募る想いは果てしなく
「ねえ、ちょっと待って早坂」
呼び止めようとする私の声を無視して、早坂はドアにカードをかざした。
ピッと軽快な音が響く。同時に扉の解錠音。早坂の手にはマンションのICカードキー。そう、ここは彼が住む部屋の前。
「私まだ納得してないんだけど」
「さっき話し合って決めただろ」
「ホテルに泊まるから大丈夫だって」
「宿泊料金どんだけ掛かると思ってんだよ」
押し問答を繰り返す。
早坂に口で勝てる自信はないけど、私だって引けない。
「ネカフェとかもあるし」
「あんなとこで休めるか。大体、その顔で行くつもりか?」
「う……」
言い返せずに口を噤む。確かにこの顔では外出も困難だ。隠しようもない傷が残ってるし痣だらけ。こんな出で立ちでネカフェに行こうものなら、変質者だと勘違いされて警察を呼ばれかねない。
――急病センターから出た後。
眠りから覚めた時、見慣れない光景に困惑した。
レンガタイル貼りの複合型マンション。おしゃれで洗練された外観。植栽や街灯が整備されたエントランス。1階にはコンビニが併設されていて。私が住んでるボロマンションとは全然違う。
目を白黒させている私をよそに、早坂はマンション1階にあるコンビニの駐車場に車を停めた。早坂が1人暮らしをしてる場所らしい。
らしい、というのは、私はこのマンションに一度も来たことがないから。今日が初めて。
そして早坂は私に告げた。自分のマンションに戻るのが嫌なら、ここで寝泊まりすればいいと。これが彼の『話したいこと』。
早坂に恋人の存在がいないのは知ってた。本人がそう言ってたから。だからって1人暮らしの男の部屋に、怪我を負っている訳ありの女が転がり込むのはどうなのか。私だって昨日、早坂を部屋に泊めたけど、昨日と今日とでは状況がまるで違う。
それから、今後のことも車内で相談した。
まずは警察に被害届を出すかどうか。
「よく考えた方がいい。向こうは七瀬の住んでいる場所も、連絡先も把握してるんだろ。被害届を出さないなら、七瀬は常に受け身で構えていなきゃいけない。精神的にキツイと思うぞ」
そう、向こうは自由に動ける身。こっちは彼の影に怯える毎日。想像しただけで精神がえぐられそうだ。
暴行や傷害事件は、被害を受けた傷が残っているうちに訴えた方がいいと聞く。でも青木さんには妻子がいる。それが一番の懸念材料だった。
問題が露呈するくらいなら、警察は挟みたくない。大ごとにはしたくない。それが正直な気持ち。
でも早坂は首を縦に振らなかった。
「七瀬の言い分もわかるよ。確かに向こうの妻子に罪はない。でも、だからって七瀬が泣き寝入りしなきゃいけないことなのか?」
正論すぎてぐうの音も出なかったよね。
「……大体、なんで青木を部屋に入れたんだよ。危ないから2人きりにはなるなって言っただろ」
「それは悪かったと思うけど……」
早坂から何度も受けた忠告。
思わず歯切れが悪くなる。
「まさか部屋の中で待ってるとは思わなかったし」
「……中?」
私の一言に、早坂が不自然に言葉を止めた。
「部屋の前で待ってたんじゃないのか?」
「違うよ。部屋の中」
「合鍵か?」
「うち、複製禁止だもん。合鍵なんて作ってないよ」
「……じゃあ、どうやって青木は部屋の中に入ったんだよ」
「知らない。ピッキングじゃないの?」
「……ったく」
呆れ果てたと言わんばかりにため息を漏らす。早坂の言葉を受けて、ちゃんと青木さんに問い詰めておくべきだった、と後悔した。ピッキングなんて荒業が素人にできるのかは謎だけど、もしそうなら気持ちの悪い話だ。
「うちのマンション、防犯カメラも設置してないから確かめようがないんだよね」
「……七瀬、鍵見せて」
「ん? うん、いいけど」
部屋に散乱してたバッグは、早坂がスマホと一緒に回収してくれていた。その中から目的の物を取り出し、早坂に渡す。
「……ディンプルキーだな」
「何かわかった?」
「……いや、何も」
曖昧な返事を残して鍵を返された。なんの変哲もない鍵だ、特に調べる箇所も無かったのだろう。
「……話は戻るけど。警察がどこまで動いてくれるかはわからないけど、青木への抑止力にはなるかもしれないだろ。二次被害も防げるかもしれない」
「……」
「向こうの家族には悪いけど、それだけのことを青木はやったんだ。ちゃんとわからせた方が、」
「早坂」
「……なに」
「青木さんのお子さん、8歳なんだって」
「……は?」
突然の情報開示に早坂の眉が寄る。だから何だ、とでも言いたげなその瞳を、私は真っ直ぐに見据えた。
「小学校に行けば友達がいて、家に帰ればパパとママがいて。大好きな友達と家族に囲まれて毎日幸せ。もしかしたら、大好きなおじいちゃんとおばあちゃんもいるかもしれないね」
「……」
「私が青木さんを警察に訴えれば、その子の幸せを全部壊してしまうことになる」
「……」
「早坂が同じ立場だったら、できる?」
「……それは」
「……私には無理だよ」
一番悪いのは誰なのか。内密に不倫行為をしていた私と青木さんだ。子供には何の関係もない。奥さんにも。
私達が犯した過ちに、子供や奥さんを巻き込んじゃいけない。穏便に済まそうとしてるこの考えこそが卑しくて、甘ったれた言い訳だと罵られたとしても構わない。
「私はね、青木さんがちゃんと反省して、私と別れて家族の元に戻ってくれればいいの。その子の父親を犯罪者にしたいわけじゃない。だから警察には行かない。おっけ?」
「……わかった。悪い、無神経だった」
「早坂が私の身を案じてくれてるのはちゃんとわかってるよ。ありがとね」
そんな会話を車内で交わした。早坂も渋々ながらも納得してくれた。でも、そうなると新たな問題が発生する。今後の青木さんとの向き合い方だ。
彼との話し合いは続けたいと思ってる。お互いに納得した上で、ちゃんと別れたいから。
でも、今はまだ会えない。会いたくない。思い出すと体が恐怖で強張ってしまう。いま青木さんと会っても、まともに会話なんてできない気がする。
だけど相手は私の住まいを知っている。連絡先も、勤務先だって知ってる。帰り道やマンション前で待ち伏せされる可能性だってある。
だから早坂は私に提案してきたんだ。自分の部屋を一時的に避難場にすればいい、と。
そうして今に至る。
「ねえ、わたし絶対迷惑かける」
「迷惑なら、酔った時に散々かけられてるけど」
「今は酔ってないでしょ! とにかく、泊まるのは今日だけね。明日からは自分でどうにかするから。なんなら店泊するから」
「……」
「そこで黙んないで」
「……とりあえず中に入れ」
「はい……」
渋々頷くしかない。とりあえず今日の寝床は確保できた。一方的に話を進められてしまった感が否めないけど、結局私の方が折れた。
中に入れば、シトラスな香りが出迎える。センスよく整頓された空間が、視界いっぱいに広がっていた。洗練された雰囲気に圧倒される。初めて訪れる早坂の部屋に心が躍ってしまう。
「わあ、なんか早坂らしい部屋だね」
「そうか? 普通だろ」
座ってろ、とリビングのソファーを指しながら、早坂は奥へ行ってしまった。
素直に腰をかける。なんだか落ち着かない気分。借りたブランケットを羽織りながら、改めて部屋を見渡した。
無駄な装飾品を省き、家具はモノトーン調で揃えている。ぽつぽつと置かれた観葉植物が、クールな内装に温かさをプラスしている。一言でいえばクールモダンな印象。生活感はあまり感じられない。清潔感のある空間作りは、さすがはインテリアショップの店員ならではって感じ。
ローテーブルは艶のあるブラックガラス。映し出すものを綺麗に反射させ、重厚感と高級感を作り出している。壁絵画時計がお洒落な空間を生み出して、彼のセンスを感じさせた。
「先に入れよ」
ひとり鑑賞会に浸っていた私に、早坂は上着をハンガーに掛けながらそう告げた。顎をしゃくる先は浴室だ。
「……先にいいの?」
「いーよ。でもシャワーだけな。風呂は駄目だって言われたんだろ?」
「うん……でも」
いいのかな? と一瞬ためらう。部屋の主より先に入浴することに迷いがあったけど、せっかくのご厚意なので素直に従っておく。バスタオルを借りた後は浴室に入り、ささっと済ませてから身体を拭いた。
必要最低限の物はコンビニで購入済み。さすがに服だけはどうにもならなくて、仕方なく、早坂から借りたシャツに袖を通す。
当然ながらサイズが違う。指の先まですっぽり隠れてしまう。袖口をくるくるして捲し上げれば、ふわりと柔軟剤の香りが漂った。
「あ、これ彼シャツ……彼氏じゃないけど……」
そうだ、早坂は彼氏じゃない。
彼氏じゃない人のシャツを、お風呂上がりに着ている。正直複雑だ。
恋人以外の男の物を身につけるなんて無理。今までそう思っていたのに、早坂なら平気だと思えてしまうこの感情は何だろう。あまつさえ、キスまで許してしまった。そのうえ部屋に泊まるとか、色々大丈夫か。
早坂が何かをするなんて思ってない。そうじゃなくて、何かの拍子でタガが外れてしまいそうなフラグが私に立っている。あのキス以来、早坂を意識している自分がいる。
あれはキスと言うより人工呼吸。
それはわかってるんだけど。
「……やばい、私やらかした?」
瞳を閉じれば、瞼の裏に鮮明に蘇る。突然のキスも、その後の優しい表情も。それどころか、運転中の横顔や、私を見やる視線。いつもよりも近い距離。これまで見てきたはずの光景なのに、今日はなんだか違って見える。
もう一度唇を押さえた。
頭の中でリフレインを繰り返す。
「……いや、あれは人工呼吸だって」
頭を振って、思考を切り替えようとする。脳裏に浮かぶ光景を打ち消しながらリビングに戻れば、早坂が神妙な面持ちで立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
「……あのさ。客人用の布団、今無いんだ。少し前に廃棄してたこと忘れてた」
「え」
「ベッドで寝ることになるけどいいか?」
部屋の端に視線を移す。私の目がおかしくなければ、この部屋にベッドはひとつしかない。
「……一緒に寝るってこと?」
「ちょっと狭くなるけど大丈夫だろ」
スペースの問題じゃないことを突っ込むべきだったのかもしれない。でも言ってしまったら、この場の空気がおかしくなりそうな気がして。喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「七瀬が嫌なら、俺はソファーで寝るけど」
「嫌じゃないけど……早坂こそ嫌じゃないの? 昨日ベッドに誘ったら、めっちゃ嫌そうな顔してたのに」
「……別に嫌がってない」
「あ、そうなの?」
「風呂入るわ」
「え、うん……」
不自然に話を終わらせて、早坂はさっさ浴室へ向かってしまった。その背をやりきれない思いで見送る。人のベッドに潜り込んで待つ勇気なんてない。軽く伸びをして、ソファーの背にもたれ掛かった。
ふう、とため息が漏れる。ひとりで意識して勝手にドキドキして馬鹿みたいだ。早坂にとっては、あれはキスじゃなくて人工呼吸のようなものなのに。
あの行為に特別な意味なんかない。なのに勝手に勘違いされて意識されても困るよね。
だからもう気にしない。
一緒のベッドで寝るくらい平気。
私達はただの同期で、友達だもん。
何かが起こるなんて、ありえないんだから。