うつけ者のてふてふ
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その日、尾張の大うつけに一匹の蝶が嫁いだ。
1544年8月のことである。美濃へ隣国尾張の戦国大名"織田信長"が約五千の兵を率いて他の大名と共に攻め入った。
交戦するも過半数が討ち取られ、稲葉山城城下を焼かれた斎藤道三は和睦を求めた。それにたいして織田家が和睦の条件として提示したのは、娘と信長の婚約であり、斎藤道三はそれを受け入れ、和睦したのであった。
威風堂々、不敵な笑みを浮かべ座敷の一番上座にいるは第六天魔王、尾張の大うつけ、等と呼ばれる織田信長。
信長の燃えるように赤い瞳が、濃姫を射抜く。
濃姫をその視線から逃れるように、頭を下げた。
濃姫にとって、織田信長という人物は恐怖の対象であった。
父の治める国へ攻め入った人。少しでも機嫌を損ねれば、何が起こるか分からない。
二人の婚約の間に愛や恋などといった感情はない。あるのは政治的理由と都合の良さだった。
それというのも織田信長と濃姫、二人の性別にあった。
実は、濃姫は正真正銘"男"であった。
ならば何故、姫として名乗るようになったかと聞かれれば、体が弱かったからである。
予定より早くに生まれてしまった濃姫は、所謂未熟児で、今まで生きてこられたことが奇跡と言えるような程に、常に死と隣り合わせにあった。
そんな濃姫が、この戦国乱世に男として生きていけるわけがなく、苦肉の策として"姫"として育てられ、今に至った。
そしてそれとは逆に、戦国武将である織田信長の性別は驚くことに"男"。
だからこその婚約だった。
────
濃姫が織田に嫁いでから、約1年が経とうとしていた。
相も変わらず、濃姫は信長を恐れていた。
けれど、信長が恐ろしいだけの人物でないこともわかり始めていた。
戦場での冷酷な表情は、身内の前では柔らかなものに変わる。
戦好きで純粋。絶対君主でありながら家来とも親しく話す。
その笑顔が、濃姫は好きだった。
────
濃姫が信長の目元へ手を伸ばしたのは、無意識だった。
夜に部屋に訪れた信長の目元に薄らと隈が出来ているのが見えて、思わず触れてしまったのだ。
「も、申し訳ありませんっ!!」
すぐに手を離し平伏す濃姫に、信長はクツリと笑った。
「気にするな、それよりお主から儂に触れるとは、初めてではないか?」
楽しげに笑う信長に、濃姫はますます困ったように眉を下げた。
「信長様が、少々お疲れのように見えたので……」
それで思わず……と心配を滲ませた濃姫の言葉に、信長は少し驚いたように目を見開くと、すぐにゆるりと微笑んだ。
「そうかもしれんな……すまんが、少し足を貸せ」
「は、はい」
濃姫は男だ。
いくら姫としてあっても、その体の根本はしっかりと男のものである。
その濃姫の足は女のように柔らかくない。
けれど、信長にとって濃姫の膝枕は不思議と心地良いものだった。
濃姫の華奢な指が恐る恐ると、信長の黒く艶やかな髪を撫でれば、信長はゆるりと目を閉じた。
────
「帰蝶」
それは誰かが濃姫にはつけた渾名だった。
蝶は人の魂を運ぶという。
信長はそんな迷信など信じてはいなかったが、濃姫の魂がまた自分の元へ帰ってくればいいとは思っている。
濃姫が体調を崩し、寝たきりになることが増えてきた。
元々体が弱かったせいもあるが、より一層細くなったように思う。
「帰蝶」
「……はい、信長様」
名前を呼ぶ声だけが、静かな部屋に溶けていく。
信長は、布団で横になっている濃姫の隣に座ると、濃姫の痩せてほっそりとした白い手に、自分の手を絡める。
「……のう、帰蝶。お主は幸せだったか」
そう問うた信長の顔が、どこか迷子の子供のように思えて、濃姫は珍しいこともあるものだと、クスリと笑った。
「最初は貴女のことが、恐くてたまりませんでした」
濃姫の言葉に、信長の手がピクリと震えた。
「けれど、けれどね、信長様。私、あなたが恐ろしいだけの人でないことを知ったんです。
戦好きで冷酷で、けれど子供のように純粋で身内には甘い。笑顔の素敵な人。
そんな信長様に恋をしたんです。私は、貴女の元へ嫁げて幸せでしたよ」
信長がハッと顔を上げ、濃姫を見る。彼の顔は酷く穏やかで、その目が信長を愛しいと語っていた。
「……あぁ、そうか。そうじゃったか。儂もお主が恋しい。帰蝶、お前を嫁に貰えて幸せじゃ」
二人の間には、確かに愛が合ったのだ。
それにお互い気づくのが、ほんの少しだけ遅かっただけで。
その数日後、濃姫は静かに息を引き取ったのだった。
────
寺が燃えている。
火に囲まれた寺の一室で、信長は一人座り込んでいた。
天下統一を目前に、部下である明智光秀の裏切り、本能寺へ立ち寄ったところを奇襲されたのだ。
こう火の回りが早くては、もう逃げることも不可能だろう。
死を目前にして脳裏に浮かぶのは、天下を治めることができなかったことへの悔しさと、そして愛する者のことだった。
ひらり
1羽の蝶が、信長の前を飛んだ。
こんな燃え盛る寺に、蝶などいないはずなのに。
「なんじゃお主、迎えに来たのか?」
なぁ、帰蝶
信長が手を差し出せば、その指の先に蝶が止まった。
美しい、黒い羽の蝶。
蝶を愛しげに見つめ、信長は穏やかに微笑んだ。
1582年6月21日の出来事であった。
いつかもう一度会えたなら、その時はまた。