募る想いは果てしなく
触れてしまった感触は柔らかくて、少しだけ冷えている。その生々しい温度に、心臓が跳ね上がる。
早坂は動揺してるのか、動きを止めていたけれど。突然吹っ切れたように抱擁を強くした。
その力強さに鼓動が高まる。この人を想う気持ちが止めどなく溢れてくる。青木さんと正式に別れるまで早坂の気持ちには応えられない、そう決意したはずなのに。
でも、言いたい。今すぐ伝えたい。私も好きって打ち明けられたら、早坂はどんな反応をしてくれるんだろう。
喜んでくれるかな、今さら遅いって罵られるかな。この人を求める欲がどんどん加速していく。
重ねていた唇をそっと離す。視線が絡み合うと、少しだけ恥ずかしくなる。キスの余韻で潤んだ瞳に雄の色香がにじみ出て、さっきまでとは明らかに、纏う雰囲気が違っている。
「……誰にでもすんのかよ、こういうこと」
拗ねたような口ぶりに愛しさがこみ上げる。ぶっきらぼうな口調だけど、機嫌が悪そうには見えない。きっとこの問い掛けは早坂の本意じゃない。私が軽い女じゃないって、早坂なら知っているはずだから。
だから、この問いの意図は別にある。
それが何なのかもわかってる。
「……早坂だけだよ」
「……俺だけ?」
「そうだよ」
「なんで?」
真っ直ぐに注がれる熱視線。黒い瞳は肉厚的な温かみを含んでいて。切ない眼差しを向けられて、私は押し黙る。
勘の鋭い早坂なら、私の気持ちなんてとうに見抜いているはずだ。私自身も早坂への好意を隠そうとしていないし、言葉にしていないだけで、きっと態度に出てる。それでも早坂は私に理由を訊くんだ。ちゃんと言葉にしてほしいから。
……でも、今はまだ伝えられない。早坂の気持ちに応えるわけにはいかない。だって早坂は言ってくれたから。結婚を前提として付き合いたい、って。
それは私だって同じ。結婚を視野にいれた交際を望んでる。そして青木さんとの問題が終息すれば、今度は早坂と付き合うことになるんだろうと理解してる。
だからこそ、青木さんとの問題を引きずったまま、結婚前提の交際を受け入れるわけにはいかなかった。
「……ごめん。今はまだ……」
心が激しく揺さぶられる。申し訳なさで俯く私に、早坂は何も答えない。戸惑いつつも顔を上げれば、熱に浮かされたような濡れた瞳とぶつかった。
「……あ」
絹のような、鮮やかな艶を帯びた眼差し。心臓が激しく動悸した。空気が一瞬にして変わったのを肌で感じ取る。
まるで金縛りにあったかのように動けなくて。そんな私に、しなやかに伸ばされる指先。両頬を柔らかい手のひらで包まれて、ゆっくりと迫ってくる気配を拒めなくて。
だから、そっと目を閉じた。
「……っん……」
早坂の唇が2度、3度と重なる。ただ触れていただけのキスは、やがて私の下唇を軽く食んだり、啄んだりと戯れてくる。
湿った吐息が耳朶を打つ。鳩尾の奥がじんとした情欲に火照りだす。その熱を、私はありのまま受け入れた。好きな人から求められる心地よさに、うっとりと酔いしれてしまう。
「……悪い、ずっと我慢してたから……抑えられなかった」
熱っぽく囁く声は掠れていて。
切羽詰まった顔から目が離せなくなる。
「……我慢してたの?」
「……してた。めちゃくちゃ耐えてた。4年もかけてやっとここまできたのに、青木は邪魔ばっかするし。七瀬は別れたいって言うわりには、口を開けば青木青木ばっか言うし」
思わず目を丸くする。
嫉妬とも思える言い分に口元が緩んだ。
「早坂も嫉妬するんだね」
「……するわ。当たり前だろ」
素直に認めてくれるから、ますます笑みが止まらなくなる。私の反応がお気に召さなかったのか、眉をひそめて拗ねた表情を覗かせる。ほんのり赤く染まった頬や耳朶が可愛くて、どうしようもなく心が掻き乱される。
――ああ、もう。
この胸の昂りはどうしたらいいの。
これ以上はまだ望んじゃいけない。
そう思うのに。
そんな可愛い嫉妬を見せられたら止まれない。
「……早坂、ねえ」
「……なに」
「続き、しよ」
早坂の目が軽く見開かれて。何かを言いかけたその隙を狙って、もう一度唇を押し付けた。
繰り返される触れ合いに、頭の芯が甘く痺れる。柔らかなキスに解けてしまった唇の合間から、熱く濡れた感触が押し入ってきた。
「――……っ」
ぬめる舌先が触れて、優しく絡め取られる。その動きはゆっくりで、性急に求める真似はしない。真面目で穏やかな早坂らしいキス。舌の裏を舐められてしまえば、ぞくっとした甘い愉悦が背筋を一気に駆け巡った。
甘ったるい吐息が漏れる。顔が熱い。酔いが回ったかのように力が萎えていく。そして、ゆっくりと押し倒された。
柔らかなソファーの上に組み敷かれ、急くようにコートを脱ぎ捨てる彼の姿をじっと見やる。私が早坂を求めているように、早坂も私を求めてくれることが嬉しい。でも、もっと夢中にさせたくて、覆い被さってくる彼の首に腕を回した。
「……いいのか?」
何が、なんて野暮なことを訊くつもりはなかった。
「……うん」
素直に頷く。
早坂の顔がゆっくりと近づいてくる。
「……後悔すんなよ」
耳元で囁かれて、薄い耳朶に口付けられた。首筋がさっと総毛立ち、肩がぴくっと震える。そんな私の反応に気をよくしたのか、微かに笑う気配を感じた。
耳だけじゃない。額やこめかみ、両頬にも。ありとあらゆる場所に早坂の唇が触れる。その熱心な口づけは、私の心に淫靡な熱を灯してくる。のし掛かる重さすら愛おしい。
背徳的な行為をしている自覚はあったけど、それでも、たまらなく幸せだった。
このまま流されてしまおうと目を閉じた――その直後。
「……いッ、たぁッ!?」
「!?」
雄叫びをあげた私に驚いて、早坂が勢いよく身を起こす。何事だと言わんばかりの顔で。
でも今の私はそれどころじゃなかった。脇腹に刃をぶっ刺されたかのような、凄まじい激痛が襲ってきたんだから。
反射的にお腹を抱えて痛みに堪える。
私の異変に早坂も事情を察したようで。
「……あ、悪い。忘れてた」
あっさりとした軽い口調の後、早坂は私から体を退いてくれた。脇腹を押さえ込む私の手に、早坂の手のひらがそっと重なる。労るように撫でられて、腹部の痛みが静かに引いていくような感覚を覚えた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫ではないですね」
そりゃそうだ、肋骨が折れてるんだから。男一人分の体重がのし掛かかれば、その負荷に耐えられずに痛みが出るのは当然だ。
けれど正直、肋骨の痛みはどうでもいい。心の方が折れてしまいそうだった。せっかくの甘い雰囲気を、自らの過失で壊してしまったのだから。
「……マジで悪い」
「あ、いやあの、私もごめんね」
元はと言えば、先に早坂を煽ったのは私の方だ。怪我してたことも忘れて夢中になってしまった。だから早坂は何も悪くない。悪くないんだけど、でも、なんか……。
「……ちょっと外に出てくる」
「……え?」
急すぎる発言に驚く。
コートを拾い上げ、そのまま部屋を出て行こうとする早坂の背を目で追った。
なんて声を掛けたらいいのかわからない。固唾を呑んで見届けることしかできない。そんな私の視線に気づいたのだろう。ふと動きを止めた早坂は、こちらをゆっくりと振り返って。ぎこちなく微笑んだ。
「頭冷やしてくる。ちょっと冷静になりたい」
「……」
「……すぐ戻るから」
パタン、と控えめにドアが閉まる。最後に静寂が訪れた。つい数分前までの濃密な時間が嘘みたいな静けさ。そんな中、急に現実に戻されて茫然とする私。
ぽつんとソファーに取り残され、今頃になって凄まじい羞恥心が湧き上がってくる。
「……やっちゃった……」
思い出すだけで顔から火が出そうだった。あんなに積極的になって、がっついて。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。
でも、不思議と後悔はしていない。早坂の新たな一面に触れられたという充足感で胸がいっぱいだった。
「……痛い」
脇腹にはまだ鈍痛が残っている。その痛みも時間が経てば消えていく。もし骨折していなかったら、あのまま早坂と最後まで致してたんだろうか。
よくよく考えたら酷い話だ。キスや身体は許すくせに、交際はまだダメだとか。悪い女すぎる。
……でも、誰にでもこうはならない。相手が早坂だったから、好きになった人だから。軽い気持ちで流されたわけじゃない。
『後悔すんなよ』
頭の中で反復する早坂の言葉に頭を振る。
後悔なんてしないよ、もう私の心は決まってるんだから。
『早坂クン早く帰ってきなさい』
待てども戻ってくる気配のない部屋の主に痺れを切らし、ついに帰宅催促のメッセージを送った。途中で青木さんから着信がくる可能性もあったけど、不思議と恐怖はなかった。というか、どうでもよかった。
早く、早坂に会いたかった。
顔が見たくて、一緒に話したくて。
ずっと隣にいてほしくて。
『あと5分で戻る』
すぐに既読がつく。
ちゃんと返信がきたことにほっとした。
『ついでにアイス買ってきて』
『人をパシリに使うなよ』
『暑いの。誰かさんのせいで』
いつもの調子で茶化したら返信が途絶えた。と思ったら、少しの間を置いて『買ってくる』なんて簡素な返信が届く。
この僅かな間で何を葛藤していたんだろう。想像しただけで可笑しな笑いが込み上げてくる。
いつか早坂は言ってたね。
関係が変わっても、私達は何も変わらないって。
友人関係を保つのは心地よくて。でも恋愛を絡ませたら終わると思っていた。
そんな私の不安を取り除いてくれて、私達の仲は変わらないままだと、こうして証明してくれた。揺るがない絆があるのだと実感させてくれた。
酷い失恋のせいで萎みきっていた私の恋が、またキラキラと輝き始める。
きっとこの先何があっても――
私達はきっと、私達のままだ。