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所謂“華金”と呼ばれるその日、ガヤガヤと普段よりも賑わう居酒屋のカウンター席の端を陣取る男が1人、焼き鳥片手に日本酒を煽っていた。
ただ男の長い前髪の片方から覗く琥珀色の目はしっかりと店内を、正確には忙しなく動き回る店員の1人を見つめていた。
そんな男の肩を誰かが無遠慮に叩いた。
「おう、以蔵さん今日も来てたんか!」
「なんじゃ、喧しいが来たねや」
肩を叩かれた男、岡田以蔵は琥珀色の瞳を歪めて己の肩を叩いた男を見た。
彼もまたここの常連客の1人であった。
あっちでお仲間が呼んじゅーぞ、と背後で既に出来上がりかけているテーブル席のグループを顎で差す。
彼らもまた以蔵やこの男と同じ常連客達で、男はそっけない以蔵の態度にも慣れた様子で背をばしばしと勢いよく叩いてからそちらへと混ざっていく。
じんじんと残る背の痛みに顔を顰めながら日本酒を飲み干せば、見計らったように声が掛けられた。
「日本酒おかわりいりますか、以蔵さん」
それは先程まで以蔵が見つめていた店員だった。
「ん、なんじゃ、店の方は落ち着いたがか」
とりあえずは、と言いながら手際よく空いたお猪口と徳利を回収していく店員の名前はナマエ。
以蔵がこの店の常連になった理由はこのナマエにある。
簡単に言ってしまえば以蔵はナマエに惚れているのだ。
たまたま入った居酒屋。一目見たとき柄にもなく、花のようだと思った。
一目惚れ、と世間一般的には言うのだろうか。それにしては向ける感情がすでに重く大きく育っているような、妙な感覚ではあったがそれを誰かに話すことはしなかった。
昔馴染みの連中は以蔵の恋に何事だと騒いでいたが、自称探偵事務所の秘書だという黒い女だけはなにか訳知り顔で、「今度はうだうだやってないで、ちゃんと守れよ」なんてよく分からない事を言っていたが、それが妙に胸にきて言い返すことも無く頷いたのだ。
「居酒屋店員の俺が言うのもなんですけど、あんまり呑みすぎちゃあ駄目ですからね」
「……それじゃあ飲み過ぎんようにおんしが見よってくれ」
酔いのせいか何なのか、ほんのりと赤くなった顔で口にした言葉は口説いていると言うにはお粗末で、きょとりとした表情を浮かべたナマエは次第にくつくつと喉を鳴らす。
「……以蔵さんって可愛い人ですよね」
「……ナマエにだけじゃ」
どこか拗ねたようにそっぽを向いてそう言った以蔵に、ナマエは笑みを浮かべた。
その笑みがやっぱり、以蔵にとって柄にもなく花のようだと思ったから。
もう二度と、その笑みを散らさないと決めていたから。
「死ね」
竹刀が風を切る音、次いで聞こえる男の汚い悲鳴。
それはいつか見たような、実に見事な満月が輝く晩だった。
「いぞう、さん」
震える声とほんの少し乱れた服。
現代に銃刀法があって良かったな、と伸びた男の腹を蹴り転がしながら以蔵はぼんやりと思った。そうでなければきっと、この暴漢は今頃気絶どころで済まない事になっていただろうに。
「今度は間に合うた」
怖がらせないように、慎重に。
そう思っていたはずなのに、気が付けば震えるナマエの身体を掻き抱いていた。
心臓が動いている。生きている。
前はその場にいる事すら叶わなかった。
そっとナマエの手も以蔵の背に回る。
「い、ぞう、さん」
「おん」
「以蔵さん」
「おん」
安心させるように強く抱きしめてやれば、応えるようにナマエも肩に顔を埋めた。
「助けてくれて、ありがとう」
「気にせいでえい。なんべんでも助けちゃる」
もう二度と、手折られる事がないように。
腕に抱いた熱と鼓動の速さに、以蔵はそっと息を吐いた。