カナアン
――なんで、私なのかな。
ポツリとつぶやいたお姉さんの言葉は、どこへ消えたんだろう。オレが顔をあげた時には、彼女は何事もなかったように……いつも通りに、オレが好きだと思った笑顔を浮かべて微笑んでいた。
守護聖だとか、令梟の宇宙だとか、女王候補だとか。そんなん言われても、オレには関係ない。聞いたことないし、オレにできるとは思えない。
突然ファンタジーの世界に連れてこられて、戸惑って。寝て起きたらいつもの日常なんじゃないかなんて期待して、落ち込んで。
正直、あの時のオレはすげーカッコ悪かった。気遣ってくれるゼノに八つ当たりして、怯えて、逃げて。
でも、しょうがないじゃん。オレ、普通の高校生だったんだ。ほんとに、普通の。なのに、運命なんて受け入れられるわけが無い。
――そんな時に出会ったのが、お姉さんだった。
彼女もオレと同じだと思った。
突然の出来事に戸惑って、疑って。だから、せめて彼女には「普通の日常」に戻って欲しいと思った。
でも、彼女はオレと違った。年上の。頼れるお姉さんだった。現実を受け入れ、戸惑いながらも前に進むその強さに。いつまでもいじけて閉じこもっているオレのことを気遣ってくれる優しさに。
一歩、踏み出してみようかって思えたんだ。
女王候補、アンジュの私室。
女王試験が続くなか、――毎週というわけにはいかないが――彼女の秘密の恋人である「水の守護聖」が訪れるのはいつもの日常と化していた。
せっかく一緒に過ごせる貴重な時間である。一分一秒でも一緒にいたいと思うのは当然のことではないか。朝起きるとソワソワと身支度し、あんまり早いとひかれるんじゃないか……そんな思いとは裏腹に早朝の彼女の私室をたずねれば、執事・サイラスから「おや、カナタ様。いつもお早いご到着ですね」なんて出迎えられる。あの人、もしかして……なんて思わなくもないが、そんなことよりもアンジュに会いたいという気持ちが勝り、中へと通され、サイラスの気配が消えると思わず名前を呼んだ。
「……アンジュ!」
「カナタ、おはよう」
ジンジャーエールでいいかな?
と微笑みながら尋ねてくる声に頷き、定位置となったいつもの場所に座る。部屋の中は甘い香りがして、まだそんなに数多く来たことがあるわけではないのに落ち着いた。
「今日はどうする? サイラスがバースから映画を取り寄せてくれたんだけど、一緒に見ない?」
「映画? 見る見る、何のやつ?」
「えっと、色々あるよ。……これとかどうかな」
そう言ってアンジュが取り出したのは有名なアニメ映画だった。バースではほとんどの人が見たことがあるのではないかというくらい知名度があり、カナタも弟と一緒に何回も見た思い出がある。
「あー、懐かしい。 オレ、これ好きなんだよね」
「カナタも? やった、じゃあさっそく見よう」
それから、身を寄せあって二人で映画を見ながら色々な話をした。隣に感じる熱に、声に。正直なところ、カナタの意識は映画の内容よりも隣のアンジュに向いてしまっていた。ピタリ、と触れ合う肩からほんのりと伝わる熱にドキドキする。バースの映画を見ているからだろうか。まるで、普通に――ここが飛空都市ではなく、かつての日常の中で――デートをしているかのような、そんな気持ちになってしまう。
「なんか、バースにいるみたいだね」
そんなことを考えていた矢先、アンジュから告げられた言葉に驚いてしまった。
「オレも同じこと考えてた」
「映画。最後に見たの、いつだったかな。大学生の時だった気がする」
「その頃の話、聞きたい」
「えー、何にも面白い話なんてないよ」
「オレ、アンタのこともっと知りたい。それに、大学生ってなんか憧れるし」
オレは大学生に慣れないから。その言葉は、飲み込んだ。だが、アンジュも気がついてしまったのだろう。ちょっと話そっか、そう言ってカナタの頭をやさしく撫でる。
(子ども扱いしてる)
そう思うと面白くないが、彼女の温もりや慈しみを感じるのは悪くない。されるがままにしながら、アンジュの言葉に耳を傾ける。
大学時代の友達と旅行に行ったこと。アルバイトで失敗したこと。大学時代のタイラーのこと(これはちょっとだけ、自分が知らないアンジュの姿をタイラーが知ってるのかな、なんて考えてしまって面白くなかった)
そして、家族のこと。
アンジュの口から語られる彼女の生い立ちははじめて聞く話ばかりで、カナタには全てが新鮮だった。
「ウソじゃん。そんな誤発注しちゃったの。それ、どうしたの?」
「仕方ないから、頑張って売るぞ!ってみんなで宣伝したの」
「売れた?」
「うーん、そこそこ。最後はみんなで何とか食べたんだけど、しばらく食べる気なくしちゃったかな」
「あー、いいな、学祭。そういうの、青春だよね」
「今度やってみる? ポットラックパーティの時に出来ないかな。うーん、でも屋台は無理かも」
「ゼノに頼んだら、すっごいの作ってくれそうだよなー」
何気ない会話が楽しい。アンジュと居ると、今この場所でこの瞬間を生きていることが肯定できる気がした。まだバースでのことは忘れられないし、忘れるつもりはないけれど、今を受け入れられる。
(お姉さんに出会えて、よかった)
お姉さんだけじゃない。
ゼノも、他の守護聖たちも。
ここで出会った全ての人たち。ここで知った全ての感情もカナタの中で大切な存在になりつつある。過去も今もどちらも失えない大切なものだ。
しかし、ふと思う。
彼女は、どうなのだろうか。楽しそうに過去の話をする彼女は。戸惑ってはいたものの女王試験に熱心に向き合い、大陸を育成し、時に慈しみを宿した目で自らが育てた場所を見守るこの人は。彼女はきっと、女王になる。カナタはそう確信していた。だが、優しいこの人は何を思うのだろう。
映画は佳境を迎えている。主人公たちが互いに支え合い、敵と対峙していた。その様子を固唾を飲んで見守る彼女は何を思っているのだろう。やがて、エンディングが始まる。懐かしいその曲を聴いていると思わずカナタは口を開いていた。
「お姉さんは、さ」
「……? どうしたの?」
笑顔でアンジュが振り返る。
「お姉さんは、不安はないの?」
帰りたいとは思わないの。今なら、まだ。
そう続く言葉は、言葉として出てこなかった。彼女は、選ぶことが出来る。だか、もし選んでしまったら?思いを確かめあい、彼女は女王になると決めた。だから、そんなことはありえない。ありえないけれど、彼女は…
――なんで、私なのかな。
はっと、顔をあげる。
今、彼女は何といったのか。
「ねえ、カナタ」
優しい笑顔が、やわらかな腕がカナタを包み込んだ。ふわり、と愛しく眩しい香りに胸がいっぱいになる。反射的に抱きしめ返すと、その身体の小ささに驚いた。抱きしめるのが、はじめてという訳では無い。だが、あらためて思い知った。彼女は華奢だ。カナタが包み込めるほど。力をこめると壊してしまうのではないかと躊躇うほど華奢でやわらかいのだ。
ずっと彼女は強いと思っていた。年上の、頼れるお姉さん。年上のしっかりした恋人。
でも、彼女はこんなにも……
「カナタ……好きだよ」
その声が震えているように思ったのは気の所為だろうか。ぎゅっと、カナタはその華奢な背中を抱き締めた。
ポツリとつぶやいたお姉さんの言葉は、どこへ消えたんだろう。オレが顔をあげた時には、彼女は何事もなかったように……いつも通りに、オレが好きだと思った笑顔を浮かべて微笑んでいた。
守護聖だとか、令梟の宇宙だとか、女王候補だとか。そんなん言われても、オレには関係ない。聞いたことないし、オレにできるとは思えない。
突然ファンタジーの世界に連れてこられて、戸惑って。寝て起きたらいつもの日常なんじゃないかなんて期待して、落ち込んで。
正直、あの時のオレはすげーカッコ悪かった。気遣ってくれるゼノに八つ当たりして、怯えて、逃げて。
でも、しょうがないじゃん。オレ、普通の高校生だったんだ。ほんとに、普通の。なのに、運命なんて受け入れられるわけが無い。
――そんな時に出会ったのが、お姉さんだった。
彼女もオレと同じだと思った。
突然の出来事に戸惑って、疑って。だから、せめて彼女には「普通の日常」に戻って欲しいと思った。
でも、彼女はオレと違った。年上の。頼れるお姉さんだった。現実を受け入れ、戸惑いながらも前に進むその強さに。いつまでもいじけて閉じこもっているオレのことを気遣ってくれる優しさに。
一歩、踏み出してみようかって思えたんだ。
女王候補、アンジュの私室。
女王試験が続くなか、――毎週というわけにはいかないが――彼女の秘密の恋人である「水の守護聖」が訪れるのはいつもの日常と化していた。
せっかく一緒に過ごせる貴重な時間である。一分一秒でも一緒にいたいと思うのは当然のことではないか。朝起きるとソワソワと身支度し、あんまり早いとひかれるんじゃないか……そんな思いとは裏腹に早朝の彼女の私室をたずねれば、執事・サイラスから「おや、カナタ様。いつもお早いご到着ですね」なんて出迎えられる。あの人、もしかして……なんて思わなくもないが、そんなことよりもアンジュに会いたいという気持ちが勝り、中へと通され、サイラスの気配が消えると思わず名前を呼んだ。
「……アンジュ!」
「カナタ、おはよう」
ジンジャーエールでいいかな?
と微笑みながら尋ねてくる声に頷き、定位置となったいつもの場所に座る。部屋の中は甘い香りがして、まだそんなに数多く来たことがあるわけではないのに落ち着いた。
「今日はどうする? サイラスがバースから映画を取り寄せてくれたんだけど、一緒に見ない?」
「映画? 見る見る、何のやつ?」
「えっと、色々あるよ。……これとかどうかな」
そう言ってアンジュが取り出したのは有名なアニメ映画だった。バースではほとんどの人が見たことがあるのではないかというくらい知名度があり、カナタも弟と一緒に何回も見た思い出がある。
「あー、懐かしい。 オレ、これ好きなんだよね」
「カナタも? やった、じゃあさっそく見よう」
それから、身を寄せあって二人で映画を見ながら色々な話をした。隣に感じる熱に、声に。正直なところ、カナタの意識は映画の内容よりも隣のアンジュに向いてしまっていた。ピタリ、と触れ合う肩からほんのりと伝わる熱にドキドキする。バースの映画を見ているからだろうか。まるで、普通に――ここが飛空都市ではなく、かつての日常の中で――デートをしているかのような、そんな気持ちになってしまう。
「なんか、バースにいるみたいだね」
そんなことを考えていた矢先、アンジュから告げられた言葉に驚いてしまった。
「オレも同じこと考えてた」
「映画。最後に見たの、いつだったかな。大学生の時だった気がする」
「その頃の話、聞きたい」
「えー、何にも面白い話なんてないよ」
「オレ、アンタのこともっと知りたい。それに、大学生ってなんか憧れるし」
オレは大学生に慣れないから。その言葉は、飲み込んだ。だが、アンジュも気がついてしまったのだろう。ちょっと話そっか、そう言ってカナタの頭をやさしく撫でる。
(子ども扱いしてる)
そう思うと面白くないが、彼女の温もりや慈しみを感じるのは悪くない。されるがままにしながら、アンジュの言葉に耳を傾ける。
大学時代の友達と旅行に行ったこと。アルバイトで失敗したこと。大学時代のタイラーのこと(これはちょっとだけ、自分が知らないアンジュの姿をタイラーが知ってるのかな、なんて考えてしまって面白くなかった)
そして、家族のこと。
アンジュの口から語られる彼女の生い立ちははじめて聞く話ばかりで、カナタには全てが新鮮だった。
「ウソじゃん。そんな誤発注しちゃったの。それ、どうしたの?」
「仕方ないから、頑張って売るぞ!ってみんなで宣伝したの」
「売れた?」
「うーん、そこそこ。最後はみんなで何とか食べたんだけど、しばらく食べる気なくしちゃったかな」
「あー、いいな、学祭。そういうの、青春だよね」
「今度やってみる? ポットラックパーティの時に出来ないかな。うーん、でも屋台は無理かも」
「ゼノに頼んだら、すっごいの作ってくれそうだよなー」
何気ない会話が楽しい。アンジュと居ると、今この場所でこの瞬間を生きていることが肯定できる気がした。まだバースでのことは忘れられないし、忘れるつもりはないけれど、今を受け入れられる。
(お姉さんに出会えて、よかった)
お姉さんだけじゃない。
ゼノも、他の守護聖たちも。
ここで出会った全ての人たち。ここで知った全ての感情もカナタの中で大切な存在になりつつある。過去も今もどちらも失えない大切なものだ。
しかし、ふと思う。
彼女は、どうなのだろうか。楽しそうに過去の話をする彼女は。戸惑ってはいたものの女王試験に熱心に向き合い、大陸を育成し、時に慈しみを宿した目で自らが育てた場所を見守るこの人は。彼女はきっと、女王になる。カナタはそう確信していた。だが、優しいこの人は何を思うのだろう。
映画は佳境を迎えている。主人公たちが互いに支え合い、敵と対峙していた。その様子を固唾を飲んで見守る彼女は何を思っているのだろう。やがて、エンディングが始まる。懐かしいその曲を聴いていると思わずカナタは口を開いていた。
「お姉さんは、さ」
「……? どうしたの?」
笑顔でアンジュが振り返る。
「お姉さんは、不安はないの?」
帰りたいとは思わないの。今なら、まだ。
そう続く言葉は、言葉として出てこなかった。彼女は、選ぶことが出来る。だか、もし選んでしまったら?思いを確かめあい、彼女は女王になると決めた。だから、そんなことはありえない。ありえないけれど、彼女は…
――なんで、私なのかな。
はっと、顔をあげる。
今、彼女は何といったのか。
「ねえ、カナタ」
優しい笑顔が、やわらかな腕がカナタを包み込んだ。ふわり、と愛しく眩しい香りに胸がいっぱいになる。反射的に抱きしめ返すと、その身体の小ささに驚いた。抱きしめるのが、はじめてという訳では無い。だが、あらためて思い知った。彼女は華奢だ。カナタが包み込めるほど。力をこめると壊してしまうのではないかと躊躇うほど華奢でやわらかいのだ。
ずっと彼女は強いと思っていた。年上の、頼れるお姉さん。年上のしっかりした恋人。
でも、彼女はこんなにも……
「カナタ……好きだよ」
その声が震えているように思ったのは気の所為だろうか。ぎゅっと、カナタはその華奢な背中を抱き締めた。