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じゅじゅプラス

浴槽の中に沈む。いつも見上げてる天井が知らない場所に見えたのは、きっと視界が滲んでぼやけていたからだろう。
幸せを問われるこの家はいつだって、温かくて居心地が良くて、吐きそうなほど息苦しい、そんな場所だった。

髪を切った。それに理由などなかった。
鏡で見た自分の顔は酷く退屈そうな顔をしていたときとは違って憑き物が落ちたような無表情に見える。
荷が降りたように頭が軽くなった感じはなく、ただただ違和感だけが重く心に残った。
「どうしたの、それ」
久々に会った人は私の姿を見て驚愕し、焦ったような顔をして肩を掴んできた。
「どうしたの、ねえ、なんで」
「わからない」
「は……?」
「わからないけど、髪を切りたくなったの」
私がそういえば、彼は困惑したまま、そっか、と笑った。

その数日後、家のものを断捨離した、正確には、生活に必要な最低限のもの以外を全て捨てた。
すっからかんになった棚ひとつ分を見て、心が空っぽになったような錯覚を得た。あんなに好きだったものを一度手放した瞬間、全てが無駄な時間だったな、と思ってしまえる程に、部屋は綺麗だった。
数日後に、人を呼んだ。
「……物が減ってる」
「?うん、捨てた」
「…………どうして?」
「さあ?わかんないや」
彼はある一点をひたすらに見つめてた。リビングの壁、あそこには、何を飾っていたっけ。
思い出せないから、きっと大したものじゃない。
そう思った。

「あのね、提案があるんだ」
あれから一月半後である。彼は言った。一緒に暮らそう、と。
私は首を傾げた。
「どうして?」
「君と一緒にいたい、それだけ」
「よくわからない」
「うん、わからなくていいよ。僕の我儘だから」
断る理由もなかった。首を縦に動かせば、目の前の人は嬉しそうに笑った。

「君は何もしなくていいよ。ここにいてね。ここで僕と暮らそうね」
二月が経過した。働かなくていいと、仕事を探す手段を奪われ、家事をしようとすれば止められた。テレビもラジオもないこの場所で、情報が入るのは壁にかけたカレンダーと時計、そして、ベランダから見える景色だけ。
連絡手段の携帯はいつの間にか解約していた。いや、されていたのだろうか。どっちにしろ、私の記憶にはない。
お昼が過ぎた14時、なんとなく浴槽にお湯を入れる。
服を着たまま、そこに沈んだ。
天井を見上げる。知らない場所、知らない生活、何もない人生。
いつからだっけ、泥濘に足を取られたように進めなくなったのは。
いつからだっけ、気づいたらカレンダーばかりを眺める日々をおくるようになったのは。
沈んでいく、顔が浸って、目を閉じて。
このまま眠れたら、なんて馬鹿げた思考が頭をよぎった瞬間だった。
「〇〇ちゃん!」
体を引き上げられる。目を開ければ、男の人。
「…………」
名前が出てこない、声が出ない。口から出るのは乾いた吐息だけ。
知っている人のはずなのに、名前がわかるはずなのに、出てこなかった。
「どうして、どうしてこんなことするの!」
「……ぁ……っ」
「ああ、ごめんね、ごめんね。僕が一人にしたからだよね。僕が……」
目の前の彼は泣いている。私を強く強く抱き締めながら、ずっと。
ふと、見知らぬ家の壁に飾られたコルクボードが頭をよぎった。誰かと誰かが幸せそうに笑っている写真と、キーホルダーが付いた何処かの鍵。
あれは、何処の、誰の、家の壁だっけ。
そもそも、ここは、誰の家で、私は、なんで。
訳も分からず涙がこぼれ落ちた。
なんで、泣いているんだろう。
浴室に二人分のすすり泣く声が響く。

しあわせってなんだろう。

舌足らずに問う声が誰の声だったのか、思い出せない。
なにも、わからなかった。

初めて異変に気がついたのは、彼女が連絡を返さなくなったときだった。
仕事が忙しいのかな、と思っていたけど二週間も連絡が帰ってこなかったから流石に変だと思った。
「どうしたの、それ」
釘崎さん経由で彼女の同行を把握して、会いに行った日だった。
バッサリと切られた髪に、僕を認識してるようで何処か外れたとこを見てる瞳を見て、何かあったことを確信する。
けれど、彼女に何を聞いてもわからないの一点張りだった。
なにより、彼女は僕の名前を呼ばなくなった。
いつも、会う度に呼んでくれていた名前を彼女は一切口には出さないのが、気がかりだった。
「なにこれ……」
数日後、彼女から端的な連絡をもらって部屋に入れば、明らかに物が極端に減っていた。そして。
「…………どうして?」
二人の思い出が貼られたコルクボードがなくなっていた。
お揃いで買ったキーホルダーを付けた合鍵と一緒に。
彼女はキョトンとした顔で僕を見ている。
その顔は本当に何もわかっていない顔だった。

周りから彼女のことを聞き出しても特に変わった様子はないと告げられた。
彼女と親しい友人たちはまたいつもの彼女の気まぐれだろうと笑っていた。そんなはずはない、と確信を持って言えるのは自分だけだった。

1週間後に、それは起きた。

心配で定期的に彼女の様子を見に行こうと思って、足を踏み入れた彼女の家。自分が持ってる彼女の家の合鍵で入り、リビングを見ればもぬけの殻で。
「〇〇ちゃん、〇〇ちゃんいないの?」
寝室の方を見ても誰もいなかった。玄関に戻って靴を見れば、彼女の靴はそこにある。
ふと、微かにシャワーの音が聞こえる気がした。
洗面所の方を見れば、浴室の電気がついている。
何故か、嫌な予感がした。
ゆっくり、と浴室の扉を開く。
「ヒッ……なっ!?」
血まみれの浴槽に沈んで眠る彼女がいた。
浴室の床には彼女の手からこぼれ落ちた血のついたカッターと、瓶から散乱する睡眠薬と風邪薬。
しばらく思考が動かないままだった頭をなんとか切り替えて救急車を呼んだとこまでは覚えてる。その後のことはなにも覚えていなかった。

結局彼女が自殺未遂を起こした理由は何もわからなかった。
日記とかそれらしいものは何も見つからなかったし、彼女が他の人とのやり取りをした連絡用アプリを見てもいつも通りの会話しか残されてはいなかった。SNSはそもそもアカウントすらない。
しばらく昏睡状態だった彼女が目覚めたと聞いて、会いに行けば、彼女は何も覚えていないどころか、声を出すことも叶わなかった。
ただ、ジッと空虚な瞳が自分を見つめていた。
目の前にいる人全員が誰かわからない様子で、自分がここにいる理由すらもわかってはいなかった。
「あのね……」
彼女には自分と恋人だった記憶も何もかもが抜け落ちている。それでも手放せなかった。手放したく、なかった。
自分の家に連れ帰って、彼女にここで何もしないままでいいからいて欲しかった。
あわよくば、また、名前を呼んで欲しかった。

泣き疲れて眠った彼女を浴槽から引き上げて着替えさせて、布団に入れる。
週に一度、浴槽に沈む彼女を引き上げるのにはもう慣れた。
いつも何か怯えたような目で自分を見つめて、何か言おうと口を動かす彼女を見て、何とも言えない気持ちになった。
わかってるよ、このまま彼女を生かし続けてもきっと、元に戻らないことも。変わらないことも。
それでも、もしもを期待するのは悪いことだろうか。
彼女の幸せが、もしあの浴槽に沈んで眠ることだったとしたら、きっと僕は邪魔をする悪いやつだ。
けれど、僕の幸せは彼女のそばに居ることだから。
「むずかしい、ね……」

しあわせ、てなんだろ。

いつかの彼女の声が木霊する。
布団に潜り込んで彼女を腕の中に閉じ込める。
そのまま一緒に目を閉じた。
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