募る想いは果てしなく
気持ちのいい風が首筋を優しく撫でる。雲ひとつない青空の下で、うーんっと大きく伸びをした。
「いい天気。もう春だなあ」
淡い春の清々しい匂いを濃く感じる。今年は東京でも記録的な大雪に見舞われた。3月に入ってようやく寒さも遠退き始め、春の兆しが感じられるような、ポカポカな陽気に包まれている。
「こんな日は遠出でもしたい気分なんだけどな」
開店時間まであと僅か。扉のシャッターを押し上げて、淡々と開店準備を進めていく。
暖かな気候に誘われて、客足が徐々に戻り始めてきた。また多忙の日々が舞い戻ってくる。
けれど忙しい理由はそれだけじゃない。
別の原因もあったりする。
「七瀬さーん」
「はいはーい。どした?」
「事務所で菅原さんが呼んでますよ」
「……ほーい」
ほら、きた。
この時期は社内で人事異動の内示が発表される。それは私も例外ではなくて。
「異動ですよね、私の」
呼ばれた理由なら察しがついてる。
菅原エリアも神妙な顔つきで頷いた。
「嫌かな?」
「嫌じゃないですよ。むしろこんな機会をいただけてありがたいです」
「まあ、店舗異動は君の希望だったしね」
「はい」
そう。これは私自身が望んでいたこと。異動の意思は以前から菅原エリアに伝えていた。早坂にはまだ話していないけど。
雇われの身でしかない私が異動の希望を出したところで、それで話がすぐ通るわけじゃない。決定権があるのは本部側。申請を出したところ通らないことが大半だ。今回あっさり許可が下りたのは、恐らく私の異動はすでに決定されていたものだったのだろう。
正式に異動が決まったなら、早坂にもちゃんと報告しないとな……。
「七瀬マネはF店に異動と同時に、サブマネージャーから店長へ昇進になります」
「……はーい」
「店長昇進は不満?」
「いえ、私自身はいいんですけど……」
不満ではなく、不安要素がある。
その要因のひとつは前店長のこと。
「畑中店長の件だね。彼は病気療養により、3月付けで退職扱いになりました」
「……そうですか。また一緒に仕事が出来る日を楽しみにしていただけに残念です」
畑中さんは、この店舗の元店長さん。私の上司に当たる人。私が入店して2年目の時に着任し、当時まだ落ちこぼれだったこの店舗を、見事に立て直した優秀な人材だ。
謙虚という印象が強く、気配りに長けた人。派手さはないけれど、不思議な存在感を放つ彼は、現場でも本部の社内でも評価がとても高かった。
そんな彼から教わったことは数多い。人としても上司としても尊敬できる、個人的にも大好きな店長だ。
病欠を理由に休むことになった畑中さんだけど、復帰は難しいだろうという話は薄々聞いていた。休職期間も3年が過ぎ、これ以上の在籍は残せないと本部でも判断したのだろう。だから内心諦めてはいたけれど、改めてその通告を聞くと気落ちしてしまう。
また畑中さんと一緒に仕事をしたかった。
その気持ちは本当だったから。
「でもね、退院はできたみたいだよ。まだ通院しなきゃいけないし、体調も万全じゃないみたいだけど。昨日病院で本人に会ったけど、元気そうだったよ」
「そっか……よかった。いつか病気が完治することを祈るばかりですね」
「そうだね。近いうちに店にも顔を出したいって言ってたな。七瀬マネにも会いたがってたよ」
「え、嬉しい! 私も会いたいな」
喜んでみたはいいものの、いつまでも浮かれ気分ではいられない。畑中店長が退職、そして私も異動となると、この店舗はまだ店長不在店として運営していかなければならないということだ。
私としては、やっぱり店長を駐在させたい。けど、そう簡単な話ではない。深刻な人手不足が問題視されている昨今だ。現状、店長クラスの人材はどの職場でも不足している。
「七瀬マネ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「早坂くんって、店長になる気はないのかな」
「早坂マネですか?」
そう訊き返してみるものの、内心は菅原エリアと同じことを私も思っていたりする。
限られた人材で効率よく店舗を運営する方法。他の店長を派遣するよりも最適なやり方がある。それは今いる優秀なスタッフを店長に昇進させること。人材不足解消にも繋がるから。
その対象として、菅原エリアは早坂に目をつけた。
「七瀬マネから見て、早坂くんはどう? 店長としてやっていけると思う?」
「菅原さんはどう思ってるんですか?」
「早坂くんは仕事早いし、指導も上手いし、何を任せても彼なら大丈夫だろうって安心感があるよね。畑中店長と少し雰囲気似てる」
「ああ、言われてみれば確かに」
「もう少し覇気があればいいのにな、とは個人的に思うけど」
「覇気かあ。テンション高い早坂マネとか想像できないなあ」
逆に見てみたい気もするけど。面白そう。イジリ甲斐ありそう。
「店長としての素質は十分あると思うんだ。何よりこの店は、七瀬マネが作り上げてきた基盤がしっかりしてるから。リーダーが変わったところでブレないと思うし」
「早坂マネなら私も大丈夫だと思います。業務に関しては言うまでもないけど、顧客にもスタッフにも慕われてますから。これでかなえちゃんがサブマネになったら、二枚看板で店を盛り上げてくれますよ」
私は以前からサブマネ候補にかなえちゃんを推してる。この業界は対応力の高い人ほど即戦力として選ばれやすい。
その点、かなえちゃんなら申し分なし。早坂との相性も良い。早坂に足りない部分は、かなえちゃんが補ってくれるはずだ。
……というか、かなえちゃんが店長になっても面白そう。
「話は以上なんだけど、他に聞きたいことはある?」
「早坂マネが拒否する可能性もありますけど、その場合はどうするんですか?」
「そうだな……本人が拒むなら、あまり無理強いはしたくないし」
店長となれば重い責任が伴う。店舗スタッフのシフト管理から育成、商品発注から在庫管理、売上や予算の管理。それに店長会議にも参加しなきゃいけない。業務は増える一方で、基本給は微妙なライン。正直、収入面は物足りないくらい。
あとは店舗ごとに売上ランクがあって、これが結構なプレッシャーになる。それらが嫌で店長昇進を拒む人も多いと聞く。
「……とりあえず私から本人に話してみます。必要であれば説得もしてみますけど、あまり期待しないでくださいね」
「マネ的にどう? 早坂くんが引き受けてくれる可能性」
「……うーん」
早坂が店長を引き継いでくれる可能性、か。
「五分五分ですね」
・・・
「最近、いい感じですか?」
「何が」
「七瀬さんと」
唐突で短絡的な言葉に顔をしかめる。
対して鈴原の表情はキラキラと輝いていて、期待に満ちた眼差しを必死に俺へと向けている。
「……別に」
「べつに?」
「後退はしてないけど進展もしてない」
俺の素っ気ない返答に、鈴原は肩を落とした。目映いほどの笑顔も一瞬で消え去る。沈みきった表情で、大袈裟なため息を零す。
俺自身、現状に思うところはある。七瀬と青木が別れてからも、告白の返事をいまだに貰えていない点に焦りを感じているのは事実だ。
けれど、返事はまだ要らない、急かさないと伝えたのは自分だ。だから結局、待つしかない。
受け身で居続けるのは正直しんどい。
けど返事を急かしたら急かしたで「焦っている」と見抜かれるのも、なんとなく嫌だ。
ただ、他にも気になることがある。
「……最近、七瀬の様子がおかしいんだよな」
「おかしい?」
「隠し事されてる気がする」
あくまでも「気がする」範疇の話。本人にも問い質していない。ただ、こういう勘というのはよく的中するものだ。
「……物件でも探してんのかな」
七瀬は今も俺のマンションに居候している。彼女と衣食住を共にする生活にも慣れてしまって、それこそ、一緒に暮らしていることが当たり前のような雰囲気になっているけれど。七瀬には本来、帰るべき場所があるんだ。
以前のマンションに戻らない理由が、七瀬の中でまだ、過去の傷が払拭できていないという理由なら、新しい住まいを探している可能性も考えられる。
「え、まずいじゃないですか」
「何が?」
「同棲解消になっちゃいますよ」
「……もともと同棲じゃないから」
居候であって同棲ではない。だから七瀬の性格上、いつまでも俺に頼ってばかりはいられないと考えたのかもしれない。
だとしても、俺に隠す必要はないと思うけど。どうも釈然としない。
「もし七瀬さんが物件を探してるとして、早坂さんはどうするつもりなんですか?」
「……どうもしないけど」
「え~……」
「なんだよ」
「なんで引き止めないんですか。そういうところですよ早坂さん。ほんと不器用ですよね」
「……んなこと言われても」
引き止める権利が俺にはない。
恋人でも何でもない俺には。
実際に七瀬が物件を探しているのかはわからない。俺の思い違いで、実は違うのかもしれない。むしろ違ってほしいと願ってる。可能であれば、このまま同棲の流れに持っていけないかと思考を巡らせる。
その度に思う。
この先も七瀬と一緒にいるために、この曖昧な関係から抜け出して先に進まないといけない。
・・・
「おかえりー」
扉を開ければ、聞き慣れた声が返ってくる日常にもすっかり慣れた。
「ただいま」
「お風呂沸いてるよ」
「サンキュ」
お礼を言えば、にこりと微笑んでくれる。今となっては当然のように俺の家に七瀬がいる。同じ時間を共有する毎日が、幸せに満ち溢れていて。
けれど、今日はいつもと違った。
七瀬の姿が、勤務先から帰宅したままの格好だ。
「……七瀬、風呂入った?」
「まだ入ってないよ」
「……ふうん?」
珍しいなと思った。
いつもならすでに済ませているのに。
「先に入るか?」
「早坂先に入りなよ。私は後でもいいから」
「……わかった」
なんとなく腑に落ちないままバスルームへと向かう。シャワーを浴び、湯船に浸かりながら考えた。これから自分が何をすべきかを。
「……やっぱり言うべきか……?」
もう一度想いを告げること。一度目の告白よりも度胸が必要で神経も使う。なんせ向こうは俺の気持ちを知っているわけで、一度目の告白をした時とは全く違う反応が返ってくる。正直、怖い。再び返事を迫る真似をして、迷惑そうな顔をされたらさすがにヘコむ。
更に言えばあの夜以降、触れ合ってすらいない。関係を持ったのは、あの夜、たったの1回だけだ。
今は健全なルームシェアが続いている。これはいい兆候なのか、それとも悪い兆候なのか。今の俺には全く判断が出来ない。本当に、精神衛生上良くない状態が続いている。
けれど、これ以上曖昧に続くのは納得できない。伝えなければ進展もない。七瀬が今どんな心境でいるのか、それだけでも知りたい。
その時、視界の端で何かがゆらりと動いた。
反射的に目で影を追う。浴室の扉の向こう、曇りガラスに映る影。それが人影であることに気付く。けれど、この部屋にいる人物は俺と七瀬だけだ。
まさか、と思った次の瞬間。
けたたましい音と共に、扉が勢いよく開いた。
呆気に取られる俺の前に現れたのは――
「アモーレッ!」
……謎の挨拶と共に、何故かバスタオル一枚を素肌に巻き付けた七瀬の姿があって。
呆気にとられてフリーズしている俺の前で、当の本人は何食わぬ顔でにっこり笑う。
「早坂クン、一緒にお風呂はいろ♡」
「……」
……どういう展開?