覆い隠した恋心達
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カリカリと狭い部屋で男が1人、筆を走らせている。
けれどピタリとその手が止まると、男はぐしゃりと原稿用紙を丸めてしまった。するとちょうど背後でガチャリと音がしたかと思えば、続いて扉の開く気配と共に、軽薄そうな声が男の背へとかけられた。
「やっほー、アンデルセン。元気してる?」
「丁度今、お前の顔を見たら頭痛がしてきたところだ」
男、もといハンス・クリスチャン・アンデルセンの辛辣なその返しに、声をかけた主、ナマエは酷いなぁ!とケラケラと笑った。
アンデルセンは彼の手にバケットがぶら下がっているのを見て取ると、筆をことりと机に置いた。
「今日はね、鶏肉とレタスのサンドイッチとトマトスープ持ってきたよ」
アンデルセンがそれなりに人らしい生活を保てていたのは、一重にこのナマエという男のおかげでもあった。
貧しい童話作家であるアンデルセンの元へ、ナマエはこうして度々押しかけて来ては、食べ物を置いて、取り留めもない話をして、時々アンデルセンから原稿を読ませてもらい、そうして日が沈み始める頃には帰っていく。
初めのうちにアンデルセンはナマエのからのそれを、同情からくる自己満足的行為かと今よりもっとずっと辛辣な言葉でもって追い返していたのだが、それに対してナマエは「友達として心配なだけ、あとちょっと下心」なんてアンデルセンの未発表の原稿を手にへらりと笑うものだから、アンデルセンはそのうち毒気が抜かれてしまい、今ではまぁ、本人は否定しているものの、すっかりナマエに心を許していたのだ。
「あれ、これ没にしちゃうの」
ぐしゃぐしゃに丸められた原稿用紙を拾い上げる。
ナマエにちらりと向けた視線は、直ぐにサンドイッチへと戻る。
「それは展開が気にくわずに没にしたが、机にまとめてある分はまだマシなやつだ。読むならそっちにしろ」
「え、読んでいいの!?やったー!」
いそいそと差された原稿を手に座り込むと、さっそくそれに目を落とした。
アンデルセンはサンドイッチを頬張りながら、ナマエへと目を向ける。
ナマエの顔は真剣そのもので、アンデルセンはナマエのその顔が嫌いではなかった。
本人には、絶対に言わないけれど。
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ナマエは、アンデルセンの事が好きだ。
口が悪くて、 根暗で厭世家。他人も自分も嫌っているのに、根っこの部分は面倒みがよくて他人の努力を笑わない。愛を捨てきれない。
そんな彼に恋をした。
最初はただの心配で、次にその作品に惹かれて、そして最後は恋をした。
報われない事は知っていた。
だって彼の心の中には、いつだって別の誰かが深く根付いていたからだ。
だからどうにか殆ど人付き合いのないアンデルセンの友人という枠に居座り続けた。
お節介と言われようと、変人と言われようと、アンデルセンの傍に居続けられればそれで良かった。アンデルセンは優しいから、きっと彼から自分を否定することは出来ないのだろうと、もしかしたら、ほんの少しだけでいいから、自分を特別に見てくれはしないだろうかと、そんな最低な下心と一緒に。
「バチが当たったのかなぁ」
せめて、彼の美しい文章の中で生きられないものかとそう思って、自分には無理だろうなぁと、自嘲して迫り来る影に目を閉じた。
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雨が降っている。
真っ黒な服に身を包んで、真っ黒な傘を片手に、アンデルセンは土が被されていく棺を見つめていた。
ナマエが死んだ。
事故だったという。詳しい事は聞いていない。
――可哀想に、恋人や何かはいなかったのか?
――いや、恋人はいなかったらしい。
雨音に混じって聞こえる囁き声が、いやに耳についた。
――でも、好きな人はいたんだろ?
――あぁ。噂に聞いた話だと、作家の先生だとか
目を見開く。
息が止まるような、そんな感覚。
作家として、人間観察には長けているはずったのだが、ナマエがそれを上回るポーカーフェイスの持ち主だったのか、それともただ自分が、ナマエの愛に見て見ぬふりをしていただけだったのか。
「.......馬鹿め」
そう吐き出した言葉は、こんな偏屈童話作家に恋した愚かな男へのものなのか。
それとも、それに気づかずにいた自分へ向けたものだったのか。
肩が震えるのはきっと、この雨の冷たさのせいだ。