染めるのは愛か、嫉妬か。
ーー今すぐ抱きしめて
このままどこかへ連れ出して逃げたいけど、
空が世界を橙色に染め上げる。
生温い空気に、少しだけ冷たい風が吹き抜ける。
此処が都会だという事を一瞬忘れてしまいそうになるほど、時間はとても緩やかに流れで……その隣には大切な人が居る。それが何よりも心地良い。
それを実感しながら、僕は自分よりも幾分か背の低い女性を横目で見る。
「マネージャー、大丈夫? 重くない?」
「平気です。半分以上は壮五さんが持ってくれてるから」
こちらを少し見上げて、彼女は柔らかに笑う。けれど、その表情が少しだけ陰りを見せる。
「……ごめんなさい。壮五さんにまで買い物付き合わせてしまって」
「良いんだよ。マネージャーばかりに大変な思いさせられないから」
「そんな、これが私の役目ですし。……でも、ありがとうございます」
本当に申し訳なさそうに、けれど彼女は礼儀正しく頭を下げる。
そんな仕草の一つ一つがただただ愛おしい。
「……あっ」
「どうかした?」
「伝え忘れてたんですが、今日事務所に壮五さん宛に沢山ファンレターやプレゼント届きましたよ」
「そうなんだ……何だか凄いね」
そんな僕の他人事のような反応が不思議に見えたのだろう。彼女はきょとんとした顔でこちらを見詰める。
「凄いねって……全部壮五さん宛なんですよ?」
「あっ、うん。……分かってるんだけど、何だかあんまり実感なくて」
まだ駆け出しのアイドルである自分がこんなに直ぐ反響が出るとは正直思っていなくて……ファンレターやプレゼントを貰えるのは嬉しいし有り難い事だと思うけど、それでも自身を取り巻く変化に自分自身が追いつけてないのが現状だった。
「確かにあの野外ライブの生中継から一気にですもんね…」
こちらが曖昧に笑うと、彼女もつられるように小さく笑って見せた。
きっとこの状態を何よりも理解してくれてるのはIDLiSH7のメンバーと、マネージャーである彼女だろう。
「でも、それだけ壮五さんに魅了があるって事ですよ。自信持って下さい!」
僕を元気づけるように彼女は満面の笑みを浮かべ言う。彼女のこういうところに、きっと僕は救われているんだろう。
「それに、」
笑顔だった彼女はそこで言葉を区切り、瞬間、僕を真剣な眼差しで見詰めた。
でもそれは暗い印象では決してなく、まるで輝きを帯びた空のような瞳でーー
「それに壮五さんがIDLiSH7にいてくれるから、メンバー全体が調和が取れてるんです。それは皆にとって大事な事で、必要な事で」
彼女の煌めく瞳と綺麗な声と、夕暮れの色があまりにも優しくてーー優しすぎて、
「私にとっても必要な存在なんですよ。壮五さんは」
嗚呼、そんな風に言われたら錯覚してしまいそうになる。彼女にとって僕が特別な存在であると。
そんな風に都合よく解釈してしまいそうになる。
ーー分かっている。彼女にとってはIDLiSH7のメンバー全員が大切なんだ。僕だけが特別な訳じゃない。
そんな事は分かっている……。
でも……
「あの、マネージャー…っ」
「マネージャー」
僕が彼女を呼ぶと同時にとても耳に馴染む落ち着いた声が聞こえて、僕と彼女は声の主の方へと振り返る。
そこには、IDLiSH7のメンバーの一人、和泉一織君の姿があった。
どうして彼が此処に……?
そんな考えが一瞬頭を過ぎったが、冷静に周りを見れば、今自分達がいる場所が事務所の玄関口付近な事に気付く。
どうやら歩いてるうちに、もう既に事務所には到着していたようだった。
自分の中の思考が糸のように複数張り巡らされてて、絡まっていて……だから景色の変化にさえ気付かなかった事に、そんな自分に内心自嘲してしまう。
「一織さん、どうかしましたか?」
彼女は一織君の方に身体ごと向けて尋ねる。
「少しお話が…宜しいでしょうか?」
彼女と一織君が時折二人で何かを話しているのはメンバー内では周知の事だ。だから今回もそうなのだろう。
その内容は分からないけど、けど二人の事だからきっと仕事関係の話だという予想はできた。
……だから、こんな醜い感情を抱くのは間違っているのだ。
彼女の隣が自分でなくなる、それが堪らなく嫌だと思ってしまうのも、恥じるべき事だ。
「あっ、ええっと……」
そんな僕の心情など知るよしもない彼女は一織君に声を掛けられて少し困った様子を見せていた。
恐らく、僕が先程彼女を呼び掛けた事を気にしているのだろう。
僕と一織君を交互に見て、どうしたらいいのか考えている様子だった。
ーーそんな彼女の優しさに、残酷にもつけ入れる事が出来たならどんなに楽だろう……でも、
「僕の事はいいよ、一織君の方を優先してあげて」
僕は優等生の仮面を被って、彼女を安心させるように笑ってみせる。
それでも彼女は暫く迷っていたが、少し離れた場所で待つ一織君を見てから軽く深呼吸する。
「すみません。では、失礼しますね」
本当に申し訳なさそうに彼女は頭を下げ、一織君の元へ小走りに駆けて行く。
段々と小さくなっていく彼女の背中を見て、僕は激しく心を掻き毟られていった。……けれどこの時の僕は、そんな自分の感情にさえ気づけないでいた。
ただ、だだひたすら祈りのように身の内側で叫ぶ事に必死で。
ーーお願いだ。
どうかお願いだから、
「……っ」
僕の知らない君がいる。
そんなの、嫌なんだ。
そんな事ーー耐えられないんだ。
「そう、ご…さん?」
目の前には吃驚した表情を浮かべる彼女。
そして僕の掌の先には、彼女の細い腕があって……気づけば彼女を引き止めるように、その華奢な腕を強く掴んでいた。
「あっ……」
彼女に名前を呼ばれて、僕はようやく自分が起こした行動を理解する。
束の間の沈黙。
そんな僕の行動に、彼女だけでなく一織君も困惑の表情を見せていた。
その視線にいたたまれなくなって、ずっと掴んでいた彼女の腕から手を離し、自分でもぎこちないと分かっていながら、それでも僕は二人に小さく笑って見せた。
「ごめん……何でもないよ。引き止めちゃってごめんね。僕の事は気にしなくて平気だから」
「そう…ですか? 壮五さん、本当は何かっ」
「本当に何でもないよ。大丈夫」
それでも心配する彼女の言葉を遮り振り切るように何度も何度も、僕は呪文のように「大丈夫」という言葉を繰り返した。
「……分かりました。もし何かあったら遠慮せず私に話して下さいね」
そう言い残し、彼女はまだ心配そうな表情で何度かこっちを振り返りながら一織君と共に事務所の中へと入って行った。
そんな彼女を安心させようと何度か手を振って、二人の姿が見えなくなった頃、ようやくその手を力なく下ろす。
ーー僕は家族を捨てた男だ。そんな奴が、誰かを好きになるなんて烏滸がましい。
分かっている。
だから、君を想う資格なんてないんだ。
分かっている。
だから、
「……ごめんね」
ーーでも
僕は、
ーーそれでも
君が、
「好き、なんだ……」
口にした瞬間全てが虚しくて。
忘れてたと思っていた涙が頬に伝い始める。
そんな僕の想いの変化にまるで合わせるかのように橙色の空が群青色へと変化していく。
「好きだよ……」
まるでこの心を優しく酷く、淡く切なく侵していくように。空は美しく儚げにその表情を変えて。
「紡……」
僕の小さな恋
君には届かない。
壮紡SS。別名で活動している支部から転載したものになります。
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