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ザカ/エリ未満のザカ+エリ

嗜まれているのが当然の様に、あの人は目前に置かれたピアノを弾いていた。
あまりにもピアノとはかけ離れた印象だったせいか、驚いて思わずその曲目を尋ねてしまった。
「ソナチネの、第三楽章」
ほんの気まぐれだったのだろうか、答えるや否やその人はもう用はないとばかりに指を止めてしまった。

それから4日程が経ち図書カードを整理している際に口の奥でその音を追っている自分に気づき、それと同時にこの曲をもう一度聴きたいと思った。
自分の勤め先は図書館だ、ソナチネをキーワードにいくつか本を調べてみたが量が量だった。
モーツァルトにベートーヴェン、楽譜を見たがどうにも違った。
弾いていた本人に聞けば良かったのかもしれない、だが何故だかそればかりははばかられてしまった。
ソナチネ、第三楽章、音楽。
ここ最近考える事はそんな言葉ばかりだった。
数日経つ頃には自室に置いていた楽譜を妹が目敏く発見しては、これも弾かないで返すの?と呆れるようになっていた。

ソナチネの第三楽章。
遂には音楽などとは程遠い知人までにも問うようになっていた。
知らない、知らない、聞いた事も無い。
実際に弾いていたあの男よりも遥かに弾きそうな人々が、首を傾げる様という物を嫌という程に見た。
ソナチネ第3楽章か、そうやって漸く頷いた人が1人だけいた。
ギロックの物なら聴いたことがある、他は知らないね。
答えると同時に言外に何故そんなものを気にするのかと問われた気もしたが、
あの男がピアノを弾く事を何だか言いたくなくて、黙ってその場を去った。
ギロック。漸くその音を見れると僕は少し浮き足立っていたと思う。


結果を先に言うと、違っていた。
勢いだけで楽譜を借りてきたがやはり違っていた、妹は呆れを越したのかもはや楽譜を見ようともしなかった。
ギロック、確かに素晴らしいと思う、だが違う。あの男が気だるげに手袋すらも外さずに弾いたそれとは違う。
数日後ギロックを僕へと教えた相手はどうだったかと聞いてきた。
素直に答えるか迷ったが気を使う必要も無いだろうと違っていました、と素直に返しておいた。

相手は眉を顰めると、少し間を開けラヴェル?それともカバレフスキー?と言葉を続けた。
僕はその返事に言葉を失った。
相手は咳を一つしてから君がそうまでして調べるのだから何かあるのかと思ってね、と意地が悪そうな笑みを向けてきた。
これには僕も観念するしかなかった、隠していた理由を明かして見せれば
あの男が?と目を見開き、続けてそれは本当に弾いていたのか?と疑ってきた。

曲が気になりだすのに数日、軽く調べるのに数日、楽譜を借り出すのに数日、知り合いに聞きだすのに数日、ギロックにたどり着くのに数日。

思い返してみるとあの男のほんの気まぐれなピアノ演奏から中々の時が経っていた。
しかしそれでもやはりあの音だけは鮮明だった。気だるげで、軽やかな、あの音。

弾いていた、絶対に。
その言葉に相手が何を思ったのか定かでは無かったが嫌そうな顔を一瞬見せるだけ見せて、今度は彼の方から去っていった。
僕は深くを問われなかった事に安堵して、ラヴェルとカバレフスキーを調べようと図書館へと足を伸ばした。
楽譜、カ行、カバレフスキー。
名前に沿った楽譜を手当り次第に取って収める。
ソナチネ、第三楽章。
その曲をもう一度見れるのだと、僕は今度こそ本当に足が宙を舞うような心地だった。
そのせいだったのだろう、中身もろくに見ずに借りてしまったのは。
そうして再度妹に呆れられてしまったのも。

二人共違っていた、僕は大量に借りた楽譜を前に文字通り頭を抱えた。
その後楽譜を返した帰りに再度男に聞いてみたが自分で調べればいいだろう、これ以上は知らないよ。の一点張りだった。
ソナチネ、第三楽章。
最後まで聴けなかったその音を僕はずっと追い求めている。

数日がまた過ぎた、あの男のピアノの音を聴いてから1ヶ月ばかりが経っていた。
僕は楽譜を借りてくるのを止めた。
妹は借りて来ない日が続くにつれ訝しげに楽譜は無いの、と聞いてくるようになった。
僕は無い、と言った。そうしてきっともう僕の求めるソナチネは見つからないとも密かに思った。

「ソナチネの第三楽章」
そう思った、僕の中で一つの思い出として仕舞い込むつもりだった、それなのに。
それを台無しにしてきたのはやはり当事者とも言える男だった。
妹にもう借りないと告げた次の日に、顔を見合わせた瞬間唐突にそう言われたのだ。
相変わらず情緒を顧みない男だと思った。
何故それを、と問い詰めそうになったがこの曲目と事情を知っている者は僕とこの男以外は一人しか居なかった。

僕とこの男だけの、ソナチネだったのに。

じゅわりと虚しさの様な物がこみ上げてきて、苦虫を噛む心地で黙っていると
男はこちらの心情などには目もくれず弾くか?、などと言ってきた。
願ったり叶ったりの提案だった。
そこで頷いていれば、僕はその曲を再び聴くことができていただろう。
それなのにも関わらず僕が思わず口にしたのは結構です、と言う拒否の言葉だった。
提案してきた男はそうか、とだけ言った。
こうして僕は自ら匙を投げ、彼とのソナチネを静かに壊した。

ソナチネの第三楽章。
初めはただもう一度聴きたい、見たい、それだけだった気がする。
それがいつからか、あの男が僕にしかピアノを弾いていないと分かった日からか。
不思議な事に、この曲を通じて僕らの間に何かの縁ができた気がしたのだ。
それが僕は嬉しかったのだと思う、だからこそ悲しかった。

そうして数日が過ぎた、そうして数ヶ月が過ぎた、そうして数年が過ぎた。
僕が壊したソナチネが巻き戻ることはなく、あの人がピアノを弾く事も無かった。
そして笑ってしまう事だが、この月日の内にソナチネを引いたあの男は僕の前から忽然と姿を消していた。
何も言わないまま消えてしまった。
あの日あの時、僕が彼の提案に頷いていればこんな結末にはならなかったのだろうか。
彼のソナチネをもう一度聴いていれば、もう一度聴きたかったのだと言っていれば、あの男は組織を去る事を僕へと伝えていたのではないだろうか。
誰の物かも分からないその曲は、もはや僕の後悔でしかなかった。

「ソナチネの第三楽章」
次にその曲目を耳にしたのは男が弾いたあの日から五年程が経った時だった。
僕は思わず歩みを止めてしまった、そこは大型ショッピングモールのピアノコーナだった。
曲目の出どころを探ると近くの電子ピアノに腰掛けた婦人が目に入ってきた。
妹の服を買う、それだけの為に来ただけだ。
まさか偶然来た日、それも偶然通ったこの場でその曲目を聞くとは、流石に呆気に取られた。
婦人は僕の事なんかに目もくれず、近くの店員に笑いかけるのもそこそこにピアノへと指を這わせていた。
どうやら盲目のようだった。

外側から内側へと鍵盤を順に両手で辿っている。
その動きをしている間に店員は彼女の横を離れていった、弾くのに時間がかかると思ったのだろう。
僕もそう思った、そうして店員がこちらを向いたのを皮切りにここを離れようとした。
しかしそれは出来なかった、言葉通り出来なかったのだ。
彼女が弾き出したのは確かにソナチネの第三楽章だった。
僕と彼の、ソナチネだった。
そうして今になって知った、あの男の演奏が実はあまり上手く無かった事を。
彼女の方が遥かに上手い、弾く音は同じだがこうも違って聴こえるのかと僕は一抹の感動と愉快さを感じていた。

店員は僕がピアノでなく彼女を見ていると分かったのか近づく事を止めたようだった。
それがまた僕には愉快に感じられた。
彼女の指は止まない、あの男の先までを弾いていく。
僕はあの男に、いや、あいつに、これを聴かせてやりたいたいもんだと思った。
きっと眉を顰めて溜息をついた筈だ。

そうして数分も経たないうちにそれは終わった。
彼女が弾き終えると同時に店員が寄ろうとしたが、僕が近づくのを見て止めたらしい。それでいいと僕は思った、邪魔をされたくはなかった。

「ソナチネの第三楽章」
挨拶を挟む余裕も無く曲目だけで声をかける、僕はもう機会を逃したくなかったのだ。

婦人は当然ながら驚いたようだった。
そうして声の方、僕へと顔を向けるだけ向けて暫く止まっていた。
流石に失礼だったかと時が経つに連れ先程の無礼とも言える態度を後悔しそうになっていたが、目前の彼女が微笑んだことでそれは断ち切られた。
「うん。そうだよ。音楽に詳しいんだね。」

詳しいなんてもんじゃないと、その曲だけしか知らないだなんて言える訳もなく。
僕は形式として微笑み、とりあえず肯定の意を返しておいた。
彼女は嬉しそうだった、そうして不思議そうでもあった。彼女に限らずそれは僕も同じだった。
とても初対面には思えない、親近感とも言える何かを感じたのだ。

初めて運命、と言う物が確かにあるのだと感じた。
散々本に触れてきた中で、絶えず見てきたその二文字とはこんな物なのかと今実感していた。
彼女も困惑したようでそれに合わせたかのようにイスから立ち上がっていた。
そして立ち上がったと同時に僕を見据え、一言だけ漏らした。

「こんなにも愛してるとは思って無かった。申し訳なく思うよ。」

何を言われたのか分からなかった。
ただ目前の彼女が心底残念そうに、嬉しそうに、僕の方を向いている事しか分からなかった。
いやこれはもはや向いているじゃない、意図的に見ている。
盲目の彼女は確かに僕を見ている、そんな気がした。
今度は僕が戸惑い止まる番だった、声をかけたのは僕からのはずだったのに、投げた匙を拾おうとしただけだった筈なのに。
まるで全てが全て仕組まれているような気味の悪さを感じたのだ。
彼女は停止した僕に何を感じたのか再度微笑むと、ゆるりとピアノのコーナーから離れていく。
そして置き土産とばかりに、
ディアベリ。ディアベリだよ。と言うだけ言って本当に去っていった。

ディアベリ。ずっと知りたかったその名前。彼女が帰る手前にその名前を繰り返し伝えてきた訳を、僕は知らない。

ディアベリのソナチネ第三楽章。
これはもはや呪いだ、僕はきっと一生忘れないだろう。

そうして僕と彼のソナチネは儚くも呪いへと変化した。
だからと言って何かが変わった訳では無いが、強いて言うならばもう二度とディアベリのソナチネ第三楽章は聴きたくないと思う。
もし聴いたとしても、僕が好んでいた気だるげで下手くそなあの音はもう思い返せないからだ。
ソナチネの第三楽章。
僕が欲しかったのはディアベリと名の着くソナチネじゃなかったんだ。
不器用で原型も名もないソナチネが、それを弾くあなたがよかったんだ。
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