募る想いは果てしなく

ヒーロー



 雪がちらつき始めた夜空の下、冷えた空気が氷のように肌にしみる。
 コート1枚だけでは防寒しきれない程の寒さだが、実家で暮らしていた頃に比べたら、東京はまだマシな方だ。
 雪積はないし、除雪作業も不要。凍り付いた歩道で転倒、なんて心配もない。冬の寒さも、雪自体も。雪国で育った身としては、昔から慣れ親しんだもので苦ではない。

 ……雪に慣れていない誰かさんは大いにはしゃぎそうだな、そう内心ほくそ笑みながら、マンション1階に併設されたコンビニに入る。

 北海道から上京して8年。実家にいた頃とは違う、何の縛りもない自由奔放な一人暮らしというのは、それなりに充実していて満足している――という主張を、今更ながら全力で撤回したい。
 自分の帰る家があって。帰りを待っていてくれる人がいる。そういうのも悪くないと改めて思う。その相手が、自分の想い人であれば尚更。
 外に出て、見上げた先にある自宅マンション。光の漏れる一室を見つけて頬が緩んだ。



「あ、帰ってきた。おかえり!」

 ドアを開けると、弾んだ声が飛んでくる。周囲を漂う香ばしい匂いが、俺の帰宅を迎えてくれた。
 どこかで嗅いだ記憶のある匂い。どこだったかと頭の片隅で考えながら、コートに付着した雪を払って靴を脱ぐ。

「ただいま。七瀬、今なんか作ってる?」
「うん。フライドポテト揚げてるの。ちょっと待っててね!」

 意気揚々と答える声と、慌ただしい足音。そんなに急ぐ必要はないのに。そう思いつつも、彼女の声は楽しげな雰囲気を纏っていて。だから何も言わないでおいた。

 濡れたコートをハンガーに掛ける。暖かい室内にホッと息をついた。ふと鼻腔を掠めた、空腹感を誘う匂い。釣られてキッチンを覗いてみれば、揚げたてのポテトを小皿に盛り付けている七瀬の姿がある。
 俺の気配に気づいて、彼女は顔を上げた。
 お疲れ様、と微笑んでくれる。

「美味そうだな」
「ありがと。ね、ビール飲むよね?」
「飲む。七瀬も飲むだろ?」
「もちろん。先にお風呂済ませてきてね」

 振り向き様にそう告げる。瞬間、ふわっと掠める甘い匂い。シャンプーの残り香が、彼女の存在をより際立たせているように感じる。

 俺と七瀬のシフトは被ることが多い。ただ時期によっては、すれ違うこともある。そういう日は大抵、七瀬の方が帰宅が早い。一足早く部屋に着く彼女は、俺が帰ってくる前に夜食を用意してくれる。
 居候する代わりに飯炊きをしてほしい。そう言ったのは俺だけど、あれは部屋を出ていこうとする七瀬を引き留めるために発した言葉であって本意じゃない。七瀬は怪我を負っている身なのだから、そんな事はしなくていいと思っていた反面、ここまでして貰えることに優越感も抱いている。

 帰宅すれば部屋は暖かくて。
 彼女の手の凝った料理と酒が待っている。
 もちろん風呂も沸かしてあって。
 洗濯や掃除も全て済ませてある。
 こんな至れり尽くせりな状況が、嬉しくないはずがなくて。

「……青木の奴、いつもこんな思いしてたのか。腹立つな」
「なんか言った?」
「いや、なんでもない」

 要らん嫉妬を振り払い、バスルームへと向かう。早々に入浴を済ませてリビングへと戻ってみれば、テーブルの上には手料理が綺麗に並べられていた。

 七瀬特製のチーズドリア。
 フライドポテトに枝豆。
 ブラックペッパー入りのサラミ。
 酒のつまみに合う惣菜が揃っている。
 缶ビールに浮かぶ水滴が、今にも滴り落ちそうだ。

「いつもありがとな」

 七瀬の隣に腰を下ろせば、綺麗な瞳がぱちりと瞬いた。

「何が?」
「夕飯作ってくれるから。掃除も」
「居候させてもらってる身だし。それに料理ってほどのものじゃないよ」
「でも、疲れてる日もあるだろ。無理しなくていいからな」
「ありがと。でも仕事終わりにさ、こうして一緒にビールを飲む時間に私は癒されてるんだよね」

 カラカラと軽快に笑う。
 そんなの、俺だって同じだ。

「そうだ。早坂に聞きたいことがあるの」
「なに?」
「浮気ってどこから?」
「……ん?」
「浮気ってどこからだと思う?」
「……」

 突然何の話かと眉をひそめる。

「……急にどうした?」
「交際する前に、そこんとこハッキリさせておきたいな、って。こういう話、今まで全然したことなかったじゃん」

 確かに、と思う。互いの恋愛事情に関しては、今まで触れることはなかった。俺も七瀬も、正直得意な話題じゃない。俺の場合は単純に、七瀬の口から男の話なんて聞きたくなかった。それが主な理由。

「七瀬はどう思ってる?」
「彼氏が他の子と頻繁に連絡してたらやだな。浮気認定しちゃうかも」
「いい気分はしないよな」
「彼女と一緒にいる時にね、他の女の子とLINEしてる男の人って多いらしいよ」
「……もしかして俺、疑われてんの?」

 あらぬ疑いを掛けられてたじろぐ。そんなに軽い男に見えるのかと焦ったけれど、七瀬はぶんぶんと首を横に振った。

「違う違う! 疑ってないよ。変な意味で言ったんじゃないの。そういう人もいるって話を聞いただけ」
「すげぇビビったんだけど」
「ごめん。でもスマホ事情って線引き難しそう」
「相手の交友関係次第なところもあるしな」
「今の時代ならではの悩みだよね」

 便利なツールにも良し悪しはある。特にLINEは危ういツールのひとつだ。気軽に他人と、簡単に繋がることができてしまう。巷では浮気ツールと囁かれるほどだ。
 とはいえ、LINEで連絡を取る程度なら浮気にはならない、という結論に落ち着いた。俺と七瀬が考える浮気の境界線は同じみたいだ。

「……七瀬さ。それ、実体験?」

 もしかして、と思い聞いてみる。
 七瀬はあっさりと肯定した。

「青木さんのスマホ見て、既婚者だって知った」
「相手から自己申告してきたんじゃなかったか?」
「そうなんだけど、私が勝手に青木さんのスマホを覗き見しちゃったのがキッカケなんだよね。LINEに奥さんとのやり取りがあって、問い詰めたら白状した」

 意外だな、と思った。
 七瀬が相手の許可もなく、携帯をチェックするようなタイプには見えなかったから。

「それ一番やったら駄目なやつ。自爆行為だぞ」
「そうだけど、その時は魔が差したっていうか……ちょっと、青木さんと色々あった時期で。あの人のこと、信じられなくなってたから」

 "青木と色々あった時期"
 その部分に引っ掛かりを覚えたものの、触れてほしくなさそうな空気を察して口を噤む。

「……俺のスマホ見る?」
「えっ」
「見てもいいよ。七瀬に疑われるようなものはないから」

 論より証拠。百聞は一見にしかず。口で言うより実物を直接見てもらった方が早い。いつだって証拠が厳然たる事実になる。

「じゃあ、私のスマホも見る?」
「いや、さすがにそれは」
「大丈夫だよ。早坂以外の男の人とやり取りなんてしてないもん」

 不意に飛び出すストレートな物言い。まるで俺だけ特別だと言われてるみたいで。表情筋が緩みそうになって、誤魔化すように缶ビールを煽った。

「私、LINEできる相手、同性しかいないし」
「……それは知ってるけど」

 七瀬を好いている人間は周りに多い。明るくて、愛嬌もあって人気者。男女ともに友人が多そうに見える。
 けれど意外にも交友関係は狭い。プライベートの付き合いも同性ばかり。男との接点自体があまりないらしい。本部の男性社員ぐらいじゃないだろうか。
 それ以前に、七瀬は異性に対して潔癖なところがある。男が嫌いというわけではなさそうだけど。それは本人も自覚しているようで。

「男の人と話すの、昔から苦手なんだよね」
「意外だよな。菅原さん相手でも普通に喋ってんのに」
「菅原さんと話すのは仕事だもん。仕事なら平気なの。プライベートは別」

 肩に、ゆるやかな重みが掛かる。俺にもたれるように、七瀬が頭を預けてきた。甘えるような仕草ですり寄ってくる姿は、まるで猫のようで。

「男の人にされたら嫌なことも、早坂なら平気なんだよね。なんでだろう。友達意識が強かったからかな? でも友達でも、触られたり距離詰められるのは嫌だし……ねえ、どうしてだと思う?」

 上目遣いで見上げてくる。
 その瞳が心なしか潤んでいるように見えるのは、アルコールのせいなのか、俺の願望による錯覚なのか。あらぬ感情が溢れそうになって、ぐっと息を飲む。ベチッと彼女の額に一発くらわした。

「痛っ! なんで!?」
「……今のは、結構きた」
「何が来たの?」
「こっちの話」

 ぽつりと零すと、七瀬は怪訝な顔をする。さすがに言えない。急に襲いたくなったとか、そういうのは。
 細胞のひとつひとつが小躍りしているかのような、そんな歓びを全身で感じる。俺にだけ特別扱いをしている、そんな話を淡々と聞かされる方の身にもなってほしい。どうしたって顔が緩まないはずがない。

「……俺も聞いていいか?」
「うん、なに?」
「過去に付き合ってた男って何人?」
「いないよ」
「ふうん、いな……え?」

 はた、と動きを止める。
 七瀬はこてりと首を傾げた。

「あれ、言ってなかった? 私、初めて付き合った人が青木さんだよ」

 初耳だった。頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が襲う。つまり青木は七瀬にとって、様々な初めてを捧げた相手ということになる。

「……マジかよ」

 ショックを隠しきれなかった。あんな男に捧げるくらいなら、俺が全部貰いたかった……なんて。変態発言過ぎて口には出せないけれど。

「早坂は?」
「俺は2人」
「学生の時?」
「そう。高1と2のとき」
「なんで別れちゃったの?」
「1人目は浮気されて、2人目は自然消滅」
「高校生で浮気する子なんているんだ?」

 信じられない、と七瀬は言う。別に珍しいことじゃない。異性の付き合い方もわかっていない学生のうちは、いざ交際が始まった途端、上手くいかずに気持ちが離れてしまうことも多い。
 元カノとも、そんな理由で距離を置かれた。一緒にいる時間が増えたことで、相手の短所が目立って見えてしまった。欠点も含めて彼女なのだと受け入れるには、俺も彼女もまだ幼すぎた。

 今は、そんな幼稚な真似はしない。七瀬のことは欠点も含めて好きだから。この先嫌なところが見えたとしても、気持ちは絶対に変わらない自信がある。
 でなければ、とっくの昔に諦めがついている。4年越しの片想いは伊達じゃない。

 1人目の元カノは……あれは論外だ。浮気は別問題だ。
 いくら未熟な学生でも、浮気行為が人を傷つけることだってことぐらいはわかる。

「へぇー、びっくりだね」
「学生カップルの浮気なんて珍しくないけどな」

 若かろうが年配だろうが、浮気する奴はいくつになっても浮気する。年齢はあまり関係ない。

「早坂みたいな彼氏がいながら浮気するなんて、その子、何が不満だったのかな」
「過大評価しすぎだって」
「そんなことないよ。早坂が彼氏だったら、私、周りに自慢しまくるよ」

 俺に寄り掛かったまま、七瀬は無邪気に笑った。

「あーあ、早く付き合いたいなー」

 誰と、なんて聞かなくてもわかる。
 ……本当に、タチが悪い。

「そうかよ」
「えっ……わっ!?」

 空になった缶ビールをテーブルに置く。七瀬の身体をひっぺ剥がし、その場に勢いよく押し倒した。身を強張らせる彼女の上に覆い被さって、すぐさま脇の下をくすぐる暴挙に出る。

「ちょ、やめっ」
「ほんと腹立つ」
「え、まって無理! ふふっ、あっはははは!」

 涙目になりながら笑い転げ、必死に逃げようとする七瀬を押さえつけて反撃する。成人迎えた男女のやり取りにしては、いささか幼稚が過ぎるような気がしなくもないが。こっちはさっきから煽られてばかりいるんだ。腹いせの嫌がらせ程度は許してほしい。
 散々いじり倒した後に手を止める。七瀬はぐったりと力尽きていた。目尻に涙を滲ませて、恨みがましい視線を俺に向ける。

「こんにゃろ……いつか覚えてろよ」
「仕返しすんの?」
「私はやられたらやり返す女だから」
「覚えとくわ」

 言いながら、七瀬の首筋に目が止まる。キメの柔らかい色白の肌。あの日受けた痛々しい痣はもう見当たらない。跡が残らなくて良かった。
 安堵しつつ、彼女の首筋に顔を埋める。くすぐったそうに肩を竦めても、七瀬が嫌がる気配はない。

「……付き合えたら、どこかに出掛けるか」
「ほんと?」
「どこに行きたい?」
「えっ、どうしよう。考えとく! 楽しみが増えたね!」

 無邪気に喜ぶ七瀬を眩しく眺める。少し前までは絶対に出来なかった会話。嬉しさのあまり笑みが零れた。

「でも私達の休み被せたら怪しまれるかな」
「有休使えば大丈夫じゃないか? 1日くらい休みが被っても変じゃないだろ」
「でもみんな、他人の色恋沙汰に聡いからね。侮れないよ」
「……確かに」

 それに関しては、身に覚えがあるだけに納得できる。

「まあ、全部終わらせてからの話だな」
「だね。あー、やだなあ……」

 苦笑いを浮かべる表情は曇りがち。青木と物理的に距離を置いても、心に巣食う不安だけは消えないんだろう。
 以前の七瀬なら、こんな時でも強気だった。気丈に振る舞っていた。でも今は違う。辛いときに辛いと言ってくれるようになった。俺の前で素を見せてくれるようになった。そんな彼女の変化を嬉しく思う自分がいる。

「……大丈夫だ」

 青木との話し合いが間近に迫っている。嫌でも情緒不安定になってしまうんだろう。半年以上も解決の術を見いだせていない問題に対する不安、かつて好意を寄せていた男から受けた、理不尽な暴力に対する恐怖。それらを早く、七瀬から取り除いてやらないと。

「その日は俺も一緒にいるから」
「……うん」
「何があっても、俺は七瀬の味方だから」

 ……その日はおそらく。
 七瀬はもう一度、青木に傷つけられることになると思う。
 できれば回避したいと思っていた。けど話し合いの場に七瀬が行くと決めたなら、どうしたって避けられそうにない。けれど今の七瀬なら、絶対に乗り越えられる。俺はそう信じてる。
 その足枷になるものは、全部俺が壊すから。

「……ふふっ」
「……?」
「早坂ってば、正義のヒーローみたい」
「こんな安っぽいヒーローなんて誰も求めてないだろ」
「いいの! 私だけのヒーローだから」

 七瀬はくすくすと笑い、俺の頬に軽く唇を寄せた。その唇に、自分のそれをそっと重ねる。互いの息が絡み合い、甘い温度に包まれる。

 幸せだと思った。
 でも同時に、もどかしさも感じる。早くこの現状を打破して、正式に付き合いたいと願ってしまう。
 早く、自分のものにしてしまいたい。
 そんな自分勝手な感情を抑え込んだ。

「……早坂と一緒にいるとね、何でもできそうな気がする。心強いよ」

 柔和な笑顔を向けられる。胸を打たれる思いがした。俺だって同じ気持ちだ。この笑顔を守る為ならば、何でもできそうな気がした。

 きっとこの先、幾度となく苦難は立ちはだかるだろう。でも俺達なら乗り越えられる。根拠もなくそう信じて、唇をもう一度重ね合わせた。
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