募る想いは果てしなく

最低な真実(前)



 早坂と並んでカフェへと向かう。重厚感のあるドアを、ゆっくりと押し開けた。
 懐かしい光景に私は目を細める。
 鼻腔を掠める木材の匂いは、忘れかけていた思い出を呼び覚ました。

 白い壁と樹で内装された室内。アンティーク調の照明が独特の雰囲気を放つ店。ここは青木さんとよく訪れた思い出の場所。自然感溢れる店内を見渡した時、そこに見覚えのある後ろ姿を見つけた。
 心臓が大きく跳ねる。
 私の気配に気づいたのか、その人物は窓越しに向けていた視線をこちらに向けた。

「遥っ、」

 青木さんは一瞬表情を緩めたけれど、早坂の姿を認めた途端、苦渋に顔を歪ませた。
 ジトリと私の方を睨む。

「……遥、どういうこと」

 鋭い眼光と凄みに怯みそうになる。
 青木さんの反応は当然だった。
 早坂も知らない、彼との思い出が詰まったこのカフェを指定したから、青木さんはきっと、私が1人で来るのだと思っただろうから。
 騙したことは悪いと思ってる。でもこうしなきゃ、彼はこの場に来てくれない。そう自らを納得させる。吊り目がちな彼の瞳を、真っ直ぐに見据えた。

 大丈夫、怖くない。
 周りには人がいるし、隣には早坂もいる。
 だから私は逃げることなく、青木さんがいる席へと歩みを進めることができた。

 彼と向かい合う形で座る。早坂は呑気にホットコーヒーを注文してた。相変わらずこの人は冷静沈着だ。けど、その通常運転ぶりが今は頼もしい。

「……どういうこと? 説明して」

 青木さんは不機嫌さを隠そうともしない。
 深く息を吸って、彼の顔を真っ直ぐに見た。

「……第三者の介入なくして解決はできないと思ったから、同行者に来て頂きました。隠してた事は謝ります」
「そんなこと俺は望んでない」
「じゃあ私と別れてくれるんですか?」
「……それは」

 青木さんは言葉を詰まらせたけど。
 彼が何かを反論する前に、私は言葉を続けた。

「はなから冷静に話し合えるなんて思ってません。私達が揉めた際に止めてもらえるように、第三者の立場として彼をこの場に呼びました。別れ話を有利に進めるために呼んだわけじゃないです」
「……どうだか」
「……彼は同じ職場で働いている方です。今回のことで相談に乗ってもらっただけで、浮気相手じゃありません」
「そんな話、俺が信じると思う?」
「……」

 すぐに反論できなかった。
 後ろめたい事があったから。
 浮気じゃないと断言したくても、浮気まがいな事をしてしまったことは確かだ。
 ただ、それをこの場で明け透けに言うつもりはないし、彼との事情と早坂のことは、また別の話だ。

「青木さん、本気で私と不倫関係を続けたいと思ってるんですか? いずれ奥さんと離婚するって言ってましたけど、じゃあもし奥さんと別れた後はどうするんですか。私とは結婚する気がない、そう言ってましたよね」

 あの日のことは1日だって忘れたことはない。結婚も子供も望んでいない、彼にそう言われた時、奈落の底に突き落とされたような衝撃を受けたのを覚えている。
 ずっと夢見ていた、些細で、でも大切に思い描いてきた夢。
 それをあっさり拒絶されて、ショックを隠しきれなかった。

「……遥は理想に囚われすぎだよ」
「え?」

 穏やかな、でもどこか冷酷さを孕んだ声。

「夫婦が家の外に恋人を作ることは、別に珍しいことじゃないよ。知ってる? 今は10人に3人が不倫経験者なんだ。既婚者の浮気経験者に至っては8割だ。どう思う? それを聞いても、遥はまだ結婚したいと思うの?」
「……何が言いたいんですか」
「言ったでしょ。結婚なんて綺麗なものじゃないし、本来必要なものでもないって」
「……」
「結婚に理想を描いてるなら、それは幻想だ」
「……論点をずらさないでください。今はデータの話なんてしていません。私達の話をしてるんです」

 そんなデータに信用性は全くない。データの結果で不貞行為が許されていいはずがない。
 そもそも私を罵る資格は青木さんにないはずだ。自分の浮気は問題なくて、私が浮気するのは許さないなんて、そんな馬鹿げた話があるだろうか。

「……家族を裏切っていることに変わりはないでしょう。悪いとは思わないんですか?」
「思わないよ。不倫が不純だって誰が決めたの? そう思いたいんでしょ、遥は」
「……そうですか」

 その一言でようやく理解した。
 やっぱり、話し合いは無駄だったんだ。
 浮気も不倫も社会制度で罰する必要がない、そう謳ってる人に何を言ってもわかりあえる気がしない。

 ……そう。何も意味がなかった。
 やりきれない思いだけが胸を締め付ける。

「……どうしても別れに承諾して頂けないのなら、民事に訴えます」
「……はっ?」

 青木さんは急に声を荒げた。
 顔を歪め、怒りを滲ませた瞳で私を睨む。
 早坂も驚いたように私を凝視していた。
 警察に被害届は出さない、そう宣言していた私の口から民事の言葉が出てくるとは思いもしなかったんだろう。

「……七瀬」

 弱々しく呼ぶ声は心配そうで。

「……私だって、何も考えてなかったわけじゃないよ」

 警察に訴えない決意は変わっていない。彼のご家族が傷つくのはやっぱり嫌だから。こんな泥沼に彼らを巻き込みたくはない。特に子供の気持ちを考えたら尚更だ。

 だから考えた。
 誰も傷つけないで解決させる方法。
 一度は早坂に助けを求めたけれど、だからって、全てを早坂任せにするつもりはない。

「これ以上私に付きまとうなら、弁護士を雇って損害賠償請求をします。最悪、裁判所に面談禁止の命令を出してもらうつもりです」
「本気で言ってるの?」
「本気です。私だって生活があるんです。貴方の勝手にいつまでも構っていられません」

 もし民事に訴えれば、この人は今後、私に会うことはできなくなる。もちろん電話やメールも許されない。もし破った時点で、青木さんは犯罪者となる。
 もちろん、これは半分脅し。
 これで身を引いてくれれば、訴える気はない。

 ここまで順風満帆な道を辿ってきたはずの彼。今や大企業のエリート社員。その経歴に傷をつけたくないはず。振られた女のケツを追いかけ回した挙げ句、警察に捕まるなんてお粗末な展開は、さすがに青木さんだって避けたいはず――

 ……なんて。
 安易にそう考えた私は、やっぱり甘かったようだ。

「……あ、そう。じゃあ好きにしたら? どうせ無駄だろうけど」

 私の覚悟を軽くあしらうような、人を小馬鹿にしたような態度。
 何のダメージも受けていないような彼の様子に、私は目を白黒させる。

「……無駄?」

 何が、という私の心の声を、青木さんはすぐに見抜いたようで。

「そう、無駄だよ。試しに弁護士雇ってみなよ。断られるか、たとえ引き受けてくれてもすぐに潰される。それでも民事に訴えたいなら勝手にどうぞ。"無かったこと"にされると思うけどね」

 はぐらかすような口調が癪に触る。不快に眉を寄せる私とは対照的に、青木さんの顔は腹立だしいくらいに涼しげだ。
 一体彼にどんな権限があるのか。そんな風に言い切れる根拠は何なのか。無かったことにされるなんて、ありえないのに。
 疑わし気な視線を青木さんに向けた時――

「……だろうな。お前ならそう言うと思ったよ」

 隣から聞こえてきた、その一言は。
 穏やかだった波に一石を投じるかのごとく、私の心を酷くざわつかせた。
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