カナアン
色鮮やかな魚たちが目の前を泳いでいる。水面から射し込む太陽の光がキラキラと反射し、幻想的な光景が視界いっぱいに広がっている。
ここは、どこだ?
気がつけば、まるで無重力空間にいるかのようにカナタの身体は水の中を漂っていた。
ここは、海?
まるで身体が魚になったかのように簡単に泳ぐことができた。ぐんぐんとスピードをつけて泳いでいると、魚たちが近くに寄ってくる。不思議なことに、水の中にも関わらず呼吸ができるる。息を吸い込む度にぷかぷかと酸素が水面に昇っていく。水面の向こうには、何があるのだろうか。
――音のない世界に、独り漂う夢を見た。
アクアテラリウムの夢
スマートフォンのアラーム音がけたたましく鳴り響き、カナタは目を覚ました。無意識に枕元へと手が伸び、寝ぼけ眼のまま画面に触れる。アラームの音がピタリとやんで、部屋の中に沈黙が訪れた。
やけに身体がだるかった。
不思議な夢を見た気がするのに、内容が思い出せない。疲れてるのかもしれない。一体自分が何者なのかすら、頭の中がぼんやりとしてあやふやだった。さすがにマズイ。動かない頭を懸命に動かし、カナタはやけにぼんやりとした記憶を取り戻した。
そうだ。
この春から、カナタは大学生になったのだ。
慣れないキャンパス、慣れない通学路、慣れない講義。
高校から唯一同じ大学に進学したカイトと四苦八苦しながらシラバスと睨めっこし、知り合ったばかりの新しい友達からの情報に右往左往させられながらカリキュラムを決め、賑やかでうるさく楽しいサークル勧誘に戸惑った。
もう一度、寝てしまおうか。チラリとスマホの画面に目をやると時刻は日曜日の午前9時半。怠惰な大学生はまだ眠っていても許される時間だろう。ごろり、と寝返りをうってからカナタは目を閉じる。
4月になって、新しいことばかりだ。
ようやく講義がはじまり、高校との違いに驚いた。内容もさることながら、自分で決めて、自分で行動する生活は刺激的で新しい生活にカナタは振り回されっぱなしだ。この間ははじめて寝坊して、母親に叩き起された。駅に走って、そして……
ピロリ、とスマートフォンが音を立てて新着のメッセージを受信する。送信者の名前を見て、カナタは飛び起きた。
この春。
カナタは運命の出会いをした。
◇◇◇◇◇◇
お姉さんとの出会いは、乗り換え駅の改札近くだったような気がする。朝の通勤ラッシュの時間と通学時間が重なることに気付いた時、カナタは自分の選択を後悔していた。一限に気になる授業があってどうしても取りたいなと思ったのが運の尽き。一緒に受けないかと誘ったカイトは一限は眠いからと断ってきたが意気揚々と履修登録をした。しかし、あの時の気持ちはどこかにふっとび、どんよりとした気持ちを抱えながらカナタは周囲の人に合わせて足早に改札に向かう。
と、その時だった。
目の前を歩く、桃色の髪が印象的な女性がパスケースを落としたことに気が付いたのは。女性は急いでいるのだろう。気付かないままカナタが向かうホームとは逆方面へと歩いていく。思わず、駆け出していた。
お姉さん!待って!
なんで、追いかけてるんだ。ギリギリに家を出たから、遅刻するんじゃ。そんなことは考えられなかった。まるでそうしないといけないかのように身体が動いていた気がする。驚いた顔で振り返る彼女にパスケースを渡し、ありがとうと微笑まれた瞬間。胸が高鳴り、目の前が鮮やかに色付いたのだ。
そして、何度も何度も感謝の気持ちを口にする彼女――アンジュから、今度改めてお礼をさせてとせがまれて連絡先を交換した。何度かやり取りをする中で次第に仲が深まり、カナタは時々アンジュに人生の先輩として相談ごとをするようになっていた。大学のこと、はじめようと考えているアルバイトのこと。優しくカナタの悩みを聞き、そして真剣に一緒に悩み、励ましてくれるアンジュのメッセージは忙しない日々に疲弊するカナタの心を癒した。そして、そんなやり取りを続ける中。ようやくアンジュの仕事が落ち着き、今日、ふたりは会う約束をしていたのだ。
メッセージには、カナタくんおはよう!今日はよろしくね。というメッセージとともに、摩訶不思議なキャラクターが気をつけてね!と笑っているスタンプが添えられていた。お姉さんのメッセージはいつも可愛い。独特のセンスのキャラクターにはいつも驚くけれど、そういうところも可愛いなと思う。まだ直接会ったことは一度しかないのに、なぜか惹かれてしまう自分がいることにカナタは驚いていた。高校生の頃は、友達と遊ぶことが一番だったし、それは今も変わらないけれど。そこにお姉さんのことを考える時間が増えた。これは、大きな変化だ。おはよう!と目を擦る猫のスタンプを返したあと、少し悩んで今日はよろしくお願いします。と、カナタはメッセージを打ち込んだ。すると、すぐに既読がつき、楽しみにしてるよと返ってくる。どくん、と胸が跳ねて熱くなった。待ち合わせは、東京駅で11時。カナタにとって遠すぎず近すぎずと言った距離だ。とりあえず、準備しなければ。そう思い、カナタはスマートフォンを机の上に置いて部屋を出た。
◇◇◇◇◇◇
「あ、カナタくーん!」
こっちこっちとでもいうように手を振るアンジュに導かれ、カナタは照れて少しだけ赤く染まった頬を隠しながら合流した。
今日のアンジュは、この間出会った時のスーツ姿とは異なり、春らしいワンピース――つまり、私服を着ている。
「この間は、ほんっと〜にありがとう! カナタくんのおかげで助かりました!!」
「や、オレそんなに特別なことしてないんで!気にしないでください」
「いやいや、カナタくんがいなかったどうなってたことか! ほんと、ありがとう」
開口一番に感謝の言葉の嵐にあい、カナタはタジタジになる。学校の先生以外の大人のお姉さんに褒められる経験なんてこれまでなかった。くすぐったいような、何とも言えない気持ちが駆け巡り、照れくさい。
「今日はお姉さんが、お礼に美味しいお店に連れてってあげるね。どーんっと任せなさい!」
さっそく、行こう!
と先導されてカナタはあとに続く。メッセージのイメージ通り、アンジュは明るく優しい人だった。歩きながら、カナタくんは苦手な食べ物はある?だとか、今から行くお店のおすすめメニューだとか、たわいの無い話題を積極的に話しかけてくれるのはきっと緊張して言葉数が少なくなっているカナタへの気遣いなのだろう。
「そういえば、カナタくんは猫、好きなの?」
前を歩くアンジュが、振り返りながら言った。
「え、好きですけど……なんで?」
予想外の質問に、カナタは肯定しながらも動揺を隠せない。しかし、
「スタンプ! いつも可愛い猫のキャラクターだから、好きなのかなって」
という返答を聞いて、納得した。確かに、いつも猫のスタンプを使っていた気がする。
「あー、なるほど。お姉さんは? 猫、好き?」
「好きだよ。ふわふわして気ままで可愛いよね。今度、猫カフェに行きたいなー」
「あ、オレおすすめのとこ知ってます」
「えっ、ほんと? わー、教えて教えて!」
社会人には癒しがないとね!努めて明るく話すアンジュの表情が一瞬だけ曇って見えたのは気のせいだろうか。咄嗟に、
「やっぱ、社会人って大変ですか」
と尋ねれば
「うーん、どうだろ。学生には、学生の。社会人には、社会人の悩みがあるよね」
と、流されるように返される。学生と社会人。18歳と25歳。ふたりの年の差はおよそ7歳。親近感を感じていたお姉さんとのその年の差が、その立場が、ふたりの間に分厚い壁のように塞がっているような事実に気がついたその時、カナタは視界がぐにゃりと一瞬だけ揺らいだことに戸惑った。
(……なんだ?)
天気は晴天。
ここは都会のビル街。なのに、一瞬だけ青く広がる波間に何かが見えた気がした。が、それは一瞬だけのこと。
(オレの、気の所為?)
「……カナタくん?」
突然黙ったカナタを心配しているのだろう。アンジュの声が聞こえて、カナタの意識はすぐに目の前のアンジュに引き戻された。
「あの、オレ。まだ大学生になったばっかだし、お姉さんに相談のってもらってばっかだけどさ。オレでよかったら愚痴も弱音も吐き出してもらえたら…とか」
ほら、オレただの大学生だし。遠慮っていうか、気兼ねってゆーか……
自分でも、年上のお姉さんに何を言っているんだという気持ちになってきて、カナタは慌てて言葉を重ねる。重ねれば重ねるほどに、焦る気持ちが募るが、その気持ちは晴れやかなアンジュの声で吹っ飛んでいった。
「ありがとう! じゃあ今日は私の話、いっぱい聞いてもらおうかな」
ずっとモヤモヤとしていた胸の中があたたかくなり、スっと満たされるような気持ちになったのは気の所為だろうか。
「オレでよかったら……!」
カナタは力強く宣言した。
◇◇◇◇◇◇◇
アンジュに案内された店は、男友達と一緒には到底来ないような小洒落たイタリアンだった。隠れ家のような場所にひっそりと佇む店内は、どこか西洋を思わせるインテリアや、おそらくイタリアの風景を描いた絵画が飾られていて、カナタはそわそわと落ち着かない気持ちのまま案内された席につく。
「お姉さん、ここ……」
「大丈夫、ランチはお手軽だし美味しいよ」
そうじゃなくて、デートとかで来るようなところなんじゃ……という言葉は飲み込んだ。楽しそうにメニューを眺める姿に水を差したくなかったからだ。こっそりと周囲を伺えば、女子会だと思われる集団やカップルが圧倒的に多い。
「カナタくん、かぼちゃ苦手なんだっけ?」
「あー、できればないほうが」
「じゃあ、こっちか……あ、これは?」
アンジュが指差したメニューに目を移せば、そこにはパスタやラザニアの写真が載っている。
「じゃあ、これで」
ラザニアは割と好きな方だ。カナタは目に付いたランチセットを遠慮がちに選ぶ。一方のアンジュはカナタの返事を受けて、
「なら私はこっちにしようかな」
と呟きながら隣のセットを指差した。そのまま、メニューをパラパラと捲り今度はドリンクを楽しそうに眺めている。
「お姉さん、こういうとこよく来るの?」
「んー、たまにね。友達と一緒に」
「じゃあ慣れてるんだ」
「この年にもなればね。カナタくんは?」
アンジュの視線が、メニューからカナタへと移る。視線が合い、ドキリとカナタの胸が高鳴った。それを隠すように、カナタはわざとぶっきらぼうに返す。
「ないよ。友達と行くならファミレスとか、ラーメンとか食べに行くし」
「いいね、青春だ」
子ども扱いされているようで少し面白くない。そんなカナタをからかう様にアンジュはソフトドリンクのメニューを指差し尋ねてくる。
「カナタくんは、なにか飲む?」
「…………ジンジャーエール」
「好きなの?」
「まあね。おねーさんは? どうすんの?」
「じゃあ、私もジンジャーエール」
にこりと微笑まれ、カナタは思わず目を逸らした。薄暗い店内。おそらくこちらの顔色は見えないはずだ。いや、見えないで欲しい。カナタの頬は今、薄らと赤みがかっているはずだ。
「ワインは? さっき見てたじゃん」
「カナタくんと一緒だしね」
すみませーん、と一声かけ、アンジュが店員に向かって目配せした。はい、ただいまとすぐにやってきてアンジュが澱みなく注文を済ませていく。
メッセージのやり取りだと、すこし天然なところがある可愛く優しいお姉さんだったのに、こうして現実で会ったアンジュは頼りになる年上の女性だった。せっかくの機会、リードしたいのに出来ないことに焦れてしまう。だが、それは食事を待つ間に会話をする中で薄れていった。やはり文字でのやり取りと同じでアンジュは話しやすく、そしてどこか親しみやすい。
やがて、料理がやってきて舌鼓をうちながらふたりは会話に花を咲かせた。
「それで、私が断れないことをいいことに上司が次から次に面倒なことを押し付けていくんだよ」
アンジュが仕事で大変だった話を語れば、
「やっぱ、ゴールデンウィークまでにはバイトはじめたいんだけどさ。どこも問い合わせが多いみたいなんだよね」
カナタがアルバイトについて相談をする。
次から次へと話が弾み、気付いた時にはデザートのジェラートが運ばれてきた。
「……なにこれ、うま」
「でしょ! 甘すぎず酸っぱすぎず、絶妙なバランスだよね」
思わず夢中になって手を動かせば、食事の時間は終わりを迎えようとしていた。食後のコーヒーを飲みながら、どこか寂しい気持ちになる。楽しい時間にも終わりが必ずやってくる。チクタクと進む時計の針が止まらないだろうか、なんて柄にもないことを考えてカナタはこっそりと自嘲した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
食事のあとは、近くの雑貨屋や本屋を冷やかしながら並んで歩いた。だが、それにも終わりはやってくる。駅が近づいてきて別れが現実に迫ってくると、次第にカナタの足取りは遅くなった。それに気がついているのか、いないのか。一緒に歩くアンジュの足取りもゆるやかになる。
――ここで、別れたら二度と会えないんじゃないか。
メッセージのやり取りは今日まで絶え間なく続いていた。だが、それは食事の約束があったから。もしかしたら次はないかもしれない。まだ春先で風が肌寒いくらいなのに、焦れば焦るほど手が汗ばんでくる。一言、また会いませんかと誘えばいいのにそれが出来ない。自分はこんなに意気地無しだっただろうか。だが、無情にも別れの時はやってくる。改札に入りホームの分岐路まで辿り着くと、アンジュは立ち止まってカナタに微笑んだ。
「それじゃあ、ここでお別れかな。パスケース、本当に助かりました」
「……こっちこそ、ご馳走してもらって。拾っただけなのに、なんか申し訳ないっていうか。ありがとうございました」
「ランチのことは気にしないで。私がしたくてしたことだから」
じゃあね、カナタくん。
アンジュが最後に手を振って、背中を向けた。立ち去る後ろ姿に、カナタは勇気を振り絞る。
「お姉さん!」
振り返るアンジュに、少し早口になりながらカナタは言った。
「今度、一緒に猫カフェ行きませんか」
ポカンと拍子抜けしたような表情を浮かべるアンジュにカナタの心臓がうるさいくらいに鳴り響く。いきなり、距離を詰めすぎただろうか。いや、でも。どくん、どくんと脈が早くなって、喉がカラカラに乾いている。アンジュの顔がこわくて見れなかった。しかし、カナタの予想をいい意味で裏切る言葉が投げ返される。
「じゃあ今度はラーメン、食べに行こーね」
――バイバイ、カナタくん。
ぱっと花が咲くように笑って、アンジュが去っていく。
「…………っしゃ」
心臓の音は早鐘をうったままだ。脳内で、バイバイと言ったアンジュの声と笑顔が何度も何度も反響している。
去りゆくアンジュの背中を見送りながらカナタは心の中でそっとガッツポーズした。
ここは、どこだ?
気がつけば、まるで無重力空間にいるかのようにカナタの身体は水の中を漂っていた。
ここは、海?
まるで身体が魚になったかのように簡単に泳ぐことができた。ぐんぐんとスピードをつけて泳いでいると、魚たちが近くに寄ってくる。不思議なことに、水の中にも関わらず呼吸ができるる。息を吸い込む度にぷかぷかと酸素が水面に昇っていく。水面の向こうには、何があるのだろうか。
――音のない世界に、独り漂う夢を見た。
アクアテラリウムの夢
スマートフォンのアラーム音がけたたましく鳴り響き、カナタは目を覚ました。無意識に枕元へと手が伸び、寝ぼけ眼のまま画面に触れる。アラームの音がピタリとやんで、部屋の中に沈黙が訪れた。
やけに身体がだるかった。
不思議な夢を見た気がするのに、内容が思い出せない。疲れてるのかもしれない。一体自分が何者なのかすら、頭の中がぼんやりとしてあやふやだった。さすがにマズイ。動かない頭を懸命に動かし、カナタはやけにぼんやりとした記憶を取り戻した。
そうだ。
この春から、カナタは大学生になったのだ。
慣れないキャンパス、慣れない通学路、慣れない講義。
高校から唯一同じ大学に進学したカイトと四苦八苦しながらシラバスと睨めっこし、知り合ったばかりの新しい友達からの情報に右往左往させられながらカリキュラムを決め、賑やかでうるさく楽しいサークル勧誘に戸惑った。
もう一度、寝てしまおうか。チラリとスマホの画面に目をやると時刻は日曜日の午前9時半。怠惰な大学生はまだ眠っていても許される時間だろう。ごろり、と寝返りをうってからカナタは目を閉じる。
4月になって、新しいことばかりだ。
ようやく講義がはじまり、高校との違いに驚いた。内容もさることながら、自分で決めて、自分で行動する生活は刺激的で新しい生活にカナタは振り回されっぱなしだ。この間ははじめて寝坊して、母親に叩き起された。駅に走って、そして……
ピロリ、とスマートフォンが音を立てて新着のメッセージを受信する。送信者の名前を見て、カナタは飛び起きた。
この春。
カナタは運命の出会いをした。
◇◇◇◇◇◇
お姉さんとの出会いは、乗り換え駅の改札近くだったような気がする。朝の通勤ラッシュの時間と通学時間が重なることに気付いた時、カナタは自分の選択を後悔していた。一限に気になる授業があってどうしても取りたいなと思ったのが運の尽き。一緒に受けないかと誘ったカイトは一限は眠いからと断ってきたが意気揚々と履修登録をした。しかし、あの時の気持ちはどこかにふっとび、どんよりとした気持ちを抱えながらカナタは周囲の人に合わせて足早に改札に向かう。
と、その時だった。
目の前を歩く、桃色の髪が印象的な女性がパスケースを落としたことに気が付いたのは。女性は急いでいるのだろう。気付かないままカナタが向かうホームとは逆方面へと歩いていく。思わず、駆け出していた。
お姉さん!待って!
なんで、追いかけてるんだ。ギリギリに家を出たから、遅刻するんじゃ。そんなことは考えられなかった。まるでそうしないといけないかのように身体が動いていた気がする。驚いた顔で振り返る彼女にパスケースを渡し、ありがとうと微笑まれた瞬間。胸が高鳴り、目の前が鮮やかに色付いたのだ。
そして、何度も何度も感謝の気持ちを口にする彼女――アンジュから、今度改めてお礼をさせてとせがまれて連絡先を交換した。何度かやり取りをする中で次第に仲が深まり、カナタは時々アンジュに人生の先輩として相談ごとをするようになっていた。大学のこと、はじめようと考えているアルバイトのこと。優しくカナタの悩みを聞き、そして真剣に一緒に悩み、励ましてくれるアンジュのメッセージは忙しない日々に疲弊するカナタの心を癒した。そして、そんなやり取りを続ける中。ようやくアンジュの仕事が落ち着き、今日、ふたりは会う約束をしていたのだ。
メッセージには、カナタくんおはよう!今日はよろしくね。というメッセージとともに、摩訶不思議なキャラクターが気をつけてね!と笑っているスタンプが添えられていた。お姉さんのメッセージはいつも可愛い。独特のセンスのキャラクターにはいつも驚くけれど、そういうところも可愛いなと思う。まだ直接会ったことは一度しかないのに、なぜか惹かれてしまう自分がいることにカナタは驚いていた。高校生の頃は、友達と遊ぶことが一番だったし、それは今も変わらないけれど。そこにお姉さんのことを考える時間が増えた。これは、大きな変化だ。おはよう!と目を擦る猫のスタンプを返したあと、少し悩んで今日はよろしくお願いします。と、カナタはメッセージを打ち込んだ。すると、すぐに既読がつき、楽しみにしてるよと返ってくる。どくん、と胸が跳ねて熱くなった。待ち合わせは、東京駅で11時。カナタにとって遠すぎず近すぎずと言った距離だ。とりあえず、準備しなければ。そう思い、カナタはスマートフォンを机の上に置いて部屋を出た。
◇◇◇◇◇◇
「あ、カナタくーん!」
こっちこっちとでもいうように手を振るアンジュに導かれ、カナタは照れて少しだけ赤く染まった頬を隠しながら合流した。
今日のアンジュは、この間出会った時のスーツ姿とは異なり、春らしいワンピース――つまり、私服を着ている。
「この間は、ほんっと〜にありがとう! カナタくんのおかげで助かりました!!」
「や、オレそんなに特別なことしてないんで!気にしないでください」
「いやいや、カナタくんがいなかったどうなってたことか! ほんと、ありがとう」
開口一番に感謝の言葉の嵐にあい、カナタはタジタジになる。学校の先生以外の大人のお姉さんに褒められる経験なんてこれまでなかった。くすぐったいような、何とも言えない気持ちが駆け巡り、照れくさい。
「今日はお姉さんが、お礼に美味しいお店に連れてってあげるね。どーんっと任せなさい!」
さっそく、行こう!
と先導されてカナタはあとに続く。メッセージのイメージ通り、アンジュは明るく優しい人だった。歩きながら、カナタくんは苦手な食べ物はある?だとか、今から行くお店のおすすめメニューだとか、たわいの無い話題を積極的に話しかけてくれるのはきっと緊張して言葉数が少なくなっているカナタへの気遣いなのだろう。
「そういえば、カナタくんは猫、好きなの?」
前を歩くアンジュが、振り返りながら言った。
「え、好きですけど……なんで?」
予想外の質問に、カナタは肯定しながらも動揺を隠せない。しかし、
「スタンプ! いつも可愛い猫のキャラクターだから、好きなのかなって」
という返答を聞いて、納得した。確かに、いつも猫のスタンプを使っていた気がする。
「あー、なるほど。お姉さんは? 猫、好き?」
「好きだよ。ふわふわして気ままで可愛いよね。今度、猫カフェに行きたいなー」
「あ、オレおすすめのとこ知ってます」
「えっ、ほんと? わー、教えて教えて!」
社会人には癒しがないとね!努めて明るく話すアンジュの表情が一瞬だけ曇って見えたのは気のせいだろうか。咄嗟に、
「やっぱ、社会人って大変ですか」
と尋ねれば
「うーん、どうだろ。学生には、学生の。社会人には、社会人の悩みがあるよね」
と、流されるように返される。学生と社会人。18歳と25歳。ふたりの年の差はおよそ7歳。親近感を感じていたお姉さんとのその年の差が、その立場が、ふたりの間に分厚い壁のように塞がっているような事実に気がついたその時、カナタは視界がぐにゃりと一瞬だけ揺らいだことに戸惑った。
(……なんだ?)
天気は晴天。
ここは都会のビル街。なのに、一瞬だけ青く広がる波間に何かが見えた気がした。が、それは一瞬だけのこと。
(オレの、気の所為?)
「……カナタくん?」
突然黙ったカナタを心配しているのだろう。アンジュの声が聞こえて、カナタの意識はすぐに目の前のアンジュに引き戻された。
「あの、オレ。まだ大学生になったばっかだし、お姉さんに相談のってもらってばっかだけどさ。オレでよかったら愚痴も弱音も吐き出してもらえたら…とか」
ほら、オレただの大学生だし。遠慮っていうか、気兼ねってゆーか……
自分でも、年上のお姉さんに何を言っているんだという気持ちになってきて、カナタは慌てて言葉を重ねる。重ねれば重ねるほどに、焦る気持ちが募るが、その気持ちは晴れやかなアンジュの声で吹っ飛んでいった。
「ありがとう! じゃあ今日は私の話、いっぱい聞いてもらおうかな」
ずっとモヤモヤとしていた胸の中があたたかくなり、スっと満たされるような気持ちになったのは気の所為だろうか。
「オレでよかったら……!」
カナタは力強く宣言した。
◇◇◇◇◇◇◇
アンジュに案内された店は、男友達と一緒には到底来ないような小洒落たイタリアンだった。隠れ家のような場所にひっそりと佇む店内は、どこか西洋を思わせるインテリアや、おそらくイタリアの風景を描いた絵画が飾られていて、カナタはそわそわと落ち着かない気持ちのまま案内された席につく。
「お姉さん、ここ……」
「大丈夫、ランチはお手軽だし美味しいよ」
そうじゃなくて、デートとかで来るようなところなんじゃ……という言葉は飲み込んだ。楽しそうにメニューを眺める姿に水を差したくなかったからだ。こっそりと周囲を伺えば、女子会だと思われる集団やカップルが圧倒的に多い。
「カナタくん、かぼちゃ苦手なんだっけ?」
「あー、できればないほうが」
「じゃあ、こっちか……あ、これは?」
アンジュが指差したメニューに目を移せば、そこにはパスタやラザニアの写真が載っている。
「じゃあ、これで」
ラザニアは割と好きな方だ。カナタは目に付いたランチセットを遠慮がちに選ぶ。一方のアンジュはカナタの返事を受けて、
「なら私はこっちにしようかな」
と呟きながら隣のセットを指差した。そのまま、メニューをパラパラと捲り今度はドリンクを楽しそうに眺めている。
「お姉さん、こういうとこよく来るの?」
「んー、たまにね。友達と一緒に」
「じゃあ慣れてるんだ」
「この年にもなればね。カナタくんは?」
アンジュの視線が、メニューからカナタへと移る。視線が合い、ドキリとカナタの胸が高鳴った。それを隠すように、カナタはわざとぶっきらぼうに返す。
「ないよ。友達と行くならファミレスとか、ラーメンとか食べに行くし」
「いいね、青春だ」
子ども扱いされているようで少し面白くない。そんなカナタをからかう様にアンジュはソフトドリンクのメニューを指差し尋ねてくる。
「カナタくんは、なにか飲む?」
「…………ジンジャーエール」
「好きなの?」
「まあね。おねーさんは? どうすんの?」
「じゃあ、私もジンジャーエール」
にこりと微笑まれ、カナタは思わず目を逸らした。薄暗い店内。おそらくこちらの顔色は見えないはずだ。いや、見えないで欲しい。カナタの頬は今、薄らと赤みがかっているはずだ。
「ワインは? さっき見てたじゃん」
「カナタくんと一緒だしね」
すみませーん、と一声かけ、アンジュが店員に向かって目配せした。はい、ただいまとすぐにやってきてアンジュが澱みなく注文を済ませていく。
メッセージのやり取りだと、すこし天然なところがある可愛く優しいお姉さんだったのに、こうして現実で会ったアンジュは頼りになる年上の女性だった。せっかくの機会、リードしたいのに出来ないことに焦れてしまう。だが、それは食事を待つ間に会話をする中で薄れていった。やはり文字でのやり取りと同じでアンジュは話しやすく、そしてどこか親しみやすい。
やがて、料理がやってきて舌鼓をうちながらふたりは会話に花を咲かせた。
「それで、私が断れないことをいいことに上司が次から次に面倒なことを押し付けていくんだよ」
アンジュが仕事で大変だった話を語れば、
「やっぱ、ゴールデンウィークまでにはバイトはじめたいんだけどさ。どこも問い合わせが多いみたいなんだよね」
カナタがアルバイトについて相談をする。
次から次へと話が弾み、気付いた時にはデザートのジェラートが運ばれてきた。
「……なにこれ、うま」
「でしょ! 甘すぎず酸っぱすぎず、絶妙なバランスだよね」
思わず夢中になって手を動かせば、食事の時間は終わりを迎えようとしていた。食後のコーヒーを飲みながら、どこか寂しい気持ちになる。楽しい時間にも終わりが必ずやってくる。チクタクと進む時計の針が止まらないだろうか、なんて柄にもないことを考えてカナタはこっそりと自嘲した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
食事のあとは、近くの雑貨屋や本屋を冷やかしながら並んで歩いた。だが、それにも終わりはやってくる。駅が近づいてきて別れが現実に迫ってくると、次第にカナタの足取りは遅くなった。それに気がついているのか、いないのか。一緒に歩くアンジュの足取りもゆるやかになる。
――ここで、別れたら二度と会えないんじゃないか。
メッセージのやり取りは今日まで絶え間なく続いていた。だが、それは食事の約束があったから。もしかしたら次はないかもしれない。まだ春先で風が肌寒いくらいなのに、焦れば焦るほど手が汗ばんでくる。一言、また会いませんかと誘えばいいのにそれが出来ない。自分はこんなに意気地無しだっただろうか。だが、無情にも別れの時はやってくる。改札に入りホームの分岐路まで辿り着くと、アンジュは立ち止まってカナタに微笑んだ。
「それじゃあ、ここでお別れかな。パスケース、本当に助かりました」
「……こっちこそ、ご馳走してもらって。拾っただけなのに、なんか申し訳ないっていうか。ありがとうございました」
「ランチのことは気にしないで。私がしたくてしたことだから」
じゃあね、カナタくん。
アンジュが最後に手を振って、背中を向けた。立ち去る後ろ姿に、カナタは勇気を振り絞る。
「お姉さん!」
振り返るアンジュに、少し早口になりながらカナタは言った。
「今度、一緒に猫カフェ行きませんか」
ポカンと拍子抜けしたような表情を浮かべるアンジュにカナタの心臓がうるさいくらいに鳴り響く。いきなり、距離を詰めすぎただろうか。いや、でも。どくん、どくんと脈が早くなって、喉がカラカラに乾いている。アンジュの顔がこわくて見れなかった。しかし、カナタの予想をいい意味で裏切る言葉が投げ返される。
「じゃあ今度はラーメン、食べに行こーね」
――バイバイ、カナタくん。
ぱっと花が咲くように笑って、アンジュが去っていく。
「…………っしゃ」
心臓の音は早鐘をうったままだ。脳内で、バイバイと言ったアンジュの声と笑顔が何度も何度も反響している。
去りゆくアンジュの背中を見送りながらカナタは心の中でそっとガッツポーズした。