募る想いは果てしなく

触れる唇



「……七瀬?」

 呼び掛ける声は不安げに掠れている。私の異変に気付いたのだろう。でも何も答えられなかった。息が苦しくて浅い呼吸を繰り返すことしかできない。過呼吸なんて初めての経験で、頭の中はパニックに陥っていた。

「七瀬っ」
「は……ッ、ごめ……っ」
「七瀬、落ち着け。ゆっくり息を吐けば治る。大丈夫だから」

 嫌な汗が伝う背中に、手のひらが何度も行き来する。労るようにさすってくれる動きはとても優しいものなのに、私の呼吸は落ち着くどころか、どんどん荒くなっていく。
 苦しげに喘ぐ私の傍で、カチリと響く無機質な音。早坂が自分のシートベルトを外したようだ。身を乗り出して私の分も外してくれる。

「七瀬、医師呼んでくるから」

 その一言に心臓が冷えた。
 また。またみんなに迷惑をかけてしまう。
 咄嗟に早坂の上着を掴んでいた。

「まっ、て……大丈夫、だからっ」
「……っ」

 ずっと俯き加減でいる私には、早坂が今どんな表情をしているのかはわからない。でも、見なくてもわかる。私と同じくらい苦痛に歪んでいるのを。

 誰にも迷惑をかけたくなくて。
 でも一人にもなりたくなくて。
 大丈夫だという虚勢と、誰かに傍にいてほしい本音が、私の中でない交ぜになって早坂を引き止める。行かないで、と。

「……っ、七瀬」

 ああ、早坂に心配かけてる。
 不安にさせてる。
 大丈夫だって言わなきゃ。
 そう思うのに、ヒュ、ヒュ、と忙しなく喉が鳴って言葉にならない。

 荒い呼吸の繰り返しで気が遠くなる。
 徐々に意識が薄れかけてきた、その時。

「――……悪い、七瀬。許せ」

 耳元で、吐息のような囁きが聞こえた。

 不意に顎を持ち上げられる。
 目の前には、早坂の長い睫毛が揺れていて。
 え、と開きかけた私の唇は――
 次の瞬間、早坂の唇で塞がれていた。

「んっ……」

 触れ合う隙間から吐息が漏れる。掻き乱れていた思考が、一瞬でクリアになった。

 予期せぬ感触に戸惑う。心臓が突然跳ね上がった。頬が熱くなり、頭の中が真っ白になる。何が起きているのか理解できず、抵抗することも忘れて彼のキスを受け入れた。

 戸惑いに揺れる間も、キスが止む気配はない。そればかりか、抉じ開けられた唇から新たな酸素が送り込まれてきた。けれど、早坂の舌が侵入してくることはない。唇を重ね合わせているだけ。リップ音が奏でる事もない。

 だから気付いた。これはキスじゃない。
 キスなんだけど、目的が違う。乱れた呼吸を鎮める為のもので、愛情を確かめ合う行為じゃない。
 言うなればこれは、人工呼吸。

 なんだか早坂らしい、と思った。
 妙な安心感が広がっていく。
 不思議と呼吸が落ち着いてきた。



 ――過呼吸に、キス。
 医学的には可能だと言われている。ただ悪化する危険性も孕んでいる。ペーパーバッグ法と理屈は同じだから、窒息死する可能性だって高い。
 本来、好意を持った相手に対して行うのが理想的だと言われているやり方を、臆することなくやってのけた早坂は、それだけ私のことを信頼してくれている証で、私達の信頼関係が厚いとも言える証拠。

 胸がきゅっとなる。どうしてだろう、とても嬉しかった。鼻からゆっくり息を吸えば、早坂の匂いを感じる。不思議な安堵感に満たされて、私は静かに瞳を閉じた。
 波立っていた心が凪ぎていく。早坂の体温を感じたくて、顎に添えられた手の甲にそっと触れてみた。それが、私が落ち着いた合図だと悟ったのか。早坂はそっと唇を離した。

 互いの吐息がかかりそうな距離。早坂は真摯な眼差しで私を見つめていた。その瞳にはいつになく切実な光があって。慈しむような優しい色合いに、今度は別の意味で鼓動が早くなった。
 とくんとくんと、静かに心臓の音が聞こえる。

「……大丈夫か?」

 優しい声で問われ、私は小さく頷いた。早坂がほっと息をつく。その柔和な笑みに、私まで救われたような気持ちになる。心の奥底に溜まっていた不安が、少しずつ溶けていくみたいに。

「ありがとう早坂。治ったみたい」
「……治ったならいい。突然すぎてビビったわ」
「ごめんごめん。私も急に息できなくなってビックリしちゃった」
「……本当にもう大丈夫か?」

 まだ少し心配そうな早坂を安心させたくて。柔らかく微笑むと、ようやく安心したように肩の力を抜いた。
 椅子に座り直し、シートベルトを締める。くすぐったいような軽やかな気持ちが胸に広がる。頬が緩むのを抑えきれなくて、私は両手で口元を覆った。

「こんな風にキスされるとは思わなかった。ドラマみたいだね」
「他に方法思いつかなくて。悪いな」
「謝らないで。……ありがと、本当に」

 満面の笑みを返せば、早坂は耳の後ろを掻きながら目を逸らした。照れくさそうな態度にかすかな満足感を得る。とはいえ状況が落ち着けば、おのずと現実に向き合わなければならなくなる。
 考えなきゃいけないことは山ほどあって、でも全て後回にしたい。休みたい。頭が考えることを拒絶してる。

 でも、あの部屋には……帰りたくない。
 思い悩む私を見て、早坂が口を開いた。

「……とりあえずここを出て、どこかに寄ろう。明るい場所で話がしたい」
「話?」
「話したいことがあるって言っただろ」
「……あ」

 そういえば、そんな事言ってたね。

「それより、少し寝てろ。すげえ疲れた顔してる」
「あー……うん。ちょっと仮眠取ろうかな」
「着いたら起こすから」
「うん」
「変な寝方すんなよ。また折るぞ」
「やめてよ怖い」

 しかめっ面でリアクションを返す。早坂が控えめな笑い声を漏らした。
 ゆっくりと車が発進して、ネオンの瞬く大通りへ進路を変えていく。目に映る景色がどれも朧げで。ぼんやりとしたままシートに背を預ける。心地良い揺れに身を任せて、私はそっと瞼を下ろした。

 眠れそうだった。
 不安で冴えきっていた脳が、穏やかな微睡の中に落ちていく。
 次第に遠のく意識の中、早坂の存在だけが近くにあった。

 もしもあの時、2人が助けに来てくれなかったら。早坂がこうして隣に居てくれなかったら。絶望に打ちひしがれて泣いていたかもしれない。

 青木さんから助けられただけじゃない。
 心も救ってくれた、そう思えたから。

「……早坂」
「ん?」
「助けてくれてありがとう」
「……鈴原に言ってやれ」
「かなえちゃんにも言うけど、早坂にもね」
「……」

 程よい揺れが眠りを誘う。うつらうつらと舟を漕ぐ私の頭を、くしゃりと優しく撫で回す手。その温もりに安堵して、私は意識を手放した。
10/34ページ
スキ