第三章 混迷 同じ顔をした男
夏侯惇は理嬢が正式な側室となった日から、しばらく丞相府への出仕を断っていた。
仕事は使いの者が運んでくれる。
行きたくないわけではない。ただ、気が乗らないだけだった。出仕すれば、否が応でも曹操と顔を合わせなければならない。あの日を境に生じたわだかまりが、まだ消えてはいなかった。それも、直したいと思わないわけではない。機会がないだけだ。
内心、理嬢が殺しを犯して曹操が連れてきてはくれないだろうかと、不謹慎にも思ってしまっている。だが、それは叶わないであろう。正体が殺人者だと判明すれば、曹操はその場で処刑する。それか、自分か配下の誰かが呼ばれて処刑するにちがいなかった。
曹操と顔を合わせていなかったが、息子の曹丕子桓は、毎日のように足を運んでいた。どうやら、姜維と話をしているようだった。二人の間に入り、話を聞いたことはないが、どちらもまだ年若く理想に燃え、未来に希望を募らせる年頃だ。心を入れ語り合うことがあるものだろう。自分も、曹操とそのようなことがあったから、察しはつく。
曹丕が姜維に興味を持ったのは、父曹操が理嬢を側室として加えたことに不満を持ち、夏侯惇に責めるために夏侯邸に上がったときだった。
夏侯惇に話を聞かされていたのだろう。応接間にて、初めて顔を合わせた。姜維は自分が曹操の息子と知ると、花を渡してほしいと頼み込んできた。それから、どうしてか姜維ともっと話がしてみたくなり、足を運んでいる。植物や姜維自身の境遇、自分の得意な武術などを他愛のない話をしあった。
「花は、まだ枯れてはいないでしょうか」
草木の剪定をしながら、不意に姜維は呟いた。
姜維が曹丕に託した赤い花のことだ。
「きっと大丈夫だろう。姐々(チエチエ)のことだ。水にいけていらっしゃるはずだ。それに、あれはまだ開きかけのものであったからな」
作業に励む姜維の背中を見ながら、曹丕も呟いた。
ふたりは膝をつきあわせて話はしない。いつも姜維が草木の世話をして、曹丕はそれを立って眺めている。そして、どちらともなく呟いてどちらかが言葉尻に乗っていく。そんなふうに過ごすのが常だった。
姜維は、木に咲いている枯れてきた花びらを、ひとつずつ丁寧に採り、地面に落としてゆく。今日は籠を背負っていない。調子が悪いのか、健全な花びらまでも採ろうとしていた。
「お元気そうでいらっしゃいましたか?」
「まだ一度きりしか会っていなくてな。できるだけ姐々の部屋の窓際まで行っているのだが、人気がないというのか、静かなものだ」
「では、伏しておられるのではないでしょうか……………そうだ。まだ、お身体の調子が……………」
軽く焦る姜維をなだめながら、曹丕は訊ねる。
「ご不調なのか?」
理嬢が寝込んでいたことを、姜維は告げる。曹丕は、父の強行に眉をしかめた。女ならば、自分の奥殿にいくらでもいるだろうに。どうして、そのように息子と同じくらいの年の娘を欲しがるのだろうか。狂気の沙汰だとしか思えなかった。
「あのひとが不調だとは、珍しいこともあるのだな。幼いころは床に臥したと聞いたこともなかったのに」
「だから、心配です」
「姜維、お前は話に聞くと、薬学に詳しいと聞く。ならば、姐々のためにひとつ、病に効く薬草を煎じてくれないか?どんなものでもいい」
「……………いえ、病でしたら直接の症状を看ませんと。代わりと言っては……………ですが、女性のために身体を温める薬草を煎じますので、どうか」
藁にもすがるように頼む姜維の姿こそが、本当に愛する姿なのではないだろうか。初対面でありながら、姜維はこのように自分に花を託した。
慕っているのだ。直感した。真っ直ぐで、強い。愛しているという感情が、姜維からひしひしと流れ曹丕に伝わってくる。
父曹孟徳は、この姿を知っているのだろうか。どうか、知らせたい。
自分の行っていることは、すべて虚しいことなのだと。姜維の姿を見せて目を覚まさせてやりたかった。
「煎じて参りますので、しばしお待ちください」
「ゆっくりでいい。急ぎすぎて、手元が狂ってしまっては、元も子もない」
「はいっ」
屋敷の方へ駆けながら、短く声を切った。
曹丕は花を見つめる。桃色に熟れた花で、小さな木についている。見渡せば、白、赤、黄などの花も咲き、草は整えられ、緑の輝きを放っている。見事だな、そう思った。
すべて姜維が造り出したものだ。このような庭を見て、姐々はお過ごしになられたのか。では、奥の殿に入って庭を見たときは、さぞ肩を落とされたことだろう。あそこは、いささか雑だ。
幼い頃、遊び、側にいた理嬢から感じとったことは、質素なひと、だということだった。身にまとうものは、こざっぱりと着飾ることのないもので、歳が経つごとに、質素なひとから、欲のない人と印象が変わる。着飾ることを喜びとはせず、代わりに、花や緑を見つめていた気がする。
今思うと、あのひとがあのようになったのは、姜維の影響を受けているためなのかもしれない。姜維の努力と愛情で造りだした庭が、理嬢の部屋なのではないか。宝石で飾られた部屋は、理嬢は好きになれぬはずだ。
哀れな人だと思った。もし、側室などのためではなく、夏侯惇の本当の侍女であったのなら、もしかしたら、この姜維と夫婦になっていたかもしれない。そうであったのなら、理嬢はこの美しい庭を、見つめつづけることができたはずだ。
姉と認識したのは、いつのことだろうか。
十年も前、見た理嬢は得体の知れないなにかだった。突然、現れた少女は、自分にほほえみ、手を差し出す。握った手は、おのれが受けた印象をくつがえすように温かかった。
遊んだ。遊んだときは、楽しかった。その当時から、戦に出ていたが、戦のために武芸をすることは、正直をいうと、あまり楽しくなかった。だから、楽しかったのかもしれない。子どもらしいといえば、子どもらしかったろう。遊ぶそのときだけ、その短い時間だけ、子どもに戻った。
戦に出るならば、子であってはいけない。子の自分を中に閉じこめた。だが、理嬢は子であることを許してくれた。子であることの唯一の場所を与えてくれた。
姉。
姉弟なのだ。
姐々。
しかし、姉と呼ぶ相手は、決して自分を丕と呼ばなかった。子桓さま、字で呼ぶ。何故、とは思わなかった。いくら姉と呼ぼうとも、見えない透き通ることのない壁がある。それでも、理嬢は姉だった。
そんなひとが、姉どころか母になってしまった。ほぼ歳が違わぬのに。前々から、こうなることは分かっていても、現実は心のずれを与える。
父は、おかしい。
理嬢を拾ったのは、父だ。父は、幼い少女になにを感じたのだろう。月下氷人の導きか、そんなばかな。
父は父である前に曹操だ。曹操である前に人間だ。人という本能が、理嬢を求めたのだろうか。では、なぜ?父に訊ねなければ判明しない。
考えれば考えるほど、世のなか、不確かなことばかりで、推測さえが生まれては死んでいく。
もういい。もういいのだ。
自分の感じること、思うこと、それらこそがこの世のなかで唯一、信じられる確かなことだ。
父といえど他人が感じること、思うことを理解することほど、難しいものはない。
「子桓さま、これを」
姜維が、小さな袋を両手で大事に包み込み戻ってくる。
自然と、口から、こぼれた。
「お前は、姐々をお慕いしているのか?」
姜維は唇を真一文字に結び、俯く。
言葉を出すのを強く躊躇っているようだった。
敬愛ではなく、ひとりの女性として。二度目の問いに、姜維は包む両手に強く、力を込める。
「梅の花を、さしあげたいほどに」
絞りあげるように呟いた声に、曹丕は、そうか、と言っただけだった。
それほどまでに。
梅の花。梅の実は妊婦が好んで食すものだ。そのため、結婚を象徴るものとされているのだ。本来は女が男に婚を求めるときに使うものだが、姜維はたしかに、自分の想いを梅になぞらえている。
「嘘ではないのだな」
姜維は黙って頷いた。
曹丕は小さな袋を受け取り、黙ったまま植物を分け入って厩に向かった。何も言えなかった。慰めの言葉もなにも浮かばなかったし、なんの励ましにもならない。
「お待ちくださいっ」
姜維が叫び、走って曹丕のもとへやってくる。腕へとすがり、詰まりながら、言葉をつなげた。
「どうかこのことは、理嬢さまにも、元譲さまにも、おっしゃらないでください」
恋慕の心を持つことは、不忠につながるとでも思っているのだろうか。いいや、もう止めたはずだ。他人の心は他人の口から知るものだ。推測することもない。
「姐々を慕うことをどう思っている」
「仕えるものにとって、道のはずれたことだと思います」
「だが、それでもお前はあえて道を外れる」
「……………その通りです」
「もっと前にもっと早く、伝えればよかったものを」
「お伝えしたところで、どうにもなりません。恥ずべきことでしょう」
「結果は見えていても、決着はつけられるだろうよ」
「私は奉公人です。奉公をさせていただいているのです。それ以上のことは、身に合わぬものです。道をはずれる。私は忘れることが、私にはできなかった。怖かったのです」
純真で、頑固な男だ。
「誰にも言わない。安心しろ」
幼い子の頭を撫でるように、曹丕は姜維の頭を優しく撫でた。
「ありがとうございます……………」
爪を突き立て、顔を覆う。泣いている。嗚咽も聞こえなかったが、確かに泣いていた。
「嬉しいのか?」
「いえ、辛いのです」
「辛い?」
「こんな気持ちになるのなら、子桓さまのおっしゃるとおり、無礼を承知で言葉にするべきだったのではないでしょうか。もっと前に、もっと早くに……………」
結果は見えていても。伝えていれば、このように女々しい振る舞いはしなかっただろう。
初めて、人に理嬢さまへの想いを告げました。溢れた涙が、顔の輪郭を伝い、こぼれ落ちてゆくのが見えた。そこで初めて、姜維は嗚咽を漏らす。そして、立っていることもできず、地面に膝をつき、伏せる。
自分は恵まれているのだな。欲しいものは全て手に入れることができた。女も例外ではない。官渡での戦いで、曹丕は甄優という敵の女を、自分のものにした。欲しい、と思ったから手に入れた。
自分とは違う姜維の姿に、哀れみの気持ちが生まれる。
しかし、自分はどうすることもできない。
他人からの声など、その場しのぎ、安心するための心の拠りどころでしかない。そう思って、やはりなにも声はかけなかった。
声をかけずに曹丕は背を向け足を進める。
門の近くに、夏侯惇がいた。
軽装で、腕を組み立っている。自分を待っていたのかと思った。夏侯惇は片腕を軽く振ると、こちらに近づいてきた。
「ずいぶんと長い、話し合いであったな」
「私たちのように、まだまだ青いものどもは、自然と引かれあうものなのですよ」
「そんなものか」
「それより、姜維の手がける庭はすばらしいものですね」
「お前もそう思うか」
「私の屋敷の庭の手入れは、これほどまでではありませんから」
夏侯惇は穏やかに目を軽く閉じた。
「では、失礼させていただきます」
また、穏やかに頷く。
「おじ上。私の父をどう思われますか?」
「とにかく強く、鋭気あふれる方だと思っている」
「いいえ、女の趣味についてです」
言わんとすることを察して、夏侯惇はすこし目を伏せた。
「……………理嬢を側室にしたことが、不服か?」
「父が狂っているのではないかと感じました。姐々は私と歳が近いはずです。父と娘が婚姻するようで、なんとも不道徳なことだと思いませんか?」
「滅多なことを言うな」
冷たく低い声だった。父を非難する悲しさ、怒りなのだろう。その声は、夏侯惇の耳にじんと響く。
「しかし従兄上と理は血はもとより親戚としても、つながってはいない。気に入っているから私の侍女を側室として奥殿へ入れたのだけのこと。歳の差で結ばれるのが不道徳だというのはいささか無理がある。不道徳と思うのは、丕。お前が理を姉と慕うためだからなのではないか?私はそう思う」
黙り、目を背けた。たしかに、血はつながってはいない。姉と呼び、認識することは、ただの独りよがりにしかならない。
「侍女、おじ上の侍女か。姐々が」
「丕、お前もそろそろ、姉と呼ぶのは止したほうがいい。もう、母になってしまったのだから」
「母と呼べとおっしゃるか」
「そうだろう。あのふたりは夫婦だ」
「おじ上だって、父上の女を、いや側室を名で呼んでいるではありませんか。何故、夫人とでも敬称しない」
「私はあれの、教育者だからだ」
教育者。だがそれは、前の話。今はちがう。今は、曹操の夫人。
「理由にならないでしょう。あなたがおっしゃるとおり言葉を借りれば、姐々はずっと私の姐々です」
吐き捨てるように怒鳴った。曹丕は夏侯惇を睨みつけてから、足早に歩いていく。曹操が自分を睨んだように見えたが、まだまだ子どもだとひとりごちた。
仕事は使いの者が運んでくれる。
行きたくないわけではない。ただ、気が乗らないだけだった。出仕すれば、否が応でも曹操と顔を合わせなければならない。あの日を境に生じたわだかまりが、まだ消えてはいなかった。それも、直したいと思わないわけではない。機会がないだけだ。
内心、理嬢が殺しを犯して曹操が連れてきてはくれないだろうかと、不謹慎にも思ってしまっている。だが、それは叶わないであろう。正体が殺人者だと判明すれば、曹操はその場で処刑する。それか、自分か配下の誰かが呼ばれて処刑するにちがいなかった。
曹操と顔を合わせていなかったが、息子の曹丕子桓は、毎日のように足を運んでいた。どうやら、姜維と話をしているようだった。二人の間に入り、話を聞いたことはないが、どちらもまだ年若く理想に燃え、未来に希望を募らせる年頃だ。心を入れ語り合うことがあるものだろう。自分も、曹操とそのようなことがあったから、察しはつく。
曹丕が姜維に興味を持ったのは、父曹操が理嬢を側室として加えたことに不満を持ち、夏侯惇に責めるために夏侯邸に上がったときだった。
夏侯惇に話を聞かされていたのだろう。応接間にて、初めて顔を合わせた。姜維は自分が曹操の息子と知ると、花を渡してほしいと頼み込んできた。それから、どうしてか姜維ともっと話がしてみたくなり、足を運んでいる。植物や姜維自身の境遇、自分の得意な武術などを他愛のない話をしあった。
「花は、まだ枯れてはいないでしょうか」
草木の剪定をしながら、不意に姜維は呟いた。
姜維が曹丕に託した赤い花のことだ。
「きっと大丈夫だろう。姐々(チエチエ)のことだ。水にいけていらっしゃるはずだ。それに、あれはまだ開きかけのものであったからな」
作業に励む姜維の背中を見ながら、曹丕も呟いた。
ふたりは膝をつきあわせて話はしない。いつも姜維が草木の世話をして、曹丕はそれを立って眺めている。そして、どちらともなく呟いてどちらかが言葉尻に乗っていく。そんなふうに過ごすのが常だった。
姜維は、木に咲いている枯れてきた花びらを、ひとつずつ丁寧に採り、地面に落としてゆく。今日は籠を背負っていない。調子が悪いのか、健全な花びらまでも採ろうとしていた。
「お元気そうでいらっしゃいましたか?」
「まだ一度きりしか会っていなくてな。できるだけ姐々の部屋の窓際まで行っているのだが、人気がないというのか、静かなものだ」
「では、伏しておられるのではないでしょうか……………そうだ。まだ、お身体の調子が……………」
軽く焦る姜維をなだめながら、曹丕は訊ねる。
「ご不調なのか?」
理嬢が寝込んでいたことを、姜維は告げる。曹丕は、父の強行に眉をしかめた。女ならば、自分の奥殿にいくらでもいるだろうに。どうして、そのように息子と同じくらいの年の娘を欲しがるのだろうか。狂気の沙汰だとしか思えなかった。
「あのひとが不調だとは、珍しいこともあるのだな。幼いころは床に臥したと聞いたこともなかったのに」
「だから、心配です」
「姜維、お前は話に聞くと、薬学に詳しいと聞く。ならば、姐々のためにひとつ、病に効く薬草を煎じてくれないか?どんなものでもいい」
「……………いえ、病でしたら直接の症状を看ませんと。代わりと言っては……………ですが、女性のために身体を温める薬草を煎じますので、どうか」
藁にもすがるように頼む姜維の姿こそが、本当に愛する姿なのではないだろうか。初対面でありながら、姜維はこのように自分に花を託した。
慕っているのだ。直感した。真っ直ぐで、強い。愛しているという感情が、姜維からひしひしと流れ曹丕に伝わってくる。
父曹孟徳は、この姿を知っているのだろうか。どうか、知らせたい。
自分の行っていることは、すべて虚しいことなのだと。姜維の姿を見せて目を覚まさせてやりたかった。
「煎じて参りますので、しばしお待ちください」
「ゆっくりでいい。急ぎすぎて、手元が狂ってしまっては、元も子もない」
「はいっ」
屋敷の方へ駆けながら、短く声を切った。
曹丕は花を見つめる。桃色に熟れた花で、小さな木についている。見渡せば、白、赤、黄などの花も咲き、草は整えられ、緑の輝きを放っている。見事だな、そう思った。
すべて姜維が造り出したものだ。このような庭を見て、姐々はお過ごしになられたのか。では、奥の殿に入って庭を見たときは、さぞ肩を落とされたことだろう。あそこは、いささか雑だ。
幼い頃、遊び、側にいた理嬢から感じとったことは、質素なひと、だということだった。身にまとうものは、こざっぱりと着飾ることのないもので、歳が経つごとに、質素なひとから、欲のない人と印象が変わる。着飾ることを喜びとはせず、代わりに、花や緑を見つめていた気がする。
今思うと、あのひとがあのようになったのは、姜維の影響を受けているためなのかもしれない。姜維の努力と愛情で造りだした庭が、理嬢の部屋なのではないか。宝石で飾られた部屋は、理嬢は好きになれぬはずだ。
哀れな人だと思った。もし、側室などのためではなく、夏侯惇の本当の侍女であったのなら、もしかしたら、この姜維と夫婦になっていたかもしれない。そうであったのなら、理嬢はこの美しい庭を、見つめつづけることができたはずだ。
姉と認識したのは、いつのことだろうか。
十年も前、見た理嬢は得体の知れないなにかだった。突然、現れた少女は、自分にほほえみ、手を差し出す。握った手は、おのれが受けた印象をくつがえすように温かかった。
遊んだ。遊んだときは、楽しかった。その当時から、戦に出ていたが、戦のために武芸をすることは、正直をいうと、あまり楽しくなかった。だから、楽しかったのかもしれない。子どもらしいといえば、子どもらしかったろう。遊ぶそのときだけ、その短い時間だけ、子どもに戻った。
戦に出るならば、子であってはいけない。子の自分を中に閉じこめた。だが、理嬢は子であることを許してくれた。子であることの唯一の場所を与えてくれた。
姉。
姉弟なのだ。
姐々。
しかし、姉と呼ぶ相手は、決して自分を丕と呼ばなかった。子桓さま、字で呼ぶ。何故、とは思わなかった。いくら姉と呼ぼうとも、見えない透き通ることのない壁がある。それでも、理嬢は姉だった。
そんなひとが、姉どころか母になってしまった。ほぼ歳が違わぬのに。前々から、こうなることは分かっていても、現実は心のずれを与える。
父は、おかしい。
理嬢を拾ったのは、父だ。父は、幼い少女になにを感じたのだろう。月下氷人の導きか、そんなばかな。
父は父である前に曹操だ。曹操である前に人間だ。人という本能が、理嬢を求めたのだろうか。では、なぜ?父に訊ねなければ判明しない。
考えれば考えるほど、世のなか、不確かなことばかりで、推測さえが生まれては死んでいく。
もういい。もういいのだ。
自分の感じること、思うこと、それらこそがこの世のなかで唯一、信じられる確かなことだ。
父といえど他人が感じること、思うことを理解することほど、難しいものはない。
「子桓さま、これを」
姜維が、小さな袋を両手で大事に包み込み戻ってくる。
自然と、口から、こぼれた。
「お前は、姐々をお慕いしているのか?」
姜維は唇を真一文字に結び、俯く。
言葉を出すのを強く躊躇っているようだった。
敬愛ではなく、ひとりの女性として。二度目の問いに、姜維は包む両手に強く、力を込める。
「梅の花を、さしあげたいほどに」
絞りあげるように呟いた声に、曹丕は、そうか、と言っただけだった。
それほどまでに。
梅の花。梅の実は妊婦が好んで食すものだ。そのため、結婚を象徴るものとされているのだ。本来は女が男に婚を求めるときに使うものだが、姜維はたしかに、自分の想いを梅になぞらえている。
「嘘ではないのだな」
姜維は黙って頷いた。
曹丕は小さな袋を受け取り、黙ったまま植物を分け入って厩に向かった。何も言えなかった。慰めの言葉もなにも浮かばなかったし、なんの励ましにもならない。
「お待ちくださいっ」
姜維が叫び、走って曹丕のもとへやってくる。腕へとすがり、詰まりながら、言葉をつなげた。
「どうかこのことは、理嬢さまにも、元譲さまにも、おっしゃらないでください」
恋慕の心を持つことは、不忠につながるとでも思っているのだろうか。いいや、もう止めたはずだ。他人の心は他人の口から知るものだ。推測することもない。
「姐々を慕うことをどう思っている」
「仕えるものにとって、道のはずれたことだと思います」
「だが、それでもお前はあえて道を外れる」
「……………その通りです」
「もっと前にもっと早く、伝えればよかったものを」
「お伝えしたところで、どうにもなりません。恥ずべきことでしょう」
「結果は見えていても、決着はつけられるだろうよ」
「私は奉公人です。奉公をさせていただいているのです。それ以上のことは、身に合わぬものです。道をはずれる。私は忘れることが、私にはできなかった。怖かったのです」
純真で、頑固な男だ。
「誰にも言わない。安心しろ」
幼い子の頭を撫でるように、曹丕は姜維の頭を優しく撫でた。
「ありがとうございます……………」
爪を突き立て、顔を覆う。泣いている。嗚咽も聞こえなかったが、確かに泣いていた。
「嬉しいのか?」
「いえ、辛いのです」
「辛い?」
「こんな気持ちになるのなら、子桓さまのおっしゃるとおり、無礼を承知で言葉にするべきだったのではないでしょうか。もっと前に、もっと早くに……………」
結果は見えていても。伝えていれば、このように女々しい振る舞いはしなかっただろう。
初めて、人に理嬢さまへの想いを告げました。溢れた涙が、顔の輪郭を伝い、こぼれ落ちてゆくのが見えた。そこで初めて、姜維は嗚咽を漏らす。そして、立っていることもできず、地面に膝をつき、伏せる。
自分は恵まれているのだな。欲しいものは全て手に入れることができた。女も例外ではない。官渡での戦いで、曹丕は甄優という敵の女を、自分のものにした。欲しい、と思ったから手に入れた。
自分とは違う姜維の姿に、哀れみの気持ちが生まれる。
しかし、自分はどうすることもできない。
他人からの声など、その場しのぎ、安心するための心の拠りどころでしかない。そう思って、やはりなにも声はかけなかった。
声をかけずに曹丕は背を向け足を進める。
門の近くに、夏侯惇がいた。
軽装で、腕を組み立っている。自分を待っていたのかと思った。夏侯惇は片腕を軽く振ると、こちらに近づいてきた。
「ずいぶんと長い、話し合いであったな」
「私たちのように、まだまだ青いものどもは、自然と引かれあうものなのですよ」
「そんなものか」
「それより、姜維の手がける庭はすばらしいものですね」
「お前もそう思うか」
「私の屋敷の庭の手入れは、これほどまでではありませんから」
夏侯惇は穏やかに目を軽く閉じた。
「では、失礼させていただきます」
また、穏やかに頷く。
「おじ上。私の父をどう思われますか?」
「とにかく強く、鋭気あふれる方だと思っている」
「いいえ、女の趣味についてです」
言わんとすることを察して、夏侯惇はすこし目を伏せた。
「……………理嬢を側室にしたことが、不服か?」
「父が狂っているのではないかと感じました。姐々は私と歳が近いはずです。父と娘が婚姻するようで、なんとも不道徳なことだと思いませんか?」
「滅多なことを言うな」
冷たく低い声だった。父を非難する悲しさ、怒りなのだろう。その声は、夏侯惇の耳にじんと響く。
「しかし従兄上と理は血はもとより親戚としても、つながってはいない。気に入っているから私の侍女を側室として奥殿へ入れたのだけのこと。歳の差で結ばれるのが不道徳だというのはいささか無理がある。不道徳と思うのは、丕。お前が理を姉と慕うためだからなのではないか?私はそう思う」
黙り、目を背けた。たしかに、血はつながってはいない。姉と呼び、認識することは、ただの独りよがりにしかならない。
「侍女、おじ上の侍女か。姐々が」
「丕、お前もそろそろ、姉と呼ぶのは止したほうがいい。もう、母になってしまったのだから」
「母と呼べとおっしゃるか」
「そうだろう。あのふたりは夫婦だ」
「おじ上だって、父上の女を、いや側室を名で呼んでいるではありませんか。何故、夫人とでも敬称しない」
「私はあれの、教育者だからだ」
教育者。だがそれは、前の話。今はちがう。今は、曹操の夫人。
「理由にならないでしょう。あなたがおっしゃるとおり言葉を借りれば、姐々はずっと私の姐々です」
吐き捨てるように怒鳴った。曹丕は夏侯惇を睨みつけてから、足早に歩いていく。曹操が自分を睨んだように見えたが、まだまだ子どもだとひとりごちた。