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カナアン

朝、鏡の前に向かうひと時に心が踊るなんて久しぶりだった。

幼い頃に憧れた母親の鏡台はキラキラと輝いて見えたし、リップも香水も、まるで魔法少女に変身するアイテムのように特別なものだった。はじめてメイクをした時は、憧れに手が届いた気がして、確かにときめきを感じていたのを覚えている。

なのに、やがて大人になって。
いつの間にか、メイクをすることは日常生活の一部になっていた。

だが、今。
アンジュは、はじめてメイクをした時のような胸のときめきを感じていた。
トントンと頬にチークを馴染ませ、パウダーをふわりとのせる。仕上げに、新しく新調したリップで唇を彩れば完成だ。アクセサリーケースからそっとペンダントを取り出し胸元を飾れば、アウイナイトの優しい光がキラリと鏡に反射し、とくんと胸が高なった。鏡の中には、恋する乙女の顔をした女が微笑んでいて、むず痒いような、くすぐったいような気持ちになる。

浮かれている。
そんなことはとっくに気がついていた。

ここ飛空都市で女王候補として日々を過ごし、多くのことを知る中で、嫌でも宇宙やこの世界。そして、エリューシオンへの責任や自らに課された使命の重さを自覚してきた。――なぜ、私なんだろう――その思いは消えないけれど、ここで私は歩んでいく。そう決めた。

だが、それとともに。
恋をして、高鳴る胸のときめきを止められないことも自覚していた。そして、その胸のときめきが、アンジュの世界をきらめかせていることも確かな事実なのである。


恋の魔法


夜のファンタジーパークは、賑やかな喧騒とまばゆい光に包まれていた。赤、青、白……色とりどりの照明が街を照らし、非日常で夢見心地な気分にしてくれる。どこからか漂ってくるポップコーンの甘いキャラメルの香り。カエルやウサギのキャラクターが配る色とりどりの風船。楽しそうな子どもたちやカップルの声。昼の間に民たちが暮らすエリアの視察を終えたふたりが最後に足を運んだそこは、目に見えるもの、聞こえるもの全てがまばゆく、アンジュの気持ちを昂らせた。恋人になって、ファンタジーパークに訪れるのはこれがはじめてである。

――だから、だろうか。

「あっちもこっちもキラキラしてて、夢みたい。ねえ、カナタ?……」

気付いた時には、辺りにカナタの姿はなく、このキラキラと輝く世界の中にひとりきりだった。いけない、はしゃぎすぎた。あわてて、来た道を戻るがすれ違う人々の中のどこにも彼の姿はどこにも見えない。

(……どうしよう)

焦れば焦るほど、冷静な判断が出来なくなる。とりあえず落ち着かなければ。通行の邪魔にならないように路側に移動し、周囲を見渡して立ち尽くしていると、人混みの向こうに自分と同じように辺りを見渡しながら歩く人影が見えた。

(……カナタだ!)

そう思った瞬間、張りつめていた気持ちがふっと解けていく気がした。無意識のうちに握りしめていた手を緩め、大きく手を振る。

「カナタ!」

驚いた彼がこちらを振り返り、目があった。その瞬間、アンジュは勢いよく地面を蹴り駆け出していた。

◇◇◇◇◇

結局ふたりはすぐに合流することができた。遊園地で迷子って、ガキじゃないんだから……そういって窘められ、情けなさに萎縮しかけたアンジュの手を取り、もう勝手に離れないようにと優しく提案してくれたカナタに手を引かれながら、ふたりはパーク内を歩いている。

つないだ手があたたかい。
ドキドキと高鳴る胸の鼓動が触れ合った手のひらから相手に伝わってしまうのではないか。そんなことを考えてしまうのは、恋の魔法にかかっているから……年甲斐もなくそんなことを考えてしまうほど、アンジュはこの状況に舞い上がっていた。パークは先程までと何一つ変わりないはずなのに、何倍もきらめいて見える。アンジュの手を引き、少し前を歩くカナタは何も言わない。照れているのか、チラリと見える耳が真っ赤に染っているのが見えた。

「カナタは、遊園地はよく行ったの?」
「テーマパークだけど、友達と時々ね。お姉さんは?」
「私も似たような感じ。大学生のときは友達と年に何回か来て、食べ歩きしたり写真撮ったりしてた」

お城がちゃんと写るように頑張ったり、キャラクターの耳を着けて撮ったり……近いようで遠い記憶だ。アンジュが語る思い出話に耳を傾けながら、カナタは言った。

「へー、見たかったな」
「え、何を?」
「お姉さんの写真。ちょっと、興味ある」
「そんなに面白いものじゃないよ」

平凡で、なんてことない普通の大学生の写真だ。何となく気恥ずかしい気持ちになってアンジュは苦笑いを浮かべながら返す。しかし、そんなアンジュの返答に、カナタは真剣に返した。

「だとしても。だって、オレが知らないお姉さんのこともっと知りたい」

――なら、今度見る?
その言葉をアンジュは飲み込んだ。あの日の思い出も、何もかも今の私には見せることが出来ない。そう、思い出したのだ。

飛空都市での日常は、あまりに非現実的で。時折、今でも夢を見ているのではないかと錯覚してしまいそうになる。だがこれは現実で、アンジュは故郷にも、思い出にも別れを告げようとしている。つないだ手のぬくもりが、これが現実であるということを如実に伝えていた。

「……アンジュ?」

突然、黙り込んだアンジュの異変に気付いたのだろう。前を歩いていたカナタが振り返ってくる。ギュッと、アンジュはその手を強く握りしめた。私は、選んだけれど。カナタは……

しかし、ふと過ぎったその言葉にアンジュは心の中でそっと首をふった。彼の葛藤をずっと傍で見守ってきたのだ。だからこそ、今は。

「ねえ、カナタ。私、恋人と遊園地でやってみたかったこといっぱいあるの。だから、今日は私のワガママに付き合ってくれない?」
「あんたと一緒なら、喜んで」

イタズラっぽくニッと笑ったカナタと手と手を取り合って、今日はめいいっぱい彼と思い出をつくるのだ。

◇◇◇◇◇

それからふたりは時間が許す限り、パークでの時間を楽しんだ。付き合う前に一度訪れたゴーストハウスでは、あの時に感じた甘酸っぱい気持ちを思い出してくすぐったい気持ちになった。思えば、あの時からお互いに何となく意識しあっていたことが今なら分かって、照れくさくなる。キャラクターたちとの写真撮影も、ジェットコースターも、コーヒーカップも。年甲斐もなく全力で楽しんで、笑いあって。何もかもが楽しかった。

「カナタ、途中から本気になってたよね」
「いーや、アンジュの方が本気だった。オレ、途中から力入れてなかったからね」
「ええ、嘘……!」
「じょーだんだって。焦ってるお姉さんも可愛いね」

楽しそうに腹を抱えて笑うカナタに、アンジュは思わずムッと顔を顰めた。

「……私の方がお姉さんなのに」
「ごめんなさい。でも、アンジュが可愛いのが悪い。いつものしっかりしたお姉さんも良いけど、そんなあんたも好きだよ」
「〜〜〜! カナタ、お姉さんのことからかってる?」

しかし、今日先に迷子になったのは自分の方だ。アンジュは強く出ることが出来ない。と、そこで売店で売られているドリンクが目に映った。

「あ、カナタ。あれ、飲もうよ」

アンジュが指さした方向を見て、カナタが絶句するのが伝わってくる。バースでいうインスタ映え。七色をした炭酸飲料にふわふわの綿菓子やカラフルなフルーツのトッピングがふんだんに使われた見るだけで楽しい見た目をしている。だが、それだけでは無い。いわゆるカップルラブラブ仕様のストロー付きの逸品だ。

「……アンジュ、本気で行ってる?」
「もちろん! 恋人と遊園地で飲むの、憧れるよね」

にっこり微笑むアンジュに、カナタはしばし考え込み、そしてアンジュの手を引いて歩き出した。

「〜〜〜ったく、綿菓子のとこはお姉さんが食べてよ」
「はーい!」

2本のストローで描かれたハートの形が眩しい。ドリンクを受けとったあとも、カナタはしばらく照れくさそうにソワソワとしていたが、アンジュからの期待の眼差しに観念したのかやがて意を決してストローに口を付けた。その様子をニコニコと見守っていてアンジュも反対側のストローに口を付ける。思った以上に顔が近付いて、アンジュもこっそり胸を高鳴らせた。

「……思ったより、おいしい」
「うん、さっぱりしたサイダーって感じでおいしいね。カナタ、フルーツ食べていいからね」

そう言いながら、アンジュはカップに飾られていたオレンジを手に取る。

「カナタ、口開いて」
「……えっ」

そして、目を白黒とさせる彼の口元にオレンジを運んだ。可愛い彼氏を少しからかって見ようかなと思っていたアンジュにとって予想外だったのは、それをカナタが素直に口にしたことだ。思わず、オレンジから指が離れそうになるが、アンジュの手首がカナタの手に包まれる。やがて、オレンジがカナダの口の中に全て隠れてしまうと、カナタの手が離れ、今度は呆然とするアンジュの目の前にチェリーが差し出された。

「お姉さんも、ほら、あーん」

思わずチェリーの果実を口に含んで、アンジュは体温がジワジワと上昇するのを感じた。顔が熱い。得意げに笑うカナタに、ああやられた……という思いが半分。ときめく気持ちが半分といったところか。結局、恋をすれば互いが弱点。お互いに翻弄し合う羽目になるのだと思い知らされるのだった。

◇◇◇◇◇

最後にあれに乗ろう、と提案されて乗った観覧車のゴンドラがゆっくりと動き始めた。
今日という一日の終わりを間近に感じ、少し切なくなってしまう。楽しい時間はあっという間に過ぎるとは使い古された表現だけれども、正にその通りだとアンジュは感じていた。

しばらくの間、ふたりは向かい合わせに座りながらぼんやりと外を眺めていた。ガラス張りの向こうに広がる景色が少しずつ少しずつ、色とりどりの照明や人々が遠ざかっていく。ふたりきりの空間には優しい沈黙が漂っていた。

「……今日のアンジュ、いつもより綺麗だ」

ふとかけられた一言にアンジュはハッとしてカナタの方を振り向いた。

「いや、そのあんたはいつも綺麗だけど。でも、今日は特に……可愛く見える」
「だとしたら、カナタのおかげだよ」

カナタといると、すごく楽しい。何もかもがきらめいてなんでもない一日が宝物のように思える。まるで、魔法にかかったかのように。

観覧車が放つ照明が、アンジュの胸元のアウイナイトをキラリと照らした。

「それ、今日も着けてくれてるんだ」
「うん。カナタからもらった大切なものだから」
「なんか、すげー嬉しい」

観覧車はいつの間にかあともう少しで頂上にたどり着こうとしていた。カナタの手が、アンジュの胸元のペンダントに伸び、触れる。そのままそのまま手は、アンジュの手を掴んだ。グッと引き寄せられ、ゴンドラが揺れる。カナタの隣に腰を下ろし、見つめあった。ごくり、と息を飲む。一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥った。カナタの深い蒼色の瞳が揺れたと思った瞬間、全てがスローモーションのようにゆっくりと感じた。ふたりの顔がそっと近づき、ふわりと唇が触れ、離れていく。ゴンドラが頂上に辿り着いた。何も言わず、手を絡め合わせ、互いに身を寄せあって外の景色を眺める。ゆっくりと、ゆっくりとゴンドラは地上へと戻っていく。それが、この夢の時間の終わりのようで少し物悲しくなる。

「……今日さ。オレ、柄じゃないこといっぱいしたけど。楽しかったよ」

ポツリと呟くようにカナタは言う。

「あんたと一緒だったからだと思う。オレ、彼女が出来たらとかデートしたらとかそんなの全然考えたことなかったし照れくさかったけど。それは今も照れくさいけどさ。……あんたといると、そういうの全部どーでもよくなるくらい楽しい」

「……私も、楽しかった。カナタと一緒だから、いつもよりはしゃいじゃって、迷惑かけたりもしたけど。一緒に、色々出来て楽しかったよ」
「……よかった。一緒じゃん」
「……うん」
「あんたの大陸、みんな笑ってる。ほら」

カナタに促され、外を眺めると笑い合う人々の姿が目に映る。みな、幸せそうにここでの時間を過ごしている。ああ、そうだ。この魔法のような場所は、私や守護聖のみんなで育ててきたのだ。ギュッと重ね合わせた手に力が篭もる。魔法の時間はもうすぐ終わる。

だが、それでも大丈夫だ。
ゴンドラから降り、2人並んで帰路につきながら、アンジュはそう確信した。カナタが隣にいれば、自分は真っ直ぐ歩いていける。過去はもう戻って来ないけれど、ふたりで支え合い、いつかの記憶を忘れなければ。きっと、これから何があってもあの場所での日々も、今のこの時間も、これから先の未来も。優しい魔法に包まれるのだろうから。

――今日の日付が刻まれた写真には笑顔のふたりが並んでいた。
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