募る想いは果てしなく

責任の重さ



「……お、珍しく落ち込んでる」

 かなえちゃんを自宅まで送り届けてきた早坂は、部屋に帰ってくるなりポツリと嫌味を漏らした。
 室内に漂う辛気臭い空気。それは私から発せられるもの。水で濡らしたタオルを顔に被せ、ソファーに寝そべっている私のもとに、早坂がゆっくりと歩み寄ってくる気配を感じた。
 そして、パッとタオルを剥ぎ取られる。

「泣いてた?」
「泣いてないよ」
「目赤いけど」
「泣いてないってば」

 奪われたタオルを奪取する。再び顔に被せたのは、赤く腫れ上がった目を指摘されるのが恥ずかしかったから。
 目元を隠して沈黙を貫く。
 やれやれといった風に力なく笑われた。

「……だから言っただろ。1人で突っ走ろうとするから迷惑かけるんだって」
 ソファーを背にして、早坂はその場に腰を下ろした。辛辣な事を言いつつも、頭を撫でてくる手が優しくて。単純な私は簡単に絆されてしまう。
 我ながらチョロいなあ、なんて思いながら、意地を張るのをやめて身を起こした。

「ねえ早坂」
「ん?」
「あの時、なんでずっと黙ってたの?」

 1人で青木さんに会いに行く、私がそう伝えた時、早坂はすぐさま反論するだろうと思ってた。
 けれど早坂は何も喋らなくて。私達のやり取りを端から黙って見守っていた。怒ってる風にも見えなくて、だから余計に気になった。いつもなら口を挟んでくるのに。

「俺が止めたところで聞かないだろ、七瀬は」
「……あー、うん。そうかも」
「俺より鈴原に言われた方が、今の七瀬に効くと思ったから黙ってた。俺が言いたかったことも全部、鈴原が代わりに言ってくれたしな」

 つまり、あの時言われたかなえちゃんの言葉はそのまま、早坂の言葉でもあるということだ。

「……七瀬」
「なに?」
「昨日、青木から連絡きたんだろ」

 どきっ、と心臓が大きく跳ねる。見抜かれていそうな気配はあったけど。早坂の目敏さと勘の鋭さには敵わない。

「……やっぱり気づいてた?」
「隠せてると思ったのか?」
「……」
「見せて」

 拒むことも許されないような圧だった。仕方なくソファーから下り、早坂の隣に座る。そのままスマホを差し出した。
 画面に映し出された異常なメールの内容。
 早坂は眉間に皺を寄せた。

「……なんだこれ」

 不快に思うのも仕方がない。昨日の夜に届いた嫌がらせのようなメッセージは、すでに200件を軽く超えていた。
 送られてくる内容は昨日と同じ。一心不乱に送り続けてるような印象だ。その中には、早坂に対する誹謗中傷のようなものまで含まれている。

「ごめん、私のせいなの。あの日、私が早坂に電話したところを見られちゃって。浮気だって責められて」
「……」
「本当にごめん。私が迂闊だった。電話さえしなければ、青木さんに早坂のことを知られることもなかったのに」

 早坂だって本来、何の関係もない人だ。こんな面倒事に巻き込まれる必要なんてなかった。あの時、電話なんてしなければよかった。私のせいだ。私が巻き込んでしまった。

 ちらりと早坂の様子をうかがう。スマホを眺めるその瞳は、深い色を堪えている。涼しげな表情は崩れていない。苛立ちの感情すら見えない。
 でも内心はどうだろう。腹立たしく思ってるんじゃないのかな。さすがに嫌われたかも……なんて思ったけど。

「七瀬が好きだった男を悪く言いたくないけどさ」

 私の稚拙な予想を裏切る言葉に目を丸くする。

「お偉い会社の社員だって聞いてたから、頭のいい奴なのかと思ってたけど。俺の見当違いだった」
「……え?」
「見ろよ、これ」

 指し示された画面を覗き込む。また殴られたいのか――そう表記された文面を見て、早坂がフッと鼻で嘲笑う。

「これで脅してるつもりなんだろうけど、ただの自白だろ、これ。賢い奴はスマホの媒体に証拠なんて残さない。警察に訴えられる可能性なんて、ちっとも考えてないんだろうな」
「……自白」
「七瀬、これスクショして俺に送って。証拠として残すから」

 淡々と話す様子は至極冷静で。でもどこか楽しそうにも見える。それがちょっと意外で呆然としてしまう。

「そういえば七瀬の部屋に置いてあった物も、いくつか壊されてたんだっけ? だとしたら器物破損で罪名がつく。病院に行けば診断書も貰えるしな。あと、」
「待って早坂!」
「なに」
「警察には行かないって言ったよね?」
「わかってる。万が一だ」
「万が一……?」
「直接脅すなら使える材料だろ」

 一瞬何を言われたのか理解できなかった。
 脅す――その不穏過ぎる言葉に私は目を見開く。

「どういうこと? 直接脅すって……青木さんを?」
「他に誰がいるんだよ」
「……まさか青木さんに会うつもりじゃないよね?」

 私の問いに早坂は否定しなかった。頷くこともしない。けれど深く仄暗い瞳が肯定だと認めていた。

 頭から冷水を浴びたかのような恐怖に打たれる。思えば早坂は言ってたじゃないか、もう部外者面したくないって。
 その一言に救われたような気持ちになって、言葉の裏にある意図を全く読んでいなかった。今まで傍観者でいてくれた早坂が傍観するのをやめたということは、事態を改善するために動くかもしれないって、よく考えればわかることなのに。

「ねえ、何かしようとしてるならやめて? 私の為に早坂が危険な橋を渡る必要ないんだから」

 それだけは絶対に阻止しないと。
 でも早坂は涼しげな表情を保ったままで。

「……随分と庇うんだな」
「は?」
「青木のこと」
「……はあ!?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。早坂の為にやめてって言ってるのに、どこをどう解釈したら、私が青木さんを庇っているように聞こえたのかわからない。

「庇うわけないでしょ! 誰があんな人っ」
「すげー嫌ってんな」
「……嫌いだもん」
「そんなに嫌いなら、情けをかけてやる必要もないだろ。七瀬がそこまで平和的な解決に固執する理由がわからない」
「情けなんてかけてない。青木さんのことだって、本当はどうでもいいよ。でも奥さんと子供は関係ないでしょ?」
「じゃあ七瀬はアイツの妻と子供を庇ってるわけだ」
「……」

 その言い方がわざとらしくて顔をしかめる。青木さんを庇うつもりなんて更々ない。ただ私達が犯した過ちのせいで、周りの人達まで傷つけてしまう未来だけは避けたかった。私達が別れたら、それで済む話なんだ。あえて泥沼化させる必要なんてない。
 ……結果的に別れ話が拗れてしまったから、こうして泥沼化しているけれど。それはともかく。

「前に早坂も言ってたよね。事実を知らなかったとしても、不倫は不倫だって」
「……ああ、言った」
「私もそう思うよ。不倫をした事実は変わらないし、知らなかったで済ませていい問題じゃないと思ってる。犯した責任は取らなきゃけないもの」

 加害者は過ちを否定できる立場にない。被害者ぶるつもりもない。どんな事情があったとしても、世間では不倫をした"側"が悪者なんだ。
 自分が犯した罪から目を背けちゃいけない。それは大人として、社会人として、間違いを犯してしまった人間として、絶対にしてはいけないこと。
 ……そのはずだ。

『そこまで七瀬さんが1人で責任負う必要あるんですか?』

 ……でも、じゃあ私は。
 どこまで責任を負えばいいの?

「……責任って簡単に言うけどさ」
「……」
「七瀬の言う責任って何だよ」
「……それは」
「責任を持て余してるようにしか見えないんだけど」

 辛辣な一言で核心を突いてくる。痛いところを突かれて私は何も言えなくなった。だって早坂の言う通りだったから。



 ……不倫なんて知らなかった。
 いきなりこんな大問題が身に降りかかってきて困惑したの。

 対処の仕方だってわからないし。
 不倫なんて荷が重すぎる。
 抱え込みすぎて苦しい。
 わたしは、本当に何も知らなかったのに。

 言葉を詰まらせて俯いてしまう。静かな空間に、微かな衣擦れの音がした。
 早坂が静かに立ち上がり、私の隣に腰かける。そのまま肩を引き寄せられて、彼の腕の中にすっぽりと包み込まれた。大人しく頬を寄せれば、頭上に囁きが落ちる。

「……七瀬さ、もう限界なんだって。アイツの影に怯えながら毎日過ごすのも、本当はキツくて苦しいんだろ。連絡は執拗に来るし、職場でもあんな嫌がらせを受けて、普通なら平然としていられない。なのに、なんでまた笑ってるんだよ。怖いんだろ。逃げたくて仕方ないんだろ。「1人で青木に会いに行く」なんて言うなよ。「助けて」って言えよ」

 その言葉が胸の内側に沁みていく。早坂の腕の力が強まるほど、切なさで胸が締め付けられる。

 甘えたら駄目なのに。
 そんなこと許されないのに。
 そっと弱さを引き出してくれるから。

「……やだ」
「ん?」
「早坂きらい」
「あ、そう」
「頑張って強がってるんだから、そんなこと言わないでよ……」
「だから1人で頑張らなくていいんだって」
「……っ」

 目頭が熱くなる。鼻の奥がツンと痛んだ。もう頑張らなくていい、そう言われてから。やっと胸のつかえが取れた気がした。
 果たさなきゃいけない責任があって、守りたかった体裁もあって。でも早坂の言葉ひとつで、それらは脆く崩れていく。

 ――責任を持て余してる。
 本当にその通りだと思う。
 責任を取ることが正しい人間としての在り方だと主張して、ずっと自己満足に浸ってる。そうやって生きてきた。
 そういう生き方しか、私は知らないの。
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