募る想いは果てしなく
不安と疑念の入り交じる思いで隣を見やる。当の本人は平然とした顔で、残り僅かなコーヒーを飲み干してからカップを置いた。
カチャ……と静かな不協和音が響く。
そして、伏せていた瞼をゆっくりと押し上げた。
早坂はここまで沈黙を貫いてきた。最初は青木さんと2人で話したい、その私の言葉通り、ずっと成り行きを見守っていてくれた。
その早坂が、やっとここで言葉を発したということは、私達の話し合いが完全に決裂したと、早坂自身もそう判断したということだ。
「……え……どういう意味?」
「そのままの意味だよ。警察に訴えようが弁護士を雇おうが、この男が罪に問われることはないんだ。そうだよな?」
早坂が訊き返す。でも青木さんは何も答えない。肯定も否定もせず、早坂を見据えるだけ。重苦しい空気だけがこの場に漂う。
「あの……話が全然見えてこないんだけど」
2人とも会話は通じあっているみたいだけど、肝心の私は全く状況が読み込めていない。さっぱりだ。
困惑に満ちた表情を浮かべていると、早坂は私の方に、意味深な視線を送った。
そして、ある人物の名を口に出す。
「七瀬、青木新一って知ってるか?」
思わず目を丸くする。
その名前なら何度も聞きた。
先日の総選挙を経て、農林水産副大臣に任命された大物政治家のひとり。連日のテレビ報道でさすがに知ってる。
「ねえ、いま政治の話なんて関係ないよ」
「関係ある。この男はあの青木新一の息子だ」
「……はぁ!?」
突拍子もない声を上げてしまった。それぐらいの衝撃だった。青木新一といえば、確か祖父が昔、総理大臣をやっていたはずだ。
つまりこの人は、政界のサラブレッド。
でも、本人からそんな話は聞いたことがない。彼も教えてくれなかった。
青木という名前自体も珍しくはないし、苗字が被っているだけで、まさか政治家の親族だなんて考えるはずがない。
「それは……知らなかった。すごいね」
「すごいどころの話じゃねえよ」
憎らしげに放つ早坂の口調は刺々しい。
「この男が暴力沙汰の事件を起こすのは、今回が初めてじゃなかった。過去にも何度か問題を起こしてるし、実際に警察の世話にもなってる」
「……えっ?」
彼が政治家の息子だった、そんな驚きの事実すら霞んでしまう程の衝撃。
「被害にあったのも1人、2人の話じゃない。なのに毎回、事件性がないだの証拠がないだの、適当な理由で釈放されてる。証拠がないはずがないのに立件できないなんて、普通に考えてもありえない」
不穏な流れに、胸がざわついて仕方ない。
呼吸が浅くなる。
「……どういうこと?」
「裏で父親が動いてたんだろ。どのくらいの示談金を出したのかは知らないけど。どんな不祥事を起こしても、この男の場合、父親の権力と金で全部揉み消しにできるんだ」
あんまりな内容に言葉を失う。そんな茶番は創作の設定だけだと思っていた。もしその話が本当なら、日本はもう終わってる。この人も、青木新一も、そして警察組織も。正義も悪もあったもんじゃない。
民事に訴えても無駄だと言った、その自信の根拠がそんなふざけた理由なら、今すぐその自信を棄てて自分を恥じた方がいい。堂々ともの言える立場じゃないだろう。
蔑むような目で青木さんを見てしまう。けれど本人は意に介さない態度。早坂の言葉を鼻で笑い、優雅に足を組み直す。
「何の話かと思えば。馬鹿馬鹿しい」
「……馬鹿馬鹿しいって何だよ」
「俺が不祥事を起こした? いつ? 君らと違って俺は多忙なんだ。他の連中と遊ぶ暇なんかない」
嘲るように笑い飛ばす。早坂が事実を捏造している、そう取れる口調。
でも、私にはそうは思えない。
青木さんが白を切っているようにしか見えない。
「そんなものはお前の作り話だと、調べたらすぐにわかることだ。人を陥れたいなら、もう少し頭を使ったら? これだから出来の悪い人間は嫌いなんだ」
その言い草にカッと血が上る。
早坂はそんな人じゃない。人を陥れるような人間じゃない。早坂のことなんて何も知らないくせに、そんな風に罵るなんて許せない。
歯向かおうとした私を、でも早坂は手で制した。
「……馬鹿な奴ほどよく喋るって本当だな」
「は?」
「お前さ、その自信はどこから来んの? 権力で事件を揉み消したから、不祥事の証拠が出てこないとでも思ってるのか? そんなわけないだろ。被害に遭った人間は実在してるんだから」
早坂の言う通りだ。被害者が生きている限り罪は残る。権力で事件を揉み消すことはできても、関わった人達の思いまでは消せない。
「先日、被害者達に会ってきた。連絡先も交換した。お前らのしたことが白日の下に晒されるなら、協力も惜しまないって言ってくれたよ。かなり恨まれてるな、お前達」
あっさりと論破されて、青木さんは唇を噛む。その表情を見れば、どちらが嘘をついているかなんて一目瞭然だった。
「……私だけじゃなかったんだね」
私と同じような被害に遭った人が、他にもたくさんいるなんて。しかも親が金を積んで解決している有様だ。
これが国民の上に立つ人のすることなのか。怒りを通り越して呆れる他ない。理不尽な暴力に声を上げたところで、強大な権力を前に泣き寝入りせざるを得なかった人達のことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。
「……どうして私に素性を隠してたんですか?」
「……遥が離れると思ったから」
「離れる?」
「身分の違いを気にして距離を置かれるんじゃないかと思ったんだ。だから……」
「……」
思い詰めたような表情で青木さんは答えるけれど。
何だろう――何故か、釈然としなかった。
もし青木さんが有名人だと知らされても、私は身を引かなかったし、気にも止めなかったと思う。身分違いの恋なんて、今時珍しい話でもない。離れる理由にもならない。
だから、この言い分に違和感を覚えた。青木さんが自分の素性を黙っていたのは、本当に、身分の違いを気にしての理由なんだろうか。
青木さんの身勝手さや、横暴さ。
知る度に不信感が強まっていく。
妙な違和感が拭えない。
「……それだけじゃないだろ」
確信めいた口調で、早坂は静かに問い詰める。青木さんの眉がピクリと吊り上がった。
「……何が言いたい」
「しらばっくれる気かよ。青木新一の息子だと知られたら、既婚者だということもバレる。そうなれば、他にも知られたくないことがバレるから、素性を隠してたんだろ」
他にも知られたくない、こと。
さざ波のような嫌な予感が押し寄せる。
この人はまだ私に隠し事があるらしい。
「青木新一には2人の息子がいるんだ」
「2人?」
「そう。長男の方は優秀だけど、問題は次男の方だ。問題行動ばかり起こして警察沙汰になって、その度に父親が事実を揉み消してきた」
じゃあ、この人は次男の方なのかと。
納得できてしまうのが、なんだか悲しい。
「でも、いつまでも馬鹿息子を好き放題やらせておくわけにもいかない。親も手を焼いてたんだろうな。次男に無理やり縁談を持ち掛けたんだ」
「……無理やり?」
「親には逆らえなかったんだろ。次男も従わざるを得なかったらしい。父親から紹介された令嬢と結婚したそうだ。……2年前に」
「……2年、前?」
どくっと心臓が嫌な音を立てる。
聞き間違いかと思った。
だって青木さんが2年前に結婚したのなら――私と交際中に、その人と結婚したことになる。
「で、でもお子さん、まだ8歳だって……」
「それ、この男が言ったのか?」
「そうだよ」
「それは嘘だ。こいつの子供は8歳じゃない。まだ1歳だ」
「……うそ」
一気に血の気が引いていく。
早坂が明かした彼の秘密は、私を再び奈落の底に突き落とすには十分すぎるほどの衝撃だった。
私は最初から勘違いをしていた。実は結婚している、8歳の子供がいる。そう言われたから、だから彼の結婚歴は長いのだと思い込んでいた。
でも違った。この人は私と交際している最中に、あろうことか他の女と結婚していたんだ。早坂が令嬢と敬って言うあたり、相手も青木さんと並ぶほどの高貴な方なんだろう。
「……本当なんですか?」
青木さんは否定もしなければ反論もしない。その沈黙こそが肯定の証。私の心に湧いたのは、彼の矛盾さに対する純粋な怒りだった。
結婚を否定しておきながら、自分はちゃっかり結婚してやることやってるんじゃないか。赤ちゃんがいるのに、奥さんのことも放置して、他の女の元へ足繁く通うこの人の気がしれない――
そう思った時。
ふと思い至った新たな事実に、私は頭から冷水を浴びたかのように震え上がった。
青木さんが結婚したのが2年前。
子供が1歳なら、奥さんの妊娠も2年前。
結婚と同時期に妊娠したのか、その前に身ごもったのか――なんて、問題はそこじゃない。
私達が交際を始めたのは4年前だ。彼が奥さんと結婚するよりも早かった。身体の関係も持っていた。彼が部屋を訪ねてきた日は、いつもあの手に抱かれてきた。それが深夜だろうと早朝だろうと関係なく。
「……まさか、私は奥さんの代わりですか?」
「……」
「奥さんが妊娠して抱けないから、私のこと使ったんですか?」
「急に何? 妊活のこと言ってるの?」
冷えた声色が耳を打つ。妊活、という慣れない言葉に胸がゾワッとした。
苛立ちを含ませた瞳を、彼は私に投げかける。
「妊活は義務でしょ。妻は義務感で抱いたとしても、遥は違うでしょ。使ったなんて、そんなわけない。あの女と遥は全然違う」
「……」
「妊活中でも俺は遥のことを一番に想ってたし、本気だった」
「……ちがう」
「は? 何が」
「そうじゃない……そういうことじゃない……っ」
妊活中、だったんだ。
早朝に会いに来た際に身体を求めてくれたのは。
奥さんを抱いた後、だったんだ。
そう察した時、背筋が凍った。妊活してたなら、彼らは避妊もしていないはず。
だとしたら私は間接的に、彼の奥さんと粘膜で触れ合っていたことになる――
「……っ、う」
急激に込み上げてきた嘔吐感。
咄嗟に口を塞ぐ。
「……七瀬」
「っ、ごめ……ん、大丈夫……」
早坂の心配そうな声が聞こえて、なんとか平静を装おうとしたけど駄目だった。堰き止めていたはずのものが、ぽたりと手の甲に滴り落ちる。
心底、気持ち悪いと思った。
他の女に触れた手で、唇で。他の女が濡らした指先で、私にも触れていた。
何食わぬ顔でそれが出来るこの人は、一体どんな神経を持ち合わせているんだろう。
「……最悪……ッ」
もう嫌だ。怒りが収まらない。この人を視界に入れるのも辛い。いっそのこと、この場から逃げ出してしまいたかった。
でもそれは出来ない。
まだ話が終わってない。
青木さんから何の承諾を得ていない。
この人の口から「別れる」という言葉を聞かなければ、私達はまた同じことを繰り返すことになる。
今日で全部終わりにするんだ。その為に来たんだから。ちゃんとわかってるのに、底知れぬ絶望と悲しみで心が悲鳴を上げている。
なんで。
どうして私ばかり、我慢しなきゃいけないの。
「……限界だな」
……早坂の声だった。
私の心情を代弁したような、静かな一言だった。
涙で濡れた瞳を隣に向ける。早坂は少し俯き気味。その横顔からは、何の感情も読み取れなくて、不安ばかりが募る。救いを求めるように目を凝らしていると、早坂は静かに立ち上がった。
古ぼけた椅子の脚が床に擦れる。
その耳障りな音に、心が掻きむしられるような焦燥感が私を襲った。
「……早坂……どこ行くの?」
震える唇が弱々しく呼び止める。今、この場に青木さんと2人きりにされるなんて無理だ。心が耐えられない。
早坂に側にいてほしくて、離れてほしくなくて、縋るような眼差しを彼に向ける。
そんな私の願いが通じたのか、振り向いてくれた早坂と目が合った。
優しさが滲んだ瞳。
急に呼吸が楽になったような気がした。
強張っていた心が解かされていく。
あからさまにホッとしている私の鼻を、早坂の指がむぎゅっと無遠慮に摘まんだ。
「なんつー顔してんだよ」
苦笑混じりで言い放つ早坂の顔は、今まで見てきたどの笑顔よりも優しく見えた。
頑張ったな、って。
そう言ってくれた気がして。
「七瀬はここで待ってろ」
「……え?」
「すぐ戻るから」
早坂は多くのことを語らない。それだけ言い残して席から離れてしまった。
一歩一歩、私との距離が開いていく。
そして青木さんとすれ違う寸前、早坂は彼の肩に手を置いた。
「……青木、ちょっと来い」
早坂が軽く顎をしゃくる。その先にあるのは喫茶店のドア。青木さんと一緒に外へ出るつもりらしい。
青木さんと2人きりなんて大丈夫なのかな。止めるべきなのかもしれない。
でも、「自分についてこい」と、そう誘い出す早坂の声も、瞳もすごく冷ややかで。拒むことは許さないと言わんばかりの凄みを感じさせる。だから私まで黙ってしまった。
それは青木さんも同様で、早坂の気迫に一瞬たじろいでいたけれど。やがて彼も席を立って、早坂を追う形でこの場を去ってしまった。
私に何の言葉を掛けることもなく。
目が合うこともなかった。
チリン、とドアチャイムが鳴る。
ひとり残された席で、私はただ項垂れだ。
涙を拭うことさえ忘れて、テーブルに視線を落とすことしかできなかった。