募る想いは果てしなく
「あ、七瀬さーんっ」
病院から出た直後、涙混じりに聞こえてきた声に苦笑する。駐車場には見覚えのある車が1台。早坂の車だ。
運転席には本人の姿もある。その後部座席から見知った姿が飛び出してきた。今にも泣きそうなほど表情を歪ませて、小走りで私の元へ駆け寄ってくる。
「かなえちゃん」
「怪我で1週間くらい休むって早坂さんから聞いて、もう私、居ても立ってもいられなくて。早坂さんに頼み込んで、病院まで来ちゃいましたっ」
両手で握り拳を作りながら息巻くかなえちゃん。彼女は確か今日、お休みのはず。なのに出迎えに来てくれるなんて。早坂は休憩中に抜け出してきたんだろうな。
「怪我っていっても軽いから大丈夫だよ。心配かけちゃってごめんね」
「でも七瀬さんの肋骨が1本逝ってしまわれたと聞きました……」
「早坂に聞いたのそれ。逝ってないから大丈夫。じきにくっつくし、来週には仕事復帰するからね」
頭の検査結果は問題なし。骨折以外は酷い損傷もなかった。痣はしばらく残るだろうけど、それらもじきに消える。散々な目に遭ったけど、これだけの怪我で済んだのは幸運だったかもしれない。
「それより早坂から聞いたよ。かなえちゃん、私を助ける為に部屋に乗り込んでくれたんでしょ? 本当にありがとう。怖いもの見せちゃってごめんね」
「わわ、早坂さん喋っちゃったんですか……うう、恥ずかしい」
「早坂もね、頼もしかったって褒めてたよ」
両手で顔を隠しながら照れまくる。褒められてとても嬉しそう。眩しい笑顔で笑う姿を見て、不思議と元気が湧いてきた。こんな愛くるしい姿を見ていると、本当に私は同期にも後輩にも恵まれているのだと実感する。
2人で盛り上がりながら車にたどり着く。運転席にいた当の本人は、栄養ドリンクを飲んで一息ついていた。お疲れ様です。
「早坂、疲れてる? 大丈夫?」
「それこっちの台詞。検査どうだった?」
「骨折以外は全く問題なかったよ」
ひらひらと手を振って応えれば、かなえちゃんが早坂の手元を覗き込んだ。
「早坂さんに栄養ドリンクって似合わないですね。そんなに疲れてるんですか?」
「もう若くないからな。あんまり眠れなかったし」
何気なく発した早坂の一言に動きを止める。つい声を上げてしまいそうになって、かなえちゃんの存在を思い出して口を噤んだ。
やっぱり寝苦しかったのかな。
ベッド狭かったもんね。
昨晩ベッドを共にした身としては、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「七瀬、この後どうする?」
「一度マンションに戻るよ。しばらく戻る予定もないから、必要なもの取りに行ってくる。大家さんにも会っておかなきゃ」
いつ帰ることが出来るのか。それがわからない以上、長期不在の旨を大家さんに報告しなきゃ。不測の事態が起きた場合の為に、私の連絡先を伝えておいた方がいいだろうから。
「そういえば七瀬さん、昨日はどこに泊まったんですか?」
不意に核心をついてきたかなえちゃん。早坂が栄養ドリンクを噴き出した。盛大に咳き込んで、誰が見ても不審な反応。現にかなえちゃんも、眉をひそめながら早坂を見返している。不審者を見るような鋭い目付きだ。
それはそうだろう。かなえちゃんは私に訊いてきたのに、直後に早坂が大袈裟な反応をしたら怪しまれるのは当然だ。
……仕方ないなあ、もう。
「なに動揺してんの早坂」
「いや、ちょっとむせただけ……」
「昨日は友達の所に泊まったよ。でも何日も居候するわけにもいかないし、どうしようかなって困ってるところなんだよね」
「えっ、じゃあ私のとこ来ますか!?」
この手の対応は、早坂より私の方が得意。かなえちゃんが興味を持ちそうな話題を振れば、案の上食いついた。
彼女の提案はとてもありがいたいけど、でもかなえちゃんは実家暮らしだ。ご両親にとって、娘の上司にあたる人が、人には言えない事情を抱えながら何泊も居候するなんて、さすがに信用を失いかねない。
これは自分で蒔いた種。
私自身でどうにかしなきゃいけない問題だ。
「ありがと。本当に困った時は頼ろうかな?」
「いいですよ! いつでも待ってますねっ」
ニコニコと純粋無垢な笑顔が眩しい。かなえちゃんの素直な気持ちが嬉しくて、同時に良心が痛む。
この子に頼るつもりは毛頭ない。本音を言えば早坂にも頼りたくない。だって情けないし恥ずかしい。青木さんが既婚者だった事実を知らなかったとはいえ、不倫は公序良俗に反する共同不法行為であることに変わりないんだ。
被害者はあくまでも彼の配偶者。
私は加害者。
身の程を知れという話だ。
そもそも青木さんさえ協力的になってくれれば、私1人でも解決できる問題だと思っていたし、そうしなきゃいけないと思っていた。
私達の問題は私達で解決すべき。
だから周りを巻き込んではいけない、と。
そう勝手に結論付けて、一方的な正義感に浸って。誰にも頼らず1人で突っ走っている私は、本当に愚かだと言わざるを得ない。
1人でできることなんて限界があるのに、その限界を見極めることもせず、結局私はこの時も、彼らの気遣いを無下にしてしまったんだ。
・・・
早坂と別れた後、タクシーでマンションへ戻る。怪我を負っている私を気遣って、かなえちゃんも一緒に来てくれた。
部屋の惨状を見て、改めて事の重大さを思い知る。雑誌や郵便物が床のあちこちに散乱し、テレビのリモコンも見事に破損していた。
昨日の狂気を目の当たりにして胸が痛む。とはいえ、派手に壊されてるもの自体は少なくて安心した。
「窓とか割れてなくてよかった」
「危ないですもんね。破片とか」
雑談をしながら必要な物をバッグに詰める。この逃亡生活はいつまで続くんだろう。これを期に引っ越すのも有りかもしれない。でも、そうすると今度は勤務先に彼が現れるかもしれない……という懸念が生まれて気分が落ちた。
やっぱりまだ、恐怖が拭いきれない。だいぶ落ち着いたとはいえ、昨日の今日だ。あの悪夢を過去話にできる日は遠いだろう。
大家さんと話をつけて、再びタクシーへ戻る。このまま早坂のマンションへ向かう予定。かなえちゃんには友人のマンションだと嘘ついた。早坂の住んでる場所なんて知らないだろうし、偽ってもバレることはないと思う。
嘘をついていることに対して申し訳なさはあるけれど、さすがに早坂の部屋に寝泊まりしてるなんて言えない。
「あー……一気に疲れた」
大きなボストンバッグを2つ、後部座席に置く。その隣にかなえちゃんと一緒に乗り込んだ。そこそこな量になってしまった荷物を見て、かなえちゃんは小さく吹き出す。
「振り回されっぱなしですね、七瀬さん」
「ほんとそれ。男女の縺れって本当めんどくさいの。かなえちゃんはちゃんと相手を見極めて、いい恋するんだよ」
「七瀬さんは、新しい恋人作らないんですか?」
「んー……」
一瞬だけ、早坂の顔が思い浮かんだけど。
「作るよ。作る作る。彼氏欲しいもん」
「今度はどんな人と付き合いたいですか?」
「浮気しない人かな」
「それは大前提ですけど」
「うん、とりあえず年も年だから。高望みはしないかな。一緒にいて落ち着ける人がいいね」
もちろん普通に恋愛したいし、今度こそ結婚を視野に入れた交際を望んでる。ここで消極的になったら、あっという間にアラサーだ。本当に後がなくなってしまう。
「あーあ、結婚したいなー」
情けない嘆ぎを口にする私の隣で、かなえちゃんはポケットからスマホを取り出して弄り始めた。そして私に目を向ける。
「あの、七瀬さん」
「ん?」
「七瀬さんに聴いてもらいたいものがあって」
「私に?」
彼女の指が画面の上を滑る。そして目的のアプリをタップした。それが何のアプリなのかはわからない。
SNSの影響をモロに受けたかなえちゃんは、様々なアプリやツールに手を出している。タイムラインに流れてくる面白動画をスタッフに見せて、和気あいあいと盛り上がっている光景を何度も見た。
けれど彼女は今、聴いてもらいたいものと言った。面白動画を見せたいわけではなさそうだけど。
「何を聴いてほしいの?」
「えっと、盗聴内容です」
「……え?」
物騒な言葉に一瞬固まる。
犯罪的な言葉が出てくるとは思わなかった。
思わず身構えてしまう。対してかなえちゃんの表情は変わらない。スマホに視線を落としたまま、囁くような細い声で尋ねてきた。
「……七瀬さん。早坂さんのこと、どう思ってますか?」
「……え、早坂?」
「はい」
あまりにも急な問いだった。困ったように私は眉を下げる。どうして早坂の話に変わったのか、かなえちゃんが何を伝えようとしているのかがわからなくて。
探るような視線を向ければ、画面を滑らせていた彼女の指が止まった。
「男女の友情は成り立つって、昨日言ってましたよね」
「……言ったけど。それがどうしたの?」
「そう思ってるのは、きっと七瀬さんだけですよ」
「……それどういう意味、」
『……仕方ないだろ。七瀬が自分達で話し合うって決めたんだから』
「……ん?」
不意に聞こえてきた早坂の声。
けれど当然、この場に彼の姿はない。
声の発信元は彼女が持つスマホからだ。
その後もかなえちゃんの声が続き、2人が仲良く談笑している様子が聞こえてくる。困惑したままスマホを見つめる私の様子を、かなえちゃんは静かに見守っていた。まるで私の反応を探っているかのように。
「……なにそれ?」
「これ、昨日の車内での会話です。七瀬さんがマンションに帰った後、早坂さんと喋ってたんですけど。こっそり録ってたんです」
「……なんで?」
素朴な疑問だった。そんなものを録ってどうするつもりなのか。早坂の弱味でも握るつもりなら理解できるけど、かなえちゃんがそんな事をするとは思えない。けれど、こっそり録っていたということは、早坂自身も盗聴されていた事を知らないのだろう。
盗聴してまで私に聞いてほしい内容。
それが何なのかを尋ねようとした時、流れてきた会話の内容に、私は言葉を失った。
『早坂さん、七瀬さんが彼氏と別れたらどうするんですか?』
『……どうするって?』
『告白! しますよね?』
『……まあ、するよ』
「……えっ……?」
驚きで声が裏返った。耳を疑うような内容に目を白黒させる。それほど衝撃的な告白が、早坂の口からこぼれ落ちたのだから。
「……なに……」
絞り出すように発した声は弱々しい。心臓がドクドクと嫌な音を奏で始める。スマホという媒体を通じて、2人の会話は鮮明に、私の耳へと届けてくれた。
意気揚々と早坂に詰め寄るかなえちゃんと、それを真摯に受け止めている早坂の会話は、誰がどう聞いても、恋愛相談をしている男女のそれだ。
そしてその相手が誰かなんて、この会話を聞けば一聴瞭然で。
『出ていってほしくない』
『話したいことがある』
今朝言われたあの言葉と、スマホから流れてきた早坂の告白がリンクした。
「……かなえちゃん、なんで」
「"なんでこんな事したの"、ですか?」
私の思考を先読みして、彼女は言葉を遮った。悟ったような口調に私は押し黙る。圧迫感をじわじわ押し付けられるような感覚。
相手はまだ、私より7つも下の後輩なのに。今この場において主導権を握っているのは、明らかに年下のこの子だ。
今更になって気付く。みんなから弄られキャラとして愛されているかなえちゃんは、そのイメージを崩さないように、あえて弄られてくれていたのだと。
そして今、その後輩としての姿はない。平然と、眉も動かずに私を見つめている。静かで、でも力強い意志を秘めた瞳。まるで胸の内を見透かされているようで、息が詰まりそうになる。
「だって焦れったいんですもん。早坂さんは常に一歩引いてるし、七瀬さんは早坂さんに見向きもしないし」
どこか不満めいた口振り。
でも私を責めているような響きはなくて。
「早坂さんが消極的だった理由が、七瀬さんに彼氏がいたからだって、今回のことで知って納得しました。でも、別れ話してるんですよね? その人に気持ちも無いんですよね? なら早坂さんのこと、ここから考えてほしいんです。考えて、それでも同僚以上に思えないなら、私もこれ以上は何も言いませんから」
「……かなえちゃん」
「私、もう嫌ですよ。早坂さんの寂しそうな顔見るの。報われない恋を何年も抱いてるなんて、そんな悲しい話ありますか」
凛とした声が心に響く。冗談やからかいなんかじゃない。確固とした響きを持つ言葉に何も言えなくなった。
私と早坂との仲を茶化すわけでもなく、だからって交際を強要させるわけでもない。彼と築いてきた親友同然の関係をこのまま保つのか、それとも変えていくのか。どんな形であれ、早坂の気持ちが報われるのであれば考えてほしい、そう告げるかなえちゃんの想いに胸を打たれた。
「……私でいいのかな」
かなえちゃんの気持ちと、早坂の気持ち。2つの想いを知ってしまった私の口から零れたのは、消極的な本音。
だって私は不倫してたのに。不貞行為を働くような最低な人間なのに。そんな女が、彼氏と別れた直後に今度は早坂と……なんて、そんなの早坂に失礼じゃないか。誠実じゃない。
彼にはもっと相応しい人がいるはずだよ。
そう訴えたけど。
かなえちゃんは可笑しそうにくすくすと笑う。
「七瀬さんじゃなきゃダメなんですよ、あの人は」
「……かなえちゃん、どうしてそこまで一生懸命なの」
私がいま抱えているのは不倫問題だ。首を突っ込めば面倒なことに巻き込まれる、賢い彼女ならそんな事くらい予想できるはず。
現に私に関わったせいで、トラウマになりかねないほど怖い思いもしたはずなのに。それでもかなえちゃんは必死に、私達に関わろうとする。
「だって、七瀬さんも早坂さんも私の憧れで、大好きですから」
「……」
「好きな人達を応援したいのは普通です」
頬を染めながら彼女は笑う。私がよく知る無邪気な笑顔。そのあどけない表情が眩しくて、私は膝元に視線を落とした。
社会の仕組みも汚さも、大人の狡い考え方すら知らない。どれだけ大人びていても、彼女はまだ、たった19歳の女の子なんだ。
だから思う。経験値を圧倒的に積んでいるはずの私達は、かなえちゃんの言う"普通"の感覚を見失いかけている。余計な知恵をつけたばかりにずる賢くなって、逃げ方を覚え、年を重ねる度に臆病になる。子供から学ぶ事が多いと大人はよく言うけれど、こういうことなのかもしれない。
……かなえちゃんは。
やっぱり知るべきじゃなかったんだ。
ずる賢い大人達の、こんなにも拗れた恋愛事情なんて知る必要なかった。
憧れ、なんて言ってもらえるような。
そんな見本になれるような人間じゃない。
そんな綺麗な大人じゃないんだよ……私は。