募る想いは果てしなく

加速する狂気



「ご心配をお掛け致しました、本日から復帰します!」

 翌日からの、開店前の売場でスタッフと久々の顔合わせ。高らかに復帰宣言をすれば、周りから拍手が湧き起こる。

「もう、心配したんですよ」
「階段から落ちたって聞いたけど、大丈夫なんですか?」

 彼氏に殴られて怪我をしたなんて言えない。職場には、ありきたりな嘘を伝えておいた。骨折してることも伝えていない。余計な心配をさせたくなかった。

「全然平気! でもまだ動きづらいから、売場はみんなにお任せしちゃうけど。それ以外の仕事は全部私に回してね」

 隣に立つ早坂に視線を送る。前日の売上成果を伝えるのは早坂の担当だ。それから私が業務指示を出して、開店準備に取り掛かるのがいつもの流れ。今日は指示を出す余裕もなかったから、ミーティング自体はあっさりと終わった。

 やっぱり職場に来てよかった。みんなの笑顔を見ると元気になれる。温かく出迎え入れてくれたことが嬉しい。やっと戻るべき場所に戻ってこれた、そんな気分になる。
 ミーティング後は事務所に戻って一息つく。椅子の背にもたれ掛かれば、早坂が顔を覗き込んできた。

「大丈夫か? しんどかったら早退してもいいから言えよ」
「へーきへーき。それより私が不在の間、色んな仕事押し付けちゃってごめんね。早坂こそ疲れてるでしょ?」
「俺も平気だって」

 苦笑交じりに言われて、私も笑みを浮かべる。そして机に置かれた書類を手に取った。私が不在だった期間中の、店の売上数値を記録したデータを早坂が作ってくれたらしい。本当にいい仕事してくれる。

「みんな頑張ったんだね。売上の数値、全然落ちてないもの」
「そうだな。今回はクレームも発生してないし、レジのミスもなかった。全員優秀だったよ」
「もしや私、この店にいらない感じ?」
「いや、七瀬はこの店に必要だろ。……俺にとっても」

 その一言に深い意味はなかったのかもしれない。けれど、不覚にもドキッとした。早坂の言葉ひとつひとつに過剰反応してしまう。

 気掛かりなのは、昨日の青木さんの件。彼から連絡が来たことを、早坂にはまだ伝えていない。私には危機感が足りない、もっと周りを頼るべきだ。早坂からそう言われたけれど、果たしてこの件は早坂に話すべきことなのか、正直考えあぐねていた。
 今、早坂とはすごくいい空気感を保っている。この雰囲気を壊したくない。言うタイミングがあるとしても、今じゃないのかもしれない。

 ――そう考えていたとき。
 コンコン、と控えめなノック音が事務所に響いた。

「……あの、七瀬さん。ちょっといいですか?」

 扉がゆっくりと開く。
 顔を覗きこんできた人物は、恐る恐るといった様子で事務所に足を踏み入れた。

「早織さん、どうしたの?」
「あ、えっと……」

 早番スタッフの一人でもある早織さんは、迷う素振りを見せた後、早坂にチラリと視線を向けた。その視線に気づいた早坂は、「売場の様子見てくるわ」と事務的な一言を残して出ていってしまう。
 早織さんの視線に何かを察したのだろう、気を使ってこの場を離れてくれたのだろうけど。早織さんの表情はまだ強張ったままだ。

「……早坂マネに聞かれちゃマズイ話?」

 ひそりと尋ねれば、早織さんは弱々しく首を振る。

「そういうわけじゃないんですが……早坂さんには渡しづらくて」
「渡す?」

 まさか退職届かと焦ったけれど違った。早織さんが差し出したのは、1通の茶封筒だった。
 差出人の記載はなく、消印の表記もない。
 本部からの郵便物とも違う。

「なにこれ?」
「私にもわかりません。早坂さんに渡してほしいってお客さんに頼まれました」
「お客さんに……?」
「はい。スーツ姿の、背の高い男の人です。先日、閉店間際にご来店されて……あ、名刺も貰いました」

 おずおずと出された名刺を受け取る。
 そこに記載されていた名前と会社名を目にしたとき、ドクッと心臓が大きく波打った。

「……青木、さん」

 彼の名前が表記されている。
 やっぱり店先にも来ていたらしい。
 私がマンションに戻っていないとわかれば、職場に足を運ぶ可能性もあるとは考えていたけれど。まさか自らの素性を明かす名刺を、この場に置いていくとは思わなかった。
 きわめつけはコレだ。わざわざ早坂を名指ししてまで、渡そうとしてるこの茶封筒。私宛てじゃないことに不安がよぎる。

「これ、早坂マネに渡してほしいって頼まれたんだよね? どうして私に渡すの?」

 早織さんの様子を見る限り、この封筒の存在自体、早坂は知らないっぽい。

「……実は」
「うん」
「その方、七瀬さんが出勤してるかどうか、先に訊いてきたんです」
「……え」

 予想だにしていなかった一言に緊張が走る。

「七瀬さんの不在を伝えたら、この封筒を早坂さんに渡してほしいって。でも本部の方じゃなさそうだし、その日は早坂さんもすでに退勤してたので。一応、名刺と一緒に受け取ったんですけど」

 早織さんはバツの悪そうな顔で視線を落とした。

「……でもあの人、機嫌が悪そうっていうか……顔は笑ってるけど、目が全然笑ってなくて。ちょっと怖いな……って」
「……なるほどね」
「受け取らない方がいいのかなって迷ったんですけど、断れなくて……」

 申し訳なさそうに早織さんは頭を垂れた。でも彼女の対応は間違っていない。お客さんからの差出物は、基本的に受け取らないのが決まりだから。
 しかもこんな怪しげな封筒。誰だって不審がるのは当然だ。早坂に渡す前に、上司である私の指示を仰ごうと判断した早織さんは正しい。

 早織さんにとって、青木さんは初対面の人だ。私の知人だなんて当然知らない。なら会社の規則に従う義務がある。けど、それすら躊躇うほど青木さんの気迫が凄かったのかもしれない。怖くて断れなかったと言うほどなのだから。

「この件って、誰かに話した?」
「いえ、誰にも。早坂さんにも話してなくて」
「よかった。みんなには黙っててくれる?」

 一応プライベートなことだから。
 そう告げれば早織さんも控えめに頷いた。

「あの、七瀬さんの知ってる人ですか……?」
「うーん、まあ一応。ごめんね、怖い思いさせたね」
「いえ、そんな」
「これは私が預かっておくね。ちゃんと早坂マネに渡しておくから大丈夫だよ」

 ほっと胸を撫で下ろし、早織さんは踵を返す。1人残された事務所で、私はこめかみを押さえた。
 頭の痛い問題が増えてしまった。その問題物を眼前にかざして見つめてみる。蛍光灯に照らされて、封筒の中身がうっすらと透けて見えた。

 紙切れが丁寧に折り畳んである。
 何が書いてあるんだろう。気になる。
 嫌な予感しかしないけど。

「……どうしよう。渡してもいいのかな」

 早坂が私と同じ職場で働いている人間だと、青木さんはすでに知っていた。知った上で、早坂に封筒を託すなんて。絶対良くないことが書いているに違いない。
 早坂に渡す前に、先に中身を確認した方がいいかもしれない――そう思った時、あることに気付いた。

 ……この封筒、重みがある。
 紙切れだけじゃない、まだ中に何か入ってる。
 照明の光にかざしても何も見えない。
 軽く振ってみれば、カシャカシャと小さな摩擦音が聞こえた。

「なに……?」

 音の正体がわからない。やっぱり中身を確認しようと思い至る。ハサミを手に取り、丁寧に封を切ってから逆さまにひっくり返した。

 折り畳まれた紙切れと共に出てきたのは――

「……やっ……なにこれ……ッ」

 喉の奥から悲鳴じみた声が出る。
 机の上にバラバラと零れ落ちたのは、無残に切り離されたカッターの刃だった。
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