募る想いは果てしなく

もう戻れない



 ――男女の友情は成り立つ、と。本気でそう思っていた。早坂と築いた絆は友情だと信じていた。

 今まで異性として見たことがなくて。青木さんがいたから興味も持てなくて。親友同然な仲だと思っていたから、それ以上の進展なんて想像したこともない。だから恋愛から切り離して、この"友情ごっこ"を続けられたのに。
 結局、諸刃の剣だったんだ。

 過呼吸を鎮める為だけに与えられたキスに、特別な意味なんてないってわかっていたのに意識した。
 誰よりも心許せる存在だと、気づかされた時に胸が疼いた。
 気になる女性がいると知った時、振られた気分になって落ち込んだ。私の知らない誰かが、早坂の一番になっていたと勘違いして傷ついた。私が一番、早坂に近い存在だと思っていたからだ。

 意図しない形で、早坂の想いを知ってしまったとはいえ、青木さんとの関係を清算できていない以上、彼の気持ちに応えるわけにはいかない。
 それでも惹かれる気持ちを、止められそうもない。
 こんな中途半端な状態で、他の人に目を向けるなんて絶対に駄目だ。不誠実だし、不倫と同じくらい最低な行為だと思うから。

 だから。
 早坂の言う「話したいこと」が、あのスマホの会話通りの内容なら、私は彼からの告白を断らなきゃいけない。



「ただいま」

 遠くから鳴り響く解錠音。重なるように聞こえてきた早坂の声。手早くIHの電源を切り、玄関先へと向かう。

 ……足が、心が。鉛のように重い。告白されたら断る、そう決めていたけれど。早坂を傷つけることがわかっているから胸が痛い。
 男女の関係は本当に難しい。一度の仲違いで信頼関係は崩れていく。すれ違いが続けば修復はより難しくなる。私と青木さんだってそうだった。
 早坂との関係だって、恋愛に発展させれば破綻する可能性があるんだ。

 だったら、このままでいい。
 同期のままでいい。
 このままの関係を続けよう。
 これ以上傷つきたくない。
 早坂を失いたくない。

 ……本当に、それでいいのかな。

 早坂に惹かれている気持ちに嘘はつけない。自覚もしてる。でも、今の私は男に対して臆病になっている。恋愛は綺麗なものじゃないと、身をもって知ってしまったから。

 キラキラしていたはずの私の恋愛は、実は全然キラキラしていなかった。生々しくてドロドロしていて、醜い感情が絡み合っていた。
 不倫行為をしていた罪悪感と。所詮『恋人扱い』でしかなかった虚しさ。ずっと裏切られていた事に対する怒り。それらが私の中で払拭されない限り、この先のことなんて考えられない。たとえ早坂の想いを受け入れたとしても、彼の気持ちに疑心暗鬼になってしまう。

 だから、この一線を越えてしまうことが怖い。友人は、友人のままでいい。恋愛に発展させてしまったら、この関係に亀裂が走る。そんな予感がする。

 早坂とそんな風に拗れるのは、嫌なんだよ。



「お、おかえり!」

 平然を装って帰宅した彼を出迎える。
 大袈裟なほど明るく振る舞う私を見て、早坂がふと動きを止めた。

「な、なに?」
「……いや。帰ってきた時に、お帰りって言われるの、実家から出て久々だったから。いいなって思っただけ」

 安堵したように口元を緩ませている。そんな何気ない一言に、表情に、私の心はいとも簡単に浮上してしまう。
 私が部屋に残ってくれたのが嬉しかったのかな。なんて、都合のいいように捉えてしまう。さっきから感情の波が忙しい。
 そんな私の心境なんて、早坂は当然知らない。上着に付着した雪を、手で払って落としている。片手にはコンビニのレジ袋。もしかしてお弁当買ってきたのかな。

「なんかいい匂いする」

 顔を上げた早坂が、すん、と匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。

「夕飯作ってたもん」
「え、弁当買ってきたのに」

 ほら、とレジ袋を差し出される。受け取って中身を覗けば、コンビニの店内厨房で作られたお弁当が入っていた。律儀にも2つ分。ラベルには「親子丼」の文字が見える。

「ちょっと待って。いま親子丼作ってたんだけど」
「おい被せんなよ」
「私のせいじゃないから!」

 偶然だと訴えつつも袋から視線を外せない。
 早坂と目が合うのが、なんとなく怖くて。

「……どうした」
「え?」
「なんかあった?」

 そんな私の不自然さを、やっぱりこの男が見逃すはずがなくて。

「……なんで?」
「なんか、変。態度とか」
「そう? 普通だよ」
「七瀬は嘘つく時、すぐ目逸らすからわかる」

 ぐっと言葉が詰まる。返す言葉も見つからない。そして察しのいいこの人は、私が黙りこんだ理由もすぐに勘づいたようで。

「……鈴原に何か言われた?」

 嘘がわかりやすいと言われた手前、更に嘘を重ねることなんてできない。早坂の言葉に、控えめにコクンと頷いた。

「……直球で聞くけど、どのへんまで?」
「……ほぼ全部、ですかね」
「あの馬鹿……」

 早坂らしくない暴言が耳に届く。眉間に皺を寄せて、盛大に頭を抱えている。かなえちゃんがここまで大胆な行動に出るなんて、さすがに思っていなかったんだろう。

「……七瀬、そこの靴べら取って」
「……へ? ああ、うん」

 その言葉で我に返る。指し示された方に目を向ければ、壁掛けフックにべっ甲の靴べらが引っ掛けられている。
 レジ袋を床に置いて、靴べらに手を伸ばす。そのまま差し出せば、早坂が掴んだのは靴べらではなく、私の手。そのまま勢いよく引き寄せられて、一瞬のうちに彼の胸に飛び込んでいた。

「……!」

 不意を突かれて思考が止まる。
 背中に回された腕の力強さに、心臓が痛いくらいに鼓動を加速させていく。
 早坂の吐息を、すぐ近くで感じた。

「早坂、なに……」
「……」
「っ……や、離して」
「……離すかよ」

 殊更強く抱き締められる。心拍数はどんどん上がって、私の全身を熱くさせる。抱擁を拒むことが出来ない。
 思わせ振りな態度が良くないって自覚してるなら、今ここで突き放して、拒まなきゃ駄目なのに。

「……今まで通りの関係じゃ駄目なの?」
「……無理だろ、もう」

 どく、と心臓が大きく跳ねる。友人関係を保ちたい私と、友人という一線を越えたい早坂の気持ちがすれ違う。
 ずっと変わらないと信じてきた関係に亀裂が走る。築き上げてきた友情に、綻びが生じていく。

「……無理じゃないよ。だって私達、今まで普通にやってきたじゃん」
「今まではな。これからも普通に接するとか、俺はもう無理だから」

 その冷たい言い草が、心に深く突き刺さる。

「……なんなの」
「……」
「何でそういうこと言うの? まさか酔って」
「酔ってねえよ」
「急にそんなこと言われても困るよ!」
「急じゃない。ずっと前から好きだった」
「……!」

 頬が熱くなる。心臓が痛いくらいに暴れだした。その言葉を待っていたわけじゃない、むしろ聞きたくないとすら思っていたのに。いざ言われると嬉しい、なんて感情が湧くのも嘘じゃない。

 ……自分の気持ちがわからない。
 心の整理が全く出来ない。
 結局私は、早坂とどうなりたいの?

「……腹減ったな」

 場の雰囲気を壊しかねない独り言が耳に届く。私はぱちりと瞳を瞬かせた。
 早坂の腕が、静かに拘束を解く。今度は私の肩口に額を埋めてきた。彼の柔らかい髪が、耳朶を掠めてくすぐったい。

「……早坂」
「しばらくこうさせて」
「……お腹空いたんじゃないの?」
「いま離れるのはもったいない」

 名残惜しそうに言われて、胸が甘く疼いた。
 その言い草が何だか子供っぽくて、甘えているようで可愛く思えて。次第に私の心を落ち着かせていく。思考を停止させていた私の頭に、言葉を伝える余裕を与えてくれた。

「……早坂は怖くないの?」
「何が?」
「告白したら気まずくなるとか、今までみたいに話せなくなるとか、考えなかったの?」

 疑問をぶつければ、早坂は一呼吸置いてから顔を上げた。伏し目がちに視線を落とす。

「……考えたよ。でも、じゃあ告んのやめよ、とは思わなかったけど」
「……なんで?」
「他の男に奪われるのは、もっと耐えられない」

 ドキンと胸が高鳴る。独占欲を匂わせる主張に、胸に淡く喜びが通う。
 早坂の瞳に宿る熱が、痛いほどに伝わってくる切実な想いが。頑なだった私の心を、ゆっくりと絆していく。冷静さを取り戻していく。

「……早坂、あのね。喋ってもいい?」
「うん」
「その、うまく喋れないかも……しれないけど」
「いいよ。ちゃんと聞くから」
「……うん」

 ――早坂と一緒にいたい。
 失いたくない。
 ずっと隣にいてほしい。
 この居心地のいい関係を壊したくない。

 友人としての早坂は信用できても、異性としての早坂はまだ信用できない。青木さんの二の舞になりそうで怖い。だから友人として繋がっていたかった。
 なのに独占欲が生まれてしまった。他の子より私を優先してほしい、という欲が。

 芽生えたばかりのこの感情は恋慕なのか。私にはまだ判断が出来ない。一時的な熱かもしれないし、キスされたから舞い上がっているだけかもしれない。

 足元に視線を落としたまま、拙い告白を零す。言葉にしたら、重い枷が外れたような、不思議な解放感に満たされた。早坂は黙って私の話を聞いている。胸の内を明かした後、彼はおもむろに口を開いた。

「……逆に聞きたいんだけど。なんで仲が悪くなる前提で話すんだよ」
「……え?」

 その問いかけに私は動きを止める。咄嗟に出てこなかった言葉の代わりに、小さく息を飲み込んだ。

「俺が告ったら、七瀬は俺のこと避けるつもりだった?」
「そんなことしないよ」

 多少気まずさは残るけど。
 早坂から避けたりしなければ、私もきっと避けたりしない。

「俺もだよ。告っても、なんなら振られたとしても、今まで通り七瀬に関わるし、普通に話しかけるし、隣で支えるつもりでいる」
「……でも、さっきは、これから普通に接するのは無理って……」

 そう言われたから動揺したし、ショックを受けたのに。
 恐る恐る早坂の顔を見上げた。眉尻を少し下げて、珍しく、困ったような顔をしてる。

「……あ、いや違う。あの言葉はそういう意味で言ったんじゃなくて」
「?」
「俺が言いたかったのは、あの日――」

 そう話を切り出そうとした時。
 ぐぅ、と場違いなほど、呑気な腹の虫が鳴った。早坂の方から。

「……悪い」
「ほんとにお腹空いてるんだね」
「とりあえず部屋ん中いれて。あとメシ食わせて。腹減りすぎて限界だわ」

 非難めいた言葉に顔をしかめる。まるで私がご飯を食べさせなかったせいみたいな言い方だ。そんな不満は口に出さずとも、早坂には伝わっていたようで。「悪かったって」なんて、笑いながら平然と言うんだから。
 その軽い口振りが、塞ぎがちな私の心を掬い上げてくれた。

 自分の想いを打ち明ければ私が困ることなんて、早坂は当に見抜いてたんだろう。承知の上で、好きと言ってくれた。
 衝動的に告げた告白なんかじゃない。ずっと抱いていた想いを、今日になって打ち明けてくれたその理由を、私は聞かなきゃいけないし知りたいとも思った。早坂と今後どう向き合うのかは、それから判断しても遅くはないのだと思う。
 そんな風に前向きに思わせてくれたのは、私の中にある一番の不安要素を、早坂が全部わかってくれた上で否定してくれたのも大きかった。

「……ほんとに?」
「ん?」
「私達、変わらないでいられる?」

 靴を脱ぎ、室内に上がる早坂の背中に尋ねてみる。振り返った早坂と目が合って、心音がまた高鳴っていく。
 早坂ならきっと私が望む答えをくれる。そんな予感がした。

「全く変わらない、事はないだろうけど。少なくとも、七瀬が不安がってるような事にはならないから。安心してもいい」

 そう言ってふわりと微笑んだ。私も自然と笑みが浮かぶ。雲の切れ間から光が射すように、迷いの晴れた穏やかな感情が広がっていく。

 早坂の想いを知ってしまった以上、……私自身も心が揺らいでる以上、早坂とはもう、友達とか親友と呼べる関係には戻れないんだろう。
 それでも、関係が変わっても変わらないものがあるなら、ここから新たな関係を築いていける。そう信じたい。

「あの、早坂」
「なに」
「今日、返事した方がいい?」

 告白の、とは照れくさくて言えなかった。

「いーよ。しなくても」
「いいの?」
「いい」
「でも」
「頼む」

 ぱふ、と早坂の手が私の唇を覆う。その先を言わせまいと、強制的に塞がれてしまった手のひらから伝わる、優しい熱。

「頼むから、まだ言わないで。まだこれからだから。これから好きになってもらえるように頑張るから」

 まるで中学生のような拙い主張。
 それでいて力強い響きが、私の胸に染み渡る。

「……頑張るの?」
「頑張る」
「え、可愛い」
「やめろ。可愛くねーから」

 私が茶化せば早坂も笑う。気まずさも重苦しさも存在しない。いつも通りの私達がここにいて、けれど昨日までの私達とは違う関係が存在してる。

 私はまだ知らない。
 早坂の想いの全部を知れていない。

 いつから好きになってくれたのかな。私のどこが好きなのかな。普通に接するのは無理だと言った、あの言葉の真意は何だろう。聞きたいことがたくさんある。
 あんなに知るのが怖かったのに、今は全部知りたい。この人のことも、この人が私に抱いてる想いも。

 早坂のことだから、ちょっと気まずそうに顔を赤らめながら教えてくれるんだろうな。
 そんな姿を想像して頬が緩んでしまう私は、やっぱり早坂のことを好きになってしまったのかもしれなかった。
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