募る想いは果てしなく
「は? 不倫してたってこと?」
「違う。いや違わないけど。私はあの人が結婚してたなんて知らなかったの!」
「知らなかったとしても不倫は不倫だろ」
「そうだけど!」
ビール缶を叩きつけるようにテーブルに置く。悔しいけど早坂の言うことはもっともだ。でも不満をぶちまけたい。一旦気を落ち着かせてから、重い口を開く。
「……ずっと付き合ってた人が、まさか妻子持ちだなんて思わなかったし」
「4年も続いてたんだろ? 会える日も時間も限られてたなら、少しは疑問に思わないか?」
「忙しいんだろうな、くらいにしか思ってなかった」
「そこは疑えよ。男なら仕事も恋人も両立させるべきだろ」
「さすがモテる男は言うことが違うね」
「茶化すな」
早坂の態度は素っ気ない。呆れ顔でビールに口をつけ、それでも私の愚痴に耳を傾けてくれる。
半年前まで付き合っていた人。
一人飲みバーでお酒を嗜んでいた時、彼から話しかけられたのが交際のキッカケだった。
私よりも3つ上で、大手企業の営業社員。不動産業界のブランドと謳われる、有名な大企業に勤めている。年収は1000万円以上。新築分譲マンション営業だと教えてくれた
ただ惹かれたのは、キャリアや年収の面じゃない。彼の内面だ。丁重な態度を崩さず、常に紳士的で上品な対応。学歴や収入、羽振りの良さを鼻にかけない。性格も温和で穏やかな人柄。そんな彼の立ち振る舞いに好感を覚えた。
バーで顔を合わせる度に、2人で話す機会も増えた。次第に連絡を取り合う仲になり、店以外で会う機会も増えた。交際が始まってからは、私の部屋で一緒に宅飲みする日も多かったように思う。多忙な彼とのデートは指折り数える程度だったけど、それでも私は彼との交際に、不満なんてなかった。
青木さんはいつだって優しかったし、会えない日はメールや電話を欠かさないでいてくれた。その細やかな配慮に何度舞い上がったことだろう。
多忙の身でありながら、それでも僅かな時間を削って会いに来てくれる彼に不満なんてあるわけがない。むしろ感謝していたし、将来結婚するならこの人だろうなって、そう信じて疑わなかった。
――実は既に結婚していて、現在妻と子と一緒に暮らしてるって自己申告されるまでは。
「天国から地獄だな」
「ほんとにね」
「それで? 今もソイツで悩んでるってことは、結局その男を忘れられないって事か?」
「それはないよ」
きっぱりと答える。
早坂は面食らったような顔をした。
「妻子がいるって知った時点で気持ち冷めたよ。私の純情返せよって思ったし」
すごいよね人間って。
あんなに燃え上がるような恋をしてたのに、熱が冷めるのは一瞬だったもん。
「もう半年も経ってるし、あの人に何の情も抱いてない。離れたことに未練はないよ」
「……そうか」
「でもさー、聞いて? 何度も別れようって言ってるのに、全然納得してくれないの」
そして話は振り出しに戻る。
ムカムカとした怒りがまた湧き上がってきた。
「不倫なんて絶対嫌だし、青木さんの家庭を壊すつもりもないし、だから私が身を引くって決めたのに。僕は君と別れましぇんっ! の一点張りで」
「言い方」
「しかもだよ? 私と別れるくらいなら妻と離婚するとか言い出したの。そんなの絶対嘘じゃん」
「不倫したい奴が使う常套句だな」
「なんなのよ男って。そんなに不倫がしたいの? 刺激的なの?」
「俺は違う」
「もう顔も見たくないのに逐一連絡くるし。最近しつこすぎてホントやだ」
「やばくね、ソイツ」
「やばいんだって」
私がどんなにヒートアップしても、早坂はいつも冷静沈着だから助かります。
「これってもうストーカーだよね?」
「七瀬が不快に思うならそうなるな」
「この部屋にも盗聴器仕掛けてるかもね。あはっ」
「笑い事じゃねーよ」
空気が重くならないように茶化してみたけど空振りした。どうやら裏目に出たらしい。
とはいえ、早坂に不機嫌な様子はなかった。
突然こんな話を延々と聞かされて、面倒だと思われても仕方ないのに。でも早坂は何も言わない。否定したり、一方的に説教することもない。まず私の主張を優先的に聞いてくれる。
そのお陰で私はストレスを感じることもなく、心の奥に溜まっていた鬱憤を晴らすことができた。早坂の神対応に感謝するしかない。
……本当は自分でもわかってる。無知であれば何でも許されるわけじゃないって。
青木さんに会える日はほぼ限られていた。それは平日の深夜帯。週末に会えることはほとんどなかった。思えば自宅に呼ばれたことすらない。
4年も交際しておきながら、その淡白すぎる付き合い方は誰がどう考えてもおかしいのに。そんな疑問すら抱かずに過ごしていた私は間抜け以外の何者でもない。
彼の中では基本、家族優先。
私はただの暇潰し程度でしかなかった。
言わなければバレないと思われていた時点で、ただの都合のいい女でしかなかったんだ。
でも、これは私視点の話。奥さんの立場から見れば、青木さんのしたことは立派な浮気。私達のしたことは不倫行為。その事実は変わらない。知らなかったで済ませていい問題じゃない。早坂の言う通り、不倫は不倫でしかないのだから。
もし私が奥さんの立場だったら、絶対に相手の女を責めるだろうし、旦那にいたっては半殺しにするかもしれない。不倫は美徳じゃない、誰かを傷つける行為なんだ。
そうだ。誰も幸せになんかなれない。
だから妻子がいると知って、自らが身を引く覚悟を決めたんだから。
その決断に至るまで、結構な時間を有した。全く葛藤がなかったわけじゃない。百年の恋も冷めるとは言っても、4年も交際を続けてきたんだ。あの人への想いを簡単に断ちきれるほど、私の気持ちは軽くない。
それは口に出さずとも、早坂には伝わっていたようだ。だから私を責めなかったのだと思う。
その当人は今、空になった缶ビールをゴミ袋にまとめている。これでお開きにするつもりらしい。
「早坂、もう飲まないの?」
終電の時間は既に過ぎている。
タクシーで帰るつもりなのかもしれない。
「七瀬に付き合ってたら、帰る前に酔うわ」
「いいじゃん、酔っても。泊まってけば?」
「……は」
何気なく発した提案に彼の動きが止まる。私を凝視しているその顔は、信じられない、と言いたげな表情が読み取れて。
「そんなに驚くこと?」
「いや本気で言ってんの?」
「なにが?」
「泊まってけ、とか」
「うん」
「……危機感とかねえのかよ」
深い溜め息をつく早坂は呆れ顔だ。
彼が何を言いたいのか、それくらいはわかるけど。
「危機感って。早坂は私に何かする気なの?」
「……しないけど」
「でしょ?」
カラカラと軽快に笑い飛ばす。早坂とどうこうなる展開なんて想像ができない。根強い仲間意識がある上に、それなりに長い期間、友人関係を築いてきたんだ。その相手にどう危機感を抱けというのか。
早坂の発言を一笑し、残り僅かな量のビールを飲み干した。
「まだ飲みたい」
「やめとけ。明日に響くぞ」
「早坂クン真面目」
「つーか風呂沸いたんじゃねえの? 入れよ」
「私がお風呂に入ってる間に帰るつもりでしょ」
「話聞いたら帰るって言っただろ」
「帰ったらわたしビール飲んじゃう」
「……わかったよ」
しつこさに定評のある私が勝利をもぎ取りました。先に折れてくれたのは早坂の方だった。
それからの流れは早かった。
時間は既に深夜1時。順番に入浴してからベッドの中に潜り込んだ。
早坂には来客用の毛布を渡してある。
ソファーで寝るとか言い出したから、隣で添い寝はいかがでしょうかと冗談交じりに誘ってみた。めっちゃ嫌そうな顔された。そこまで嫌がることないのに。
まあ、さすがに私も抵抗はあるけど。
恋愛感情を持たない男女が、ひとつのベッドで一緒に寝ること。最近はソフレなんて言葉が流行ってるけど、倫理的にどうなんだろう。私にはわからない。
それでもひとつ、ハッキリと言えること。
もし早坂と一緒のベッドで寝たとしても、絶対に何も起こらない。
その自信だけはある。
過ちなんてありえない。
男女の関係になんて絶対にならない。
そう断言できるほど、私は早坂を信頼していた。
彼とこれまで築き上げてきた友情は決して揺らがないと、そう信じて疑わなかった。