募る想いは果てしなく
2人が去っていく姿を目で追いかける。早坂が振り向いてくれる気配はない。待って、と心は叫ぶのに。呼び止めたい言葉は音として出てこない。結局何も言えないまま、喫茶店から出ていく彼らを見送ることしかできなかった。
頭の中で鳴り響く警鐘。追いかけなきゃいけないという焦りなのか。それとも2人の話を聞いてはいけないという、本能的な危機感からなのか。私にはわからない。わかるのは、早坂が彼と席を外した理由。
……多分、だけど。
私に聞かせたくない話が、まだあるんだ。
わかっていても、それが何かを尋ねる気力は残されていない。
「……疲れた」
朝から気が張りっぱなしだった。心の底から疲労が溢れだしてくる。肩の荷が下りたような、すべてが終わった開放感に包まれる。
理想通りの別れ方ではなかった。でも、もう青木さんは私に接触してこない、気がしてる。
あとは早坂が上手くやるんだろう。
任せてもきっと……大丈夫。
けれど、私の心は鉛のように重い。
やっと、あの人から解放される。
解放されたんだと喜ぶべきなのに。
嬉しい感情は何一つ湧いてこない。
消化しきれない怒りと、やりきれない思いだけが、胸の中でずっと燻っていた。
裏切られていた事は、正直もうどうでもいい。浮気も不倫も許せないし、許す気もないけれど、今更文句を言ったところでどうしようもない。気付かなかった私も私だ。
でも――だからこそ悔しい。
自分が滑稽すぎて、惨めすぎて恥ずかしい。
胸の中を渦巻く黒い感情。これは嫉妬だ。結婚願望を抱いていることは伝えていたはずなのに、それでも青木さんは私ではなく、他の女を結婚相手に選んだ。こんなの、女のプライドを傷つけられたも同然だ。
……ずるい。
ひどいよ、忍さん。
私は本気で貴方と結婚したいって、この4年間ずっと思っていたのに――
「……七瀬」
どのくらいそうしていたのか。
不意に頭上から落ちてきた声に、私はゆっくりと顔を上げた。
「早坂……生きてたんだ」
「勝手に死なせんなよ」
私がしみじみと言えば、それが可笑しかったのか、早坂がふっと吹き出した。私も釣られて笑顔を作る。ちゃんと作れていたかどうかはわからない。
ふと気づくと、青木さんの姿がない。
早坂の背後を覗いても、辺りを見回しても、彼の姿はどこにも見当たらない。
「……あの人は?」
「帰った」
「……そう」
「多分、もう来ないと思う」
その一言で、彼と決別できたことを知る。もう会うこともなければ連絡が来ることもない。
正真正銘、これで終わり。
結局、青木さんから謝罪の言葉は一切なかった。
でもこれで良かったんだ。彼に謝ってほしくて来たんじゃない。別れる為に来たんだから。これが本来、私が望んでいた結末だ。
でも、納得がいかない。たくさんの嘘をついて、裏切っておいて。挙げ句の果てに暴力まで振るったくせに。自らの過ちを認めることもせず、何事もなかったかのように終わらせようとする彼のやり方が許せない。
これじゃあ、今まで彼に酷い仕打ちを受けてきた人達と、同じ末路だ。
悔しい、悔しい――
自分の中で、どす黒い感情が膨らんでいく。
「この後どうする? 腹減ってるなら、何か食べに行ってもいいけど」
「……」
「七瀬?」
「……ああ、ごめん。聞いてなかった。なに?」
「……いや、なんでもない。帰ろう」
テーブルに置いてある伝票を手に取って、早坂は会計へと向かった。
・・・
車に乗り込んだ後も、私達に会話はなかった。
しんと静まり返る車内。私は口を噤んだまま、車窓に映る光景を見つめる。通りには多くの人が行き交っていて、恋人らしき男女の組み合わせもたくさん目立つ。
腕を組み、互いに微笑みながら寄り添う姿。仲睦まじい姿はまさに、幸せ絶頂って感じ。
……そっか。あれが恋人か。
青木さんと腕を組んで歩くなんて、今までしたことなかったな。
「……ねえ早坂」
「……ん?」
「あの人が結婚したのが2年前って、どうしてわかったの?」
「……ご丁寧に名刺くれただろ」
「あ、早織さんに手渡したやつ?」
「だから会社に直接出向いて、そこの社員に聞いた」
「……そーなんだ。知らなかったのは私だけか」
刺々しい物言いに早坂は黙り込む。沈黙が重いから、何か喋らなきゃと思って話題を振ったのに。自らの惨めさを余計に痛感させられただけだった。
何やってるんだろうな、ほんと。
何もかも馬鹿らしく思えてくる。
馬鹿すぎて、ふっと自嘲めいた笑みが漏れた。
「バカだよね。恋人だと思ってた男は、私じゃない女を選んでさっさと結婚してたのに。ちゃっかり子供も作ってさ。何も知らないで結婚とか夢見てた私、ピエロみたいだよね。遊ばれてただけなのに」
「……」
「奥さん、どんな人かなあ」
「……さあ」
「ご令嬢なんでしょ? 素敵な方なんだろうね」
早坂の口数はいつも以上に少ない。対して私の愚痴は止まる気配がなくて、口を開けば次から次へと不満ばかりが零れ落ちる。これ以上傷つくのが嫌で、自虐することで頑なに心を守ろうとする。
気を抜いたら泣いてしまいそう。
心が病んでしまいそうで、怖くて。
「私みたいな庶民じゃ、結婚相手に選ばれるわけないか。完全に負けてるもんね」
「……勝ち負けの問題じゃないし、七瀬には七瀬の良さがあるだろ」
「それでも相手には敵わなかったじゃん」
「……」
たとえ結婚歴が長かろうと、まだ新婚だろうと、彼が既婚者だという事実は変わらない。
でも、そういうことじゃない。
そういうことじゃないの。
だって私と出会った時、青木さんはまだ独身だった。
結婚相手を選ぶ権利はあの人にある。
私は選ばれなかった。
それだけの話だ。
「……もうすぐ着くから」
「……うん」
「コンビニ寄るか?」
「ううん、大丈夫だよ」
こういう時の早坂は本当に優しい。頭ごなしに責めないし、下手な慰めもしない。でもそんな優しさすら、今の私には煩わしい。心がずっと塞ぎこんで、何も感じることができなくなっていた。
速度を落とし始めた早坂の車が、すっかり見慣れたマンションの駐車場に停車する。車から降りれば、霜冷えのする寒風が頬を掠めた。
一気に体の熱を奪われて身震いする。見上げた夜空に星の瞬きは見えなくて、深い闇だけが世界を覆い尽くしていた。
まるで私の心みたいだ。
光が見えなくて、希望も抱けなくて。
ただただ漆黒に塗り潰される。
心が。感情が。
……なんだろうな。
頭が酷くぼんやりする。
地に足がついていないような、ふわふわとした感覚が気持ち悪い。
――ふと気がつけば、私は部屋の前にいた。ICカードをセンサーにかざす、早坂の後ろ背を見つめ続ける。
駐車場からどうやって歩いてきたんだろう。エレベーターに乗った? 何を考えてた? ここに来るまで、早坂と会話した?
何も覚えていない。
……気持ち悪い。
解錠ランプが点滅し、静かにドアが開かれる。早坂に続いて玄関に入り、控えめにドアを閉めた。
ガチャン、と自動的に施錠される。便利だなあ、なんて思った。部屋の中は真っ暗で、窓から差し込む月光だけが、冷えた室内をぼんやりと照らしていた。
早坂は一向に私の方を見ない。黙ったまま靴を脱ぎ、照明のスイッチに手を伸ばそうとしてる。
その後ろ背に歩み寄って、縋りつくように抱きついた。
背中越しに息を飲む気配が伝わってくる。
「……どうした?」
優しい声。
ぎゅうっと両手に力を込める。
「……早坂」
「ん?」
「セックスしよ」
口にした瞬間、場の空気が凍りついた。
早坂がぎこちなく振り向き、やっと視線が絡まる。真っ直ぐに注がれる瞳は戸惑いに揺れていて。
「……何言ってんだ」
「いいじゃん。ちゃんと別れられたんだし」
「……」
「ね、しよ?」
「……いや、ちょっと待てって。落ち着けよ」
「落ち着いてるよ?」
乾いた笑みを作る。
泥沼に落ち込んだように下降する気持ちは、足掻きがとれずに私の精神を蝕んでいく。
「……そういうのは、投げやりでやるもんじゃない。わかるだろ」
「わかんない」
「七瀬」
「わかんないってば!」
急に、苛立ちの堰が切れた。どんッ、と勢いよく早坂を押し返す。不意を突かれ、バランスを崩した早坂の体が傾き、もつれあうように2人で倒れこんだ。
覆い被さる私の体を、早坂が咄嗟に支えてくれて。彼の上に跨がったまま、私は口を開く。
「ごちゃごちゃうるさい! 抱けっつったら抱いてよッ!」
喚き散らかした瞬間、堪えきれずに溢れた涙が零れ落ちた。ぽたりと滴って、早坂のコートに染みを作る。
あとはもう、止めようがなかった。ぽろぽろと大粒の雫が頬を濡らし、それらを拭うこともせずに私は項垂れる。
「なんで……?」
「……七瀬」
「なんで私ばっかり、こんな目にあうの……」
底無しの悲しみが胸を覆う。理不尽すぎて、やりきれなくて、行き場を失った怒りの矛先を早坂にぶつけてる。
……最低だ。早坂に感謝こそすれど、八つ当たりするなんて。罰当たりもいいとこだ。
でも、一度口をついて出た不満は止まらなくて。早坂の胸の上で、ただただ泣き崩れた。
「私がおかしいの? 酷いことしてたのはあの人なのに。なんで私が悪いみたいになってるの……騙したのは向こうなのに、なんでよ……っ!」
皮が切れたかのように激昂して泣き喚く。駄々をこねる子供みたいに。
怒りと涙で肩を震わせる私の背を、早坂の手がぽんぽんと優しく宥めてくれるけど。それでも私の悲しみは消えてくれない。
「……七瀬は悪くない」
わかってる。
でもそんな言葉がほしいんじゃない。
「忘れたい」
「……」
「全部、なかったことにしたい」
あの人を想い続けた4年間。一緒に笑いあったことも、寄り添いながら語り合ったことも、抱かれた記憶も、温もりも。全部忘れてしまいたい。
こんな、最初から穢れていた思い出なんか、簡単に捨ててしまえたらどんなに良かったか。簡単に捨てられないから苦しいんだ。だって。
「……好きだったのに」
「……」
「本当に大好きだったのに……っ!」
どんなに汚くても、間違っていても、大切に想い続けた青木さんへの想いは、その気持ちだけは本物だった。本気の恋だった。
綺麗な気持ちは綺麗なままで、思い出として記憶に留めておきたかった。愚かだとわかっていても。
「……わかった」
お腹の底に響くような低い声にはっとする。目を見張った瞬間、ぐんっと体がひっくり返った。
身を襲う衝撃に、反射的に目を閉じる。
引き倒されたと同時に、背中に冷たいフローリングの感触が伝わった。