募る想いは果てしなく
「あー……極楽極楽。お風呂最高」
ゆったりと浸かる私の声音が浴室に響く。早坂の入浴中に突撃訪問し、決して広くはないバスタブの中に、なかば強引に押し入った。
早坂に背を向ける形で湯船に浸かる。ちゃぷん、と跳ねた湯が素肌を濡らした。密着する距離感も相まって、早坂の体温がひしひしと伝わってくる。
「……なあ」
「うん?」
「いま何が起こってんの」
「急にどうしたの」
「こっちの台詞だ。どうしたんだよ急に」
後ろから聞こえる困惑気味な声音。まあ予想通りのリアクション。お風呂で一緒に浸かるって、今までしたことなかったから。
「前にさ、付き合えたらどこかに出掛けようねって話したの、覚えてる?」
「……ああ、覚えてる」
「うん。絶対に行こうね」
「……え?」
息を飲む気配を感じる。ゆっくりと振り向けば、至近距離で見つめ合う形になって。早坂はさらに動揺を露にした。
すう、と深く息を吸い込む。
「いっぱい待たせてごめんね」
「……七瀬」
「好きよ、早坂。好きになっちゃった」
「……」
「早坂の彼女になりたいです」
早坂を意識した日からずいぶんと時間が経ってしまった。本当はずっと、もうずっと前から、本人に伝えたかった想いを、やっと今日、打ち明けられる。曖昧だったこの関係も終えられる。その歓びが胸を満たした。
「……遅いわ。結構待ったぞ」
「ごめんて」
軽く謝れば、早坂の表情がふっと和らぐ。
見上げた先にある優しい眼差し。
たまらない愛しさが胸元を突き上げる。
「マジか、すげー嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして! これからは彼女としてもよろしくね」
「こちらこそ」
「よかった~。これで次の話ができる」
「次?」
うん、と頷く私に早坂の訝しげな視線が注ぐ。
「私、早坂に言ってないことがあって」
「……物件か?」
思わぬ単語が飛び出してきて、私は目を丸くする。
「物件って?」
「……探してたんじゃないのか?」
「探してないけど?」
そう答えてから、そういえば居候の身だったことを思い出した。
一緒に過ごす時間が当然のように思っていたけどそうじゃなかった。大事なことを伝えなきゃ。
「あ、ごめん。私、図々しくも早坂のところにずっと居座る気でいた」
「いや、俺も勘違いしてたみたいで悪い。物件探してるわけじゃないならいいんだ」
「……私、ここにいてもいい?」
「……いてほしい」
目を細めて、はにかんだように微笑む。
早坂ってこんな笑い方もするんだ。
また新たな彼を知れて、歓喜で心が震えてしまう。
「……? じゃあ何を隠してたんだ?」
早坂の問いかけに、私も神妙に頷く。
「あのね早坂。早坂にね、店長候補の話が出てるの」
「……店長って、俺に?」
「うん」
「七瀬は?」
「私ね、来月から店長昇進で異動になるのね」
「異動? って、どこに」
「F店」
「……めっちゃ近い」
「近いの」
F店は今の店舗から少しばかり遠い。と言っても、県を跨ぐような距離でもない。車で15分程の場所。
異動の為に、わざわざ引っ越さなくてもいい点はありがたい。
「……全然知らなかった」
「ごめんね。早く伝えてあげたかったんだけど、本部の方で色々ごちゃついてて。急に決まった事なの。それに前の店長のことも話さなきゃいけないし」
「前の店長……って、俺が来る前の?」
「そうそう、私の上司」
早坂には、畑中店長の事は伝えていない。安易に口には出せなかった。病気のことを探られるのが嫌だったから。早坂がそんな無神経なことをする人間じゃないと知っていても。
在籍が長いスタッフ達も、畑中店長のことをあまり話題には出さなかった。私と同じ思いがあったのだと思う。
「……そうか。大変だったんだな」
「畑中店長が戻ってきたら、早坂にも紹介したかったんだけどね」
病気の発症は何の前触れもなくきたらしい。国に難病指定されている神経系の病気だった。本人は頑張ってリハビリを続けていたけれど、無情にも病気は進行していく。年齢が若い分、進行の速度も早かった。
今は一時的に退院できたけど、病気が完治したわけじゃない。今後も症状が悪化すれば、車椅子生活になるかもしれないと聞いた。
「……その人はいくつ?」
「43。若いでしょ」
「そんなに若いのにな」
「うん。でも、悲観しないでね」
「ああ」
そっと瞳を閉じれば思い出す。畑中店長と、みんなと。一緒に働いた日々を。
切磋琢磨しながら一緒に仕事をしたことも、好きな雑貨やブランドで語り合ったことも、どの記憶も色褪せることはなく鮮明に思い出せる。
あんなに店やスタッフを大事にしてきた彼が、どうしてこんな病魔に蝕まなければならないのか。答えの出ない事実に打ちのめされそうになっても、あの人は私達に一切弱音を吐かなかった。それが人の上に立つ人間として当然であるかのように。
そんな彼の影響を受けて、今の私がいる。
「他人事じゃないんだよね」
「……だな」
「明日、何が起こるかなんてわからないもんね。いきなり病気になっちゃうかもしれないし、事故に巻き込まれて死んじゃうかもしれないし。大災害が起こって、家族とか友達と離れ離れになっちゃうかもしれない」
誰だってそんな未来は望んでないし、できれば考えたくはない。
けれど、考えなきゃいけない。目を逸らしてしまいたい現実を、受け入れなきゃいけないことだってある。
悔いのない人生なんて絶対にないけれど、それでも限られた時間の中で、悔いのない生き方を全うできるように。口で言うほど簡単な話ではないだろうけど。
「……あの日」
不意に早坂の声が聞こえて思考を止めた。
「……七瀬を助けられなかったこと、今も後悔してる。自分は部外者だから……って様子見しなければ、あんな目に遭わせなかったのに。今更なんだけど……ごめん」
見上げた先にある表情は険しいまま。
早坂の言う『あの日』が、あの人から暴力を受けた日のことを指しているのはわかったけど。
「早坂が謝るのはおかしいよ」
早坂は悪くない。
むしろ謝るのは私の方なのに。
そう告げても早坂の表情は暗い。
「謝罪なんて自己満だし、自分が安心したいだけだってわかってるけど……どうしても謝りたかったんだ」
「……ん……そっか」
謝罪は自己満足にすぎない。早坂自身もそれは痛いくらいわかっていて、それでも口に出すということは、それほどあの出来事が早坂にとって、ショックが大きかったということ。
大事な人を助けてあげられなかった、その怒りや悲しみは計り知れない。気にしないでと伝えても、早坂はずっと気にするんだろう。
私も、早坂にとっても。
一生消えない心の傷負った、あの日。
あの痛みを絶対に忘れちゃいけない。
もう2度と繰り返すことのないように。
「……ねえ早坂」
早坂の肩にもたれかかる。
静かな息遣いを耳元で感じる。
お湯の温もりも、触れる素肌も、全部が心地いい。
「好き」
「……ああ」
「ずっと想ってくれてありがとう」
私の囁くような小さな声が、狭いバスルームに反響した。
「……俺も、ありがとう」
顔を上げれば、聡明な瞳とぶつかった。
黒目の艶の瑞々しさに視線を奪われていると、その瞳がゆったりと細められる。
「……七瀬」
「うん」
「今度はちゃんと抱きたい。……ベッド、連れていってもいいか?」
早坂の瞳に熱が孕む。
そっと頷けば彼は嬉しそうに笑って、私の腰を掬い上げた。
「わっ」
びっくりして声を上げてしまう。慌てて早坂の首にしがみついた。お姫様抱っこなんて生まれて初めての経験で、ちょっと気恥ずかしくなる。
そのままバスルームを後にして、バスタオルごと包み込まれた。
「……重くない?」
「重い」
「ひどい。最低」
「頼むから暴れんなよ」
床を踏みしめるたびに鳴る水音。ベッドに近づくたびに、臓の鼓動が早鐘を打つ。
あの夜以降、何の触れ合いもなかった私達。
本当は触れたかったし、触れてほしかった。
あの日抱かれたのは、青木さんのことを忘れるため。ぽっかりと空いた心の隙間を埋めたかっただけ。
でも今日は、今日からは違う。本当に、この人だけを想って抱かれていいんだ。
早坂の頬に手のひらを添える。
自分の唇を彼のそれに重ねた。
ほんの一瞬触れるだけのキスをして離れれば、熱を帯びた双眼に見つめられて心臓が跳ねる。
「……好き」
「っ……ああ」
「……早坂のことが、すごく」
「……うん」
「だから……お願い」
自分から誘うのは、少し恥ずかしさがあったけど。
「……早坂のことしか考えられなくなるくらい、抱いてほしいの」
その言葉を皮切りに、辿り着いたベッドに押し倒された。柔らかなスプリングが私の身体を受け止める。ゆっくりと覆い被さってきた早坂の背中に腕を回した。
手のひらから伝わる素肌が気持ちいい。
唇が重なるたびに身体が疼く。
繰り返されるキスが、呼吸さえも苦しくさせて。
肌の上を滑る指先に翻弄される。
「……んっ、早坂……っ」
快楽の波に何度も飲み込まれそうになって、必死に理性を繋ぎ止めながら彼の名前を呼んだ。
早坂の掠れた吐息が、私の鼓膜を震わせる。恥じらいを堪えて小さく喘げば、口元を緩ませた早坂の笑みがもっと甘さを滲ませていく。
それを見て、はっきりと自覚する。
もう、この人がいないと生きていけないくらい、私の心は彼に溺れているのだと。
これから先、私達にどんな試練が待ち受けているのか、何が訪れるかなんてわからない。
それこそ明日、大切な人を失ってしまうかもしれなくて、だから私は早坂と一緒に、ずっと生きていきたいと思った。
彼と一緒なら、何があっても乗り越えられる。そう信じて疑わなかった。