募る想いは果てしなく

ひとつの恋の結末(後)



 ゆっくりと目を開ける。開けた視界に映ったのは薄暗い天井と、そして私を静かに見下ろす早坂の顔。
 真摯な眼差しに射貫かれて、心臓が音を立てる。流れていた涙が驚きで止まっていた。

「……いいんだな?」
「……え」
「悪いけど、抱かれたい理由がそんな理由なら優しくできない」
「……早坂」
「後悔すんなよ」

 途端に激しい後悔が押し寄せる。優しい彼に、こんなことを言わせてしまった。
 視界がまた涙でぼやけていく。胸を占めていた怒りが、今度は悲しさで塗り替えられていくのがわかる。

「……やだ。抱かないで」
「おいどっちだ」
「だって早坂そんな奴じゃないじゃん……っ」

 発した声が情けないほど涙声で、急に恥ずかしくなる。両腕を交差させて、泣き腫らした目元を隠そうとしたけれど、結局、早坂の手で引き剥がされてしまった。
 理性的な光を放つ瞳と対峙する。思いのほか優しい色を帯びていて困惑する。早坂の雰囲気が、いつもと違う気がして。

「……さすがにここでは無理か」

 か細い呟きが耳朶を打つ。不安げに揺れる私の瞳に、困ったような笑みを浮かべる早坂の顔が映る。
 そのまま片手を引かれ、一緒に身を起こす。手を繋いだまま部屋の奥へと誘われ、その先にあるベッドに辿り着いた。

 早坂が何をしようとしてるのか、わからないほど鈍くはない。
 歩幅を小さくして、私は進むのを躊躇った。

「……本気なの?」
「本気」
「シャワー浴びてない」
「いい」
「汚いよ」
「汚くねえよ」
「……怒ってる?」
「怒ってはいない、けど」

 ベッドに座るように促されて。素直に腰を下ろすと同時に、肩を軽く押された。
 そのまま後ろに倒れ込む。ベッドの軋む音が鼓膜に響く。コートを脱ぎ捨てた早坂が、私に影を落とす。

「嫉妬はしてる」

 ベッドに両手を縫い付けられて、指を絡めるように握られた。

「嫉妬……?」
「そんな風に想ってもらえるあいつが羨ましくてムカつく」

 剥き出しな嫉妬心に私は瞬きを繰り返す。早坂の心情がまるで読めない。片手だけ離れた彼の指が、サイドテーブルに設置されたルームライトに触れて。暖かな橙色に点灯する。
 淡い光に、早坂の横顔が浮かび上がって――どきっとした。

 ライトに照らされた早坂の顔が、色欲を孕んだ危うい表情をしていて。一瞬で目を奪われた。この人は、こんな顔をする人だったのかと。

 過呼吸を鎮める為だけに口付けられたあの日から、確実に変わり始めた私達の関係。
 あれから何度かキスをした。
 一度だけ、一線を越えそうになったけど。
 それ以上の触れ合いは避けていたのに。

「……早坂はいいの?」

 やっとの思いで口を開く。
 声が掠れて、喉の奥に張り付いたような感覚がした。

「何が?」
「何がって……その、この状況が」
「なんで?」
「なんでって……普通は嫌でしょ……?」

 元彼を忘れたいから抱いてほしい、そんな無神経なことを口にするような女に言い寄られて嬉しがるような人じゃない。
 なのに、嫌がるどころかあっさり承諾するから、逆にこっちが困ってしまう。
 ……抱いてって言葉自体、本気じゃなかった。投げやりで放った言葉でしかなかった。察しのいい早坂ならもうわかってるはずなのに。なんで、抱こうとするんだろう。

「七瀬がどうしても嫌ならやめるけど」
「いや……私が、じゃなくて……早坂が」
「俺はいいけど」
「よくないよ」
「いいんだって。それで七瀬の気が少しでも晴れるなら俺を利用すればいい」
「利用って……」

 そんな風には思ってない。そうは言っても、あながち間違ってはいないのかもしれない。何もかも嫌になって、一時的な快楽に身を委ねることで忘れようとして、その相手に私は早坂を選んだ。それは事実。利用してると言われても反論できない。

 でも――
 その相手は、誰でもいいわけじゃない。

 もしここにいたのが早坂じゃなくて別の人だったら、絶対に「抱いて」なんて言わなかった。
 弱いところも、醜いところも、ありのままの自分を全部曝け出しても、全て受け入れてくれる早坂だったから縋ったんだ。

「……わたし」
「うん」
「もう、早坂じゃないと……無理みたい」

 ただの同僚だった人。一緒に仕事をしていくうちに彼の人となりを知り、信頼を寄せ、親友同然と呼べるような仲になった。
 異性として意識し始めてからは、頼ってもいい、弱さを見せてもいい相手へと変わっていく。体裁ばかり気にしていた私を、本質から変えてくれた人。

 改めて思い知る。好きな人という枠ではもう収まりきれない程、早坂が大きな存在になっていることを。唯一無二の、大切な人だ。

「……早坂」
「……ん?」

 少しだけ首を傾げてる姿が愛おしく思えて。首に腕を回せば、抱き締め返してくれた。
 彼の体温に安堵を覚える。優しくできない、なんて言ってたくせに、私の身体を抱き締める力加減も頭を撫でる手つきも、全てが優しさに満ち溢れていて。瞼を閉じれば、一筋の滴が零れ落ちた。

「……助けて」

 いま早坂に抱かれたとしても、青木さんのことを忘れられるはずがない。彼と過ごした時間を無かったことには出来ない。やっぱりあの人は私の中で、特別な人だったことには変わりないんだ。

 最低な人だった。
 でも、大好きだったよ。忍さん。

「……他の男を想って泣く女を抱くっていうのも、癪だけどな」

 静かな呟きが耳元に落ちる。それは紛れもなく早坂の本音。
 優しいこの人を、私はまた傷つけてしまったんじゃないかと思うと胸が痛む。

「……ごめんね」
「謝らなくていいから。俺に悪いとか思ってるなら、そんなこと気にしなくていい。俺が気にしてもいないことを、七瀬が気にしてもしょうがない」
「……」
「その代わり……今日で終わりにしろよ」

 繋がれた手を握りしめて、早坂はそう告げた。私もそっと頷く。
 今日で全部終わらせると、何度も心の中で誓った。あの人と決別して、互いに別々の道を歩むこと。あの人を想って泣くのも、今日で最後にするんだ。

 しなやかな指が、涙で濡れた頬に触れる。いつも私を支えてくれたこの手で、今度は私を抱くと言う。
 まだ付き合ってもいない段階で、早坂と身体の関係を持つなんて変な感じがするけれど。何の不安も抱いていない自分がいることに驚いた。

 かつての私は違った。弱くて、臆病で、早坂との居心地いい関係が崩れることに恐れすら抱いていたのに。
 今はその恐怖を感じていない。
 だって自信があったから。

「……変わらない?」
「ん?」
「こんなことになっても、私達、変わらないでいられる?」
「変わると思うか?」
「……思わない」

 何も不安はなかった。
 変わらない自信しかなかったから。

「……じゃあ、甘えちゃおうかな」

 青木さんへの怒りは、今はない。
 それでもまだ胸に残ってる、ほんの少しの痛みと一抹の寂しさ。
 ぽっかりと空いてしまった心の空洞を埋めたいが為に、私は今夜、この人に抱かれようと思う。

 救いの手を伸ばしてくれたこの人に、もう一度縋ってみたい。この優しくて温かい人に救われたい。守られたい。
 ……そうして、やっと終わるんだ。
 ひとつの恋が。

 決して綺麗な恋じゃなかった。汚くて、生々しくて、でも大事に大事に育ててきた想いがある。
 だから簡単に捨てられないし、忘れることもできない。でも、終わらせることはできる。早坂が終わらせてくれると言うのなら、私は彼に縋りたい。

 大事なものを手放す喪失感が胸を覆う。
 失意に涙を浮かべながら、私は震える声で早坂の名前を呼ぶ。
 その頼もしい背中に、ゆっくりと両手を回した――。
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