2,港の異変
ひりついた路地裏の空気が一変したのは、冒険者の声が呟きから呻き声に変わったからだった。まずい、そう呟いたディオが飛び出していったのを追いかける。冒険者は突如やってきたユールたちに目を見開くと、また頭を抱えて唸りだした。
「ど、ウしよ、う、うあ゛ぁ、イだぃ、おれダッテで、デき、ゔぅ……」
「おいしっかりしろ!」
「うぁ、あ゛ぁあ、うワぁあぁ!」
喚き声を上げながら冒険者がディオに向き合った瞬間、キィン、と甲高い音が聞こえてユールの頭の中が切り替わる感じがした。ボス戦であったり、クエストで必要な戦闘の時、その場に特殊フィールドが展開される。具体的に言うと撤退が出来なくなるのだ。オープンワールドなゲームに意識ごとフルダイブしている今だからこそ、文字通り切り替えができてありがたい。
そしてフルダイブ型のゲームの場合、システムウィンドウを開かないと数値として目の前にデータが表示されないことがある。だが戦闘中にいちいちウィンドウを開いている余裕は無い。ユールのモットーは『だいたい半分くらいまで体力が減ったら満タンまで戻す』だ。そのため、味方や敵をしっかり観察しておく必要がある。
集中集中。改めて両の手で杖を握りしめた。
「ぅ、ギぎぎィ……! 馬鹿にじヤがッデぇえぇェエ!」
「オラァッ! くそ、ユール! 落ち着かせるのが優先だ! 白魔術士も《睡眠 》あるだろ!」
襲いかかってきた冒険者の武器を、ディオはで大きく棍で横凪に払い除けた。いつでも援護に入れる位置を陣取りつつ、ユールは出かけにギルドで教わった手持ちのスキルを思い浮かべる。
範囲攻撃魔法《風薙 》、単体攻撃魔法《水弾 》、回復魔法《治癒 》、それからディオご所望の文字通り対象を眠らせる《睡眠 》。レベル5の白魔術士が持つ手札はこれだけだ。
《睡眠》は魔物を捕獲したり、敵の動きを止めるのに有効。しかしタイミングが重要で、対象の気が術者から逸れていたり、弱っている必要がある。
喚き声と共に闇雲にガンガンと打ち付けられる槍。それは暴れている冒険者の身の丈に合った物のように見えた。しかし黒いもやが覆っているせいか威力が増しているらしい。穂先を躱してうまく棒の部分だけをぶつけていたディオは大きく反動を使ってユールの傍へ後退してきた。
彼は目にかかる赤い前髪をうっとおしそうに振って払いながら前を見据えている。
「チッ、向こうが変に力んでるせいで流しにくい。けど多少は当てたから削れてはいるはずだ」
「こっちはいつでもオッケー」
「っし、じゃあ行くぜ!」
駆け出したディオは上段から大きく振りかぶって棒を何度も叩きつけた。何かしらの攻撃スキルを使っているのだろう赤いエフェクトが見え隠れする。あれ、なにかのバフついてるのかな。あとで≪解析 ≫させてほしさはあるけれど今は置いておこう。
ユールは目を冒険者へと向けた。行き止まりで戦っているから逃げられる心配はない。だが長引かせるよりも、さっさと仕留めるに限る。
少しの高揚感を抑えて打ち合っている二人のタイミングを見計らっていると、冒険者がディオの猛攻に耐えながら溜めを作っていることに気が付いた。ゲームにおいて、一定の溜めが入るスキルはだいたい威力が高いことが多い。
「来るぞ!」
「分かってる! お前こそ巻き添えを食らうなよ! 《軽減 》!」
「ヴぁぉぁあ!!」
「よ、っと……ッぐぅ!」
黒い衝撃波を纏った冒険者の攻撃が、前に出ていたディオを強襲した。ダメージ軽減のスキルを使っていたようだが、表情には冷や汗が浮かんでいる。黒いもやの効果もあるのだろうが、思っていたよりディオも削られているようだ。
その時、ユールの目が攻撃の反動ですこしたたらを踏む冒険者を捉える。向こうも驚いた顔をしていたので予想外のことらしい。
すぐさまユールは≪治癒 ≫をディオに放つ。緑のきらきらとしたエフェクトに包まれた彼は少し目を見開いたあと、にやりと笑い大きく棒を振りかぶった。
「ははっ、上出来だユール! ≪足薙 ≫!」
「なっ、グァッ!?」
≪足薙 ≫。つまりは足払いだ。冒険者はよろけていた所を棍で足を払われ、目を見開きながらぐらりと地面に倒れていく。
今だ! 意識を対象へ集中させて魔力を飛ばすイメージで……!
「≪睡眠 ≫……っ!」
両手杖から放たれたふわふわとした泡のようなエフェクトが倒れ込む冒険者の周りを取り囲み、そしてぱちんぱちんとはじけていく。
黒く澱んでいたはずの瞳が見開かれた後、一瞬だけ澱みが薄れたような気がして。悪夢を怖がるような子供のような顔で、冒険者は静かに眠りへ落ちていったのだった。
ふう、とたっぷりの息を吐いたユールの頭の中がまた切り替わったような感覚がする。何とか無事にIoU内での初戦闘を終えることができたと胸を撫でおろした。
ユールが息を整えている間、冒険者がしっかり眠りに落ちていることを確認したディオはゆったりとこちらへ向かってくる。汗をかいた赤い髪をかきあげながら、彼の口角がぐっと上がっていた。
「やるじゃねぇか! タイミングばっちりだったぜ。あと助かった、あのまま追撃を受けてたらまずかったからさ」
「調子に乗るからだ。……まぁ、でも俺の方こそ助かったよ」
「なんだなんだ、随分謙虚だな?」
きょとりと目を瞬かせたディオにわしわしと紺色のくせっ毛を撫でまわされ、頭がぐらぐら揺れる。体育会系の人間と触れてくる機会がなかったユールはされるがままだった。
「うわっ、わ、っおい!」
「ははは!」
これがどうも気恥しい。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。むずむずする心を抑えて、ちらと倒れている冒険者を見やる。《睡眠》が効いているようで、眉間のシワこそあるがしっかり眠っていた。そして、今はあの黒いもやも見当たらない。
「……なぁ、これからこの人はどうなるんだ」
「まぁ、話聞かねぇことにはどうにもならねぇけど……一旦兄貴の所へ連れてった方が早ぇな」
「総長の? ……ああ、警備隊の詰所だとあの上官がいるかもしれないのか」
「そういうこと。とりあえずこっちは任せとけ」
じゃあな、と軽い挨拶の後、ディオはひょいと冒険者を背に抱えて≪転移 ≫した。
誰もいなくなった裏路地で、ユールは一息つく。ついでにレベルも少し上がったようだし、スキルもまとめて確認しておこうとスキルウィンドウを開いた。
戦闘不能から復活させる≪蘇生 ≫と、状態異常から回復させる≪快癒 ≫が増えている。これで回復、状態異常の治療、蘇生とヒーラーとしておさえておきたいものは出そろった。あとは範囲回復魔法も早く覚えておきたいところだが、それはまたおいおい。
杖をしまい、力んだ体を緩めるようにぐぅーっ、と伸びをする。建物の隙間から見える空はいつの間にか白み始めていた。なんだか空気も冷えているように感じる。港町だからシートレスの朝は早いのだろう。どこからか人々が動き出す声も聞こえ始めた。気持ちのいい朝だ。
――朝?
まずい。冷や汗が垂れる感覚がする。いや現実だったら絶対冷や汗が全身から吹き出ている。今現実だと何時だろう。というかアラーム鳴ったっけ。ユールの頭の中を様々なことが思い浮かんではぐるぐる回って消えていく。
急いでシステムウィンドウを開き確認する。食事や睡眠をとるアラームが鳴るまであと5分といったところだった。日本時間に合わせてあるリアルクロックはAM01:55。最悪オーバーしても別に死にはしないが、一定時間を超えるとゲームをログアウトした時に徹夜でレポートをしあげた時のような疲労感がどっと来てしまう。初日からそれは流石にイヤだ。
急いでギルドの宿に戻る。朝焼けの中、人影のまばらなシートレスの石畳の道をユールは駆けていくのだった。
――ふっ、とユールではなく悠 の意識が上昇する。
あの後、アラームぎりぎりにマルコの宿に飛び込み室内でログアウトすることが出来た。これで次にログインした時、野盗に身ぐるみを剥がされていたなんてことは無い。
時刻は深夜2時。晩ご飯食べそびれたな……と腹の虫が空腹を訴えるのを聞き流しながらヘッドギアを外し起き上がる。
ぺたぺたと素足を鳴らして冷蔵庫を開け、ゼリー飲料でとりあえず栄養補給。深夜など気にしない。大学もないことだしちょっと寝て、起きてからがっつり食事をして明日……いや今日か、またログインしよう。シャワーも起きてからでいいや。一人暮らしの男子大学生なんてこんなものである。きっと。
寝る準備をしながら誰かに言い訳しつつ、目覚ましだけいつもの時間にセットした。
そういえば、タイミングがなくてディオに《解析 》をかけられなかったと今になって思い出す。今進行しているのは序盤クエストだから、攻略を見てもネタバレというネタバレは踏まないだろう。デバイスを取り出して検索ワードをいくつか入力しようとして、ふと悠の指先がぴたりと止まった。
誰に言うでもない、でもあまりにも唐突で、言葉がぽろっと口からこぼれる。
「えっ。死亡……って、あいつ、死ぬのか」
『IoU ディオ』まで入力してサジェストに表示されたのは、『声優』『装備』などありきたりのものに加えて、一際目に付く『死亡』の二文字だった。
デバイスが床に音を立てて落ちる。
そういえば、悠が礼哉 に見せてもらったCMは、ゲームの序盤の映像を使って作られていた。いわゆる初心者向け、勧誘向けのもの。だから序盤に出てくるNPCを担当する声優がナレーションをしていたのだろう。それだけプレイヤーの印象に残るNPCなのだろうと、そう思っていた。
しかし礼哉の話では、最初に選ぶ職業によって開始の国も違えば序盤のストーリーも違うらしい。プレイヤーが必ずしも序盤でディオに出会うわけではないということだ。
ネタバレ防止で隠していてくれたのかもしれない。けれど何も言っていなかった事を考えると、ディオが死んでしまうのは彼もまだ到達していない第一部のストーリーのもっと後……それこそ終盤とかなのではないだろうか?
ごろごろとベッドに寝っ転がって考えてみても、あまりまとまりはしない。なんだかさっきまで一緒だった人間、いやAIで物事を考える電子データで出来た作り物ではあるのだが、ディオが近い未来死んでしまうというのがピンと来ないのだ。
今ここでデバイスを使ってサジェスト通りに検索して、どうしてそうなるのかを知ったっていい。けれど、なんだかそうする気にもなれなかった。さっきまで共に戦い汗をかき、勝手にこちらの頭を撫で、軽快に笑っていた彼が、そんな簡単にくたばるようには見えなかったからだ。
気を紛らわせようと別の項目を検索して履歴をどんどん上書きしていく。効率的なレベル上げ方法、序盤の金策方法、白魔術士のスキルについて……知っておきたい事はいっぱいある。実践で知ることも勿論楽しいが、偉大な先人達の知恵を借りることだってゲームの楽しみ方のひとつだ。
だが、それはそれ、これはこれである。
部屋を真っ暗にして、悠も目を閉じる。脳裏に先程の検索ワードが浮かんで来ようとするのをなんとか頭の片隅に放り投げた。
太陽を反射して輝くシートレスの海、靴の音が響く石畳の道、人々の営みで賑わう市場、埃すら照らされる紙の匂いで包まれたエルウィンの書庫、暗闇に浮かぶ灯りと喧騒が飽和する路地裏の酒場、噴水広場で子供たちに囲まれて快活に笑う彼の声――……。
思い返して、悠はごろりと寝返りをうった。
悠にとって、まだエルシロスでの出来事は始まったばかりだ。困難なことはもちろんだが、楽しいこと、面白いことが沢山あるはずで。
だからゲームの中の登場人物だとはいえ、こいつはいつか居なくなるんだから、なんて考えながら接するのはやめようと思った。だって寂しいじゃないか。そんなのは。
またひとつ寝返りをうって、布団をかぶり直す。起きてからのことに思いを馳せながら、悠のまぶたは次第にとろとろと閉じていった。
エルウィンの所へ報告をしに行ったら、それからまた次のクエストに進むのだろうな。総長であるセルソにも会えるだろうか。ディオにあの冒険者がどうなったのかも聞きたい。
彼の顔を見て、悠は動じずに居られるだろうか。そもそも、ストーリー上決まっている事をゲームのAIはどう捉えているのだろう。ワールドクエストの『理想郷二辿リ着クベシ』とは何も関係ないのだろうか。
いつの間に寝入ってしまったのか、そんなのは定かではない。
「ディオが死んでしまうのだとしたら、それは寂しいなぁ」と思ったのを、悠は覚えている。
「ど、ウしよ、う、うあ゛ぁ、イだぃ、おれダッテで、デき、ゔぅ……」
「おいしっかりしろ!」
「うぁ、あ゛ぁあ、うワぁあぁ!」
喚き声を上げながら冒険者がディオに向き合った瞬間、キィン、と甲高い音が聞こえてユールの頭の中が切り替わる感じがした。ボス戦であったり、クエストで必要な戦闘の時、その場に特殊フィールドが展開される。具体的に言うと撤退が出来なくなるのだ。オープンワールドなゲームに意識ごとフルダイブしている今だからこそ、文字通り切り替えができてありがたい。
そしてフルダイブ型のゲームの場合、システムウィンドウを開かないと数値として目の前にデータが表示されないことがある。だが戦闘中にいちいちウィンドウを開いている余裕は無い。ユールのモットーは『だいたい半分くらいまで体力が減ったら満タンまで戻す』だ。そのため、味方や敵をしっかり観察しておく必要がある。
集中集中。改めて両の手で杖を握りしめた。
「ぅ、ギぎぎィ……! 馬鹿にじヤがッデぇえぇェエ!」
「オラァッ! くそ、ユール! 落ち着かせるのが優先だ! 白魔術士も《
襲いかかってきた冒険者の武器を、ディオはで大きく棍で横凪に払い除けた。いつでも援護に入れる位置を陣取りつつ、ユールは出かけにギルドで教わった手持ちのスキルを思い浮かべる。
範囲攻撃魔法《
《睡眠》は魔物を捕獲したり、敵の動きを止めるのに有効。しかしタイミングが重要で、対象の気が術者から逸れていたり、弱っている必要がある。
喚き声と共に闇雲にガンガンと打ち付けられる槍。それは暴れている冒険者の身の丈に合った物のように見えた。しかし黒いもやが覆っているせいか威力が増しているらしい。穂先を躱してうまく棒の部分だけをぶつけていたディオは大きく反動を使ってユールの傍へ後退してきた。
彼は目にかかる赤い前髪をうっとおしそうに振って払いながら前を見据えている。
「チッ、向こうが変に力んでるせいで流しにくい。けど多少は当てたから削れてはいるはずだ」
「こっちはいつでもオッケー」
「っし、じゃあ行くぜ!」
駆け出したディオは上段から大きく振りかぶって棒を何度も叩きつけた。何かしらの攻撃スキルを使っているのだろう赤いエフェクトが見え隠れする。あれ、なにかのバフついてるのかな。あとで≪
ユールは目を冒険者へと向けた。行き止まりで戦っているから逃げられる心配はない。だが長引かせるよりも、さっさと仕留めるに限る。
少しの高揚感を抑えて打ち合っている二人のタイミングを見計らっていると、冒険者がディオの猛攻に耐えながら溜めを作っていることに気が付いた。ゲームにおいて、一定の溜めが入るスキルはだいたい威力が高いことが多い。
「来るぞ!」
「分かってる! お前こそ巻き添えを食らうなよ! 《
「ヴぁぉぁあ!!」
「よ、っと……ッぐぅ!」
黒い衝撃波を纏った冒険者の攻撃が、前に出ていたディオを強襲した。ダメージ軽減のスキルを使っていたようだが、表情には冷や汗が浮かんでいる。黒いもやの効果もあるのだろうが、思っていたよりディオも削られているようだ。
その時、ユールの目が攻撃の反動ですこしたたらを踏む冒険者を捉える。向こうも驚いた顔をしていたので予想外のことらしい。
すぐさまユールは≪
「ははっ、上出来だユール! ≪
「なっ、グァッ!?」
≪
今だ! 意識を対象へ集中させて魔力を飛ばすイメージで……!
「≪
両手杖から放たれたふわふわとした泡のようなエフェクトが倒れ込む冒険者の周りを取り囲み、そしてぱちんぱちんとはじけていく。
黒く澱んでいたはずの瞳が見開かれた後、一瞬だけ澱みが薄れたような気がして。悪夢を怖がるような子供のような顔で、冒険者は静かに眠りへ落ちていったのだった。
ふう、とたっぷりの息を吐いたユールの頭の中がまた切り替わったような感覚がする。何とか無事にIoU内での初戦闘を終えることができたと胸を撫でおろした。
ユールが息を整えている間、冒険者がしっかり眠りに落ちていることを確認したディオはゆったりとこちらへ向かってくる。汗をかいた赤い髪をかきあげながら、彼の口角がぐっと上がっていた。
「やるじゃねぇか! タイミングばっちりだったぜ。あと助かった、あのまま追撃を受けてたらまずかったからさ」
「調子に乗るからだ。……まぁ、でも俺の方こそ助かったよ」
「なんだなんだ、随分謙虚だな?」
きょとりと目を瞬かせたディオにわしわしと紺色のくせっ毛を撫でまわされ、頭がぐらぐら揺れる。体育会系の人間と触れてくる機会がなかったユールはされるがままだった。
「うわっ、わ、っおい!」
「ははは!」
これがどうも気恥しい。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。むずむずする心を抑えて、ちらと倒れている冒険者を見やる。《睡眠》が効いているようで、眉間のシワこそあるがしっかり眠っていた。そして、今はあの黒いもやも見当たらない。
「……なぁ、これからこの人はどうなるんだ」
「まぁ、話聞かねぇことにはどうにもならねぇけど……一旦兄貴の所へ連れてった方が早ぇな」
「総長の? ……ああ、警備隊の詰所だとあの上官がいるかもしれないのか」
「そういうこと。とりあえずこっちは任せとけ」
じゃあな、と軽い挨拶の後、ディオはひょいと冒険者を背に抱えて≪
誰もいなくなった裏路地で、ユールは一息つく。ついでにレベルも少し上がったようだし、スキルもまとめて確認しておこうとスキルウィンドウを開いた。
戦闘不能から復活させる≪
杖をしまい、力んだ体を緩めるようにぐぅーっ、と伸びをする。建物の隙間から見える空はいつの間にか白み始めていた。なんだか空気も冷えているように感じる。港町だからシートレスの朝は早いのだろう。どこからか人々が動き出す声も聞こえ始めた。気持ちのいい朝だ。
――朝?
まずい。冷や汗が垂れる感覚がする。いや現実だったら絶対冷や汗が全身から吹き出ている。今現実だと何時だろう。というかアラーム鳴ったっけ。ユールの頭の中を様々なことが思い浮かんではぐるぐる回って消えていく。
急いでシステムウィンドウを開き確認する。食事や睡眠をとるアラームが鳴るまであと5分といったところだった。日本時間に合わせてあるリアルクロックはAM01:55。最悪オーバーしても別に死にはしないが、一定時間を超えるとゲームをログアウトした時に徹夜でレポートをしあげた時のような疲労感がどっと来てしまう。初日からそれは流石にイヤだ。
急いでギルドの宿に戻る。朝焼けの中、人影のまばらなシートレスの石畳の道をユールは駆けていくのだった。
――ふっ、とユールではなく
あの後、アラームぎりぎりにマルコの宿に飛び込み室内でログアウトすることが出来た。これで次にログインした時、野盗に身ぐるみを剥がされていたなんてことは無い。
時刻は深夜2時。晩ご飯食べそびれたな……と腹の虫が空腹を訴えるのを聞き流しながらヘッドギアを外し起き上がる。
ぺたぺたと素足を鳴らして冷蔵庫を開け、ゼリー飲料でとりあえず栄養補給。深夜など気にしない。大学もないことだしちょっと寝て、起きてからがっつり食事をして明日……いや今日か、またログインしよう。シャワーも起きてからでいいや。一人暮らしの男子大学生なんてこんなものである。きっと。
寝る準備をしながら誰かに言い訳しつつ、目覚ましだけいつもの時間にセットした。
そういえば、タイミングがなくてディオに《
誰に言うでもない、でもあまりにも唐突で、言葉がぽろっと口からこぼれる。
「えっ。死亡……って、あいつ、死ぬのか」
『IoU ディオ』まで入力してサジェストに表示されたのは、『声優』『装備』などありきたりのものに加えて、一際目に付く『死亡』の二文字だった。
デバイスが床に音を立てて落ちる。
そういえば、悠が
しかし礼哉の話では、最初に選ぶ職業によって開始の国も違えば序盤のストーリーも違うらしい。プレイヤーが必ずしも序盤でディオに出会うわけではないということだ。
ネタバレ防止で隠していてくれたのかもしれない。けれど何も言っていなかった事を考えると、ディオが死んでしまうのは彼もまだ到達していない第一部のストーリーのもっと後……それこそ終盤とかなのではないだろうか?
ごろごろとベッドに寝っ転がって考えてみても、あまりまとまりはしない。なんだかさっきまで一緒だった人間、いやAIで物事を考える電子データで出来た作り物ではあるのだが、ディオが近い未来死んでしまうというのがピンと来ないのだ。
今ここでデバイスを使ってサジェスト通りに検索して、どうしてそうなるのかを知ったっていい。けれど、なんだかそうする気にもなれなかった。さっきまで共に戦い汗をかき、勝手にこちらの頭を撫で、軽快に笑っていた彼が、そんな簡単にくたばるようには見えなかったからだ。
気を紛らわせようと別の項目を検索して履歴をどんどん上書きしていく。効率的なレベル上げ方法、序盤の金策方法、白魔術士のスキルについて……知っておきたい事はいっぱいある。実践で知ることも勿論楽しいが、偉大な先人達の知恵を借りることだってゲームの楽しみ方のひとつだ。
だが、それはそれ、これはこれである。
部屋を真っ暗にして、悠も目を閉じる。脳裏に先程の検索ワードが浮かんで来ようとするのをなんとか頭の片隅に放り投げた。
太陽を反射して輝くシートレスの海、靴の音が響く石畳の道、人々の営みで賑わう市場、埃すら照らされる紙の匂いで包まれたエルウィンの書庫、暗闇に浮かぶ灯りと喧騒が飽和する路地裏の酒場、噴水広場で子供たちに囲まれて快活に笑う彼の声――……。
思い返して、悠はごろりと寝返りをうった。
悠にとって、まだエルシロスでの出来事は始まったばかりだ。困難なことはもちろんだが、楽しいこと、面白いことが沢山あるはずで。
だからゲームの中の登場人物だとはいえ、こいつはいつか居なくなるんだから、なんて考えながら接するのはやめようと思った。だって寂しいじゃないか。そんなのは。
またひとつ寝返りをうって、布団をかぶり直す。起きてからのことに思いを馳せながら、悠のまぶたは次第にとろとろと閉じていった。
エルウィンの所へ報告をしに行ったら、それからまた次のクエストに進むのだろうな。総長であるセルソにも会えるだろうか。ディオにあの冒険者がどうなったのかも聞きたい。
彼の顔を見て、悠は動じずに居られるだろうか。そもそも、ストーリー上決まっている事をゲームのAIはどう捉えているのだろう。ワールドクエストの『理想郷二辿リ着クベシ』とは何も関係ないのだろうか。
いつの間に寝入ってしまったのか、そんなのは定かではない。
「ディオが死んでしまうのだとしたら、それは寂しいなぁ」と思ったのを、悠は覚えている。
