そなたは覚えているか?」
顔をのぞき込む。目と目が合う。楽しんでいて、なにを考えているのか分からない、だが、きれいと思う顔だった。なまめかしくて、威厳があって、相手を凌駕する圧があった。
拾われたときも、曹操はこんな顔をしていた。
暗い、暗い夜のことで、その日はたしか満月の夜だった。秋の夜で、空が高く、闇がつづく時間が長い。自分は行くあてもなく、ひたすらにつづく草原を歩いていた。歩いていて、遠くのほうに、ぼんやりと萌える場所があった。
どこを目指し、どこへ行けばいいか分からなかったから、自分はそれを目的として歩いた。
足の裏が擦り切れて痛かった。足だけではなくて、頭も、痛かった。
靴を履いていない足は、石や草で擦り傷だらけだった。痛みはあったものの、立ち止まるということをしなかったのは、そういう選択を持っていなかったからだ。なぜかはわからない。ただ、歩いていなければいけない気がしていた。
ひたすらに灯りへ近づいていくと、草のなかから黒い影が現れて自分を押し倒した。ひっ、と息をのんだ。冷たい光を放つ、短刀が自分に向けられているのを見た。いまから鋭利なそれが落ちてくる。
喉がはちきれんばかりに叫んだ。泣いた。
上にのしかかる黒い影は、戸惑っているようだった。
やがて、剣や槍を持ち武装した人たちが集まり、口々に言った。子どもか。子どもか。ただ、ただ、恐くて恐くて泣き叫び続けた。
なにが、どうしてではなくて、ただ、恐かった。恐いものをもっている、恐いひとたちだ。
その泣き叫びは、生へ向かうための抵抗だったのかもしれないし、殺されると思った、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
そして、自分の身体は地面に足をつけて立っていた。影はもういない。こわいのがいなくなったと分かると、涙はあっというまに引っ込んだ。
わらわらともっと人が集まってくる。松明に囲まれるようにして現れたひとりの男のひと。
目の前には、今より若い曹操がいた。夏侯惇も、すぐそばにいた。
黒い影が捕まえた珍客、こちらの状態を確認すると、曹操と夏侯惇はしばし話し込んでいた。
そのとき、二人がなにを話していたのかは知らない。不意に、二人がこちらを向いた。そのときは誰のことも知らなかったから、こわかった。
曹操が問うた。
名は?
……………理。おずおずと答える。
どこから来た?
分からない。でも、分からないながらも、自分の来た方向を指さした。
あっち。
二人は指の先を確認してから、怪訝そうに顔を見合わせた。明確な答えを示せずにただ何もない景色を指を示している。いや、村や町があるのかもしれない。だが、獣や無頼な輩どもが徘徊する草原を、夜に子どもがひとりで彷徨っていた事実が確かに存在していた。
頭から血が出ているではないか、言ったのは夏侯惇だった。また、二人は少しだけ話し込んだ。会話は聞こえなかった。
連れられるままに、天幕のひとつへ導かれた。手当をするものがいて、自分の頭と足を手当してくれた。そのあと、寝床に横にされ、ゆっくり寝ろと言われた。毛布を首元までかけられると、眠気はすぐにやってきた。生まれて初めて、眠ったようなた気分だった。
朝、目が覚めて、ひとりで天幕を出てみた。
兵の指揮を執っている曹操がいた。騎馬隊の蹄の音は、小さいからだに大いに響いた。ここの、えらい人なのだと思った。ひとりで外を歩く興味よりも不安が勝り、しずかに寝床に座っていることにした。整えられた足音が聞こえる。天幕に映る人の影は、大きく伸びたり小さく縮んだりして、まるで人形劇のようだった。なんとなくそれが面白く感じられて、次はどんな動きをするのか楽しみだった。
ひとつの影がこっちに近づいてくる、どんどん大きくなって、ふいに破られた。天幕に入って来たのは、夏侯惇だった。黒いひと。黒い髪の毛、黒い瞳をしたひと。
表情を少しも変えずに、ついてこいとだけ言われた。
ついていくと、馬に乗せられた。その後ろに夏侯惇が跨る。
馬がゆっくり前に進み始めた。初めての馬だった。歩調に合わせて大きく揺れるので、必死に夏侯惇の手綱を持つ手を握りしめる。動かしにくいから腕にしろと言われた。腕の裾を握ってみると、やはり動かしにくいと注意される。結局、夏侯惇の衣の胸あたりを掴まされた。離すなよ。ぶっきらぼうな声が降ってきた。見上げると、黒曜の瞳がまっすぐに前を見据えている。朝日に照らされた鋭い黒曜に、きれい、と呟いた。
見下ろしてくる黒曜の瞳が、こちらを捉えた。また、きれい、と呟いた。
夏侯惇は、なにを言っている。ため息をついたようだった。そして、従兄上がいらっしゃった。挨拶をしろ。と言われた。
えらい人、曹操が馬に乗って近寄ってきた。あいさつとは、なにをすればいいのだろう。どぎまぎしていると、夏侯惇が小さく肩を小突く。それでもどぎまぎしていると、曹操から笑顔を向けられたのを覚えている。朝日に照らされた笑顔は、眩しく感じた。
その日以前の記憶はなかった。父や母のことも、ましてや兄弟姉妹がいたのかも、すべてが、汚れをぬぐい取られたかのように思い出せなかった。
「あのときは、挨拶もきちんとできなくて失礼しました」
「気にしなくていいぞ、そなたは記憶が欠けている」
「おはずかしいかぎりです」
「記憶を失うほどの出来事があったのだろう。よい、この世ではありふれたことだ」
曹操も、思い出していた。
暗殺者かなにかに間違えられた理嬢を見て感じたことは、言葉にできにくい。やはり、あふれるなにかだった。少なからず血がにおう場所であったためか、そのあふれるなにが、よりいっそう感じられた。
側室にしたい。思ったのは好奇心だったのかもしれぬ。
あのとき、頭から血を流していたのは、きっと頭を打ったからだとも、あんな子どもが草原でさまよっていたのは、住んでいた村が賊に襲われためかと察した。名しか覚えていない少女に対して、もう一度、込み上げてくる。
側室にしたい。
夏侯惇に話したとき、ご冗談をと苦笑した。素性もはっきりとしない娘です、とも。しかし、側室にしたいという気持ちは捨てられず、無理矢理押しつけるように、夏侯惇に預けて、教育させたのだ。
「理」
「はい」
いきなり押し倒す。それも、穏やかで優しい。曹操はじっと、戸惑いを見せる理嬢を見下ろした。
美しい、という容姿ではない。どこにでもいるような平凡な女だ。だが、瞳は大きく、肌の色は白く、髪の豊かさも申し分ない。自分はこの女に、どうして動かされているのかと思った。声か、仕草か。いずれも湧き上がってくる想いがあった。
欲のままに女を撫で、唇を重ねたことは数知れず。そのなかで、込み上げてくる、と思ったことはあったか。ない。理嬢よりも美しい女たちに、思ったことはあったか。ない。いくら過去に腕に抱いた女たちのことを思い出しても、当てはまるものはいなかった。
理嬢だけが、ちがうのだ。理嬢だけが、なにかがちがった。瞳が瞬く、息を吸う、指がかすかに動く、動作のひとつひとつに動かされる気がした。
波のように追い立てる気持ちがこんなにもあった。側に置いておけば、この込み上げてくる気持ちが落ち着く。理嬢にしか抑えられない感情が曹操にはあった。
唇を、ゆっくりと重ねた。
子が欲しいとは思わなかった。自分だけを慈しめばいいと思っていた。仮に、理嬢が自分との間に子が欲しいと願っても、子を作るかどうかは迷うだろう。
理嬢を抱きしめ、その瞳をのぞきこむ。
自分に怯えている瞳だった。その眼が、限りなくいつのまにか好きになっていた。
頬を平手で弾く。
乾いた音とともに理嬢の顔が横を向いた。
目を見開いて、自分を見てくる。どうして、と言いたげだった。もう一度。さらに、もう一度。涙が伝ったのを手に感じた。口を切ったのか、血がのぞく。
小さく頭を振っていた。両手が制するように胸のまえで掲げられていたが、気にせずもう一度叩いた。
赤い血は綺麗だと思った。
拳が腹にめり込んだ。押し出す声とともに身体が、魚のように跳ねる。胃液が少しだけ、口のすみから血とともに流れる。
好きだった。
苦しむ姿が、泣く姿が。怒りにまかせて、さんざんに打ちのめしたあの日から、好きになった。
理嬢を抱きしめ、満足になる。こみ上げる気持ちとはまた別の感情を満たしたいがために、打ちのめす。
髪を掴んで寝台から投げ出してみた。うつ伏せに倒れた理嬢は肘を突いて起き上がろうとしたが、曹操は微笑みながら、馬乗りになり、仰向けにさせると首を絞める。
「理」
意味を宿すことない濁った声で答えられた。垂れ流される唾液をそのままに、指が虚しく宙をさまよっている。
「我の側室となること、嬉しいか?」
肩で息をしていた。首を小さく縦に振ったようだった。短く整えられた爪と指が、曹操の手首にまとわりついた。弱々しいもので、ほとんど力なぞ入っていない。
「嘘はつくな」
その言葉に理嬢は悲しそうな表情を強め、呻く声さえも失せていた。曹操は片手で理嬢の首を絞めつづけ、片手で頬を殴りつづける。
最後に、両手で首を絞めながら、力任せに床に頭を叩きつけた。
動かなくなった。力が身体全体から消え失せ、屍のように床に腕が転がったものの、息はかすかにしている。
見て。曹操は小さく、喉で笑った。
空腹が満たされたように、曹操のなかの込み上げてくるなにかが十二分に満たされたきがした。
「理」
返事はない。
もう一度、笑う。声に出して笑った。
抱き上げて、抱きしめる。笑わずにはいられない自分の姿がある。安堵もあった。逃げて行かない、どこに行かない、不安と不満がすべて消え去った。
理嬢の身体を寝台に横たえる。
顔に残る胃液の混ざった血を舐めてみた。酸味と鉄の味が、口に広がる。それでさえ、満たすためのひとつになった。
昨晩も同じだった。そのおかげで、理嬢の左右の目の下、腕、腹など、いたるところに痣ができ、口のすみからはまだ血がのぞいていて、頬は腫れている。
とにかく、身体じゅうが痛い。傷だらけなのだ。噛みつかれた肩の傷も、まだ治っていない。
曹操はやってくると有無を言わさずに、床に押さえつけ、馬乗りになって殴り、蹴るのだ。意識を飛ばし、目が醒めると寝台の上に自分はいる。新しい傷に気がつく。そして、痛みと恐怖で涙がでる。その繰り返し。
なにをしようか、という気持ちも失せていた。
夏侯惇の屋敷が恋しくなる。ずっと、夏侯惇や屋敷のみんなの顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。楽しかった日々がとても恋しく辛いのだ。もう戻れない。そう思うと、また涙がでる。恋しくなるたびに、ばらばらにされた花びらを見つめるのだった。
陶器の器に貯めた水の上で、赤い花びらたちが浮かんでいる。一枚一枚拾い集め、再び水にいけたつもりだった。寝台近くの卓の上に置いてある小さな容器を、曹操は二度もひっくり返そうとはしなかった。だが、花びらの腐食は日ごと進行している。すべての花びらが完全に腐ってしまったら、もう捨てるしかないのだ。一枚それぞれ腐食の進行は異なった。日に一枚、二枚三枚と色あせた花びらを捨てるたびに、夏侯惇の屋敷とのつながりがゆっくり消え失せてしまう感覚におののいてしまう。また、自然と視界がこぼれた。
楽しいことなど、この世界には何もない。楽しいことがあると思った自分を、愚かなことを考えたなと、改めて実感した。
窓を小さくたたく音が聞こえた。
誰だろうと思っても、窓まで歩きその正体を確認したいとは思わなかった。だれもここに訪問しようとはしない。きっと、風が強く吹いたのか、小鳥がくちばしで突いているのだ。
小さい音はだんだんと大きくなった。
「姐々(チエチエ)、姐々」
控えめな曹丕の声が、窓が揺れた後に追ってきた。
「子桓さま」
窓にかかる御簾をひらき、そっと外をうかがってみる。その先には、身をひくくして首を伸ばしている曹丕の姿があった。
「お待ちください」
相手に聞こえるだけの声で応答した。だれにも気づかれないようにという警戒と、この傷ついた顔を見せてはならないという配慮である。急いで薄手の布をかぶり、床を這うようにして欄干へと出た。
「なにか、ご用でしょうか?」
訊ねると、曹丕は意気揚々に草の入った小袋を差し出した。
「姜維から頼まれた物を、届けに参りました」
理嬢は不意に顔を上げた。傷だらけの顔を見たため、え、と曹丕は声を詰まらせた。
「姐々、そのお顔は……………」
理嬢は慌てて手で顔を覆い隠して俯いた。なんでもありません、と二回つぶやいた。それから、転んだだけだ、と言った。嘘だった。
「でも、そんな」
父が姐々に手を上げたのですか。という言葉を、曹丕は飲み込む。怒りが、ひしひしと腹から浮き出るのがよく分かった。元気づけるとは言葉が違うかもしれないが、改めて小袋を差し出す。喜んでくれるだろうと。
「姜維からですよ、ほら」
理嬢は首を横に振る。そして、制するように片手を上げて言った。
「いいのです。もう、いいのです。でも、姜維のお見舞いはとても嬉しいです。だけど、姜維に返してくたさい」
「受け取ってもくださいませぬか?」
「子桓さま……………その……………」
すぐに返事は出さなかった。もし、この小袋が見つかれば曹操は気分を害すだろうし痛みもさらに受けることになる、そして、曹丕になんらかの迷惑がかかるかもしれなかった。
「姐々」
「ごめんなさい。……………でも、誤解はしないでください、子桓さま。姜維には、わたしがとても喜んでいたと、伝えてください」
「ええっ?」
「子桓さまも、もういらっしゃらないほうがいいですよ。あらぬ噂がたったら、それこそ、子桓さまの顔にも、名誉にも泥が塗られてしまいます」
「弟が、弟が姉のもとを訪れるのに、不都合なことでもありましょうか?」
「ちがいます、わたしは、孟徳さまの」
「私はあなたの弟です。たとえ、あなたが父上の側室だとしても」
「もう、昔とは……………」
「姐々」
「……………わたしはっ、わたしは、あなたのお姉さまではありませんからっ」
厳しい口調でそれだけを言い残し、部屋に戻っていってしまった。
「姐々……………」
理嬢のあんなに厳しい声は初めてだった。少しの間、時間が止まる。姐々、と呼ぶことは自分のひとりよがりだったのか。いや、ひとりよがりではないと思うのは、自分だけなのかもしれない。ただ自分が一方的に理嬢を「姉」と呼んでいるにすぎない。
だが、曹丕子桓の姐々は、姐々だ。ひとりよがりだと思われても関係などない。姉だと思うな、そのようなことは無理だった。
幼少の頃の記憶に基づいた感情を変えることはできない。夏に咲くと定められている花を、冬に咲かせることができるのか。できはしない。それと同じことだ。
これからも、曹丕は理嬢を姉と呼ぶことを、止めたりはしないだろう。
小袋を欄干の隅に置き、その場を去ることにした。もしかしたら、気持ちが変わってくれるかもしれない。その時に有ると無いとでは感情に大きな差ができるだろう。姉に、後悔という念を抱いてはほしくなかった。いつでもいい、理嬢が受け取ってくれることを望んだ。
理嬢は、大声を上げて泣いていた。
自分のしたことに、後悔の思いが募る。悔やんでも、悔やみきれない。曹丕に会えたことは、嬉しかった。姜維の小袋を持ってきてくれたことに対しては、もっと嬉しかった。しかし、厳しい口調と言葉で、追い払った。曹丕はもう訪れてくれるはずなどない。当たり前だと思った。
わたしは自分で繋がりを断ち切ってしまったのだ。
理嬢は泣いた。もうどうでもいい。この泣き声だって笑われる。もう、好きなだけ笑えばいい。そして、大いにあることないこと噂をすればいい。もう、どうでもいい。感情が赴くままに、ただ泣いた。
夜になると、侍女たちが入ってきて料理を並べる。ここでは、自分は厄介者だった。馬鹿にされている。理嬢は直感していた。
侍女たちは自分の方をみようともしない。なにかを伝えるにしても、目をそらして伝える。そのくせ、傷にはただならぬ視線を向けてくる。
湯浴みの手伝いも、侍女たちがしてくれている。顔の傷はもちろんのこと、身体じゅうの傷をすべて見られている。傷のひとつひとつに、嘲笑と好奇が注がれているのを知っている。見ないで。と言おうとも、できなかった。
楽しいことなど、この世界には、ひとつとして、存在などしない。
侍女たちが、部屋から出ていく。
曹操が、入ってきた。
床に平伏する。
「顔を上げよ」
ゆっくりと顔を上げると、自分の前で両膝をつき、曹操は初日のように微笑んでいた。
長い指が理嬢の顎に触れ、穏やかなくちづけが与えられる。長いくちづけのあとで、また、手をあげられるのではないのかと、自然と身体が強張った。息も浅くなってきてしまう。
唇が離れると、曹操は口を開いた。
「さぞ、痛かっただろうに」
優しく、優しく、目の下の痣や頬、口のすみの傷を撫でる。
「痛かっただろうに」
撫でつづけ、手を掬って理嬢を立たせる。寝巻の帯をゆるめ合わせ目をずらし、身体の傷を眺めてからまた正しく着物を整える。哀れみを浮かべる瞳のなかに、どこか楽しんでいる色があったのを、理嬢は見逃さなかった。
いまからまた殴られると、伸びてきた手に肩を震わせた。
ふたたび、曹操はくちづけただけだった。次は、瞬くくらいの短さ。唇が離れる間際、口の隅の血を舌で少しだけ触れられた。
曹操は流れるように抱き上げ、寝台へ腰を下ろさせた。その動作は、ひとつひとつが穏やかで優しいものだった。それでも、理嬢の緊張は解けない。
「理」
「はい」
「我が、そなたを拾ったときのことを、そなたは覚えているか?」
顔をのぞき込む。目と目が合う。楽しんでいて、なにを考えているのか分からない、だが、きれいと思う顔だった。なまめかしくて、威厳があって、相手を凌駕する圧があった。
拾われたときも、曹操はこんな顔をしていた。
暗い、暗い夜のことで、その日はたしか満月の夜だった。秋の夜で、空が高く、闇がつづく時間が長い。自分は行くあてもなく、ひたすらにつづく草原を歩いていた。歩いていて、遠くのほうに、ぼんやりと萌える場所があった。
どこを目指し、どこへ行けばいいか分からなかったから、自分はそれを目的として歩いた。
足の裏が擦り切れて痛かった。足だけではなくて、頭も、痛かった。
靴を履いていない足は、石や草で擦り傷だらけだった。痛みはあったものの、立ち止まるということをしなかったのは、そういう選択を持っていなかったからだ。なぜかはわからない。ただ、歩いていなければいけない気がしていた。
ひたすらに灯りへ近づいていくと、草のなかから黒い影が現れて自分を押し倒した。ひっ、と息をのんだ。冷たい光を放つ、短刀が自分に向けられているのを見た。いまから鋭利なそれが落ちてくる。
喉がはちきれんばかりに叫んだ。泣いた。
上にのしかかる黒い影は、戸惑っているようだった。
やがて、剣や槍を持ち武装した人たちが集まり、口々に言った。子どもか。子どもか。ただ、ただ、恐くて恐くて泣き叫び続けた。
なにが、どうしてではなくて、ただ、恐かった。恐いものをもっている、恐いひとたちだ。
その泣き叫びは、生へ向かうための抵抗だったのかもしれないし、殺されると思った、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
そして、自分の身体は地面に足をつけて立っていた。影はもういない。こわいのがいなくなったと分かると、涙はあっというまに引っ込んだ。
わらわらともっと人が集まってくる。松明に囲まれるようにして現れたひとりの男のひと。
目の前には、今より若い曹操がいた。夏侯惇も、すぐそばにいた。
黒い影が捕まえた珍客、こちらの状態を確認すると、曹操と夏侯惇はしばし話し込んでいた。
そのとき、二人がなにを話していたのかは知らない。不意に、二人がこちらを向いた。そのときは誰のことも知らなかったから、こわかった。
曹操が問うた。
名は?
……………理。おずおずと答える。
どこから来た?
分からない。でも、分からないながらも、自分の来た方向を指さした。
あっち。
二人は指の先を確認してから、怪訝そうに顔を見合わせた。明確な答えを示せずにただ何もない景色を指を示している。いや、村や町があるのかもしれない。だが、獣や無頼な輩どもが徘徊する草原を、夜に子どもがひとりで彷徨っていた事実が確かに存在していた。
頭から血が出ているではないか、言ったのは夏侯惇だった。また、二人は少しだけ話し込んだ。会話は聞こえなかった。
連れられるままに、天幕のひとつへ導かれた。手当をするものがいて、自分の頭と足を手当してくれた。そのあと、寝床に横にされ、ゆっくり寝ろと言われた。毛布を首元までかけられると、眠気はすぐにやってきた。生まれて初めて、眠ったようなた気分だった。
朝、目が覚めて、ひとりで天幕を出てみた。
兵の指揮を執っている曹操がいた。騎馬隊の蹄の音は、小さいからだに大いに響いた。ここの、えらい人なのだと思った。ひとりで外を歩く興味よりも不安が勝り、しずかに寝床に座っていることにした。整えられた足音が聞こえる。天幕に映る人の影は、大きく伸びたり小さく縮んだりして、まるで人形劇のようだった。なんとなくそれが面白く感じられて、次はどんな動きをするのか楽しみだった。
ひとつの影がこっちに近づいてくる、どんどん大きくなって、ふいに破られた。天幕に入って来たのは、夏侯惇だった。黒いひと。黒い髪の毛、黒い瞳をしたひと。
表情を少しも変えずに、ついてこいとだけ言われた。
ついていくと、馬に乗せられた。その後ろに夏侯惇が跨る。
馬がゆっくり前に進み始めた。初めての馬だった。歩調に合わせて大きく揺れるので、必死に夏侯惇の手綱を持つ手を握りしめる。動かしにくいから腕にしろと言われた。腕の裾を握ってみると、やはり動かしにくいと注意される。結局、夏侯惇の衣の胸あたりを掴まされた。離すなよ。ぶっきらぼうな声が降ってきた。見上げると、黒曜の瞳がまっすぐに前を見据えている。朝日に照らされた鋭い黒曜に、きれい、と呟いた。
見下ろしてくる黒曜の瞳が、こちらを捉えた。また、きれい、と呟いた。
夏侯惇は、なにを言っている。ため息をついたようだった。そして、従兄上がいらっしゃった。挨拶をしろ。と言われた。
えらい人、曹操が馬に乗って近寄ってきた。あいさつとは、なにをすればいいのだろう。どぎまぎしていると、夏侯惇が小さく肩を小突く。それでもどぎまぎしていると、曹操から笑顔を向けられたのを覚えている。朝日に照らされた笑顔は、眩しく感じた。
その日以前の記憶はなかった。父や母のことも、ましてや兄弟姉妹がいたのかも、すべてが、汚れをぬぐい取られたかのように思い出せなかった。
「あのときは、挨拶もきちんとできなくて失礼しました」
「気にしなくていいぞ、そなたは記憶が欠けている」
「おはずかしいかぎりです」
「記憶を失うほどの出来事があったのだろう。よい、この世ではありふれたことだ」
曹操も、思い出していた。
暗殺者かなにかに間違えられた理嬢を見て感じたことは、言葉にできにくい。やはり、あふれるなにかだった。少なからず血がにおう場所であったためか、そのあふれるなにが、よりいっそう感じられた。
側室にしたい。思ったのは好奇心だったのかもしれぬ。
あのとき、頭から血を流していたのは、きっと頭を打ったからだとも、あんな子どもが草原でさまよっていたのは、住んでいた村が賊に襲われためかと察した。名しか覚えていない少女に対して、もう一度、込み上げてくる。
側室にしたい。
夏侯惇に話したとき、ご冗談をと苦笑した。素性もはっきりとしない娘です、とも。しかし、側室にしたいという気持ちは捨てられず、無理矢理押しつけるように、夏侯惇に預けて、教育させたのだ。
「理」
「はい」
いきなり押し倒す。それも、穏やかで優しい。曹操はじっと、戸惑いを見せる理嬢を見下ろした。
美しい、という容姿ではない。どこにでもいるような平凡な女だ。だが、瞳は大きく、肌の色は白く、髪の豊かさも申し分ない。自分はこの女に、どうして動かされているのかと思った。声か、仕草か。いずれも湧き上がってくる想いがあった。
欲のままに女を撫で、唇を重ねたことは数知れず。そのなかで、込み上げてくる、と思ったことはあったか。ない。理嬢よりも美しい女たちに、思ったことはあったか。ない。いくら過去に腕に抱いた女たちのことを思い出しても、当てはまるものはいなかった。
理嬢だけが、ちがうのだ。理嬢だけが、なにかがちがった。瞳が瞬く、息を吸う、指がかすかに動く、動作のひとつひとつに動かされる気がした。
波のように追い立てる気持ちがこんなにもあった。側に置いておけば、この込み上げてくる気持ちが落ち着く。理嬢にしか抑えられない感情が曹操にはあった。
唇を、ゆっくりと重ねた。
子が欲しいとは思わなかった。自分だけを慈しめばいいと思っていた。仮に、理嬢が自分との間に子が欲しいと願っても、子を作るかどうかは迷うだろう。
理嬢を抱きしめ、その瞳をのぞきこむ。
自分に怯えている瞳だった。その眼が、限りなくいつのまにか好きになっていた。
頬を平手で弾く。
乾いた音とともに理嬢の顔が横を向いた。
目を見開いて、自分を見てくる。どうして、と言いたげだった。もう一度。さらに、もう一度。涙が伝ったのを手に感じた。口を切ったのか、血がのぞく。
小さく頭を振っていた。両手が制するように胸のまえで掲げられていたが、気にせずもう一度叩いた。
赤い血は綺麗だと思った。
拳が腹にめり込んだ。押し出す声とともに身体が、魚のように跳ねる。胃液が少しだけ、口のすみから血とともに流れる。
好きだった。
苦しむ姿が、泣く姿が。怒りにまかせて、さんざんに打ちのめしたあの日から、好きになった。
理嬢を抱きしめ、満足になる。こみ上げる気持ちとはまた別の感情を満たしたいがために、打ちのめす。
髪を掴んで寝台から投げ出してみた。うつ伏せに倒れた理嬢は肘を突いて起き上がろうとしたが、曹操は微笑みながら、馬乗りになり、仰向けにさせると首を絞める。
「理」
意味を宿すことない濁った声で答えられた。垂れ流される唾液をそのままに、指が虚しく宙をさまよっている。
「我の側室となること、嬉しいか?」
肩で息をしていた。首を小さく縦に振ったようだった。短く整えられた爪と指が、曹操の手首にまとわりついた。弱々しいもので、ほとんど力なぞ入っていない。
「嘘はつくな」
その言葉に理嬢は悲しそうな表情を強め、呻く声さえも失せていた。曹操は片手で理嬢の首を絞めつづけ、片手で頬を殴りつづける。
最後に、両手で首を絞めながら、力任せに床に頭を叩きつけた。
動かなくなった。力が身体全体から消え失せ、屍のように床に腕が転がったものの、息はかすかにしている。
見て。曹操は小さく、喉で笑った。
空腹が満たされたように、曹操のなかの込み上げてくるなにかが十二分に満たされたきがした。
「理」
返事はない。
もう一度、笑う。声に出して笑った。
抱き上げて、抱きしめる。笑わずにはいられない自分の姿がある。安堵もあった。逃げて行かない、どこに行かない、不安と不満がすべて消え去った。
理嬢の身体を寝台に横たえる。
顔に残る胃液の混ざった血を舐めてみた。酸味と鉄の味が、口に広がる。それでさえ、満たすためのひとつになった。