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パンッという短い破裂音。
先程まで尋問していた男は頭から血を流し絶命していた。
音の方、尋問室の入口で硝煙を上げる銃を下ろす男の姿を視界に収めて甲斐・ミハイロフは眉間に皺を寄せた。
「必要な情報は入手した。そいつはもう用済みだ。後の処理は俺がしておく、作戦決行までお前は部屋で待機しておけ」
「……あぁ」
自身と入れ替わりで部屋に入っていく男の背に1度視線を投げかけて甲斐は部屋を出た。
男の名前はナマエ。甲斐と同じくピースブレイカーの戦闘員であった。
ナマエは変わった男だった。
初めてナマエを見た時、黒髪黒目でアジア系の顔立ちに事前に砺波は日本人を信用しないと聞いていた甲斐は驚いたのだが、後にナマエが日本とのハーフであり、生まれも育ちも海外の紛争地帯だと聞いて合点がいった。
“甲斐”という日本姓を名乗る甲斐とナマエはよく任務で組まされることがあった。
ナマエは特に日本に思入れがある訳では無いので単純に互いの年齢が近い事とパワーバランスが取れていたことの方が大きいのだろうが。
ナマエはよく人を殺した。
甲斐が殺すより前に、半ば奪うような形でそうすることもあった。
新入りの自分が気に入らないから仕事を奪っているのかと思えば別にそれを砺波に報告するでもなく、だからといって殺しに愉悦を生み出しているという風にも見えづらい。
「おい、そいつは甲斐が殺す手筈になってただろうが」
「おれが殺した方が良い」
同じ任務に就いたボカモソが訝しげな顔でそう投げかけたのに対して、ナマエはそう淡々と告げた。
何が彼にとって“良い”のかは分からない。
ただ頬や戦闘服に斑に散った血もそのままに背を向けるナマエに、ボカモソの舌打ちがよく耳に聞こえた。
砺波はナマエのこの行動を軽く注意することはあれど、強く叱責し罰を与える事はなかった。
甲斐が殺した方が効率が良いというだけで、別にナマエがそれを変わりに行っても大きな問題は無かったのと、それ以外のナマエの働きは充分なものだったからだ。
だからただ、よく分からないおかしな男のおかしな行動としてその行為は片付けられてしまう。
ナマエは自身の事を殆ど話さない。
ここにやってくる時に砺波に身辺情報を軽く話したのみで、後はどう生きてきたかなど誰も知らない。ここにやってきた時点で碌でもない事は確かなのだろが。
趣向品を嗜むでもなければ、娯楽の一つもしやしない。他の隊員でさえ任務がなければ多少なりとも息抜きの一つとして煙草やカードゲームの類はしているのに、ナマエにはそれの一切がない。
空いてる日は殆ど与えられた自室ににこもりきりで、たまにしていることといえばふらりと外で空を眺めているくらい。
必要最低限、任務の話はする。砺波が定期的に開く主の声を聞く集会にも参加している。
けれどナマエはやはり淡々と、殆ど無表情が常で彼が熱心に信仰しているのかと言われればそれもよく分からない。
けれど、けれどほんの時折ナマエの底の見えない黒々とした目が、甲斐を見ていることがある。
甲斐が気づいて振り返れば、すっとそらされてしまうそれ。
自分の本来の目的に気付かれたのかと警戒すれど、彼が何かを言うでも行動するでもない。
ただ黒が、こちらを見ている。
かつて日本の出島で見た色。
どうにもその色に外務省行動課の上司や、弟を託したあの人の顔を思い出してしまって、その度に自分の奥底に隠した輝・イグナトフとしての本当の自分が見透かされているような気になってしまって、甲斐はあの目がどうにも苦手だった。
あぁ、そうだ。甲斐はナマエが苦手だったのだ。
パンッという短い破裂音。
ヒュッと僅かに喉から息が漏れて、倒れる姿がやけにゆっくりに見えた。
ミリシア・ストロンスカヤ博士を撃ったのは、ナマエだった。
「殺したのか」
後から部屋にやって来たボカモソにナマエは頷いた。
「おれが部屋に来た時点で既にこちらに銃を構えていた。下手に自殺されて博士が己の脳を破壊するよりこちらの方が確実だった」
淡々と告げるそれは真実ではない。
甲斐にとってはナマエのその嘘の報告は都合のいいものだったが、ナマエがそんな嘘をつく理由が分からずにその横顔を盗み見る。
ストロンスカヤ博士を、故郷ロシア、そして出島で共に過ごした弟の婚約者である昔馴染みの彼女の母親を殺した男の顔。
ピクリとも変わらない表情と変わらないその黒い目からは、やはり何かしかの感情も読み取ることも出来なかった。
文書を奪取するにあたって、博士を殺してしまうのはピースブレイカーにとって余計な遠回りになると分かっていたはずなのに。
知らずに握った拳に力が入る。
何よりも、博士を己の手で殺さずにすんだという事実に一瞬でも安堵を覚えた自分がいたことに、酷い吐き気がした。
「甲斐・ミハイロフ」
静かな声が甲斐を呼ぶ。
暴行を受けたのだろう痣だらけの男が縛り上げられ、水の張られたコンテナの真上に吊り下げられていた。
男、矢吹省吾は外務省海外調整局の局長であり、このピースブレイカー結成に深く関わる人物の一人であった。ストロンスカヤ文書奪取の出島襲撃の際、 ピースブレイカー内にネズミ、外務省からのスパイが忍び込ませている事に気が付いた砺波が矢吹を連れてきたのだ。
「そこからは、おれがやることになった」
矢吹への拷問は甲斐に任された仕事であった。
甲斐も罪悪感はあれど、それよりも矢吹が耐えられるように手心を加えられるこの状況を良しとしていただけに、思わず手に力が入ってしまう。
「ストロンスカヤ博士を殺した汚名を返上しろと言われた」
いつものナマエの独断ならまだしも、砺波からの命令ならば甲斐がそれを退けることは出来ない。
矢吹の体を吊り上げていたロープをナマエへと渡す。
「あの人は、北へ、約束の地へ行くと。お前はもう部屋に戻るといい」
そうか、と呟いて背を向ける。
背後で水飛沫の上がる音がした。
終わりが近付いているのだと言い聞かせて、甲斐は目を1度だけ強く瞑った。
瞼の裏に鳴り止まぬ雨音に紛れて、あの黒い目が見えた気がした。
対戦闘用ドローンの連射音と戦闘音に甲斐は物陰に身を潜める。
外務省行動課と公安局は甲斐が残したナイフの馬毛をヒントにここ九州は阿蘇の基地まで無事にたどり着けたようで、甲斐は安堵に息を吐いた。
武器を構えながら矢吹の囚われていた部屋に踏み入るがそこにナマエの姿はなく、縛られたまま地面に放られた矢吹の姿だけが残されていた。
「矢吹局長」
意識は無いが幸い息はある。
他のピースブレイカーの面々は砺波と共に“約束の地”、北方領土へと向かったのだろう。
矢吹を肩へ担ぎ上げると手早く対戦闘用ドローンを止めた。
「誰だッ!」
つい先日戦った外務省の男、彼が自身に突き刺さったナイフを調べここを探し当てたのだろう。矢吹を抱えた甲斐の姿にぴくりと眉を動かした。武器を下ろせ、という言葉に従いその類も外すと矢吹を床に下ろし、自身も抵抗の意思はないと手を上げた。
「俺は外務省からのスパイだ」
「やっぱりそうだったのか」
背後からの声に勢いよく振り返る。
そこに居たのは砺波の後を追い北方領土に向かったと思っていたナマエの姿だった。
外務省の狡噛慎也と公安局の宜野座伸元は、新たに現れた彼の姿に互いに銃とドミネーターを構えていた。
甲斐が裏切っていたという事実に対しても、銃口を向けられているこの状況にもナマエの表情は常と変わらない。
極めてゆっくりとした、相手を刺激しないような動作でナマエは手を後ろで組むとその場で膝を着いた。
「敵対の意思はない」
その言葉に狡噛と宜野座は互いに顔を見合わせると甲斐の方を見た。けれど甲斐もその表情に困惑と警戒を滲ませているのを見てとると、狡噛は銃口を向けながらナマエへと近づいて行った。
「お前には、重要参考人として来てもらう。いいな」
「あぁ」
短く頷いて狡噛に拘束されている最中も、ナマエは抵抗らしい抵抗も見せず、ただ大人しく身を任せていた。
甲斐と違い厳重に拘束されたナマエは無抵抗に淡々と公安局の飛行機の中でも変わらない様子を見せている。
狡噛達からの尋問にもよどみなく答えられたそれは、甲斐との語弊もなく正しく真実を語っていた。
「何故お前は大人しく投降した。甲斐・ミハイロフの話した頭のパッチを使って砺波と連絡を取るためか」
「砺波からの命令はない。心配ならば電波妨害装置でも何でも使うといい」
狡噛の探るような視線を真っ向から受けながら、ナマエは淡々とそう答える。
「なら何故だ。今こうしている理由は」
黒々とした目が1度、下ろされた瞼の裏に隠される。
ほんの一瞬の間の後、ゆっくりと口を開いた。
「この方が、良いと思ったからだ」
それを最後に、ナマエが口を開くことはなかった。
黒々とした目が、都心の灯りを映す。
眩さに目を細められたその目を、確かに甲斐は見ていた。
四方を特殊な壁と機器に覆われた電波妨害室でもしもの為に手錠に繋がれたままの甲斐と狡噛が机を挟む向かい合っていた。この部屋なら砺波から操られることもない。
ナマエは甲斐より厳重な拘束をされこちらは宜野座と共に同じく電波妨害室に連行されて行った。
砺波からの干渉はない。
けれどそれはこの電波妨害室に入れられた2人だけの話。
狡噛と甲斐がいる電波妨害室の扉が乱暴に開かれる。
そこに立っていたのは花城と共に手術室へと運ばれて居たはずの矢吹局長と、拘束の外されたナマエの姿だった。
「宜野座はどうした」
「あの男は強いな、生きてはいる」
ナマエの返答に狡噛は舌打ちを零す。
失念していた。外務省局長である矢吹の脳にも翻訳用パッチは勿論埋め込まれている。殆ど死人といったていの人間でさえ操れたのだ、重症で寝込んでいるなど関係なしに操ることが出来る。今の矢吹は動く事が出来ないという固定概念。
これは完全なる油断だった。
「甲斐」
矢吹、否、砺波が銃口を向けながら甲斐の名を呼ぶ。
パンッと響いた破裂音。続いてどさりと人の倒れる音。
降りしきるはずの銃弾の雨は、けれど引き金を引かれるより先にナマエが矢吹の頭を撃ち抜いていた。
「何故だ、ナマエ」
脳のパッチを撃ち抜かれ、主導権を失い事切れた矢吹の体から砺波の意識がナマエへと移る。
「何故、お前が裏切る。何の意味があるッ」
砺波に抵抗しているのだろうナマエの体が暴れて何度も壁に叩きつけられる。近づこうにも乱射される銃弾が壁に跳弾してめちゃくちゃな軌道を描いて下手に近づく事も出来ない。
「止めろ、脳を焼き切るつもりか」
銃弾が体を貫く。脳が悲鳴を上げている。
それでもナマエは抗っていた。
「初めて、争いとは関係のない、夜の暗さを照らす、光を見た」
紛争地帯にはない、戦争のない日本だからこそ見られる人々が暮らす営みの人工的な明かり。
平和を知らないナマエの目にはそれがどのように写ったのか。
「ここが、お前の、帰る場所、なんだな」
まるで眩いものでも見るように、ナマエの目が細まる。あの都心の灯りを見た時と同じように。
砺波に抗い手を震わせながら、ナマエは銃口を己の口内へと突っ込んだ。
「ッ待て!!」
パンッという短い破裂音。
口内で発砲された銃弾はナマエの脳を大きく損傷させたのだろう、ピシャリと壁に脳髄と血が飛び散る。
それによって砺波からの強制的な命令権を失った体は糸の切れた人形のように倒れ伏した。
「この部屋から出るな!」
思わず駆け寄ろうとした甲斐に狡噛が叫ぶ。
電波妨害室から1歩でも出てしまえば、次に砺波の餌食になってしまうのが明白だというのに。
血が流れる。
ドクドクと流れ続ける血が床を汚していく。
甲斐はただ呆然とそれを眺めていた。
ナマエは最初からこうするつもりでついてきたのだろうか。
そうさせるまでの何かを、自分は彼にしたのだろうか。考えても分からない。
ナマエという人間が何を思い、甲斐・ミハイロフを見ていたのか。
彼のことを何一つとて、自分は知らない。
黒々とした目は濁って、もう何も写してはいなかった。