兼七
開け放った障子からは冴え冴えとした空気が流れ込んでくる。年の瀬を迎え、慌ただしくしていたのが嘘のように穏やかな時間が流れていた。もうじき新しい年がやって来るだろう。縁側に座り、静かに降る雪を眺めながら、兼続は静かに夜空を眺めていた。
無数の星が煌めいている。薄ぼんやりと淡い光を放つのは天の川だ。
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の……」
白きを見れば 夜ぞふけにける
冬の天の川は、夏と比べるとはっきりとは見えず今にも消え入りそうな淡くぼんやりとした姿をしている。にも関わらず、その星の群れは兼続の捉えて離さない。
それは、彼女とのつかの間の逢瀬を思い起こさせるのか。それともあの天にかかる橋が天女の羽衣を思い起こさせるのか。
夢を見る。
富士の山で天に昇る彼女の姿を。
夢を見る。
龍穴の奥へと消えてゆく彼女の姿を。
夢を見る。
友を抱えて走ったあの日を。
彼女の力に縋ったあの日を。
睦月:茉莉花
「お待たせしました!」
静寂によく通る凛とした声が響いた。
襖がすっと開き、盆を手に持った七緒が歩み寄ってくる。盆の上に載った徳利からはほんのりと白い湯気が立ち上がり揺れている。
「わっ、やっぱり外の空気は冷えますね」
そう言いながら兼続の隣に腰を下ろす七緒はいつもと比べるとどこか浮き足立っていてそわそわと落ち着かない。新しい年の訪れに心を踊らせているのか否か……どちらにせよ、愛しい女がはしゃぐ様は兼続の心を年甲斐もなく波立たせる。
「どうぞ」
その呼び掛けに応じて杯を手に取り差し出すと、七緒はゆっくりと丁寧に。だがまだ少し覚束無い手つきで徳利を傾けて酒を注いだ。
ふわりと炊きたての米のようなふくよかな香りが漂う。
「ほう……これは美味いな。君も俺の好みを覚えてきたじゃないか」
「本当ですか? 」
「ああ、もちろんだとも。 味といい温度といい俺好みの味だぜ」
「嬉しい……」
ぱっと花が咲いたように七緒は微笑む。そんな姿が眩しくて、兼続は思わず杯を置くと手を伸ばし、その頭を撫でた。
しかし、そんな兼続の行動に対して七緒は少し不満そうに唇を尖らせる。
「……子ども扱いしてません?」
「いいや? それより君、一杯どうだ?」
「…………今日は遠慮しておきます」
以前、1度だけ飲んだ時のことを思い出したのだろう。顔を林檎のように真っ赤に染めて七緒は首を振った。
「なんだ、それは残念。君の可愛らしい姿を拝めると思ったんだがなあ」
「いくら兼続さんの頼みでも、今日だけはダメです!! 」
「君はいつでも愛らしいが、あの時の匂い立つような色香は実によかった。どうしても……ダメかい?」
「どうしても、です!一緒に初日の出を見ると約束したじゃないですか。それに、私は今日これを飲むんです」
七緒はそう言って立ち上がると、部屋へと戻りティーポットをもって戻ってくる。そして、中にお湯を注いだ。
あっという間に透明なポットの中に大輪の花が咲く。
「驚いたな。これは、君が持ってきた工芸茶……だったか」
七緒が令和の世から持ってきたものはすべて大切に屋敷にしまってあった。これもそのひとつだ。
「まだいくつか残っていたので」
それで湯呑みを用意していたのか。
何に使うのかと疑問に思っていたが、そういう事かと兼続は納得する。
ティーポットからはほのかに甘い異国の香りが漂ってきている。茉莉花の香りだ。
「大掃除を手伝っていて、懐かしいものをたくさん見つけました。このティーポットもオペラグラスも。ずっと大切に持っていてくれたんですね」
「俺は物が捨てられない質なんだ。……君からもらったものなら尚更さ」
そう。いつだって捨てられない。
集めた本も、幸せな思い出も、辛く苦い思い出も。すべて屋敷の中や胸の内に抱え込んだままだ。
ぐびりと杯に残っていた酒を飲み干す。
どうも、今日は感傷的になってしまう。
南の空には変わらず、天の川はやわらかな輝きを放っていた。
「あの頃、私は必死で兼続さんを追いかけていましたね」
「……そうだったな。俺の気を惹こうとあの手この手で向かってくる君は可愛らしかったぜ」
「今ならなぜ兼続さんがあんな態度をとっていたのかよく分かります。でもあの時はまだ幼かったから、必死で……」
こぽこぽと湯のみに茶が注がれる。
ほんのりと漂う湯気からはより一層濃厚な茉莉花の香りがたちこめた。
「あなたが背負うものをほんのひと握りも分かっていなかった」
徳利が持ちあげられた。
それに応え、兼続は杯を差し出す。
「……君は、君の役目を果たそうと努めていたさ」
静寂が訪れた。
澄んだ瞳がまっすぐと兼続を射抜いてくる。
降り積もる雪はとどまることを知らず、ゆっくりと大地を覆っていく。
「……兼続さん。私、この運命を選んでよかったと心の底から思っています」
きっと、あの日に戻ったとしても。
私はこの運命を何度でも選ぶんです。
あなたの隣にいる、この運命を。
ぼーんぼーんと鳴り響く除夜の鐘の音は新しい年の訪れを告げていた。
羽衣を自ら手放した天女は一体どうなるのだろうか。ゆらりと揺らめく蝋燭の灯りを兼続はぼんやりと見つめる。
結局、七緒は初日の出を待つことなく眠ってしまった。腕の中にいる愛おしい存在を兼続は強く抱きしめる。白檀の香りがほんのりと香り胸を落ち着かせた。
一度手にしてしまったものは、もう二度と手放せない。だから、今隣にいる君にたくさんの思い出と幸せを贈りたい。
東の空からほのかに明るくなってきた。そろそろ日の出だ。
兼続は愛おしい妻を眠りから呼び起こすため、優しく背を揺らし囁くのだった。
無数の星が煌めいている。薄ぼんやりと淡い光を放つのは天の川だ。
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の……」
白きを見れば 夜ぞふけにける
冬の天の川は、夏と比べるとはっきりとは見えず今にも消え入りそうな淡くぼんやりとした姿をしている。にも関わらず、その星の群れは兼続の捉えて離さない。
それは、彼女とのつかの間の逢瀬を思い起こさせるのか。それともあの天にかかる橋が天女の羽衣を思い起こさせるのか。
夢を見る。
富士の山で天に昇る彼女の姿を。
夢を見る。
龍穴の奥へと消えてゆく彼女の姿を。
夢を見る。
友を抱えて走ったあの日を。
彼女の力に縋ったあの日を。
睦月:茉莉花
「お待たせしました!」
静寂によく通る凛とした声が響いた。
襖がすっと開き、盆を手に持った七緒が歩み寄ってくる。盆の上に載った徳利からはほんのりと白い湯気が立ち上がり揺れている。
「わっ、やっぱり外の空気は冷えますね」
そう言いながら兼続の隣に腰を下ろす七緒はいつもと比べるとどこか浮き足立っていてそわそわと落ち着かない。新しい年の訪れに心を踊らせているのか否か……どちらにせよ、愛しい女がはしゃぐ様は兼続の心を年甲斐もなく波立たせる。
「どうぞ」
その呼び掛けに応じて杯を手に取り差し出すと、七緒はゆっくりと丁寧に。だがまだ少し覚束無い手つきで徳利を傾けて酒を注いだ。
ふわりと炊きたての米のようなふくよかな香りが漂う。
「ほう……これは美味いな。君も俺の好みを覚えてきたじゃないか」
「本当ですか? 」
「ああ、もちろんだとも。 味といい温度といい俺好みの味だぜ」
「嬉しい……」
ぱっと花が咲いたように七緒は微笑む。そんな姿が眩しくて、兼続は思わず杯を置くと手を伸ばし、その頭を撫でた。
しかし、そんな兼続の行動に対して七緒は少し不満そうに唇を尖らせる。
「……子ども扱いしてません?」
「いいや? それより君、一杯どうだ?」
「…………今日は遠慮しておきます」
以前、1度だけ飲んだ時のことを思い出したのだろう。顔を林檎のように真っ赤に染めて七緒は首を振った。
「なんだ、それは残念。君の可愛らしい姿を拝めると思ったんだがなあ」
「いくら兼続さんの頼みでも、今日だけはダメです!! 」
「君はいつでも愛らしいが、あの時の匂い立つような色香は実によかった。どうしても……ダメかい?」
「どうしても、です!一緒に初日の出を見ると約束したじゃないですか。それに、私は今日これを飲むんです」
七緒はそう言って立ち上がると、部屋へと戻りティーポットをもって戻ってくる。そして、中にお湯を注いだ。
あっという間に透明なポットの中に大輪の花が咲く。
「驚いたな。これは、君が持ってきた工芸茶……だったか」
七緒が令和の世から持ってきたものはすべて大切に屋敷にしまってあった。これもそのひとつだ。
「まだいくつか残っていたので」
それで湯呑みを用意していたのか。
何に使うのかと疑問に思っていたが、そういう事かと兼続は納得する。
ティーポットからはほのかに甘い異国の香りが漂ってきている。茉莉花の香りだ。
「大掃除を手伝っていて、懐かしいものをたくさん見つけました。このティーポットもオペラグラスも。ずっと大切に持っていてくれたんですね」
「俺は物が捨てられない質なんだ。……君からもらったものなら尚更さ」
そう。いつだって捨てられない。
集めた本も、幸せな思い出も、辛く苦い思い出も。すべて屋敷の中や胸の内に抱え込んだままだ。
ぐびりと杯に残っていた酒を飲み干す。
どうも、今日は感傷的になってしまう。
南の空には変わらず、天の川はやわらかな輝きを放っていた。
「あの頃、私は必死で兼続さんを追いかけていましたね」
「……そうだったな。俺の気を惹こうとあの手この手で向かってくる君は可愛らしかったぜ」
「今ならなぜ兼続さんがあんな態度をとっていたのかよく分かります。でもあの時はまだ幼かったから、必死で……」
こぽこぽと湯のみに茶が注がれる。
ほんのりと漂う湯気からはより一層濃厚な茉莉花の香りがたちこめた。
「あなたが背負うものをほんのひと握りも分かっていなかった」
徳利が持ちあげられた。
それに応え、兼続は杯を差し出す。
「……君は、君の役目を果たそうと努めていたさ」
静寂が訪れた。
澄んだ瞳がまっすぐと兼続を射抜いてくる。
降り積もる雪はとどまることを知らず、ゆっくりと大地を覆っていく。
「……兼続さん。私、この運命を選んでよかったと心の底から思っています」
きっと、あの日に戻ったとしても。
私はこの運命を何度でも選ぶんです。
あなたの隣にいる、この運命を。
ぼーんぼーんと鳴り響く除夜の鐘の音は新しい年の訪れを告げていた。
羽衣を自ら手放した天女は一体どうなるのだろうか。ゆらりと揺らめく蝋燭の灯りを兼続はぼんやりと見つめる。
結局、七緒は初日の出を待つことなく眠ってしまった。腕の中にいる愛おしい存在を兼続は強く抱きしめる。白檀の香りがほんのりと香り胸を落ち着かせた。
一度手にしてしまったものは、もう二度と手放せない。だから、今隣にいる君にたくさんの思い出と幸せを贈りたい。
東の空からほのかに明るくなってきた。そろそろ日の出だ。
兼続は愛おしい妻を眠りから呼び起こすため、優しく背を揺らし囁くのだった。