2話

「……朝霧」

 薄い唇が私の名を囁いた。ただ見つめ合うだけの沈黙が流れる。何かが始まってしまいそうな予感がして、甘やかな鼓動が胸を打つ。彼の指が私の頬を掠めるように撫でた瞬間、「あ……」と小さな吐息が零れた。
 その長い指が、今度は私の手を取る。指の関節が盛り上がった、綺麗だけど男らしい手。この手に今夜抱かれちゃうんだと、そう思っただけではしたない私の中心が熱くなる。
 そして彼の手が、私の手のひらの上に───
 ぽん。と何かを乗せた。

「……え」

 鮮やかな橙色の生野菜。
 ニンジンだった。

「それ皮剥いといて」
「………」

 違う、そうじゃない。そう言いたいのに、卯月さんは何事もなかったかのようにフライパンに向き直ってしまった。えっ。

「……あの」
「早くしないと焦げるだろ」

 焦げてるのは私の脳みその方です。今まさに燃え盛る情熱に冷水を浴びせられた気分だ。こんな雰囲気で「人参の皮剥いて」なんて言われるとか誰が予想できるだろう。
 これは弄ばれてる?  もしかして手玉に取られてる? それとも本気で料理の手伝い要員だと思われてる?
 様々な葛藤が一瞬のうちに脳内を駆け巡った。戸惑いともどかしさが胸の内から湧き起こる。こっちは期待感でドキドキしっぱなしだっていうのに、この人は冷静にフライパンを振っている。女に恥をかかせるなんて男の風上にも置けない。
 頬を膨らませたい気持ちを堪え、私は人参をまな板の上に置いた。こうなったら正攻法でいくしかない。
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