募る想いは果てしなく

戸惑う心



 早坂は10分くらいで戻ってきた。
 早い。シャワーだけ済ませてきたのかな。
 本当はもう少し、1人で考える時間が欲しかった。心の準備が欲しかったというのに、そんな時間すら与えてくれない。
 早坂から促されてベッドに潜り込む。距離を取るように、端っこに体を移動させた。

「電気消すぞ」
「はーい」
「おやすみ」

 途端に視界が暗闇に包まれる。隣からシーツの擦れる音がして、早坂もベッドに潜り込んでくる気配を察した。
 2人で寝ると当然狭い。しかも早坂の匂いがして落ち着かない。気恥ずかしくて壁側に寝返りを打った時、肋骨に鋭い痛みが走った。

「痛ッ!」
「うわ何だ」

 早坂が驚いて起き上がった。
 脇腹の痛みに悶える私を見て、小さく悪態をつく。

「ばか、骨折してる方を下にして寝るなよ」
「だって……」

 早坂に顔を向けて眠れる気がしない。でも背中合わせで寝るのが難しいなら、仰向けになって寝るしかない。
 ゆっくりと体勢を戻してから目を瞑る。隣は見ない。というか、見れない。なのに心なしか、早坂に見られているような気がして鼓動が乱れる。息を吐くにも緊張を伴う。

「……おい」
「ひゃ!?」

 突然の声に驚いて目を開けてしまう。流れるように視線が逸れて、早坂と瞳が合った。瞬間、頬に熱が集まる。息も触れるくらいの距離感に面食らってしまう。

「な、なに」
「早く寝ろって」
「早坂こそ早く寝なよ」
「七瀬が寝たら俺も寝る」
「な、なにそれ。私の寝顔でも鑑賞する気なの」
「そうかもな」
「っ、ぜったい早坂より先に寝ないから!」
「それ先に寝る奴が言うパターンだな」
「いーから早く寝て! 私も寝るから!」

 布団の端をグイと引っ張る。顔まで覆って目を瞑った。視界を塞いだところで、隣の気配が気にならないわけがない。むしろ視覚を遮断したことで、他の感覚が研ぎ澄まされた気がする。
 布団越しに視線が降り注いでいるような気がしてたまらなかった。
 恥ずかしいのに嫌じゃない。嬉しいけれど気まずい。それは今まで、早坂に対して抱いたことのなかった感情で。

「……七瀬」

 すぐ傍で静かな声が落ちる。
 早く寝ろとか人に言っておいて、コイツは本当に私を眠らせる気があるんだろうか。
 ゆっくりと顔を覗かせる。恨みがましい視線を隣に向けた。私を見つめ返す早坂は、困ったような顔で微笑んでいる。

「……ここにいろよ」
「……え」
「明日出ていく必要ないだろ。行く当てが見つかるまでここにいればいい」
「でも迷惑……」
「迷惑かけると思ってんなら、夕飯とか作ってほしい。無理しない程度に」
「……飯炊き? いいの?」
「七瀬が嫌じゃなければ」
「……嫌じゃないよ」

 感謝こそしてるけど、嫌だなんて思わない。それでも迷惑をかけてしまうことには変わりないし、やっぱり1人暮らしの男の部屋に連泊するのはどうなのかな、という思いもあって。

「あのさ早坂、念の為に聞くけど」
「ん?」
「本当に彼女いないの?」
「なんだよ急に」
「もしいるなら言って。彼女持ちの男の部屋に泊まるわけにはいかないから」

 なんて言いながら既視感。
 昨日、私の部屋の前で交わした会話と同じ。

「いない」
「あ、そう……」

 素っ気ない返答にほっと息をつく。『気になる人は?』口をついて出そうになったその言葉を、無理やり飲み込んで唇を結んだ。
 その答えを聞いてしまったら、なんとなく、自分が傷付く予感がしたから。

 なのに。

「気になる奴はいるけど」
「……え。そ、そうなの?」
「ん」
「へ、へぇー……全然知らなかったよ」

 平然な振りをして笑顔を作る。内心は穏やかじゃなかった。打ち明けるタイミングが悪すぎるよ早坂。

 好きな人が出来たら報告しなきゃいけない決まりなんてない。ないけど、やっぱり寂しい。
 私の隣にはいつも早坂がいて、早坂の隣にも私がいた。一緒にいる時間が一番多い早坂のことを、誰よりも知り尽くしているのは私だと思い込んでいた。
 私も知らない、早坂の近くにいる女の存在を、今日、こんな形で知りたくはなかった。

「私の知ってる人?」
「七瀬も知ってるヤツだよ」
「あ、そうなんだ」

 知らない人だったら、まだ傷は浅かったのに。
 私の知ってる範囲で早坂に近い異性。そんなの限られてる。

「……かなえちゃん、可愛いしいい子だもんね」
「ちげーわ。鈴原じゃない」
「違うの?」
「さすがにないだろ」
「え、じゃあ誰。かなえちゃん以外にいる?」
「……いるだろ、まだ」

 訝しげな瞳がこちらに向けられる。他のスタッフさんだろうか。でもみんな主婦だし、思い当たる節もない。もしかして私に言えないような人……?

「……菅原エリアか」
「男じゃん」
「応援するぞ」
「あのな」

 何かを言いたげな早坂から顔を背ける。毛布を引っ張って、固く瞳を閉じた。考えてもわからないものは考えても仕方ないし、その相手を知りたくない気持ちも強かったから。

「……やっぱり私、ここにいられないや」
「……え?」
「気になる人がいるんでしょ。怪我してるからって理由で、恋人でもない女を部屋に住まわせたらダメだと思う。お人好しすぎるよ」
「……」
「だから、明日出ていくね」
「……七瀬、俺は」
「おやすみー」

 強制的に話を終わらせた私に、早坂はしばらく黙り込んでいたけれど。一呼吸置いてから、「おやすみ」と静かな声が返ってきた。もぞ、と布団の擦れる音がして、背を向けられたのだと悟る。

 こんなに近くにいるのに。
 近くにいたはずなのに。
 初めて早坂の存在を遠くに感じた。

 心が弱っていた時に、一番仲の良い同僚に助けられて、優しくされたから自惚れていたんだ。早坂の存在が心の拠り所になっていたことに気づいて、そして早坂自身も私のことを、大きな存在として見てくれている……なんて。
 そんなわけ、なかったよね。


・・・


「……瀬、おい七瀬」

 肩を揺すられて、夢の世界から引き戻される。霞がかかった視界の端には、私を覗き込むように見下ろす早坂の姿が見えた。

「……早坂」
「悪い、寝てたのに起こしちまって」
「ん、へーき……おはよう」
「……おはよう」

 寝惚け眼をこすりながら上半身を起こした時、肋骨にふと違和感を覚えた。手で触れてみても痛みはない。けれど腕を上げようとしたら、動かなかった。

「うわ……」
「どうした?」
「腕が全然上がんない。痛すぎる」
「無理に動かすなよ」
「うん……」

 朝から億劫になる。しばらくはこの痛みと付き合っていくしかない。早坂は既に朝支度を済ませていたようで、出勤用のダウンジャケットを羽織っている。

 室内にほんのり漂うコーヒーの香り。朝食も先に済ませたらしい。もう少し早く起きればよかった。早坂と一緒にご飯、食べたかったな。なんて、呑気なことを考えた私に追い討ちをかけるようにお腹の虫が鳴る。

「お腹すいた……」

 昨日はあんな事があったから、夜は何も口にしていない。食欲も湧かなかった。一眠りしたら猛烈な空腹感が襲ってくる。
 コンビニで何か買ってこようかな、と思った時。早坂の指がおもむろに、テーブルの上を指した。
 そこにはラップに覆われた状態の器。それが朝食のお裾分けだと気付き、私は瞳を輝かせた。

「え、ありがとう。作ってくれたの?」
「簡単なものだけど。味は保証する」
「すごい自信だね」
「ただ焼いただけのやつだから。自慢できるほどじゃない」

 早坂の口調はいつもと同じ。普段と何も変わらない。昨日の出来事なんて忘れたかのような気配を纏っていて、その事実が、私の心に影を落とす。
 そんな風に、無かったことのように扱われるのは正直寂しい。気にしているのは私だけなんだと思い知らされる。
 ……めんどくさいな、私って。

「七瀬、検査の予約って何時だっけ?」
「11時からだよ」
「まだ時間あるなら寝てろよ。無理して動かない方がいい」
「ううん、目も覚めちゃったし起きるよ。私も出ていく準備しなきゃ」

 朝になったら此処を出る、早坂にそう伝えたからには悠長に滞在していられない。1人暮らしをしている人の部屋に居候する、それが相手にとって、どれだけの重荷になるか。多方面で迷惑を被るのは早坂だ。それは私の本意じゃない。

 諌めるような視線が気になったけど、無視してベッドから這い出した。
 体のあちこちがまだ痛む。肋骨に負担をかけないよう慎重に歩みを進め、テレビの前に置かれたテーブルについた。
 ラップを外せば、湯気の立ち始めた朝食。スクランブルエッグとウインナー。それとトースト。早坂お手製の朝ご飯が私の前に並んでいる。

「おいしそー! 早坂、朝はパン派なの?」
「まあ、楽だし」
「私はご飯派だから、朝にパン食べるの久しぶりかも。もうお腹ペコペコ」

 いただきます、と手を合わせてから食べる。ふわっふわの卵に絡む塩胡椒。程よい甘みと濃厚なチーズ。こんがり焼かれたウインナーから肉汁があふれ、噛みしめるとじゅわっと溢れる脂がたまらない。

「あ、早坂。部屋の鍵どうする? 郵便受けに置いていった方がいい? それとも店に直接返しに行く?」

 軽い口調で尋ねてみる。複雑な心境は隠したまま。早坂は無言のまま私を見つめていて、その様子に首を傾げた。

「早坂? 話聞いてる?」
「……なあ」
「うん?」
「本当に出ていくのか」

 昨日の話を蒸し返されて言葉を詰まらせる。
 しばしの沈黙のあと、私は静かに頷いた。

「言ったでしょ。気になる人がいるのに、異性を部屋に泊めるのはダメだって。その人に誤解されちゃうよ」

 思わせぶりな態度が人を傷つけることもある。……事実、今の私にはそれが辛い。早坂の気になる相手が誰であっても、今の私は素直に応援できないし、したくない。異性として意識してしまった以上、背中を押してやれるほど優しくないから。

 だから私は、私の主張を曲げなかった。早坂の為でもあるんだ、この選択は。そう信じて彼の返答を待つ。本人も諦めがついたのか、観念したようにため息をついた。

「……わかった。でもその前にひとつ、言いたい事があるんだけど」
「なに?」
「出ていってほしくない」

 ドクッと心臓が波打った。思わせ振りな態度はダメだと忠告した直後に、まさか思わせ振りな言葉を放たれるとは思わなかった。早坂の意図が読めなくて困惑する。

「……な、なんで?」
「話したいことがある」
「……話したいこと?」

 それなら昨日聞いたはずだけど。そう言いかけた私に待ったをかけて、早坂は首を振った。

「昨日の話とは、また別の話」
「え、まだ話すことあったっけ?」
「……俺にはある」

 ひどく神妙な顔つきだった。表情を引き締めて、真剣な物言いをする早坂の様子に私は狼狽えるしかない。

「……その話を聞いてから、ここを出るかどうか判断してほしい」

 こんな風に懇願されるのは初めてで。どう答えていいのかわからなくなる。こんなに思い詰めた顔をしている早坂を前に、頑なだった私の意思は簡単に揺らいでいく。

「……わかった。じゃあ、ここで帰り待ってるね」

 そう答えることで、早坂の提案を受け入れた。
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