募る想いは果てしなく

滲み出る狂気



 私はいまだに自宅マンションへ戻っていない。職場にも顔を出していない。現時点で青木さんと再会する機会もない。唯一の連絡手段はスマホだけだ。

 ちゃんと別れ話をしないと。そう思っていたけれど、もし青木さんが私に接触してこないのであれば、何も言わずに縁を切ってしまうのもアリなのかな……と思えてきた。それほど平和で穏やかな日常だったから。

 このまま自然消滅してしまえば……。
 そんな甘いことを一瞬考えて、すぐに生温い思考を打ち消した。

 青木さんとの関係に終止符を打たなきゃいけない、その決意が今更揺らぐことがあってはならない。これは青木さんの為でもあるんだ。そう自分を納得させる。

「早坂さん、選挙の投票行くんですか?」
「いや、ネット投票で済ます。鈴原は? 19歳なら選挙権あるだろ」

 そんな会話が聞こえてきて顔を上げる。2人が話しているのは、1月半ばに行われる衆院選議員総選挙の事だろう。
 今はまだ正月特番ばかりでその手のニュースは控え気味。あと数日も経てば、テレビの話題は一気に選挙に持っていかれる。街中には選挙カーが走り回り、マイクの騒音に悩まされる日が来るんだろう。そう思うと少しだけ憂鬱だけど。

 向かい合わせに座る早坂に、そっと視線を移す。かなえちゃんの皿に肉や野菜を盛り付け、甲斐甲斐しく世話をする早坂の瞳は真剣そのものだ。
 その眼差しに胸が高鳴る。真面目な目も表情も見慣れているはずなのに。好きと自覚すれば景色も変わる。鼓動が乱れるほど、目の前の人に見惚れしてしまう。

「……なに?」

 私の視線に早坂も気がついたようで、ぱちりと目が合ってしまった。

「うん、イケメンだなーと思って」
「……は?」

 鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしてる。
 一拍置いたあと、ふいっと視線を逸らされた。

「……どこにでもいる顔だろ、俺なんか」
「あ、早坂さん照れてる」
「いいから早く食え」

 鋭い指摘をするかなえちゃんに、むすっとした態度で接する早坂が幼く見えて頬が緩む。今まで見向きもしなかった彼の、新たな一面を知る度に目が離せなくなる。
 早坂の存在が、視界の中心になっていく。それがこんなにも嬉しいなんて。こんな風に早坂を想う日がくるなんて、少し前の自分には想像すら出来なかった。

 こんな穏やかな日がずっと続けばいいのに。
 ……けれど、そんな私の思いは無情にも、この数分後に砕かれることになる。



「……あれ?」

 ショートメールの受信を知らせるランプが点滅していることに気づいたのは、焼肉パーティーを始めてから1時間後のことだった。途中で飲み物が無くなり、追加分をキッチンへ取りにきた際に気付いた。

 虫の知らせというやつだろうか。この時から嫌な予感はしていた。そしてこういう勘は大抵外れないもの。メッセージの相手は案の定、青木さんからだ。
 しかも、着信まできてる。マナーモードにしていたから気づかなかった。

 重々しい気分で画面をタッチする。今はまだ、彼に会うのが怖い。でもこのまま逃げ続けるわけにもいかない。それに少しだけ期待してた。ここ最近音沙汰がなかったのも、もしかしたら、彼も自分の行いを反省していて、私との関係を考え改めようとしてくれてるのだと。

 そんな思いを抱きながらスマホを見て、
 絶句した。

「……なにこれ……」



『遥、いまどこ』
『ずっと部屋にいない』
『もう帰った?』
『今日もいなかった』
『どこにいる』
『電話出て』
『なんで無視するの』
『また殴られたいの』
『ねえ怒ってないから電話出て』
『遥に会えなくて苦しいよ』
『なんで返信くれないの』
『俺は悪くないよ』
『無視?』
『早坂と一緒にいるのか』
『おい』
『返信しろよ』
『今から探しに行く』
『はるか』
『電話』
『電話』
『電話』
『出ろ』

 受信したメッセージ数は、73件。

 おびただしい数のメールに息を飲む。淡々と綴られたメッセージは、スクロールする度に苛立ちを含ませたものに変化していく。画面をスクロールしても、し続けても、彼の着信番号で埋め尽くされている。その異常な量に、彼の狂気を見たような気がして身震いした。
 今朝まで連絡は一切なかったのに。最後にスマホを見たのは1時間半だ。その間に、この膨大なメールと着信が来ていたことにゾッとする。

「……あっ」

 不意に違和感を覚えた。慌てて画面に視線を落とし、人指し指を滑らせる。スクロールした先に見つけたメッセージを目にした瞬間、さあっと血の気が引いた。

『早坂と一緒にいるのか』

 ――知ってる。
 このひと、早坂のこと知ってる。

「……あの時だ」

 あの夜、咄嗟に早坂に助けを求めようとした。電話をした。そして青木さんに、早坂の存在を知られた。それがどんな危険を孕んでいるのか、今まで考えたことはなかった。

 メールの内容を見る限り、青木さんはあの日以降も私の部屋を訪れている。そして早坂が私の浮気相手だと疑っている。マンションに帰ってこない私がどこにいるのか、誰と居るのか。そう考えたとき、浮気相手だと思っている早坂と一緒にいると、そう考えてもおかしくない。
 そうだ。青木さんは早坂の姿を見ている。私を助けてくれた際に鉢合わせている。もし彼が勤務先に現れたら、早坂が同じ職場で働いてる人間だとバレる。

 そう思い至った時、背筋が冷えた。
 今度は早坂に手を出すんじゃないかと。

 私のせいで、早坂を危険な目に合わせてしまうかもしれない。考えすぎだと思いたくても、青木さんから届いたメッセージの異常さが、何をしでかすかわからない恐怖を感じさせた。

『切羽詰まった人間ほど、何をするかわからない』

 いつか言われたあの言葉が、今度は私以外の人に向けられるなんて考えたくもない。

「――七瀬?」

 不意に背中越しに響いた声。
 びくっと肩が跳ねた。

「……早、坂」
「どうした?」

 早坂が怪訝そうな表情で私を見ている。一向に戻ってこない私を気にして、様子を見に来てくれたんだろう。呼吸が楽になった気がして、口を開きかけた直後。

「……あ」

 一瞬の躊躇の後、急いでスマホをポケットの中に仕舞い込む。
 青木さんから連絡が来たことを、今、この場で喋っちゃいけない。かなえちゃんがいる前でこの話はしたくない。これ以上あの子を巻き込むわけにはいかないんだ。

「ごめん、なんでもないよ」
「……そう」

 早坂は何も言わなかった。何か言いたげな表情はしてたけど。私が咄嗟に隠した嘘に付き合ってくれるらしい。何があったのか察しても、あえて触れないでいてくれる。その気遣いが今はありがたかった。

 冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出す。リビングに戻っても、2人には何も告げなかった。かなえちゃんと接している早坂に不自然さはなく、普段と変わらない態度を貫いていることにほっとする。

 だから私も平常心を装った。空のコップにウーロン茶を注ぎ込む。ポケットの中で何度も震える存在には、怖くて一切触れられなかった。
16/34ページ
スキ