募る想いは果てしなく
人はどこまでも貪欲な生き物で、どんなに幸せだと感じていても、今よりもっといい状態になりたいと願ってる。
更に愚かなのは、それを向上心だとはき違えているところかもしれない。
欲を出し過ぎた人間は、いずれ奈落の底に落とされる。
「あの、忍さん」
「ん?」
「……聞きたいことがあるんですが」
「なに?」
彼とお酒を嗜んでいた時。
ずっと胸に秘めていた思いを、私は青木さんに打ち明けた。
「その……将来のこと、どう考えてますか……?」
自らの口から尋ねるのはとても勇気がいった。
彼との交際も4年が過ぎた。私も26歳を迎える。そろそろ結婚という決断に踏み切ってもいいんじゃないかと思ってる。現に母親から「今の彼氏と結婚しないの?」なんて探りを入れられているくらいだから。
好きな人と結婚して。
旦那となる人と共に子供を育てていく。
それは恥ずかしながら長年の夢だった。
幼い頃から憧れていた、一生を添い遂げると誓った人と家族を作る――その相手がこの人であってほしい。
当時はそう思っていた。
それが破綻の道を辿ることになるとも知らずに。
「……遥は結婚したいの?」
彼は慎重に訊き返してきた。どこか落胆めいた響き。期待で膨らんでいた気持ちが、まるで風船が萎んでいくように縮まっていく。
「え……いずれは、と思ってますけど……」
しどろもどろになりながら答える。青木さんは意外そうな顔で私を見返してきた。どうしてそんな顔をするのかわからなくて。その時になって初めて、自分の中で焦りというものが生まれた。
青木さんは忙しい人だ。営業社員としてトップに上り詰めたいという野望も抱いている。だから、今すぐの結婚は難しいかもしれない。
そんなことは百も承知の上で、でもいつかは……と将来の約束を願っていた。
いつか彼と結婚できるのだと。
そう確信できる言葉が欲しかった。
安心したかった。
青木さんならきっと考えてくれている。
だって彼は誠実な人だから。
そう思っていたのに。
「……そうなんだ」
青木さんは何も答えてくれない。
私が望む言葉をくれなかった。
「……あの、急に変なこと訊いてごめんなさい。その、母親がうるさくて。今の彼氏は結婚する気があるのかって、毎回聞かれて」
「……」
「忍さんだって忙しいのに、困りますよね」
「……遥」
「でも私、ずっと夢だったんです。好きな人と結婚して家庭を持つこと。子供も大好きだし、たくさん子供欲しいなあ、なんて思ってて。だから」
「ごめん」
切々と理想を語る私の言葉を。
青木さんは突然の謝罪で遮った。
「俺は子供もいらないし、結婚する気もないから」
「……え」
その一言に頭の中が真っ白になる。
笑えない冗談だと思った。
冗談だと思いたかった。
胸につき上げてくる焦燥の感覚に抗うように、私は深く息を吐く。
「……あの。忍さんは、結婚願望とかは……」
「結婚って必要?」
「……え?」
私が訊きたかった言葉は、またもや彼によって遮断される。
「結婚しなくても一緒にいられるよ。それでいいじゃない。俺は遥とずっと恋人同士でいたい」
「……」
彼の主張には、確かに私への想いが刻まれている。
でも――それは、私が望む未来じゃない。
好きな人と結婚して家族を作る。そんな、ごく普通で当たり前の夢を拒絶されるなんて思わなくて。
重く黒ずんだ不安が胸の中を渦巻いて、その日以来、この淀んだ苦しさが消えることはなかった。
この人は、私との将来を望んでいない。
でも、恋人としてずっと傍にいたいと言う。
そんな人と、この先もずっと隣で寄り添っていくのは、果たして正解なんだろうか。
初めて彼に芽生えた疑心の念。
それが青木さんへの不信に繋がり、数日後、彼のスマホを覗き見してしまったことで、彼の裏切りを知ることになる――。
・・・
『……続いてのニュースです。第49回衆議院議員総選挙が1月20日に開示され――……』
休憩室の引き戸を開けると、アナウンサーの抑揚のない声が耳に届く。狭い和室に、テレビだけが孤独に稼働中。誰かが電源を消し忘れたのかな、と思い至る。
時刻は14時。平日だと、お昼過ぎから客足が落ち着いてくる。私は今から30分だけの休憩を取る予定。暖房の電源をつけ、冷蔵庫から缶コーヒーをひとつだけ取り出してから腰を下ろした。
プルタブを開けて一口飲む。テレビでは連日、選挙関連の話題で持ちきりだ。興味が湧かず、テレビそっちのけでスマホを弄る。
休憩室といっても、コーヒーサーバーや書籍が置いてあるわけではない。古びたテレビとレトロなテーブル、そして給湯ポットと冷蔵庫が置いてあるだけの質素な空間だ。
どうして休憩室だけ和室なんだろう。働き始めた当初は不思議に思っていたけれど。そんな疑問も数年経てば、思考は薄れてしまうもので。今では何とも思わなくなった。むしろ畳の上だから両足を伸ばせるし、昔ながらの日本風な造りでリラックスできるから良いとする。
そんな室内に、新たな音が混じる。カラ……と控えめに開かれた引き戸。顔を上げれば、早織さんの姿があった。
「あ、七瀬さん。お疲れ様です」
「早織さんもお疲れ」
軽く手を振れば、綺麗な笑みを見せてくれる。彼女の手には可愛らしい和風柄の紙袋。中身はお弁当だろうと悟る。
「早織さん、今から休憩?」
「はい。隣いいですか?」
「どうぞどうぞ!」
隣のスペースに早織さんも腰を下ろした。綺麗に正座する姿は、古風な大和撫子感を匂わせる。対して私の崩れた体勢のだらしなさよ。でもこっちの方が楽チンだから正さない。
『農林水産副大臣に羽鳥博己衆議院議員、青木新一衆議院議員が就任しました。農林水産大臣政務官には宮地明参議院議員が就任し、再任となるのは公明党の――……』
「……七瀬さん、政治のニュース観てる?」
「あ、ごめん観てないや。ずっとスマホいじってた。チャンネル変える?」
「いえ、いいです。どの番組も政治ばかりだし」
早織さんも興味がなさそうな口振りだ。テレビには目もくれず、弁当箱の蓋を開ける。
中身は定番の卵焼きやタコさんウインナー、ミートボールなどが詰められている。子供が好きそうなおかず達が勢ぞろいだ。
「政治のニュースばっかで飽きたよね」
「また不正が見つかったせいですよね。選挙が終わった直後にこんな有様なんだから、誰の為の選挙だったのかなって思いますけど」
温厚な早織さんにしては珍しく皮肉めいた発言。不正行為を働いた政治家に対する呆れなのか、怒りなのか、はたまたその両方か。
その不正というのも、現金を供与した選挙運動員を公職選挙法違反で逮捕したというもの。この手のスキャンダルは総選挙の後、よく耳にするようになった。
こういうニュースを目にする度に、今の日本はとても平和なんだなと感じる。もし世界のどこかで大地震でも発生したら、すぐに話題はそっちに奪われて、日本政治の不正ニュースなんてあっという間に掻き消されてしまう。結局、簡単に忘れ去られる程度の影響力しかない。
もはや政治家の不正が当たり前の認識。
私達はこの異常さに慣れてしまっている。
「七瀬さん、投票行きました?」
「ネット投票で済ませたよ。早織さんは?」
「私、今回は行ってなくて」
「そうなんだ。まあ、投票するかしないかは本人の自由だしね」
「……でも」
少しだけ声を潜めながら、早織さんは続けた。
「投票に行かないと、嫌味なこと言う人いますよね」
「いるいる。投票は日本人の義務だって力説する人達ね。あの投票ムーヴは意味わかんないな」
「同感です。義務じゃなくて権利ですし」
頷きながら、早織さんはミートボールを箸でつまんで口に入れた。美味しそう。
「投票に行かないくせに、政治には文句言う人って多いからね。そういう人達を非難したい気持ちもわかるけど。たまーに過激派がいるよね」
彼らの言い分も理解できる。投票を勧める、勧めないも人の自由だ。ただ強制されるものじゃない。
「ほら、若年層の投票率の低さが毎回議論されてるじゃん? 日本の投票率って、欧米と比べたらめちゃくちゃ低いし。そういう報道に触発される人も多いんじゃないかな」
あえて投票しない、という権利もある。投票に行かない人を口汚く攻撃するのは違う。
正義感を人に押し付けてる時点で、それはもう正義じゃないことに、大半の人は気づいていない。
「何でも欲を出し過ぎるのはイカンよね」
けれど。欲がなければ成長もない。
「やだね、暗いニュースばっかりで」
「……七瀬さん、大丈夫ですか?」
「何が?」
「元気がないように見えたので」
「あー……わかる?」
「何かあったんですか?」
「あったというか……これからあるというか」
「?」
首を傾げる早織さんに、私は曖昧に笑い返す。なんせ今日は、青木さんと話し合う日。早坂も一緒に来てくれることで幾分か安心はできるものの、どうしても気分は落ちてしまう。
「大丈夫ですか?」
「うん、へーき。あ、そういえば最近ね、この近くにすごく美味しいラーメン屋さん見つけてさー……」
萎えている理由を伝える訳にもいかず、話題を方向転換させることで誤魔化した。
・・・
「……吐きそう」
キリキリと痛む胃を抑え込む。 私はただ今、車内で吐き気と格闘中。 隣の運転席には早坂の姿。 私達は今しがた、本日の勤務を終えたばかり。
車窓から見える、ログハウス風の一軒家カフェ。青木さんと交際している時に、何度か一緒に訪れたことがある場所だ。今日は彼と、最後の話し合いをする日。彼と決別する為の場を、私はこの喫茶店に設けた。
……そう。
今日で最後。
最後にしなきゃいけない。
私も、彼も、過去に固執せず前に進む為に。
「吐きそう?」
早坂が尋ね返してきて、力なく頷く。
「具合悪ぃの?」
「少しだけ」
「わかった。今すぐ帰ろう。青木との話し合いは俺に任せとけ。全部うまくやっとくから」
「待って早坂クン」
着いて早々、車を発進させて来た道を戻ろうとする。私は慌てて止めに入った。
「帰んないから。ちゃんと行くってば」
「無理すんなよ。七瀬は絶不調だから帰らせたって言えば青木も納得すんだろ」
「あ、治った。急に治ったよ超元気。ほら行くよ」
「……チッ」
舌打ちがっつり聞こえてる。はしたない。
「なんで私が行くことに反対するの?」
「いや、普通に心配で」
「? 平気だよ。早坂もいるし」
早坂が懸念していた"2人きりの状況"は回避した。青木さんには前もって連絡済み。喫茶店で会うことも承諾してくれた。ただ、早坂も同行することは伝えていない。
青木さんは早坂の姿を知っているはず。 そして私の浮気相手だと疑ってる。 見たら相当怒るだろうな。
でも、もう背に腹は代えられないから。
「早坂が止めても行くからね」
「……はあ。わかったよ」
渋々な感じで納得してくれたけど、早坂の表情は私以上に固い。
背もたれに深く体重を預け、彼は重苦しいため息を吐き出した。
「七瀬」
「なに?」
「言おうか迷ってたけど、やっぱ言うわ」
「何を?」
「今日の話し合い。多分、別れ話どころじゃなくなると思う」
「……は?」
突然、何の予言なのか。
私は目をぱちくりさせる。
早坂は真剣な眼差しを投げかけてきた。
「青木に何言われても、アイツの前では泣くなよ」
「なにそれ? 別れられて嬉し泣きってこと?」
「……そうだったらいいけどな」
「……?」
早坂が何を伝えたいのかわからない。
でも説明する気はないようだ。
「そろそろ行くか。待ってるみたいだし」
「……ねえ早坂」
「ん?」
「私からもいいかな」
「……何?」
ふう、と一呼吸つく。
まだ体が強張ってる。緊張が解けない。
こんな調子じゃ駄目だと自分を奮い立たせる。
「早坂が何を考えてるのかわからないけど、なにかしたい事があるなら、もう止めない。でも、最初は青木さんと2人で話をさせて。それでも無理だって判断したら、その時は早坂に任せるから」
「……」
「……ダメかな?」
おずおずと尋ねる。
神妙な面持ちだった早坂の表情が、ふっと和らいだ。
「……いや、いいよ。2人で解決できるなら、それに越したことはないから」
「ありがとう。やってみる」
彼が既婚者だと知った時、一方的に別れを告げて逃げたのは私。その日以降も、彼とは何度も話し合ってきた。それでも状況は平行線のままだ。
多分、今日もそうなる。今更別れを受け入れてくれるとは思えない。だから早坂に来てもらったわけだけど、私はまだ青木さんに、僅かな希望を抱いていた。
どんな裏切りを受けていたとしても、彼と過ごしたあの4年間は、私にとっては何事にも代えがたい、大切な4年間であることに変わりない。
初めての恋人が青木さんで良かった、と。そう思えたら、彼との別れで負った傷も、いつかは綺麗に昇華できる気がしたんだ。
だから、どうしても自分で終わらせたい。
そんな思いがあった。