募る想いは果てしなく

明けない夜はないように



 夢の底に落ちた意識が、朝の訪れと共に浮上する。
 重い瞼をゆっくりと押し上げれば、カーテンの隙間から射し込む白い光の筋が、私に真っ直ぐ注がれていて。

「――……眩し……」

 眩しすぎて目が眩む。寝起きの瞳にその光の強さは少々痛い。たまらず目を細めた時、隣にいたはずの人物がいないことに気づいた。

 胸元まで布団を引き寄せて身を起こす。部屋の中は暖房がよく利いていて、一糸纏わぬ姿でいても、寒さを感じることはない。
 時計を見上げれば、ちょうど6時を指している。耳をすますと、キッチンの方から人の気配と、微かな生活音も聞こえてくる。トントンと、リズミカルに刻まれる包丁の音。朝食を準備してるのかな。仄かに美味しそうな匂いも漂ってくる。

 枕元に視線を落とせば、床に散乱してたはずの服が、丁寧に折り畳まれている状態で置いてあって。どこまでも律儀なんだから、と笑みが浮かんだとき、こめかみに鈍い痛みが走った。
 そういえば号泣したんだった。
 あんなに大泣きしたのは半年ぶりだ。

 昨日のことはよく覚えている。
 とんでもない醜態を晒してしまった。
 柄にもなく泣き喚いて、早坂に縋って。
 それから――……

「……うわ……」

 思わず両手で顔を覆う。
 羞恥で頭を抱えてしまった。
 いくら青木さんのことでショックを受けていたとはいえ、「抱け」なんて口走ってしまった自分の発言を恥じた。

 抱かれた時の記憶もちゃんと残ってる。めちゃくちゃな抱かれ方をした気がする。決して乱暴的ではなかったけれど、会話もなく、愛の言葉を交わすこともなく、貪るという言葉がしっくりくるような、野性的な行為。
 最初こそは恥じらいもあったけれど、早坂の触れ方が優しいのに、どこか激しさもあって。すぐに心は絆されて行為に没頭してしまった。

 正直に告白します。
 めっちゃ興奮したし気持ちよかった。
 なんだあれ。
 エロいこと全然興味ありませんみたいな顔してるくせに、あれは反則……

「……あれ?」

 ふと、胸に湧いた疑問。抱かれた記憶はあるけれど、最後の記憶は曖昧だ。途中で意識を飛ばしたのだろうか。よく覚えていない。
 だからこそ疑問が浮かんだ。反射的に下腹部に手を当てる。特に痛みもなく気怠い感覚もないソコを、手のひらで触れながらポツリと呟く。

「……早坂……避妊してたっけ?」


・・・


 いつまでも布団の中にいるわけにもいかず、ベッドから降りてクローゼットを開く。適当に選んだシャツを1枚ご拝借。皺ひとつない綺麗な袖口に腕を通した。
 こうして彼の服を羽織るのは、これが2度目。優しい柔軟剤の香りがふわりと身体を包み込む。それだけで幸せ。心が満たされる。

 ペタペタと、裸足のままキッチンへ向かう。近づく度に匂いの濃度も増してくる。天井近くの窓から差し込む自然の光が、キッチン全体を均等に照らしている。その光景の中心に佇む、心を寄せる人の後ろ姿。
 包丁を持つ手を止めた早坂が、次の調理の工程に入ったのか、別の作業に取り掛かろうとしていた。その後ろ背を視界に留める。

 青木さんのことを考えると、まだ少し胸が痛い。彼と縁を切ったことに後悔はしていないけど、彼から解放されて自由の身になれたという実感も、今はまだ湧かない。
 あの人から受けた暴力の傷は消えた。骨折もほぼ完治してる。でも心に負った傷までは簡単には消えない。完全に癒えるまで、もう少し時間がかかりそう。

 でも、もう終わった人だ。過去を引きずっても仕方のないこと。今の私には、一番に考えなきゃいけない人がいる。
 だから、もう……考えない。

 ゆっくりと歩み寄る。私の気配に気づいたのか、お玉を持つ早坂の手が一瞬止まった。
 その隙に仕掛けに行く。
 空いていた方の腕に自らの腕を絡め、くっついた。

「ぎゅ」
「……」
「おはよん」
「……おはよう」
「なに作ってるの?」

 視線を移すと、大きな鍋が見えた。お玉で中身をかき混ぜていたみたい。でも、私が知っている鍋とは見た目が全然違う。
 ぐつぐつと音を立てて煮えたぎる味噌仕立ての汁から、何やら黒いトゲトゲが見えた。強面な魚と、異様にでかい目ん玉も見える。なにこれ。

「ゲテモノ料理?」
「ゲテモノじゃない」
「だって見た目エグいよ」
「カジカ汁」
「かじかじる?」

 馴染みのない言葉。でも聞いたことはある。カジカっていう貴重な魚を用いて作られる、北海道の代表的な郷土料理だったはず。冬によく食べる鍋として有名だと聞いたことがある。
 っていうか早坂、魚捌けるんだ。すごい。

「食べられる?」
「食ってみるか?」

 菜箸に持ち変えて、魚の身をほぐして私の口元まで運んでくる。ぱくっと咥えれば、口内で広がる浜の香り。ほくほくした身の感触から、味噌と魚の旨味が同時に滲み出た。

「おいしい……体温まりそう」
「カジカって安い魚だし、見た目がかなりブサイクだから引かれ気味だけど」
「うん」
「鍋にしたらすげぇ美味いし、コラーゲンも半端ないから肌にもいいんだって。質も値段も家庭に優しいし、実は優秀な魚なんだ」
「そうなんだ。ディスってゴメンね」

 その口振りから、早坂のカジカ愛が伝わってくる。この魚も実家から送られてきたものらしい。
 早坂も、たまに北海道が恋しくなったりするのかな。

「……身体、大丈夫か?」

 控えめに尋ねられて、静かに頷いた。

「大丈夫だよ」
「後悔してないか?」
「してないよ」
「……ならいいけど」
「ありがとね」
「何が」
「最後まで付き合ってくれて」

 早坂がずっと一緒にいてくれたから、私は私の恋を終わらせることが出来たんだ。この人がいてくれなかったら、いつまでたっても過去を清算できず、青木さんからも離れられずに泣いていたと思うから。
 そう考えると怖くなる。汚い人間になるところだったのかと思うと。早坂がいてくれて本当に良かった。

「……七瀬は汚くない。汚い人間なら、あんなに悩んだり泣いたりしない」
「……そうかな」
「青木のことも、無理に過去にする必要もないし、忘れる努力もしなくていい。大事な4年間だったんだろ。だから忘れてやるなよ。いつか自然と過去になる。七瀬はちゃんと前に進めてるから大丈夫だ」

 ……ああ、そうだね。
 早坂はこういう人だよね。
 生真面目で、誠実で、困ってる人にはすぐ手を差し伸べてあげられる人。私だけじゃない、青木さんのことも認めてくれて尊重してくれる。
 こんな時ぐらい恰好つければいいのに。
 しないんだよね、早坂は。

「うん……そっか」

 素直に頷く。
 早坂はそれ以上何も言わなかった。
 汁物を小皿に移し、味を確認している。

「……あのね、早坂」
「……ん?」
「挿れる時にちゃんとゴムしてくれた?」

 そう尋ねた直後、早坂がごふっと派手に汁を噴き出した。
 私はむっとしながら顔を覗く。

「ねえこれ大事な話」
「いやっ、……した、から」

 しどろもどろな反応。どうにも怪しい。疑いの目を向ければ、「したから!」と珍しく声を荒げていた。

「ほんとに? 私、はっきり覚えてないんだけど。本当はしてなかったりして」
「そんな無責任なことしないから!」
「わかったゴミ箱漁ってくる」
「待てこら!」

 部屋に引き返そうとする私の腕を、早坂の手が荒々しく掴んだ。そのまま後ろから抱きすくめられる。彼の両腕の中に閉じ込められてしまった。
 背後から伝わる体温が心地いい。耳元で、はあ……と疲労混じりの吐息が聞こえた。狼狽が過ぎる早坂の慌てっぷりが可愛くて、私はくすくすと笑みを零す。

 もちろん疑ってなんかいない。からかい甲斐があるから、つい。
 記憶は確かに曖昧だけど、早坂がちゃんと避妊したって言うのなら信用していいんだろう。私を傷つけるような嘘をつく人じゃないから。

「……頼むから、俺で遊ぶのはやめてくれ」

 からかわれていると気付いたらしい。静かな口調で私にそう懇願した。
 避妊具なんていつ用意したんだろうとか、そんな野暮なことは訊かない方がいいのかな。

「……なあ、そのシャツ俺の?」
「そうだよ」
「いや、なんで?」
「早坂のものは私のものでしょ?」
「ジャイアンかよ」
「ちなみにノーパンノーブラなんですけどね」
「……」
「……早坂クン、なに想像したの」
「……別に」
「えっち」
「うるさい」


・・・


「全然納得いかないです」

 眉間に深い皺を寄せてかなえちゃんは言い放つ。その表情には紛れもない憤激の色が漲っていた。

「七瀬さんと付き合ってた時も、元彼さんはもう1人の女とよろしくやってたって事ですか? マジでありえないんですけど。二股とかキショいし、政治家の息子だか何だか知らないけど、権力に物言わせて罪も償わないとか、人として終わってますよ」
「あー、まあ、そうだねぇ」
「ていうか、そのオヤジも何なんですか? 親子揃ってゴミじゃないですか」
「ゴミ……」

 仮にも大物政治家をゴミとか。あんまりな言い草に私は苦笑する。
 ファーストフード店の席で事の顛末を打ち明ければ、かなえちゃんは大層ご立腹な様子で青木さん一家を罵った。
 その様子を眺めながら手元のバーガーにかぶりつく。柔らかなバンスにサニーレタスのシャキシャキ食感がたまらない。美味。

「結局男ばかりいい思いして、七瀬さんだけ理不尽な目に遭って……こんなの、絶対許されていいはずないです」

 苛立ちを含ませた口調で言い放つ。確かに周りから見れば、私だけが損をして青木さんは何のダメージも受けていないように見える。
 謝罪もしていないし、罪も償っていない。その上で、彼は今も平穏な日常を送っている。その裏で自らが犯した裏切りや過ちを、まるで何も無かったかのように振る舞って。そう思うと複雑な気持ちになるけれど。

 ……でも、これが本来、私が望んだ結果でもあるから。

「七瀬さんはこのままでいいんですか?」
「うん。あるべき形に戻ってくれれば、私はそれでいいかな」

 その言葉に嘘はない。青木さんの家族を傷つけずに済んだ。それだけでも、彼から離れた意義はあったと思いたい。
 この選択が正しかったのかはわからない。わかっていたら苦労はしないし、全ての状況で完璧な選択ができる人間なんていない。

 散々悩んで、何度も泣いて。
 全部乗り越えてきた今だからこそ、これで良かったんだと思える自分がいる。
 今は、それでいい。

「はあ……七瀬さんは人が良すぎますよ」

 諦めにも似た表情を浮かべながら、かなえちゃんはポテトを摘まみ上げて口の中に入れた。

「もしかなえちゃんだったら、どう解決してた?」
「そりゃあもう、協力者を集めて徹底的にやり返しますよ。相手の家族を巻き込んでも私は容赦しませんから。社会的に抹殺するまで追い詰めてやります」
「怖い怖い」

 そこまでの熱量は私にはない。
 心残りがあるとすれば、10発ビンタ返しできなかったことくらい。

「……結局、いい人だけが損をするって事なんでしょうか」

 ぽつりとかなえちゃんが呟く。暗い影を落とした瞳。その瞳に映し出す未来が、暗いものではないように願う。

 綺麗な恋愛も、理想的な結婚も。
 それ以外の事だって。
 思い描いていた形とは、かけ離れているかもしれないけれど。

 それでも必ず道は開けている。
 明けない夜は――……きっとない。そう思うから。
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