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ナマエという男は優男で、悪くいうのであれば女々しい質の男であったが至って平凡な男であると、そう誰もが答えるような人間であった。
尾形百之助はこのナマエという男が苦手だった。むしろ嫌いだと言ってもいいくらいには彼の事を思っていた。
「尾形上等兵」
軍に属しているわりに柔らかな声がそう尾形の名を呼ぶと、それまで尾形を囲んでやれ山猫だなんだと悪口を言っていた他の兵達は口を噤んだ。
「月島軍曹殿から買い出しを言い渡されのだけれど、手伝ってくれないか」
そう言って、あのうるさい兵達の中から手を引かれて連れ出されると、尾形はその影が見えなくなった所で乱雑にその手を振りほどいた。
「何が目的ですか」
苛立ちを隠しもせずにそう聞けば、ナマエは困ったように眉を下げた。
「本当に手伝って欲しかっただけだよ」
「他にも暇な兵士はいるでしょうに、態々山猫の子であるこの俺をですか。ナマエ殿は随分と変わったお方のようだ」
自身と同じ階級であるが1つか2つ歳上のナマエに対し、尾形は態とらしくへりくだってそう笑ってみせた。
そんな尾形に怒るでも声を荒らげるでもなく、やっぱりナマエは困ったように笑うのだ。
それがどこか異母兄弟の姿を連想させて、苛立たしげに尾形は奥歯を噛んだ。
「俺にはお前が……いや、うん。俺はお前がいいんだよ」
“お前がいい”なんて嘘の癖に。
その言葉を飲み込んで、代わりに尾形はそうですか、と頷いた。
自分に怒るではなく困ったように笑う所は異母兄弟を連想させるのに、こうした薄氷のような嘘をつく所は全く似ていなかった。
「お前の話を聞かせてくれ」
薄暗い部屋、幾名かの第7師団の団員が集まる中で鶴見中尉と向かい合ったナマエはその言葉にいつも通り困ったように笑っているのを、火鉢の前を陣取りながら尾形は横目に盗み見ていた。
鶴見はこうして時折第7師団の団員を集めては、自分達の故郷の話や過去の話をさせて結束を強めようとしていた。
それが今日はナマエの番、という訳である。
「自分の話などつまらないものですから、どうか他の者の話を聞いてやってはくれませんか」
「私はお前の話が聞きたいのだよ。他でもないお前自身の話だ」
鶴見中尉と話したい兵は他にいるでしょうし、と自分の番を下りようとするナマエに対して鶴見はまるで子供を宥める親のようにそう言うと、ナマエの鍛えている割に他と比べて薄い肩がピクリと震えた。
「……それでは、本当につまらない話ですが」
ゆっくりと口を開いたナマエを、鶴見はその黒々とした瞳で黙って見つめていた。
「実家は、神奈川の田舎の方です。
特に何かあるわけでもありませんでしたが、干し柿はよく出来ていたと思います」
「ほう、干し柿か。久しく食べていないな……ご家族と食べていたのかな」
相槌混じりのその問いに、ナマエは小さく首を振ると珍しく自嘲するように笑った。
「父と母と祖父母、5人で暮らしていましたが、あの人達と折り合いが悪かったものですから。私はあの人達の期待するような子供ではなかったもので……」
語られたその過去に、尾形の指先がぴくりと動く。ナマエもまた、自分と同じように愛の欠けた子供であったのだろうかと、ほんの僅かな期待にも似た何かが尾形の中で首をもたげた。
「ほう、それは辛かっただろう」
「いえ」
慰めるような鶴見の言葉を、ナマエが否定する。
「こんな私の傍に寄り添ってくれた、優しい子がいたものですから」
それはどこまでも柔らかで優しい、けれど微かに痛みを孕んだような声音だった。
瞬間、尾形はそれが欲しいと思った。
自分には向けられないそれが、たまらなく欲しいと。
自分の中に残る幼い心が駄々をこねるようにそう主張するのを、尾形は見ないふりをして押し殺した。
「でも、ある日喧嘩別れのようになってしまって、それっきりです」
僅かに俯いた横顔は、まるでどこぞの町などで見たような幼い迷子のようなその顔。
優しい子と評するくせに、ナマエに傷を残した子。今でもナマエのの心に居座り続ける子。
その事実に口内で小さく舌打ちを零す。それがナマエに対してなのか、まだ見ぬナマエの傍にいたという子なのか、尾形には分からなかった。
そう、だから“その子”の正体を知った時、尾形の心に宿ったのは歓喜と殺意、それから酷い嫉妬と羨望だった。
「……佐一?」
目を見開いて小さくけれど確かにそう零したナマエと、ナマエの姿に同じように目を見開いた不死身の杉元。
躊躇うように手を伸ばした杉元はそれでもアシㇼパの名を呼ぶ声にその手を引っ込めてナマエに背を向けた。
ナマエがそれにどれだけ傷付いた顔をしているかなど知りもしないで。
「あぁ、そうか」
1人静かに呟いて、尾形は三八式歩兵銃をそっと構えた。
「ナマエの前で、アイツを殺せばいいのか」
そうして傷付いたナマエの手を取って、自分が最期まで傍にいてやるのだ。ナマエを傷付けて置いて行ったあの馬鹿な“あの子”、杉元と自分は違う。
ナマエの心をこの手で傷つけて、この手で癒す。
それはなんと美しく素敵な事なのだろうと、柄にもなくそう思って尾形はうっそりを笑みを浮かべた。