このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

兼七

万年雪の上に音もなくしんしんと、永遠に降り続けるかのように思えた雪が、しとしと音を立てはじめたのは如月に入ってしばらく経ってからのことだった。

静かに、ゆっくりと降り積もった雪をとかしてゆくみぞれ混じりの雨は、やがて霧雨となりじわりと軒先を濡らし、静寂に包まれた一面の銀世界が形を変えてゆく。



それは長い冬の終わりを告げる、春告の雨だった。






如月:スミレ






朝。
雨上がりのむせ返るような春の香りに包まれながら、七緒と兼続は共に連れ立って屋敷をあとにした。

行ってらっしゃいませ。

とやわらかく微笑み手を振るあやめに見送られながら、まだとけ残っている雪を踏みしめ一歩ずつ歩みを進める。

春が来たとは言ってもすぐにすべての雪がとけるわけではない。これから何度も雨が降り、少しずつ暖かい日差しが差し込んで大地が姿を見せていく。

「川は無事でしょうか」

2人が目指すのは米沢を流れる最上川だった。冬の間に降り積もった雪がとけることは喜ばしいことだが、それは同時に水かさが増すことでもある。

「この様子だと氾濫する心配はなさそうだが、万が一ということは有り得るもんだ。せっかく長い冬を耐えたのに、川の氾濫で被害を受けちまったらあんまりだろう。とにかく、一目様子を見ておきたい 」

真剣に語る兼続に、七緒も頷く。
春の訪れを受け、家から顔を出す民たちがちらほらと見える。米沢にやってきた見知らぬ少女に親切にしてくれた人々だ。兼続の妻としても七緒個人としても彼らの生活を守りたい思いは変わらない。ともすれば真剣になるのは当然のことだった。

だが、春の訪れはどうしても胸を高鳴らせるものだ。遊びに行くわけではないのに、久方ぶりに姿を見せた新緑は目を楽しませ、心を躍らせる。

畦道にひっそりと咲いた、雪の間から顔を見せる小さな花弁を見つけ、七緒は思わず足を止めた。

「兼続さん、スミレが……」

まるで、大事な宝物を見つけたかのような無邪気な声に少し先を歩いていた兼続は歩みを止め、振り返る。そこにはまだ完全に花開いてはいないものの、あと少しで綻ぶであろう花を少し屈んで見つめる妻の姿があった。



茅花抜く 浅茅が原の つぼすみれ
今盛りなり 我が恋ふらくは……



「本当に、春が来るんですね」

小さな花が、春の彩りとともに遠い記憶を呼び起こす。

あれは、満開の桜が咲く季節だった。
戯れのように振る舞いながらも、彼女を好ましく思う気持ちを花に託したあの日。

あの日のことを、彼女は覚えているのだろうか。

「……兼続さん?」

黙り込む夫に何かを感じとったのだろう。じっと穏やかな表情を浮かべながらスミレを眺めていた七緒の視線が兼続へとうつされる。

兼続はあわてて……とはいってもそれは内心のことでそういった素振りは隠しながら七緒の元へと歩みを進め、その隣にかがみ込む。

「いや、もうスミレが咲いているのかと思って驚いていたんだ。まさに、山吹の 咲たる野辺の つぼすみれ……」

「この春の雨に 盛りなりけり……ですね」

「これまた驚いたな。君もこの歌を知っていたのか」

「スミレは大切な花なので、調べていたんです」

いたずらっぽい笑みを浮かべる七緒の様子に兼続は全てを悟った。そしてその上で

「大切な花……か。なぜだか聞いても?」

とうそぶいた。
胸の高まりと、溢れだしそうな愛おしさと。色々な感情が混ざり合い、兼続の心はこの春の訪れのように穏やかに波打つ。

「もう。兼続さんも気付いてるんでしょう?」

七緒もそれを心得ているのだろう。
怒るでもなく、落ち込むでもなくイタズラな表情を崩さぬまま笑う。

「茅花咲く……」

「浅茅原の つぼすみれ」

『今盛りなり 我が恋ふらくは』

声が重なり合い、2人は静かに微笑んだ。しばらく心地よい沈黙が続く。

やがて、兼続は小さな声で囁いた。

「君に、たくさんの幸せは降り積もっているだろうか」

小さな幸せ

七緒は、兼続がスミレに込め贈った思いをあらためて受け止める。あの時スミレとともに贈られた思いを、何度も何度も七緒は彼から受け取ってきた。

君を幸せにする。

それは、兼続から七緒へ何度も何度も贈られた思いである。

米沢に来てからの様々な出来事が走馬灯のように流れていく。辛いことも、楽しいことも、幸せな思い出も。全て彼との大切な思い出だ。

七緒はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「冬の間に降り積もった雪は、春になると雪解け水へと変わり、大地を潤して作物の糧となります」

一つ一つの言葉を確かめるように、ゆっくりと紡がれる思いに、兼続は耳を傾ける。

「それと同じです。私が兼続さんからもらったたくさんの幸せは、私の中に雪のようにゆっくりと降り積もって、私の生きる糧になっています」

風邪をひいたときも、一緒に雪だるまを作ったことも。日々の何気ない触れ合いも全て今の私を支える礎になっている。

積み重ねた思い出は、
背負い込んだたくさんの大切なものは
きっと、明日を生きる力になる。

「だから、私もあなたにたくさんの幸せを贈りたい」

七緒は小さな花を摘み取り、兼続の手にそっと握らせる。

「私からも、あなたに贈らせてください。あなたはたくさんのものを背負って立つ人だから。私はあなたが荷物をおろせる場所になりたい」



あなたと、苦しみも幸せも分かちあって生きていきたい。



その言葉は、音になることはなかった。

突然抱き寄せられ、唇が触れ合う。七緒の声も呼吸も……全てが兼続のものと混じり合った。舌先がやわらかく絡まり、七緒はびくりと身体を震わせる。膝の力が抜け、七緒は兼続の背にしがみついた。

「……兼続さん」

「……すまない。俺としたことが、年甲斐もなく。だが、君があまりにも可愛らしいことを言うもんだから」

七緒の身体を支えながら兼続は囁く。そんな彼に七緒は真っ赤な顔をやや俯きがちに隠しながらいいえ、と消え入りそうな声で呟いた。

「そろそろ、行かないと」

しばらくの間そうしていたが、本来の目的を思い出して慌てて七緒は立ち上がると先を歩き出した。そんな彼女の存在が愛おしくてたまらなくて。兼続もすぐにその後を追いかける。

「膝に泥がついてしまっているじゃないか。川まで辿り着いたら綺麗にしないとな」

「もうっ、誰のせいだと思ってるんですか」

「いや、でもあの君を見て何もせずにいられる男など男ではないぜ」

「……兼続さん!!」

やわらかい春の光に包まれながら、やがて2人はともに並んで前へ向かって歩みを進めた。





ほんのりと、土の匂いがする。
やわらかく、どこか懐かしい泥の匂い。

七緒は深く息を吸った。

大地の匂いがする。
土と、草と、花と、雨と……

少しずつ混ざりあって春の匂いが匂い立つ。

大地を蹴り、前へと進む。

靴に泥がまとわりつく。ぐにゃりと不安定な地面は、七緒が今この大地に立っていることを思い出させてくれた。

やわらかな温もりが繋いだ手から伝わってくる。それは七緒をこの大地へとつなぎ止める愛おしい温もりだ。

目の前に最上川のせせらぎが広がった。
太陽の光を受けて、きらきらと輝く川はいつもより水の量が多いものの穏やかに流れている。大地を育む母なる水は2人を静かに待っていた。

私は、ここで生きていく。
この大地で。この人のそばで。
愛しいものたちが生きる、この地上で。

いつか、この人と。
連理の枝とならんその日まで。
5/6ページ
スキ